CHAPTER33『怪物の口の中』
沈黙の牙が攻める。
深海の狂気が迎え撃つ。
最大派閥の報復は、第二階層を血で染め始めていた。
瓦礫の崩落隔離区画に、怒号が響く。
狂気の笑い声が、血の匂いに混じる。
混沌と血が交わる戦場。
その光景を、岩陰から見つめる四つの影があった。
その視線の先で、沈黙の牙と深海の狂気は、すでに真正面からぶつかり合っていた。
数では、沈黙の牙が勝っていた。
だが、ここは深海の狂気のアジトだった。
崩れた足場。
入り組んだ瓦礫。
死角だらけの通路。
地の利を得た狂犬たちは、一歩も引いていなかった。
ゴマモンガラ魚人デューガンの周囲に、複数の影が迫る。
槍を構えたアジ魚人。
鉄塊を担いだスケトウダラ魚人。
背後には、釘打ち棍棒を握るボラ魚人。
そして正面には、ロングソードを構えたハンマーヘッドシャーク魚人が立っていた。
ハンマーヘッドシャーク魚人が、裂けるように笑った。
「……ヘッ。テメェは幹部だな?」
ロングソードの切っ先が、デューガンへ向く。
「幹部の首だァッ!獲ったやつにゃ、褒美が出るぜェ!」
深海の狂気の囚人たちが、一斉に飛びかかった。
「オウッ!」
「死ねぇッ!」
槍が突き出される。
鉄塊が振り下ろされる。
背後から、釘打ち棍棒が迫る。
正面からは、ハンマーヘッドシャーク魚人のロングソードがデューガンの首を狙った。
デューガンは、動かなかった。
分厚い顎が、ぎり、と鳴る。
「ハッ」
その目が、獰猛に見開かれた。
「ガタガタうるせぇぞ。雑魚どもが!」
次の瞬間。
デューガンの巨大斧が、横薙ぎに振り抜かれた。
バギィィンッ!!
槍が折れる。
鉄塊が弾け飛ぶ。
釘打ち棍棒が、ボラ魚人ごと後方へ吹き飛ばされる。
全方位からの攻撃が、まとめて叩き返された。
「ぐあッ!」
「がはッ!」
深海の狂気の囚人たちが、瓦礫の上へ転がる。
その中で、ハンマーヘッドシャーク魚人だけが、かろうじてロングソードで斧を受け止めていた。
ハンマーヘッドシャーク魚人の額に、汗が滲む。
「ぐ……ッ」
次の瞬間。
弾き飛ばされた深海の狂気の兵たちへ、デューガンの部隊が雪崩れ込んだ。
倒れた敵兵の喉元へ刃が落ちる。
「グフッ……!」
起き上がろうとした囚人の頭を、棍棒が叩き潰す。
「ガ……ァ……」
沈黙の牙の兵たちは、隙を逃さない。
デューガンは、巨大斧を肩に担いだ。
「……で?」
低い声が、戦場の中に落ちる。
「バシリスクはどこだ?」
デューガンの目が、ハンマーヘッドシャーク魚人を射抜く。
「まさか、逃げやがったのか?」
ハンマーヘッドシャーク魚人は、答えなかった。
ロングソードを握る手が、わずかに震える。
額から流れた汗が、頬を伝った。
一方、戦場の奥でロークスは沈黙の牙の兵に食らいついていた。
腕に牙を立て、肉ごと抉る。
「ぐわああああッ!」
兵の悲鳴が上がる。
ロークスは、口の端から血を垂らしたまま、ゆっくりと顔を上げた。
その視線が、戦場の奥へ向く。
鉄輪のついた指揮台。
その上に座る、ミツクリザメ魚人。
ロークスの裂けた口が、にたりと歪んだ。
「ん……?」
血に濡れた舌が、牙の間を舐める。
「ウルスの野郎……」
ロークスの目が、ぎょろりと開く。
「あの野郎が指揮ってんのか」
次の瞬間、ロークスの体が低く沈んだ。
「ケヒヒ……」
笑い声が、戦場の喧騒に混じる。
「あっちの方が、遊びがいがありそうじゃねぇか……!」
ロークスが、瓦礫を蹴った。
一直線に、ウルスの指揮台へ向かって飛び出す。
「どけぇッ!」
進路上にいた沈黙の牙の兵が、肩から弾き飛ばされた。
深海の狂気の囚人も、巻き込まれて瓦礫へ叩きつけられる。
「ぐあッ!」
「お、俺は、味方――」
言い終える前に、ロークスの爪がその胸を裂いた。
沈黙の牙も。
深海の狂気も。
ロークスには関係ない。
血飛沫を撒き散らしながら、ロークスはただ一直線にウルスへ迫っていく。
沈黙の牙の兵たちが、反射的に道を空けた。
だが、指揮台の上のウルスは動かない。
胡座をかいたまま目を細め、迫るロークスを見下ろしていた。
その横に控えるカジキ魚人バロンも、武器に手をかけない。
ただ、鋭い目だけがロークスの軌道を追っている。
ロークスが、瓦礫を蹴った。
その体が跳ね上がる。
「ケヒヒヒヒッ!」
裂けた口が、吊り上がった。
「ぶちまけろ、ウルス!」
ロークスの鉤爪が、ウルスの喉元を正確に狙う。
だが――
ガシッ!
