CHAPTER2『第四の勢力』
深海監獄アビスロック第二階層――
噂は、すでに広がりはじめていた。
「聞いたか? 新入りが、ロークスの襲撃を弾き返したらしいぜ」
「あの狂ったウツボ魚人を、正面からだとよ」
「……一人じゃない。あのロブスターの野郎も一緒だったと聞いたぜ?……しかも、二人ともまだ生きてやがる」
その噂は、第二階層の奥へ、静かに広がっていった。
まだ名はなく、ただの無所属の二人に過ぎない。
だがこの時すでに――監獄の均衡は、わずかに軋み始めていた。
血の臭いの残る通路で、バレルはわざとらしく肩の力を抜いた。
「ま、こうして名乗り合ったんだ。だったら、俺たちの同盟の呼び名も……欲しくなるだろ?」
「……看板みたいなものか」
ジルは小さく息を吐いた。
バレルは、気楽な調子でハサミを鳴らした。
「ま、俺たち無所属同士で手ぇ組んだんだからよ?
無所属同盟ってのはどうだ?」
ジルは一拍置いて、ゆっくりと頷く。
「……悪くない」
だが、そのまま視線を落とし、続けた。
「でもどうせなら……もう少し意味のある名のほうがいいと思うんだが……」
「ほぉ?」
バレルは鼻を鳴らし、にやりと笑う。
「じゃあよ――チーム・フライングフィッシュ・ロブスターってのはどうよ?」
ジルは思わず息を吐いた。
「……いや、そのままじゃないか」
「そうか? いいと思うぜ?」
バレルは本気なのか冗談なのか分からない顔で言う。
ジルはしばらく考えるように黙り込む。
少しの沈黙のあと、ゆっくりと顔を上げる。
その声には、揺らぎのない芯があった。
「俺は……ブルータイドっていう反政府組織にいたんだ」
遠くで、鉄が軋む音が響く。
「……重税と強制労働に苦しむ港町の連中が、自由を求めて立ち上がった組織だった」
ジルは奥歯を噛んだ。
「だが、政府軍の罠に嵌められて壊滅した……名前も旗も仲間も、全部奪われた」
「それで、俺だけが生き残った」
バレルは、何も言わなかった。
ただ黙って、ジルの言葉を聞いていた。
ジルは視線を落とし、低く続ける。
「……俺は、人と組むのが得意じゃない」
一度、言葉を切る。
「そんな俺にも、ブルータイドでは……気を許せる仲間ができた」
だが、その声はすぐに沈んだ。
「けど、結局……全部失った」
バレルは、小さく息を吐いた。
「……なるほどな」
ジルは、握った拳を見つめたまま続ける。
「もう二度と、仲間を失う経験はしたくない」
そこで、ゆっくりと顔を上げる。
「……けど、それでも」
ジルの瞳に、静かな熱が宿る。
「あの連中の意志は、俺の中でまだ生き続けている。この監獄の底から、もう一度流れを起こす」
ジルはバレルを見た。
「“蒼海の解放軍”……そう名乗るのは、どうだ?」
それは、奪われた名を取り戻すための、小さな旗だった。
バレルは巨大なハサミを軽く打ち合わせたあと、にやりと笑ってジルに言った。
「いいじゃねえか!決まりだな、相棒……で、リーダーはお前な!」
ジルは一瞬、言葉を失った。
「……俺が?」
眉間に、かすかな皺が寄る。
「俺は、リーダーなんて器じゃない。勝手に決めるな」
バレルは笑いながら言った。
「看板を決めたのはお前だろ?名前には責任がつきまとうもんさ……それに、俺は細けぇことをごちゃごちゃ考えるのは、苦手なんでね」
ジルはしばらく黙っていた。
やがて、小さくため息をつく。
「……仕方ない。今は、それでいい」
バレルは満足げに笑いながら、ハサミを鳴らした。
「決まりだ、舵取りよろしくな!」
ジルは一瞬だけ目を細め、口の端をわずかに吊り上げる。
「……強引なやつだな」
バレルは気にも留めず、張りつめた空気を払い落とすように背中を伸ばした。
「……まぁ、こんな所でグダグダしててもしょうがねぇ」
そう言って肩をすくめると、懐に手を突っ込み、ガサゴソ音を立てて何かを取り出す。
乾パンだった。
「目立つのは――腹を満たしてからにしようぜ?」
無造作に放られたそれを、ジルは受け取り、わずかに眉をひそめる。
「……食糧は、どうやって手に入れるんだ?」
バレルは口の端を吊り上げた。
「いい質問だ。この監獄にもな、一応“ルール”はある。誰も教えちゃくれねぇが……知らねぇと生き残れねぇ」
踵を返し、通路の奥へ顎をしゃくる。
「ついて来い。この監獄で“腹を満たす”方法を、教えてやる」
第二階層の奥へ進むにつれ、通路の空気はさらに重さを増していった。
湿った石壁に囲まれた細い通路。
ジルとバレルが歩くたび、あちこちから視線が絡みついた。
――値踏みする目。
――警戒する目。
――獲物を測るような目。
噂がもう届いているのか、囚人たちは敏感に反応していた。
小競り合いが起きている一角では、血の臭いが生暖かく漂い、別の場所では無言の取引が淡々と行われている。
やがて、通路の先がわずかに開ける。
粗末な布を敷き、木箱や鉄片を並べただけの露店が無数に並び、囚人たちが物資をやり取りしている。
乾パン、干し肉、刃こぼれした刃物、使い古しの防具。
監獄というより、貧民街に近い。
ジルが低く呟く。
