CHAPTER29『死者にされた男』
霧の幻影は勝利し、沈黙の牙は深く傷ついた。
だが、ジルたちはまだ、戦いの全貌までは知らない。
ジルとバレルは、アオリイカ魚人ディナイに導かれ、霧の幻影の拠点へ向かっていた。
影虎との約束。
ジルがかつて所属していた反政府組織、ブルータイド。
その元隊長、ゼオンに会うために。
第二階層――霧の幻影の隠れ拠点。
ディナイの足が止まった。
霧の幻影の拠点は、岩と岩の隙間に隠されていた。
だが、入口の扉は壊れている。
沈黙の牙が破ったのだろう。
重い扉は、片側だけ外れたまま開いていた。
ディナイは、親指で入口を指した。
「……入るぞ」
バレルが、壊れた扉を見て片眉を上げた。
「ふぅ……ここが霧の幻影の拠点か」
ジルは、壊れた扉の奥を見据えた。
「ああ。行こう」
三人は、入口をくぐった。
かつて霧に包まれていた通路は、今は薄く晴れていた。
代わりに、煤の匂いが鼻を刺す。
壁には黒い焦げ跡。
床には砕けた木片。
焼け落ちた梁が、通路の端に積まれていた。
バレルが、周囲を見回す。
「……ひでぇ火事のあとだな」
ディナイは振り返らずに進む。
「沈黙の牙の仕業だ」
焼け焦げた床を踏む足音が、少しだけ強く響く。
「……その分の代償は、払わせたがな」
ジルは何も言わず、焼けた通路を進んだ。
バレルが、歩きながらジルを横目で見る。
「……なぁ、ジル」
ジルは前を向いたまま答える。
「なんだ」
「ヴィクターを倒した見返りに、ゼオンって奴と会わせてもらうんだよな?」
「……ああ」
ジルは、焼けた通路の先を見つめながら答えた。
「俺が昔いた組織、ブルータイドで隊長をしていた男だ」
バレルが、片方のハサミを軽く鳴らした。
「隊長か。そいつは強ぇのか?」
ジルは、少しだけ間を置いた。
「強い」
短い答えだった。
「この監獄の怪物どもにも、負けないくらい強かった」
バレルの眉が、ぴくりと動く。
「へぇ。そいつが仲間になってくれりゃ、心強ぇな」
ジルは、すぐには答えなかった。
焼けた通路の先を見つめたまま、静かに口を開く。
「……それは、分からない」
バレルが、ジルを見る。
「ゼオンが動けるのか。今、どんな状態なのかも分からない」
ジルの指が、掌に食い込んだ。
「生きていると聞いただけだ」
バレルは息を吐いた。
「……そうか」
そして、前を向く。
「無事ならいいがな」
ジルは頷いた。
「……ああ」
それ以上は言わず、足を止めずに進んだ。
やがて三人は、影虎の居室の前にたどり着いた。
扉の前には、霧の幻影の者が二人、音もなく控えていた。
どちらも口を開かない。
ただ、ジルとバレルの姿を見て、無言のまま身を引いた。
ディナイが、扉に手をかける。
「……入れ。影虎様が待っている」
ジルは頷いた。
ジルとバレルは、影虎の居室へ入った。
外の焼け跡とは違い、室内は異様に静まり返っていた。
薄い霧が、床を這っている。
バレルが、居室の奥を睨みながら小さく呟いた。
「……薄気味悪りぃ空気だな」
ジルの視線は、奥に座る影虎へ向けられていた。
影虎が、鼻を鳴らした。
「フン……ヴィクターには、手を焼いたようだな」
ジルは、影虎を見据えたまま頷く。
「……ああ。かなりの強敵だった」
バレルが、横でハサミを軽く鳴らした。
「だが、倒したぜ。俺たちの連携でな」
そう言って、バレルは大きなハサミを振るうような仕草をした。
「最後は、ジルの一撃だ」
ジルは、短く息を吐く。
「……だが、トドメを刺したのはガレオンだ」
影虎の表情は変わらない。
「……聞いている」
影虎は、しばらく黙っていた。
「……だが、ガレオンは言っていた」
その視線が、ジルへ向く。
「貴様らは、約束を果たしたとな」
ジルの瞳が一瞬だけ揺れた。
影虎は、しばらくジルを見ていた。
薄い霧が足元を覆う。
「ならば、こちらも約束を違えるわけにはいかん」
影虎は告げた。
「ゼオンと会うことを許す。ただし、話すだけだ」
ジルは、一歩前に出た。
「ゼオンは……どういう状況なんだ?」
握った拳が、ゆっくりと固くなる。
「生死の境を彷徨っていると聞いたが……」
影虎は、一度だけ目を伏せた。