鉤爪が届く寸前。
巨大な手が、ロークスの腕を掴んでいた。
「……あ?」
ロークスの目が、横へ動く。
そこに立っていたのは、嵐喰らいカイゼルだった。
ジリジリジリジリ……
掴まれた腕に、青白い火花が走る。
バチバチバチィッ!!
「……グ、ガッ……!?」
電流が、ロークスの全身へ流れ込んだ。
ロークスの背が、びくりと跳ねる。
牙の隙間から、濁った息が漏れた。
「テ、テメェ……何モン――」
言い終える前に、カイゼルがロークスの腕を引き寄せた。
次の瞬間。
ドゴォッ!!
カイゼルの拳が、ロークスの胴に叩き込まれた。
ロークスの体が、くの字に折れる。
肋骨の軋む音が、鈍く混じった。
そのまま、弾丸のように吹き飛び、瓦礫を砕きながら、ロークスは戦場の後方へ叩きつけられた。
轟音が、崩落地帯に響く。
ウルスは、指揮台の上で薄く笑った。
「フッ。助かったぜ、カイゼル」
カイゼルは、ロークスを殴った拳を下ろす。
「フン……」
その目に、感情はない。
「目障りな虫を叩き払っただけだ」
その少し前――
ジルたちは、岩陰から戦場を見ていた。
崩落隔離区画の中央では、沈黙の牙と深海の狂気がぶつかり合っている。
怒号。
悲鳴。
鉄が弾ける音。
その中を、ロークスが一直線に駆け抜けていた。
バレルが、瓦礫の隙間から目を凝らす。
「おい……突っ込んだロークスの野郎を、カイゼルが止めたぜ」
ジルの視線が、戦場の中央へ向いた。
指揮台の前。
ロークスの腕を掴む、巨大な影。
嵐喰らいカイゼル。
ジルの拳に、力が入る。
「カイゼル……」
その時だった。
ドゴォッ!!
鈍い音が、戦場の奥から響いた。
バレルの表情が変わる。
「……おい」
レクスが、目を見開いた。
「こっちに飛んでくるぜ!」
ジルが叫ぶ。
「避けろ!」
次の瞬間。
ドガァッ!!
何かが、ジルたちのすぐ近くの岩壁に激突した。
砕けた石片が、四方へ飛び散る。
砂煙が巻き上がる。
ジルたちは、とっさに瓦礫の陰へ身を伏せた。
岩壁に叩きつけられた影が、ずるりと崩れ落ちる。
ジルの目が、その影を捉えた。
「……ロークス……!」
一瞬、周囲の音が遠のいた。
だが――
グ……。
ググ……。
崩れた瓦礫の中で、ロークスの指が動いた。
折れた石を掴む。
爪が、岩を削る。
ロークスが、ゆっくりと起き上がった。
バレルが、即座にハサミを構える。
ヴォルグは鉄棒を握り、半身に構えた。
ジルも腰を沈め、拳を前に出す。
レクスは、一歩後ろへ下がった。
ロークスの裂けた口が、ゆっくりと吊り上がる。
「ケヒ……ヒヒヒ……」
血の混じった息が、牙の隙間から漏れた。
「何者だ、あのデカブツ……楽しませてくれ――」
そこで、ロークスの目が止まった。
ぎょろり、と瞳孔が開く。
その視線が、ジルへ向く。
次に、バレルへ。
ロークスの舌が、ぬるりと牙の間から覗いた。
「……あ?」
裂けた口が、不気味に歪む。
「新入りィ……ロブスター……」
舌が、上下に揺れる。
「何してやがる……こんなところで……?」
バレルが、ハサミを大きく開いた。
「うるせぇ! こっちはテメェなんかに構ってる暇はねぇんだ!」
ロークスの裂けた口が、ゆっくりと吊り上がる。
「ケヒヒヒ……」
その舌が、牙の間でぬるりと揺れた。
「構う暇がねぇなら、作ってやるよ……!」
ロークスの背が、獣のように丸まる。
ジルの拳に、さらに力が入った。
ヴォルグが鉄棒を構え、バレルの横へ並ぶ。
ロークスの瞳孔が、ぎょろりと開く。
「逃げられると思うなよ、新入りィ……!テメェの血の味は、まだ憶えてるぜ……!」
ヴォルグの声が飛んだ。
「来るぞ!」
ロークスの爪が、瓦礫の床を掻いた。
次の瞬間、鉤爪を振り上げ、ジルへ飛びかかった。
「ケヒヒヒヒッ!」
ジルの目が見開かれる。
「……ッ!」
ガギィンッ!
