CHAPTER32『血の報復』
第二階層では、沈黙の牙の報復が始まろうとしていた。
霧の幻影に敗れ、牙を折られた最大派閥。
その怒りの矛先は、次なる敵――深海の狂気へと向けられていた。
暗い通路に、無数の足音が響く。
第二階層崩落隔離区画――
沈黙の牙の二百を超える軍勢が、深海の狂気のアジトへ迫っていた。
先頭を進むのは、武装した沈黙の牙の精鋭たち。
その中央で、鉄輪のついた指揮台が軋みながら進んでいく。
数人の囚人に引かれるその台座の上に座り、沈黙の牙の軍参謀、ミツクリザメ魚人ウルスは、戦場へ向かう闇を冷たく見据えていた。
そして、その一歩後ろ。
無言の巨影が、誰に命じられるでもなく歩いていた。
嵐喰らいカイゼル。
ウルスは前方の闇に目を凝らす。
「……そろそろ奴らの根城だな」
背後に立つ巨影へ視線を流した。
「退屈だろう、カイゼル。もうすぐ着くぜ」
唇の端が、ゆるく吊り上がる。
「前線は空けておく。好きに暴れてくれりゃあいい」
カイゼルは、無言のままウルスを見下ろした。
「……貴様の命令には従わん。口を出すな」
低く、乾いた声だった。
「俺は、俺のやりたいようにやるだけだ」
ウルスは、喉の奥で笑った。
「フッ……もちろん、それでいい」
その目が、ぼんやりと浮かび上がった深海の狂気のアジトへ向けられる。
だが、聞こえてくるはずの怒号も、叫び声もない。
ウルスは、指揮台の上で胡座をかいたまま、前方を見据える。
「……やけに静かだな」
沈黙の牙の軍勢が、じりじりと距離を詰めていく。
隊列の中から、イシダイ魚人の兵が低く笑った。
「ニヒヒヒヒ、この数に恐れをなして、逃げやがったんじゃねぇですか」
ウルスは、薄く笑う。
「……いや、狂犬どもにそんなまともな判断はできねぇ」
その目は、深海の狂気のアジトから離れない。
「だが、バシリスクとドロマは別だ。あの野郎どもは、ただの馬鹿じゃねぇ」
ウルスの声が、わずかに低くなる。
「舐めてかかるな。グリードやヴィクターの二の舞になるぞ」
イシダイ魚人の兵は、笑みを引っ込めた。
「へ、ヘイ……!」
慌てて背筋を伸ばし、武器を握り直す。
その一歩後ろで、カイゼルが鼻を鳴らす。
「……フン」
ウルスは指揮台の上から立ち上がり、軍勢を見下ろした。
「止まれ。作戦通り、隊を三つに分ける」
沈黙の牙の兵たちが、一斉に足を止める。
「デューガン」
名を呼ばれ、ゴマモンガラ魚人の巨漢が前へ出た。
青黒い皮膚に、黄色い斑点。
分厚い顎。
岩でも噛み砕きそうな牙。
デューガンは太い首を鳴らし、獰猛に笑った。
「おう」
ウルスは、深海の狂気のアジトへ視線を向けたまま告げる。
「お前の隊は、バシリスクを引きつけろ。倒そうとするな。足を止めればいい」
デューガンの口元が、さらに歪む。
「へっ。止めるだけで済むかは知らねぇぞ」
ウルスは、返事を待たずに次の名を呼んだ。
「マダラ」
暗がりから、マダラウツボ魚人がぬるりと姿を現した。
まだら模様の皮膚。
裂けた口。
両手には、短く反ったショートソードが握られている。
マダラは二本の刃を軽くこすり合わせ、低く笑った。
「へっへっへ……」
「ドロマはお前の隊で追え。毒を撒かれる前に潰せ」
マダラの牙が、闇の中で覗いた。
「トラフグ狩りか。悪くねぇ」
ウルスの目が、最後の一人へ向く。
「ゼイル」
アオザメ魚人の男が、一歩前へ出た。
青灰色の肌。
水を切るために削ぎ落とされたような、細く締まった体。
口元から覗く牙は細い。
だが、その目だけは、獲物を定めた刃のように冷たかった。
「ロークスはお前の隊で仕留めろ。逃がすな」
