CHAPTER34『嵐と暴君』
地獄の底から、怪物が這い出してきた。
深海の狂気の首領。
ナイルワニ獣人――バシリスク。
その巨体が瓦礫の奥から現れた瞬間、戦場の音が変わった。
怒号が止まる。
悲鳴が詰まる。
沈黙の牙の兵たちが、無意識に足を止める。
深海の狂気の狂犬たちでさえ、叫ぶことを忘れていた。
ズシン……。
バシリスクが、一歩進む。
その一歩で、第二階層の空気が沈む。
ここは、バシリスクの庭だ。
バシリスクは、戦場と化した縄張りを見渡した。
倒れた深海の狂気の兵。
踏み込んできた沈黙の牙の軍勢。
血に濡れた瓦礫。
そのすべてを見て、バシリスクの口角がゆっくりと上がる。
「……ほう」
裂けるような口から、低い声が漏れた。
「俺たちを潰すつもりか」
ゴマモンガラ魚人デューガンの目が、バシリスクを捉えた。
巨大斧を握り直す。
「……やっとお出ましか」
振り返らないまま、背後の部隊へ低く命じる。
「出るぞ」
デューガン率いる重戦士部隊が、一斉に前へ出た。
斧。
戦槌。
鉄盾。
重い武器を構えた沈黙の牙の兵たちが、バシリスクを取り囲む。
包囲の中央で、バシリスクは動かなかった。
ただ、口角を上げたまま、デューガンを見下ろしている。
デューガンの額に、血管が浮いた。
「クソワニ野郎……!」
巨大斧が、ゆっくりと振り上がる。
「テメェを潰して、深海の狂気は終わりだ!」
デューガンが踏み込んだ。
瓦礫が砕ける。
「ウオォォォッ!!」
静寂を切り裂く雄叫び。
巨大斧が、バシリスクの頭上へ振り下ろされた。
ガギィィンッ!!
だが、斧は止まっていた。
バシリスクの左腕。
鋲付きの籠手が、巨大斧の刃を真正面から受け止めていた。
ギギギギギ……!
斧と籠手が軋む。
火花が散る。
デューガンの両腕に力が入った。
「ぐ……ッ!」
押し込もうとする。
だが、動かない。
デューガンの目が、わずかに見開かれる。
(……グッ、押し込めねぇ……!)
バシリスクは、鼻を鳴らした。
「フン」
その瞬間、周囲の重戦士たちが動いた。
「潰せェ!」
斧と戦槌が、左右からバシリスクへ迫る。
だが、バシリスクは振り向きもしない。
次の瞬間。
ゴォッ!
太い尾が、瓦礫を抉りながら振り抜かれた。
バチンッ! バチンッ! バチンッ!
「ぐあッ!」
重戦士たちの体が、次々と宙へ跳ねた。
鉄盾ごと砕かれ、瓦礫へ叩きつけられる。
包囲が、一撃で吹き飛ぶ。
デューガンの目が、さらに見開かれた。
「ウラァァッ!!」
巨大斧に、さらに力を込める。
ギギギギギ……!
ほんのわずかに、バシリスクの左腕が押し込まれた。
だが、バシリスクの笑みは消えない。
「……それで仕舞いか?」
次の瞬間。
バシリスクの右拳が、ゆっくりと上がった。
ただ、肩を叩くような小さな動きで。
バシリスクは、右拳をデューガンの頭上へ落とした。
ドゴンッ!!
デューガンの頭が、真下へ叩き伏せられた。
「が……ッ!?」
デューガンの顔面が、瓦礫に叩きつけられる。
ズンッ!!