「……何とか、死の淵からは戻った」
「まだ動ける状態ではない。だが、話せる程度には回復している」
ジルの肩から、すっと力が抜ける。
バレルも、小さく息を吐く。
「……そうか」
ジルが呟く。
影虎の目がジルに向けられる。
「だが、ゼオンと会って、何を話すつもりだ」
ジルは、影虎を見据えた。
「……ブルータイドが、なぜ壊滅させられたのか」
拳が、静かに握られる。
「ゼオンが、どうやって生き延びたのか」
ジルの声は低かった。
「本人の口から聞きたい。それだけだ」
影虎は、ジルの目を見続けていた。
数秒の沈黙。
やがて、影虎が小さく息を吐いた。
「……いいだろう」
ジルの拳が、静かに緩んだ。
影虎は、そこで言葉を切った。
「ただし――ゼオンの身柄は、しばらく霧の幻影が押さえる」
バレルの目つきが変わった。
「身柄を押さえる、だと? 捕虜扱いかよ」
影虎は、バレルを見た。
「捕虜ではない。ゼオンを守るためでもある」
その声に、怒りはない。
ただ、冷たい圧だけがあった。
「バレル・ラクロワ……貴様も、檻の側にいた男だろう」
バレルのハサミが、ギチリと鳴った。
「……昔の話だ」
影虎はただ、バレルを見ていた。
次の瞬間、バレルは鼻で笑った。
「だけどなぁ……人生ってのは、何度しくじっても終わりじゃねぇ」
バレルは、ハサミをバチンッと鳴らす。
「やり直す気がありゃ、泥の中からでも這い上がれるもんだぜ」
影虎の目が、かすかに動く。
「フッ……奇妙な男だ」
バレルの眉が、ぴくりと跳ねた。
「オメェにだけは言われたくねぇよ」
影虎の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
だが、それも一瞬だった。
その視線が、ジルへ戻る。
影虎は続ける。
「ゼオンと話すことは許す」
ジルから目を逸らさない。
「だが、連れ出すことは許さん。あの男は、まだ死の淵から戻ったばかりだ」
そこで、影虎の目がさらに冷える。
「それに――あの男には、まだ果たしてもらわねばならぬ役目がある」
ジルの目に、警戒の色が宿る。
「……役目?」
影虎は答えなかった。
ただ、静かにジルを見返す。
「それを知る必要はない」
それ以上の問いを許さない声だった。
ジルは出かかった言葉を飲み込んだ。
影虎は、扉のそばに控えるディナイへ視線を向ける。
「こ奴らを、ゼオンの元へ通せ」
ディナイが頭を下げる。
「はっ」
影虎は、それ以上何も言わなかった。
ディナイが、扉の前で言った。
「……来い」
ジルは、ディナイへ視線を向けた。
そして、一度だけ影虎を振り返る。
影虎は、椅子に座ったまま動かない。
ただ、静かにジルを見ていた。
ジルは何も言わず、前を向く。
バレルが、その横に並んだ。
ジルが告げる。
「……行くぞ」
「おう」
二人はディナイの後を追い、影虎の居室を出た。
その頃――
沈黙の牙のアジトでは、重い沈黙が広がっていた。
ローレンスは、片膝をついたまま報告を終えていた。
霧の幻影への襲撃失敗。
ヴィクターの死。
そして、撤退中にグリードを失ったこと。
広間にいた沈黙の牙の兵たちは、誰も声を出せない。
その奥で、巨大な影がゆっくりと動いた。
ドゥームだった。
「……霧の幻影に、深海の狂気」
低い声が、広間に落ちる。
「沈黙の牙に噛みついた者が、どれほどの血を払うことになるか――教えてやろう」
ローレンスは顔を上げる。
ドゥームの瞳には、怒りではなく、冷たい殺意だけがあった。
「まずは、目障りな深海の狂気を根絶する……」
その一言で、広間の空気が変わった。
ドゥームは、奥の闇へ視線を向ける。
「ウルスを呼べ」
そして、少し間を置いた。
「客人にも、出てもらおうか」
闇の奥で、さらに大きな影が蠢いた。
その牙が、再び動き出そうとしていた頃――
ジルとバレルは、アオリイカ魚人ディナイの後を追っていた。
霧の幻影の拠点を抜け、第二階層のさらに奥へ進む。
そこから先の道は、通路というより洞穴に近かった。
幅は狭い。
一人が通るのがやっとの岩道が、闇の奥へ続いている。
バレルの甲殻が、時折、壁の岩にぶつかった。
バキッ!