ゼイルは、腰に差した細身の刺突剣へ手を添え、短く頷いた。
「お任せを」
ウルスは、指揮台の上で口角を上げ、再び腰を下ろした。
「残りの雑魚どもは、俺の本隊で殲滅する」
その声が、沈黙の牙の軍勢へ冷たく落ちる。
「深海の狂気を、今ここで終わらせる」
沈黙の牙の兵たちが、武器を握り直した。
ウルスは、指揮台の上で片手を上げる。
「……潰すぞ」
デューガンが、分厚い顎を鳴らした。
「おう!」
再び、沈黙の牙の軍勢が前進を始める。
瓦礫の転がる通路へ、重い足音が踏み込んでいく。
デューガンは肩を回しながら、獰猛に笑った。
「バシリスクの野郎……そのデケェ口ごと叩き潰してやるぜ……!」
その直後だった。
軍勢が、瓦礫に囲まれた崩落地帯へ入り込んだ瞬間――。
瓦礫の上に、影が立った。
一つ。
二つ。
三つ。
崩れた岩壁の上。
折れた鉄骨の隙間。
倒れた柱の陰。
そこかしこから、深海の狂気の囚人たちが姿を現していく。
「ギヒ……」
「来やがった……」
「血祭りだァ……!」
下卑た笑い声が、崩落地帯に広がった。
殺意を帯びた視線が、四方から沈黙の牙の軍勢へ突き刺さる。
前列の兵たちが足を止めた。
一瞬、隊列が詰まる。
だが、指揮台の後ろに立つカイゼルだけは腕を組んだまま姿勢を崩さなかった。
瓦礫の上に現れた影を、退屈そうに見上げている。
指揮台の上のウルスも、動じない。
「……フン。想定内だ」
ウルスは、そばに控えるカジキ魚人へ視線だけを向けた。
「バロン、敵影は?」
カジキ魚人バロンが、鋭い目を走らせる。
崩れた梁の上。
岩陰。
天井近くの鉄格子。
その視線が、一瞬で敵の数を拾っていく。
「……見える範囲で、四十ほどでしょうか」
ウルスは、薄く笑った。
「フッ……その程度なら問題ない」
その時だった。
正面の瓦礫が、ガラリと崩れた。
崩れた石の上に、細長い影が立つ。
暗がりの中で、裂けた口が吊り上がった。
「ケヒヒヒヒ……」
その声だけで、空気が腐ったように歪む。
「カスどもが、わざわざ死にに来たのか……?」
沈黙の牙の兵たちの視線が、一斉に正面へ向く。
瓦礫の上で、ウツボ魚人ロークスが笑っていた。
ウルスの人差し指が、指揮台の上で小さく動く。
その刹那――アオザメ魚人ゼイルが、刺突剣の柄に手をかける。
「……ロークス」
低く、その名を呼んだ次の瞬間――。
ゼイルの姿が、沈黙の牙の隊列から消えた。
鋭い踏み込み。
濡れた地面を蹴った足音だけが、遅れて響く。
ゼイルは刺突剣を引き絞り、一直線にロークスへ突っ込んだ。
その背後から、ゼイルの部隊の兵たちが一斉に続く。
「……死ね」
ゼイルの刺突剣が、ロークスの喉元へ迫る。
だが――。
ロークスの瞳孔が、ぎょろりと開いた。
「ケヒッ」
その瞬間、ロークスの体が半歩だけ横へ滑った。
刺突剣の切っ先が、喉元を掠め空を切った。
「チッ……!」
次の瞬間。
ドグッ……!
鈍い音が、崩落地帯に落ちた。
ロークスの鉤爪を揃えた手刀が、ゼイルの鳩尾を貫いていた。
「……が、ッ」
ゼイルの体が、びくりと震える。
後続の兵たちの足が止まった。
指揮台の上で、ウルスの目が細くなる。
「……ゼイル」
デューガンが目を剥いた。
「何っ!?」
ロークスは、ゼイルの腹を貫いたまま、裂けた口を吊り上げる。
「ケヒヒヒヒ……」
血が、ロークスの腕を伝って落ちる。
「こんなモンじゃ足りねぇ、もっと血を見せろよ?カスども……!」
ロークスは、ゼイルの体から手刀を引き抜いた。
ゼイルが崩れ落ちるより早く、ロークスの体が跳ねる。
ザシュッ!