割って入ったバレルのハサミが、ロークスの鉤爪を受け止めた。
ギギギギギ……!
爪とハサミが噛み合う。
金属を削るような音が、岩陰に響いた。
バレルの足が、瓦礫を踏み砕く。
「ぐ……ッ、相変わらず話の通じねぇ馬鹿だな、テメェは……!」
ロークスの舌が、牙の間で揺れる。
「ケヒヒヒ……なら、テメェから潰してやるぜ、ロブスター!」
一方――
ロークスがカイゼルに吹き飛ばされた直後、戦場の中央ではウルスが動いていた。
鉄輪のついた指揮台の上。
ウルスは、戦場を見下ろしたまま右手を上げる。
深海の狂気の兵たちは、ロークスが消えたことで一瞬だけ動きを乱していた。
その隙を、ウルスは見逃さなかった。
「……行け」
低い声が、沈黙の牙の本隊へ落ちる。
「一匹たりとも逃がすな」
その一言で、待機していたウルス本隊の兵たちが一斉に動いた。
武器を構え、瓦礫を踏み越え、深海の狂気の兵たちへ雪崩れ込む。
「押し潰せェ!」
「逃がすな!」
「狂犬どもを狩れェ!」
数で勝る沈黙の牙の軍勢が、崩れかけた包囲を一気に押し潰していく。
マダラは、二本のショートソードを下げたまま、戦場の奥へ目を走らせていた。
「チッ……」
裂けた口が、不満そうに歪む。
「ドロマの野郎は、見当たらねぇな」
その目が、背後へ向く。
ぬるりとした殺気が、マダラ部隊全体に広がった。
マダラは、片方のショートソードを肩に担ぐ。
「……潰すぞ」
マダラ部隊が動いた。
深海の狂気の兵たちの横腹へ、影のように滑り込んでいく。
中央からはウルスの本隊。
前方からはデューガンの部隊。
そして側面から、マダラの部隊。
ロークスが戦場から消えたことで、深海の狂気の包囲は崩れ始めていた。
その頃、岩陰ではロークスの鉤爪が、バレルのハサミを押し込んでいた。
ギギギギギ……!
爪とハサミが軋む。
バレルの足元の瓦礫が、さらに砕けた。
「ぐ……ッ!」
ロークスの裂けた口が、近づく。
「ケヒヒヒ……バラしてやるぜ、ロブスター!」
さらに一歩。
バレルの巨体が、後ろへ押し込まれる。
「くそ……ッ!」
ロークスの鉤爪が、ハサミの隙間からバレルの顔へ迫る。
その時だった。
ズギンッ……!
ロークスの体が、わずかに強張った。
カイゼルに殴り飛ばされた時に折れた肋骨に、遅れて痛みが走った。
「……ッ」
ロークスの瞳孔が、一瞬だけ揺れる。
その隙を、ヴォルグは逃さなかった。
横へ回り込み、鉄棒を低く振り抜く。
「ジル!」
鉄棒が、ロークスの脇腹を打った。
ガッ!
