CHAPTER35『二つの戦場』
第二階層崩落隔離区画では、怪物同士の激突が始まろうとしていた。
地底の暴君、バシリスク。
嵐を喰らう雷の怪物、カイゼル。
二つの巨影が向かい合うだけで、戦場の空気が軋む。
だが、ジルたちは振り返らない。
その戦いを見届ける時間はなかった。
四人は戦場の轟音に紛れ、深海の狂気のアジトの奥へ進む。
目指すのは、第三階層へ繋がるであろう祠の裏。
血と瓦礫の迷路を抜け、ジルたちはさらに深い闇へ向かっていた。
だが、不意にレクスの足が止まった。
「おーい、ちょっと待ってくれ」
ジル、バレル、ヴォルグも振り返る。
バレルが、苛立ったように眉をひそめた。
「……今度はなんだ?」
レクスは、通路の脇にある暗がりを指した。
「このすぐ裏に、俺の住処がある」
「住処だァ?」
「ああ。そこに置いてきたモンを、ちっとだけ回収させてくれ」
バレルのハサミが、ギチ、と鳴る。
「はぁ?この急がなきゃいけねぇ時に、何言ってんだテメェ!」
レクスは、悪びれもせずに片手を上げた。
「ただの私物じゃねぇよ。おめぇらの役にも立つかもしれねぇ代物だ」
ヴォルグが、通路の奥へ目を向ける。
背後では、まだ戦場の音が鳴り止まない。
ジルは、短く息を吐いた。
「……ああ。急いでくれ」
バレルが、目を剥く。
「おい、ジル!」
四人は、祠へ続く道から少し外れた。
崩れた壁の隙間。
ひび割れた石床。
深海の狂気のアジトの裏側へ続く、細い横道。
レクスは、提灯の光をわずかに強める。
「こっちだ。足元に気をつけろよ」
ジルたちは身を低くし、暗い横道へ滑り込んだ。
その先に、レクスがかつて身を潜めていた場所があった。
「ここだ、ここ」
レクスが、崩れた壁の隙間をくぐった。
その奥に、小さな洞穴があった。
レクスの住処。
湿った岩壁。
割れた木箱。
崩れた棚。
床には、殴り書きの書物、古い本、筆、乾いた布切れが散らばっている。
バレルが顔をしかめた。
「……汚ぇな」
ヴォルグは、洞穴の中を見回した。
「いや、ここ第二階層じゃ、十分上等な部屋だ」
レクスは崩れた棚の奥へ手を突っ込んだ。
「……あったあった」
引きずり出したのは、古びた紐付き革袋だった。
バレルの眉が跳ねる。
「何だ、そりゃ」
レクスは袋の口を開き、中身を見せた。
琥珀色に固まった蜂蜜菓子。
香辛料をまぶした干し肉。
ライ麦を焼いた黒パン。
小瓶に詰められた、濃い葡萄酒。
そして、紙に包まれた白い塊。
バレルの目が、ぴたりと止まる。
「……おい」
レクスは、白い塊を指で弾いた。
「これが気になるだろう? これは、高山地帯でしか採れねぇ岩塩だ。連邦議員クラスでも滅多に口にできねぇ上物だぜ」
バレルのハサミが、ギチ、と鳴る。
「この急いでる時に、飯を取りに来たのかテメェは!」
レクスは悪びれもせず、保存食を一つ摘まみ上げた。
「馬鹿言うな。飯は命だぞ」
「今は飯食ってる場合じゃねぇっつってんだ!」
ヴォルグが、洞穴の入口へ目を向ける。
遠くで、戦場の轟音が響き続けていた。
その時――
ズウゥゥゥン……!
洞穴全体が、地震のように揺れた。
天井から砂が落ちる。
棚に積まれていた古い本が、ばさばさと床へ崩れた。
バレルが、ハサミを構える。
「何だ今のは……!」
続けて、遠くの闇の奥から、雷鳴のような音が響いた。
バリバリバリィッ!!