一人目の喉が裂けた。
バギッ!
二人目の胴体が割れた。
ザシュッ!
三人目の腕が、武器ごと飛んだ。
足を止めたゼイルの部隊が、一瞬で崩されていく。
瓦礫の上で、ロークスの笑い声だけが響いた。
「ケヒヒヒヒヒヒヒ……!」
「クソッ! ゼイル!」
デューガンの怒号が、崩落地帯に響いた。
ゴマモンガラ魚人の巨体が、前へ出る。
背中に括りつけていた巨大斧を、片手で引き抜いた。
鉄塊のような刃が、瓦礫の床を削る。
ロークスは、血に濡れた手をだらりと下げたまま、デューガンを見た。
裂けた口が、さらに吊り上がる。
「ケヒヒ……次はテメェか?」
ロークスは、左手を掲げた。
そして、パチン、と指を鳴らす。
その音を合図に、瓦礫の上の影が一斉に動いた。
崩れた岩壁から。
折れた鉄骨の上から。
倒れた柱の陰から。
深海の狂気の囚人たちが、奇声を上げながら飛び降りてくる。
「ギャハハハハッ!」
「潰せェ!」
「斬り刻めェェ!」
四方から、狂気の群れが沈黙の牙の軍勢へなだれ込んだ。
デューガンが、巨大斧を肩に担ぐ。
「上等だ、狂犬ども!」
分厚い顎が、獰猛に歪む。
「突撃だァァッ!」
その号令に、デューガンの部隊が吠えた。
「オウッ!」
沈黙の牙の前列が、一斉に前へ出る。
瓦礫を蹴り飛ばし、武器を振り上げ、四方から押し寄せる深海の狂気の兵へ向かって、突っ込んでいく。
次の瞬間――
両軍が激突した。
剣と剣が噛み合う。
棍棒が骨を砕く。
デューガンの大斧が敵兵を瓦礫へと叩きつける。
悲鳴と怒号が、崩落地帯を埋め尽くした。
一気に、戦場が血の匂いで満ちていく。
だが、全軍が動いたわけではない。
マダラは、二本のショートソードをだらりと下げたまま、戦場を眺めている。
「へへへ……」
その舌が、牙の間を舐めた。
「ドロマの野郎はどこだ……」
ウルスの本隊も、まだ動かない。
鉄輪のついた指揮台の上で、ウルスは胡座をかいたまま戦場を見下ろしていた。
デューガンの突撃も。
ロークスの奇襲も。
四方から流れ込む深海の狂気の兵たちも。
そのすべてを、冷えた目で見ている。
そして、指揮台の後ろ。
嵐喰らいカイゼルもまた、腕を組んだまま動かなかった。
瓦礫の上で笑うロークスを、ただ退屈そうに見ている。
ウルスは、口角をわずかに上げた。
「……出てこい、バシリスク」
その声は、戦場の喧騒に溶けるほど低かった。
「お前が動いてからが、本番だ……」
その頃――。
ジルたちは、深海の狂気のアジトへ続く別の通路を進んでいた。
通路の奥から、声が聞こえてくる。
叫び声。
雄叫び。
鉄と鉄がぶつかり合う音。
そして、鈍い打撃音。
先頭を歩いていたジルの足が止まった。
左腕を横に出し、後ろの三人を制する。
「……待て」
バレルが眉をひそめる。
「何だ?」
ヴォルグは、片目を通路の奥へ向けた。
「叫び声……戦闘が起こっているのか……?」
レクスは、頭の提灯を小さく揺らした。
「いやぁ、奴らは日頃から騒がしい連中だ。また喧嘩でもしてんだろう」
ジルは、耳を澄ませた。
奥から響く音は、途切れない。
一つの争いではない。
いくつもの武器がぶつかり、何人もの囚人が叫んでいる。
「……それにしては、叫び声と打撃音が多い」
バレルが、ハサミを軽く鳴らした。
「どっかの連中が、深海の狂気のアジトに攻め込みやがったか」
ヴォルグの表情が引き締まる。
「だとすれば、沈黙の牙だろうな。霧の幻影は今、拠点を立て直しているはずだ」
レクスが、口元を歪めた。
「ったく、タイミングの悪りぃ奴らだ」