ロークスの体勢が崩れる。
「テメ……ッ!」
ロークスがヴォルグへ牙を剥く。
だが、その時にはジルが踏み込んでいた。
右腕が、鉛色に染まっていく。
「ロークス……」
ジルの拳が、固く握られる。
「こんなところで止まっている暇はない……」
ロークスが、裂けた口を吊り上げた。
「ケヒヒ……だったら止めてやるよ。テメェの息の根を――」
言い終える前に、ジルの鉛の拳がロークスの顔面を捉えた。
ドゴォッ!!
ロークスの体が、瓦礫を巻き上げながら吹き飛ぶ。
「ぐがッ……!?」
弾丸のように戦場の中央へ弾き戻され、カイゼルの足元へ転がった。
ズザザザァーッ!
指揮台の上で、ウルスが薄く目を細める。
「……まだ生きていたのか、このクズは」
ロークスは、血を吐きながら顔を上げる。
「テ、テメェ……」
その視界に、巨大な影が落ちた。
カイゼルが、無言でロークスを見下ろしていた。
ロークスの口元が、引きつる。
「……あ?」
次の瞬間。
カイゼルの巨足が、ロークスの胸を踏み潰した。
グシャッ。
骨が砕ける音が、戦場の喧騒の中に沈む。
ロークスの体が、びくりと跳ねた。
裂けた口から、血が溢れる。
「ケ……ヒ……」
笑い声は、そこで途切れた。
沈黙の牙の兵たちが、その光景を見つめ、戦意を増す。
ウルスは、薄く笑う。
「フン、ロークスは消えた」
両腕を、ゆっくりと左右へ開く。
「押し込め」
沈黙の牙の軍勢が、さらに前へ出る。
ロークスを失った深海の狂気の兵たちは、散り散りになり逃げ始める者も現れた。
一方、岩陰では――
ジルたちが、ロークスの最期を見届けていた。
カイゼルの足元で、ロークスの体が動かなくなる。
ジルは、拳を握ったまま、カイゼルから目を離せなかった。
だが、今は立ち止まっている場合ではない。
「……行くぞ」
ジルは身を低くし、瓦礫の陰を抜けようとする。
その時だった。
レクスが、低く言った。
「……待て」
バレルが振り返る。
「あぁ? 早くしろよ!」
レクスは、戦場の奥を見ていた。
その顔から、軽薄な笑みが消えている。
「……出やがった」
ジルの表情が変わる。
「何っ……!?」
崩落隔離区画では、沈黙の牙の蹂躙が始まっていた。
「ガ……ッ」
「ぐああッ……!」
深海の狂気の兵たちが、次々と倒れていく。
数で押し潰す沈黙の牙の軍勢が、狂犬たちを瓦礫の奥へ追い込んでいく。
逃げようと背を向けた者も、容赦なく背中から斬り伏せられた。
沈黙の牙は、一匹たりとも逃がすつもりはなかった。
ウルスは、指揮台の上で戦場を見下ろしていた。
「……深海の狂気も、これで終わりだな」
だが、その時だった。
空気が変わった。
それまで響いていた怒号が、一瞬だけ鈍る。
血の匂いが、さらに濃くなった。
ズシン……。
瓦礫の奥から、重い足音が響く。
ズシン……。
沈黙の牙の兵たちが、思わず足を止めた。
ズシン……。
暗がりの向こうで、巨大な影が揺れた。
炎に照らされた瓦礫の壁に、異様に大きな影が伸びる。
「……ずいぶんと派手にやってくれてるなァ?」
その声が落ちた瞬間、沈黙の牙の兵がびくりと体を硬直させた。
ウルスの眉が、わずかに動く。
「……ついに現れたか」
瓦礫の奥。
火と血の匂いが混じる闇の中から、巨体が現れる。
分厚い鱗。
裂けるような口。
獲物を噛み砕くためだけに生まれたような顎。
深海の狂気の首領。
ナイルワニ獣人――バシリスク。
バシリスクは、沈黙の牙の軍勢をゆっくりと見渡した。
その口元が、残虐に歪む。
「俺の庭で……ずいぶん楽しんでるみてぇじゃねぇか」
第二階層の空気が、凍りついた。
沈黙の牙の兵たちは、まだ気づいていない。
自分たちが踏み込んだのは、敵のアジトではない。
怪物の口の中だった。
《蒼海の解放軍》より、深海監獄から感謝を込めて。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
もし物語を面白いと感じていただけたら、
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監獄で抗い続ける仲間たちの力になります。
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これからも『半魚囚人ジル』をよろしくお願いします。