ガリガリ……!
鈍い音が、狭い洞穴に響く。
「おいおい……俺の真っ赤なボディが傷だらけになっちまうぜ」
バレルは肩をすぼめながら、窮屈そうに進んだ。
そして、前を行くディナイの背中を見る。
「どこだ、こりゃ。看守時代でも、こんな道があるなんて、聞いたことねぇぞ」
ディナイは振り返らない。
「……だから使える」
短い答えだった。
ジルは、壁に手を触れながら進む。
湿った岩肌。
薄く残る霧。
足元には、誰かが何度も通ったような削れ跡があった。
ただの抜け道ではない。
霧の幻影が、長い時間をかけて隠してきた道だった。
細まった洞穴を抜けた先で、視界が開けた。
そこには、小さな広間ほどの地下池が広がっていた。
暗い水面が、岩壁に囲まれて静かに揺れている。
その先は、岩で閉ざされていた。
行き止まりに見える。
ディナイの足が止まった。
ジルも立ち止まる。
「……ここは」
バレルが、濡れた岩場を見回した。
「おい。行き止まりじゃねぇか」
ディナイは答えず、地下池の奥を指さした。
岩壁の向こう。
水面すれすれの位置に、黒い影が落ちていた。
「……この先だ」
そう言うと、ディナイは迷いなく水へ飛び込んだ。
ザブンッ。
水しぶきが、狭い空間に跳ねる。
「あ、おい!」
バレルの声を残し、ディナイは水を切って進んだ。
やがて反対側の岩壁にたどり着く。
濡れた岩を掴み、軽々と岩棚へ登った。
そして、こちらを見る。
「……早く来い」
ジルは短く息を吐く。
次の瞬間、迷わず地下池へ飛び込んだ。
ザブンッ。
冷たい水が、全身を包む。
「ジル、待てよ!」
バレルも続いて飛び込んだ。
バッシャーンッ!!
大きな甲殻が水面を叩き、派手な水音が響く。
「くそっ……冷てぇ上に汚ねぇ水だな!」
バレルは悪態をつきながらも、水をかいて進んだ。
二人は、ディナイのいる岩棚へたどり着く。
ジルが水を払って立ち上がると、ディナイは岩壁の一部を指した。
「……ここだ」
岩と岩の隙間。
そこに、人ひとりがようやく通れるほどの黒い裂け目があった。
外から見れば、ただの影にしか見えない。
ディナイは身をかがめ、その裂け目の中へ入っていく。
ジルは、その背中を見つめた。
バレルが、濡れたハサミを軽く鳴らす。
「……こりゃ、看守でも知らねぇわけだぜ」
ジルは頷き、裂け目へ足を踏み入れた。
裂け目の中を抜けると、空気が変わった。
外の洞穴よりも、さらに静かだった。
薄く張った霧が、足元を流れている。
その霧に紛れて、薬草のような匂いがした。
湿った岩肌。
水の滴る音。
奥には、いくつかの扉が並んでいた。
扉の前には、霧の幻影の者が数名、音もなく控えている。
ジルは周囲を見回した。
(……霧の幻影は、こんな隠れた拠点をいくつも持っているのだろうか……?)