青白い光が、通路の向こうで一瞬だけ瞬く。
その直後、何か巨大なものが壁に叩きつけられたような音がした。
ドゴォンッ!!
洞穴の壁が、また震える。
遠くで、獣のような咆哮が響いた。
ジルは、レクスを見た。
「……レクス。持って行く物は、それだけか?」
レクスの口元が、わずかに上がる。
「さすがに勘が鋭いな」
レクスは革袋の底へ手を入れた。
じゃらり。
小さな金属音が鳴る。
バレルの目が細くなった。
「……あ?」
レクスが取り出したのは、古びた鍵束だった。
形の違う鍵が、いくつも輪に通されている。
ヴォルグの片目が鋭くなる。
「……鍵か」
「ああ」
レクスは、鍵束を軽く揺らした。
「前に看守からくすねた」
じゃらり、と古びた鍵が鳴る。
レクスは、その鍵束をバレルの前へ差し出した。
「バレル」
「あ?」
「お前、元看守だろ。これ、どこの鍵か分かるか?」
バレルの表情が、かすかに強張った。
ジルとヴォルグの視線も、バレルへ向く。
バレルは、鍵束を覗き込んだ。
錆びた鍵。
黒ずんだ鍵。
見慣れない刻印。
バレルの目が、少しずつ細くなる。
「……いや」
低く、答える。
「見たことねぇな」
レクスの眉が、わずかに動いた。
「第二階層の鍵じゃねぇのか?」
バレルは、鍵束から目を離さないまま言った。
「第二階層にも、昔の名残で牢は結構残ってる。だが、今は全部開きっぱなしだ。鍵なんざ、使われてねぇ」
レクスの口元が、ゆっくりと上がる。
「……ということは?」
ジルの目が、鋭くなる。
「……第三階層か!?」
洞穴の中に、一瞬だけ沈黙が落ちた。
ヴォルグが、鍵束を見つめる。
「……第二階層のものではないなら、可能性はある」
レクスは、鍵束を掲げた。
「分からねぇが、そうかもしれねぇからよ」
じゃらりと鍵が鳴る。
「持って行って損はねぇだろ?」
ジルは、短く頷いた。
「ああ。確かにな」
そして、レクスを見る。
「レクス。お前が持っておいてくれ」
レクスは、目だけで小さく合図を返した。
鍵束を懐の奥へ忍ばせる。
じゃらり、と小さな音が鳴った。
続けて、紐付きの革袋を肩にかける。
ジルは洞穴の入口へ目を向けた。
「……よし。戻るぞ」
バレルとヴォルグも頷く。
四人は、レクスの住処を後にした。
崩れた壁の隙間を抜け、元来た細い横道へ戻る。
ズウゥゥゥン……!