崩落隔離区画に、重い音が響いた。
バシリスクはデューガンを見下ろし、口角だけをさらに吊り上げた。
「フン、この程度じゃ、血も滾らねぇな……」
その光景を、指揮台の上から見ていたウルスが、ゆっくりと立ち上がった。
デューガンが叩き伏せられ、重戦士部隊も一撃で吹き飛ばされた。
だが、ウルスの表情は崩れない。
「全軍――」
ウルスの声が、戦場に落ちた。
沈黙の牙の兵たちが、一斉に顔を上げる。
「バシリスクを囲め!」
ウルスが片手を前へ出す。
開いた指が、ゆっくりと折り畳まれていく。
そして、拳が握られた。
「握り潰すぞ」
その瞬間、沈黙の牙の軍勢が動いた。
前から。
左右から。
瓦礫の上から。
数で押し包むように、兵たちがバシリスクへ殺到していく。
バシリスクは、動かない。
ただ、裂けるような口を吊り上げたまま、迫る軍勢を見ていた。
その時だった。
指揮台の近くで、カイゼルが低く呟いた。
「……あれが、深海の狂気の頭目か」
ウルスが、横目でカイゼルを見る。
「……ああ。興味が湧いたか?」
カイゼルは、バシリスクから目を離さなかった。
その巨体。
その圧。
デューガンを叩き伏せてもなお、まるで遊び足りない獣のように笑う姿。
「……この監獄に」
カイゼルの周囲に、青白い火花が走る。
「ギルバート、ドゥーム以外にも、化け物がいたとはな」
バチ……
バチバチッ……
瓦礫の上に、電流が迸る。
カイゼルの口元が、わずかに歪んだ。
ウルスは、それを見て薄く笑った。
「フッ……」
そして、その光景を岩陰から見つめる四つの影があった。
ジルたちは、戦場の中央に立つバシリスクを見ていた。
デューガンを叩き伏せた男。
沈黙の牙の軍勢を前にしても、笑みを崩さない男。
ジルが、低く呟く。
「……あれが、バシリスクか……」
バレルのハサミが、わずかに開く。
「あの大男を、簡単に沈めやがった……」
ヴォルグは、バシリスクから目を離さない。
「……破壊力だけなら、この監獄で一番だと情報屋が言っていた」
レクスが、頭の提灯を弱く揺らした。
「ああ。だが、あいつの厄介なところは力だけじゃねぇ」
ジルが、横目でレクスを見る。
「……どういうことだ?」
レクスは、瓦礫の向こうのバシリスクを見据えたまま言った。
「戦闘狂揃いの深海の狂気の中で、あいつだけは先を見てる」
「……先?」
「ああ」
レクスの声が、少しだけ低くなる。
「奴も、脱獄を狙ってる」
ジルたちの表情が変わった。
「何っ……!?」
バレルが、レクスを睨む。
「おい、どういうことだ。聞いてねぇぞ」
レクスは、肩を揺らすように小さく笑った。
「俺だって、全部を知ってるわけじゃねぇよ。ただ、あいつは前に言ってた」
レクスの目が、細くなる。
「この監獄を出たあと、俺の知識を使って、何かを支配するだの、統治するだの……そんなことをな」
ジルは、前へ出ていくバシリスクを見据えた。
「あの男も……」
バシリスク、ドゥーム、影虎。
誰もが、この監獄の外を見ている。
ジルの拳に、力が入る。
レクスは、軽く息を吐いた。
「まぁ、俺はあの野郎に協力するつもりなんざねぇ。だが、酒と食い物だけは貰っといた」
それを聞いたバレルの目が据わる。
「……テメェ、人を火事場泥棒だ何だ抜かしやがって」
ハサミが、ギチ、と鳴った。
「テメェこそ、詐欺師みてぇなもんじゃねぇか!」
レクスは、悪びれもせずに片手を上げた。
「失礼なこと言うな。俺は一度も“協力する”とは言ってねぇ」
レクスは、口の端を上げる。
「ただ、向こうが勝手にそう思い込んで、勝手に酒を出して、勝手に飯を出しただけだ」
バレルの額に血管が浮く。
「それで逃げたら、食い逃げだろうが!」
レクスは、すました顔で返した。
「違うね。それは食い逃げとは言わねぇ。駆け引きだ」
「駆け引きだァ?」
「あいつは、俺の知識を餌で釣れると思った。俺は、その餌だけ食って逃げた」
レクスは、口の端を上げる。
「俺が奴の思惑通りに動かなかった。それだけの話だ」
一拍置いて、さらに続ける。