バレルが、濡れた甲殻を軽く払った。
「ほぉ……まさに療養所って感じだな」
そして、ジルの横に並ぶ。
ジルは頷いた。
「ああ……」
それから、前を行くディナイを見る。
「ディナイ。あの扉のどこかに、ゼオンがいるのか?」
ディナイは足を止めた。
「……そうだ」
短く答えると、並んだ扉の一つへ視線を向ける。
「それと、お前に助けられたクロウも、別の部屋にいる」
ジルは、その名に足を止めた。
「クロウ……」
そしてディナイは、ゆっくりと一つの扉の前へ進んだ。
扉の前に立つと、低く告げる。
「……ゼオンは、ここだ」
ジルは、ディナイへ視線を向けた。
ディナイは、黙って頷く。
ジルは、扉の前で足を止めた。
拳を上げる。
だが、すぐには叩けなかった。
この扉の向こうに、本当にゼオンがいる。
死んだと思っていた男が。
ジルは息を吸った。
ドン、ドン。
「……ゼオン。入るぞ」
ジルは扉に手をかける。
ギィィ、と古い蝶番が軋んだ。
扉が、ゆっくりと開く。
扉の奥は、薄暗かった。
湿った薬草の匂いが、部屋にこもっていた。
部屋の中央には、石の寝台が一つ。
その上に、一人のトラザメ魚人の男が横たわっていた。
首元から胸にかけて、幾重にも包帯が巻かれている。
呼吸は浅い。
だが、閉じていた瞼が、ゆっくりと開いた。
ジルの足が止まる。
「……ゼオン、か?」
男は、寝台に横たわったまま顔をこちらへ向けた。
かすれた声が、静かな部屋に落ちる。
「……久しい友の声だな、ジル」
ジルの目が見開かれた。
「ゼオン……!」
声が、かすかに震える。
「やはり、生きていたのか……!」
ゼオンの口角が、かすかに上がった。
「……かろうじてな」
それだけ言うと、ゼオンは浅く息を吐いた。
バレルは、横に立つジルを見た。
ジルは、ゼオンから目を離せずにいた。
握っていた拳から、力が抜けている。
「……へぇ」
バレルは、ジルの横顔を見て片眉を上げた。
「お前にも、そんな顔できんだな」
強敵を前にしても揺らがなかったジルが、今だけは、遠い昔の少年に戻ったように見えた。
ゼオンの目が、ゆっくりとバレルへ向く。
ジルは、横に立つバレルを親指で指した。
「こっちはバレルだ。この監獄で仲間になった」
バレルは、胸を張る。
「バレル・ラクロワだ。よろしくな!」
そう言って、片方のハサミをパチンと鳴らした。
ゼオンは、かすかに口元を緩めた。
「……そうか。ゼオン・フィルブライトだ」
ゼオンは、重そうに片手を差し出す。
「ジルが、世話になっているようだな」
バレルは、差し出された手を片方のハサミで軽く包んだ。
少しだけ眉を上げる。
「へっ。世話されてんのは、どっちかってぇとこっちかもな」
ジルが、横から短く言う。
「……否定はしない」
バレルの顔が引きつった。
「そこは否定しろよ!」
ゼオンの表情が、少しだけやわらいだ。
ジルは、寝台のそばへ一歩近づく。
「……ゼオン」
声が、低く沈む。
「お前は、死んだと聞かされていた」
ゼオンは、かすかに息を漏らした。
「フッ……そのようだな」
浅く息を吐く。
「俺を死んだことにしておいた方が、政府にとって都合が良かったらしい」
ジルの表情が険しくなる。
「……どういうことだ」
ゼオンは、すぐには答えなかった。
包帯の巻かれた胸が、かすかに上下する。
そして、かすれた声で告げた。
「ジル。第三階層へ行け」
部屋の空気が、静かに凍る。
「そこに、俺たちが掴んだ証拠を残してきた」
ジルの拳が握られる。
「……第三階層」
ゼオンの目が、ジルを捉えた。
弱りきった身体とは裏腹に、その眼差しだけは鋭かった。
「ブルータイドが潰された理由も、そこにある」
第三階層。
そこに残された証拠が、ブルータイド壊滅の真相へと繋がっている。
死んだはずの男が告げた言葉は、ジルをさらに深い監獄の闇へと引きずり込もうとしていた。
《蒼海の解放軍》より、深海監獄から感謝を込めて。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
もし物語を面白いと感じていただけたら、
あなたの一票(=★評価・ブックマーク)が、
監獄で抗い続ける仲間たちの力になります。
▼作者Xはこちら
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これからも『半魚囚人ジル』をよろしくお願いします。