遠くでは、なおも戦場が揺れている。
ジルたちは足音を殺し、通路の出口へ近づく。
そして、元の道へ出た瞬間――
「……動くな」
低い声が響いた。
ジルの足が止まる。
「……!」
バレルが、ずいっと一歩前へ出た。
「おう! 深海の狂気の野郎共か!」
ヴォルグが、低く言った。
「……違う。こいつらは深海の狂気じゃない」
バレルが目を剥く。
「なにっ!?」
ヴォルグの片目が、男を捉える。
「沈黙の牙だ」
男は、ジルたちを一瞥した。
「……フン」
細く鋭い吻。
硬く引き締まった体。
冷たい目。
カジキ魚人――バロン。
その背後に、数名の囚人が音もなく立っていた。
槍を構える者。
短剣を逆手に握る者。
瓦礫の上から弓のような武器を向ける者。
沈黙の牙、遊撃隊。
バロンは、片手を上げる。
「囲め」
その合図と同時に、遊撃隊が動いた。
前。
左右。
わずかな逃げ道さえ塞ぐように、沈黙の牙の兵たちが四人を取り囲む。
バロンは表情を変えない。
「ここで何をしている」
その声は、刃のように冷たかった。
「貴様らは何者だ」
一瞬、沈黙が落ちる。
レクスが、ふらりと前へ出た。
「いやぁ、物騒だねぇ」
悪びれもせず、両手を軽く上げる。
「俺らは無所属の、名もなき囚人さ。ちょっと忘れ物を取りに来ただけだ」
バロンの目が、わずかに細くなる。
「忘れ物だと……?」
「ああ。これだ」
レクスは、肩にかけた革袋をガサゴソと漁った。
取り出したのは、琥珀色に固まった蜂蜜菓子。
レクスはそれを指先でつまみ、ひらひらと揺らす。
「どうだ? アンタも食うか?」
バレルが小声で唸る。
「テメェ、今それで誤魔化せると思ってんのか……!」
レクスも小声で返す。
「何もしねぇよりマシだろ!」
バロンは、蜂蜜菓子には目もくれなかった。
その視線は、レクスからヴォルグへ。
次に、冷たい視線がジルの顔を射抜く。
バロンの目が、そこで止まった。
「……うん?」
そして、バレルの巨大なハサミへ流れた。
バロンの口元が、わずかに歪む。
「トビウオ魚人に、ロブスター……まさか」
ジルの拳に、力が入る。
バロンは低く続けた。
「……貴様ら、蒼海の解放軍だな」
レクスが、額に手を当てた。
「あちゃー…… 俺たちも有名になったもんだ」
バレルが、ハサミを構える。
「バレたなら仕方ねぇな!」
バロンの声が、さらに冷える。
「貴様らは……霧の幻影と共闘し、ヴィクター様を葬った」
沈黙の牙の兵たちが、一斉に殺気立つ。
槍の穂先が、ジルたちへ向けられる。
短剣を握る手に、力が入る。
バロンは、長い吻をわずかに下げた。
「ならば、生かしては通さん」
ジルが、身構える。
ヴォルグが鉄棒を握り直す。
レクスは蜂蜜菓子を革袋へ戻し、舌打ちした。
「……交渉決裂か」
バロンが、片手を振り下ろす。
「潰せ」
次の瞬間。
沈黙の牙の遊撃隊が、一斉にジルたちへ襲いかかる。
――その少し前。
第二階層崩落隔離区画の中央。
バシリスクとカイゼルは、血に濡れた瓦礫の上で向かい合っていた。
周囲の兵たちは、誰も動けない。
沈黙の牙も。
深海の狂気も。
二つの巨体の間に流れる圧に、息を呑んでいた。
バチ……
バチバチッ……
カイゼルの腕を、青白い電流が這う。
その光を見て、バシリスクの口角がゆっくりと上がった。
「……いいねぇ」
バシリスクは、血に濡れた右手を持ち上げる。
そして、人差し指を立てた。
クイ、クイ。
挑発するように、指先を動かす。
「……来いよ、雷野郎」
その瞬間。
カイゼルの目が、細くなった。
「……フン」
バリッ!!
瓦礫の床に、青白い稲妻が走る。
次の瞬間、カイゼルの巨体が消えた。
ドゴォォォンッ!!
カイゼルの拳が、バシリスクの顔面へ叩き込まれた。
衝撃が、崩落隔離区画を揺らす。
血と砂塵が、瓦礫の上に舞い上がった。
だが――
バシリスクの足は、動いていなかった。
顔を殴られたまま。
頬を歪ませたまま。
バシリスクは、笑っていた。
「……ハッ」
裂けるような口から、低い笑いが漏れる。
「いい拳だ……」
次の瞬間――
バシリスクの左腕が、カイゼルの首へ伸びた。
ガシッ!