「読みを外したのは向こうだ。賭けに負けた奴が、あとから文句を言うもんじゃねぇだろ?」
バレルの額に、血管が浮いた。
「……ただの食い逃げを、屁理屈で誤魔化してんじゃねぇ!」
ヴォルグが間に割って入り、低く言った。
「……おい、今は言い争っている場合じゃない」
ジルも、バシリスクから目を離さなかった。
「ああ」
沈黙の牙の軍勢が、バシリスクへ殺到していく。
その光景は、まるで巨大な顎へ、自ら飛び込んでいく群れのようだった。
ジルは、戦場の中心へ目を向けた。
バシリスク。
沈黙の牙。
カイゼル。
危険な者たちが集まっている。
だからこそ、今しかない。
ジルが、低く言った。
「……行こう。今のうちに第三階層へ抜けるぞ」
バレルが、ハサミを鳴らした。
「おう。奴らが潰し合ってくれりゃ、好都合だな!」
ヴォルグは無言で頷き、鉄棒を握り直す。
レクスも軽く息を吐き、頭の提灯の光を抑えたまま立ち上がった。
四人は身を低くし、瓦礫の陰から陰へ移る。
戦場の喧騒に紛れながら、第三階層へ続く奥の通路を目指した。
だが――。
指揮台の近く。
カジキ魚人バロンの鋭い目が、戦場の端を捉えた。
瓦礫の陰を抜ける四つの影。
バロンの目が、細くなる。
「……妙な動きをする四人がいます」
ウルスは、バシリスクから視線を外さないまま、わずかに目だけを動かした。
その先。
瓦礫の隙間を進む複数の影が見える。
ウルスは、片手を下げたまま命じた。
「バロン、お前の遊撃隊を連れて、奴らを追え」
バロンが、静かに頷く。
「承知しました」
バロンが指を鳴らす。
その合図に、沈黙の牙の兵たちの中から数名が動いた。
槍を持つ者。
短剣を逆手に構える者。
瓦礫の上を音もなく走る者。
正面から押し潰す本隊とは違う。
小さく、速く、獲物の脇腹へ食らいつくための部隊。
沈黙の牙、遊撃隊。
バロンは長い吻をわずかに下げ、瓦礫の奥を見据えた。
「追うぞ」
遊撃隊が、一斉に動き出す。
戦場の轟音に紛れ、ジルたちの背後へ、沈黙の牙の影が迫っていた。
一方、戦場の中央では――。
沈黙の牙の軍勢が、バシリスクへ殺到していた。
前から。
左右から。
瓦礫の上から。
無数の刃が迫る。
だが、バシリスクは退かない。
「聞けェェッ!! 沈黙の牙のクソ共ォ!!」
地の底が震えるような大声が、崩落隔離区画に響いた。
バシリスクを囲んでいた沈黙の牙の兵たちの足が、一瞬止まる。
バシリスクの牙が、ぬらりと覗いた。
「……ここから先は、俺の許可なく動くことは許さねぇ……!」
「な、何だと……!」
バシリスクの正面にいた重装備兵が、棍棒を振り上げる。
「ふざけやが――」
言い終える前に、バシリスクが一歩踏み込んだ。
ドゴッ!
拳が、正面の重装備兵の胸を鎧ごと叩き潰す。
「が……ッ!?」
骨が砕ける音が、鈍く響く。
瓦礫の上を転がる兵を見下ろし、バシリスクは裂けるような口を吊り上げた。
「……動いたな」
バシリスクの声が、低く落ちた。
その言葉に、周囲の兵たちが息を呑む。
バシリスクの圧が、瓦礫の上に重くのしかかる。
誰も動けない。
だが、その重さに耐えきれなかった一人の兵が、槍を振り上げた。
「テ、テメェ――」
バギッ!
バシリスクの蹴りが、その兵の頭部を横から弾き飛ばす。
槍が折れる。
頭蓋骨が砕ける。
兵の体は、瓦礫の壁へ叩きつけられ、ずるりと崩れ落ちた。
バシリスクは、裂けるような口をゆっくりと吊り上げた。
「……俺の許しなく動いた者は、処刑だ」
その目が、沈黙の牙の兵たちをなめる。
「そう言っただろうが……」
兵たちは、動けない。
だが、一人が震える声で叫ぶ。
「ぜ、全員でまとめてかかるぞッ!」
恐怖を振り払うように、沈黙の牙の兵たちが一斉に動いた。
だが、バシリスクは瓦礫の前に転がった重装備兵の両足首を掴んだ。
その体を、片手で持ち上げる。
「う……なに……やめ――」
ゴォッ!
兵の体が、武器のように振り回された。
血飛沫が、瓦礫の上に弧を描く。
バギッ! ドガッ!