ジルは、暗い通路の先を見据えた。
遠くで、また何かが砕ける音がした。
ジルは声を落とす。
「いや、奴らが潰し合っている今なら、奥にある祠へ抜ける隙があるかもしれない」
「見つからないよう、隠れて進むぞ」
バレルが頷いた。
「おう」
ヴォルグも、短く応じる。
「正面を避けて音の流れを見れば、回り込める道はあるはずだ」
レクスは小さく息を吐いた。
「ああ。面倒事には巻き込まれねぇようにしねぇとな」
ジルたちは、足音を殺しながら、通路の奥へ進んだ。
そしてジルたちは、戦場から数十メートル離れた瓦礫の陰にたどり着いた。
崩れた岩壁の向こうで、怒号と悲鳴が入り乱れている。
火花が散る。
血が飛ぶ。
深海の狂気と沈黙の牙の兵たちが、崩落地帯の中央でぶつかり合っていた。
ヴォルグが、片目を細める。
「レクス、灯りを落とせ」
レクスは指先で提灯を押さえ、頭の先の光を弱めた。
「ヘイヘイ、言われなくても分かってるって」
暗がりが、四人の姿を包む。
バレルは瓦礫の隙間から戦場を見た。
「……やっぱり沈黙の牙だぜ。幹部格も数人いやがる」
ジルは、低く告げる。
「……よし、このまま瓦礫の陰を抜ける」
レクスが、奥の暗がりへ視線を向けた。
「祠へ抜けるなら、左側から大回りした方がいい。足場は悪ぃが真っ直ぐ突っ切るよりはマシだ」
そこで、レクスの視線がバレルへ移る。
「ただ、お前はデケェからな。岩陰に隠れても、ハサミが先に見つかるかもな」
バレルが顔をしかめた。
「うるせぇ! そん時ゃ、そん時だ!」
ジルは、戦場から目を離さない。
「……行くぞ」
四人は、瓦礫の陰から陰へ移った。
足音を殺し、低く身を沈める。
近づくにつれ、戦場の凄惨さが目に飛び込んできた。
倒れた囚人。
折れた武器。
血で濡れた瓦礫。
そして、その中心で笑う影。
バレルの表情が歪む。
「ロークスの野郎……何人殺してやがるんだ、あいつは……」
ロークスの周囲は、血の海と化していた。
沈黙の牙の兵も、深海の狂気の兵も、関係ない。
複数の囚人が折り重なるように倒れ、その中でロークスだけが裂けた口を吊り上げている。
ヴォルグは、戦場全体へ視線を走らせた。
「……だが、兵数は圧倒的に沈黙の牙が多い。まだ動いていない部隊もいる」
バレルが、瓦礫の隙間から目を凝らした。
「おい……後ろのほうを見ろ。あのカイゼルの野郎もいやがるぜ!」
ジルの視線が、戦場の中央へ向く。
指揮台の後ろで、カイゼルは腕を組んだまま動かない。
(カイゼル……)
ジルの拳に、力が入る。
レクスが、暗がりの中で口元を歪める。
「このままなら、沈黙の牙の圧勝かもな」
その目が、戦場の奥へ向く。
「……けど、妙だ」
ジルが、レクスを見る。
「何がだ?」
レクスは、瓦礫の向こうに広がる戦場を見つめたまま言った。
「バシリスクの姿が見えねぇ……」
その言葉に、ジルの目が鋭くなった。
戦場の喧騒の裏で、見えない怪物の気配が蠢いている。
この血の報復は、ただの抗争では終わらない。
《蒼海の解放軍》より、深海監獄から感謝を込めて。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
もし物語を面白いと感じていただけたら、
あなたの一票(=★評価・ブックマーク)が、
監獄で抗い続ける仲間たちの力になります。
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これからも『半魚囚人ジル』をよろしくお願いします。