太い指が、カイゼルの首を掴む。
カイゼルの瞳が、かすかに揺れた。
バシリスクは口角を吊り上げ、右腕を、ゆっくりと引いた。
「今度は、俺の番だな……!」
だが、カイゼルは動じない。
「……フン」
その瞬間――
カイゼルの全身から、青白い電流が迸った。
バチバチバチィッ!!
電撃が、バシリスクの左腕を伝って全身へ走る。
同時に、弾けた雷が周囲へ散った。
「ぐあッ!?」
「ぎゃあッ!」
近くにいた沈黙の牙の兵が、数人まとめて焼かれる。
だが、カイゼルは見向きもしない。
雷撃の本流を直に受けたバシリスクの瞳孔が、ぎょろりと開いた。
骨の奥まで焼くような雷。
肉が焦げる匂い。
だが――
バシリスクは、笑った。
「刺激的じゃねぇか……!」
裂けるような口が、さらに吊り上がる。
「いいねぇ!」
カイゼルの目が見開かれた。
次の瞬間。
ドゴォォォンッ!!
バシリスクの右拳が、カイゼルの顔面へ叩き込まれた。
衝撃が、瓦礫を震わせる。
周囲の兵たちが、思わず身をすくめた。
だが――
カイゼルは、一歩も退いていなかった。
顔を横に弾かれただけ。
足は、瓦礫に根を張ったように動かない。
カイゼルは、ゆっくりと顔を戻した。
「……悪くない」
拳に、青白い雷が集まる。
「だが、この身体に傷を刻むには足りん」
バリィッ!!
雷をまとった拳が、バシリスクの胸元へ叩き込まれた。
ドゴォッ!!
重い衝撃が、瓦礫の上に響く。
バシリスクの巨体が、初めてわずかに後ろへ下がった。
ズザ……!
爪先が瓦礫を削る。
バチ……。
バチバチッ……。
青白い電流をまといながら、カイゼルは無言でバシリスクを見据える。
バシリスクは、胸元から立ちのぼる煙を見下ろした。
そして、裂けるような口で笑う。
「ハッハッハ……」
低い笑いが、血の匂いの中に響いた。
「やるじゃねぇか、雷野郎」
周囲の兵たちが、じり、と後ずさった。
誰も、二体の怪物に近づこうとはしない。
巻き込まれれば、死ぬ。
本能が、それを告げていた。
気づけば、血に濡れた瓦礫の中央に、ぽっかりと円ができていた。
その中心に立つのは、バシリスクとカイゼル。
第二階層の戦場の中に、怪物同士のためだけの処刑場が生まれていた。
その円の外側。
巻き込まれぬ距離まで下がった兵たちのさらに後方で、鉄輪のついた指揮台が止まっていた。
ウルスは、怪物同士の戦場を遠巻きに見下ろす。
「……拮抗しているか」
口元が、わずかに歪む。
「なら好都合だ」
その視線が、怪物同士の戦場を囲む沈黙の牙の兵たちへ移る。
「今は手を出すな」
ウルスの目が、バシリスクを冷たく捉える。
「だが、奴が一瞬でも隙を見せたら――」
低い声が、指揮台の上に落ちた。
「全員で突っ込め。その瞬間に、片をつける」
沈黙の牙の兵たちが、武器を握り直す。
ウルスは、薄く笑った。
「勝敗を決めるのは、最後に残った駒の数だ」
第二階層に、二つの戦場が生まれていた。
中央では、バシリスクとカイゼル。
裏道では、ジルたち蒼海の解放軍と沈黙の牙遊撃隊。
怪物同士の激突。
祠へ続く道を塞ぐ包囲網。
血と雷が轟く中、ジルたちはまた一つ、死地へ足を踏み入れていた。
《蒼海の解放軍》より、深海監獄から感謝を込めて。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
もし物語を面白いと感じていただけたら、
あなたの一票(=★評価・ブックマーク)が、
監獄で抗い続ける仲間たちの力になります。
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これからも『半魚囚人ジル』をよろしくお願いします。