「ぐあッ!」 「ぎゃあッ!」
近づいた兵たちが、まとめてなぎ倒される。
バシリスクは、振り回していた兵の体を片手でぶら下げたまま、裂けるような口を吊り上げた。
「ハッハッハ……こりゃあいい」
兵の体から、血がぼたぼたと瓦礫へ落ちる。
「武器なんざ、いらねぇな」
その時、背後から三人の兵が同時に迫った。
バシリスクは、振り向きもしない。
バチンッ!
太い尾が、背後の瓦礫ごと薙ぎ払った。
三人の体が、まとめて宙へ跳ねる。
バシリスクは、裂けるような口を吊り上げた。
依然として百を超える沈黙の牙の兵が、バシリスクを囲んでいる。
だが、誰一人として動けない。
槍を握る手が震える。
剣の切っ先が、わずかに下がる。
目の前のナイルワニ獣人が笑っているだけで、兵たちの足は瓦礫に縫い止められたように動かなかった。
その光景を見て、倒れかけていた深海の狂気の兵たちが息を吹き返す。
「ハハッ……さすがはボスだ!」
「テメェら、皆殺しだァ!」
「よくも好き勝手やってくれやがったなァ!」
狂犬たちが、瓦礫の陰から立ち上がる。
沈黙の牙へ牙を剥き、再び飛びかかろうとした。
だが――
ザシュッ!
その背中が、裂かれた。
「……あ?」
深海の狂気の兵が、振り返る。
そこにいたのは、二本のショートソードを構えたマダラだった。
ザシュッ!
ザンッ!
マダラ部隊が、影のように滑り込む。
バシリスクに気を取られた深海の狂気の兵たちを、背後から次々と斬り伏せていく。
「ぐあッ!」
「て、テメェら……!」
マダラは、倒れた兵の横を踏み越えた。
二本のショートソードから、血が滴る。
「……調子に乗るなよ」
裂けた口が、不機嫌そうに歪む。
その後方。
指揮台の上で、ウルスは戦場を見下ろしていた。
沈黙の牙の兵が、次々とバシリスクに潰されていく。
「チッ……」
ウルスの目が細くなる。
「バシリスクめ。想定以上に兵を喰らいやがって」
ゆっくりと腰を上げる。
「……俺が動くか」
指揮台を引く兵たちへ、声を飛ばした。
「進め」
その時だった。
ウルスの前に、巨大な手が出る。
「……待て」
カイゼルだった。
ウルスが横目で見る。
「……何だ、カイゼル」
カイゼルは、戦場の中央を見ていた。
「俺がやってやろう……」
青白い火花が、腕に走る。
「貴様は、指を咥えて見ていろ」
ウルスの口元が、わずかに歪む。
「フッ……好きにすればいい」
次の瞬間。
バリバリバリバリィッ!!
雷のような電流が、戦場を裂いた。
「ぐああッ!?」
「ぎゃあッ!」
「ガ、ハッ……!」
バシリスクを囲んでいた一部の沈黙の牙の兵たちが、雷撃に焼かれる。
焼かれた兵たちの周囲で、味方のはずの沈黙の牙が凍りついた。
ウルスは、その犠牲を見ても眉ひとつ動かさなかった。
「……ほう」
細い目が、戦場の中心を捉える。
「効率的な判断だ、カイゼル」
雷光の中で、カイゼルが立っていた。
バチ……。
バチバチッ……。
カイゼルは、ゆっくりと首に手をやる。
ゴキッ。
骨が鳴る。
「……フゥ」
カイゼルは、バシリスクを見据えた。
バシリスクもまた、目の前に現れた男を見据える。
雷をまとった巨体。
焼け焦げた兵たち。
その中心に立つ、巨躯のエレクトリックエイ魚人。
バシリスクの口角が、ゆっくりと上がった。
「……ほう」
低い声が落ちる。
「貴様は、少しは骨がありそうだ」
地獄の底から這い出た暴君、バシリスク。
嵐を喰らう雷の怪物、カイゼル。
血に濡れた瓦礫の上で、二つの巨体が向かい合う。
次の瞬間。
第二階層の空気が、軋む。
怪物と怪物。
その激突が、いま始まろうとしていた。
《蒼海の解放軍》より、深海監獄から感謝を込めて。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
もし物語を面白いと感じていただけたら、
あなたの一票(=★評価・ブックマーク)が、
監獄で抗い続ける仲間たちの力になります。
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これからも『半魚囚人ジル』をよろしくお願いします。