「……なあ、バレル……ここは本当に監獄か?」
バレルは、継ぎ接ぎだらけのバラックに目をやった。
「ああ、看守の配給だけじゃ生き残れねぇ連中が集まって……自然と、こうなっちまったんだろう」
少し離れた場所では、乾パン一つを巡って囚人同士が揉み合っていた。
床に落ちた乾パンへ、何本もの手が伸びる。
――ここでは、鎖よりも先に、空腹が人を縛る。
ジルは無言で頷いた。
そのとき、通路の奥――市場のさらに向こうに、異質な構造物が見えた。
金属と人工石で固められた、無骨な縦穴。
その中央に巨大な棺のような箱型の昇降装置が据えられていた。
「……あれは?」
ジルの視線を追い、バレルが答える。
「看守だけが使える階層間リフトだ。上と下を行き来できる」
ちょうどその時、重苦しい振動とともに、そのリフトがゆっくりと降りてきた。
金属が擦れ合う低音が、通路全体に響く。
重厚な音と共に扉が開いた。
現れた看守は無言のまま、袋や箱を掴み、次々と放り投げる。
箱が地面に叩きつけられるたび、鈍い音が鳴る。
その前に、いつの間にか形成されていた列が、微かにざわめいた。
「配給だ。一日一回、決まった時間に放り込まれるんだ」
バレルが淡々と言う。
「数は決まってる。足りなきゃ、それで終わりさ」
ジルは列の外から近づいてくる数人に気づいた。
並ぶ様子もなく、当然のように前へ出る。
背中に刻まれた派閥の印。
「……並ばない連中もいるな?」
「……奴らは三大派閥だ」
バレルは短く答える。
「代表がまとめて受け取って、縄張りに持ち帰る。看守も、それを咎めやしねぇ」
ジルは小さく息を吐いた。
「無所属は……残り物を拾うしかない、というわけか」
バレルは配給箱へ群がる囚人たちを見た。
巨大なハサミが、かすかに鳴る。
「そういう場所なんだ」
ジルはその光景を黙って見据えた。
(……檻だけが、囚人を縛っているわけじゃない、か)
拳を握り直し、ジルは歩き出した。
その時、配給を待つ列の中で、突如、荒い声が弾けた。
「てめぇ、横入りすんじゃねぇ!
俺のほうが先に並んでたんだよ!」
怒鳴った囚人が腕を掴み返すと、相手も即座に噛みつく。
「何だと? 文句あんのか!」
次の瞬間――
一人が懐から刃物を抜いた。
ざわ、と列の空気が揺れる。
周囲の囚人たちは、慣れたように距離を取った。
バレルは短く息を吐いた。
「……おいおい。そんなことで揉めるんじゃねぇ」
低く、腹に響く声だった。
バレルは列の脇から一歩踏み出し、二人の間に割って入る。
刃物を握った囚人が苛立ちを露わにする。
「うるせぇ! テメェに関係――」
言い切る前に、言葉が詰まった。
目の前のロブスター魚人が放つ圧。
分厚い甲殻、巨大なハサミ。
何より、その目に一切の揺らぎがない。
囚人は無意識に一歩、後ずさった。
その様子を、列の外から眺めていた連中がいた。
配給を受け取りに来ていた沈黙の牙の囚人たちだ。
数人が顔を見合わせ、にやりと笑う。
「……止めるんじゃねぇよ、ロブスター?」
嘲るような声が投げられる。
バレルはゆっくりとそちらへ視線を向けた。
「……フン」
鼻で笑い、低く言い放つ。
「テメェらには関係ねぇ。配給を受け取ったんなら――さっさと帰りやがれ!」
一瞬、場の空気が張り詰める。
沈黙の牙の囚人たちは、肩をすくめるようにして一歩引いた。
だが、口元の笑みだけは崩れない。
「……おい、ロブスター」
低く、粘ついた声が飛ぶ。
「いつまで正義感、撒き散らしてんだよ。俺たちゃ囚人だぜ?」
バレルは答えない。
ただ、巨大なハサミをギシリと鳴らし、視線だけを返した。
その様子を、ジルは一歩引いた位置から見ていた。
(……?)
ほんの一瞬、眉が動く。
――その時だった。
沈黙の牙の囚人の一人、アオザメ魚人が、列から離れ、ジルの方へ歩み寄ってきた。
距離を詰めるごとに、周囲の空気が張りつめていく。
「……テメェ、新入りだな?」
顔を近づけ、値踏みするように目を細める。
「いきなりロークスと揉めたそうじゃねぇか?」
口角を歪め、ニヤついたまま続けた。
「……なんで、ぶち殺さなかった?」
ジルは、沈黙の牙の囚人を真っ直ぐ見返した。
その瞳に、怯えはない。
「……あのウツボ魚人は、引いた。あいつはただ騒ぎに来ただけだ」
一拍置き、肩の力を抜く。
「そんな奴の相手をしても、意味がない。無駄に血を流しても、奴を喜ばせるだけだ」
次の瞬間、アオザメ魚人の腰のサーベルが抜かれた。
冷たい刃が、ジルの首筋に当てられる。
バレルのハサミが、グッと開く。
だが、ジルは微動だにしなかった。
アオザメ魚人は、刃を当てたまま、しばらくジルを値踏みするように眺めた。
だが、ジルは目を逸らさない。
「……ほう。新入りにしちゃ、ずいぶん肝が据わってやがるな」
舌打ち混じりに、サーベルが首筋から離れた。
「……いいだろう。今日は見逃してやる。いずれ、な?」
その言葉を残し、沈黙の牙の囚人たちは踵を返した。
周囲に残るのは、妙に重たい沈黙だけだった。
バレルが小さく息を吐く。
「……チッ。目ぇ付けられたな」
ジルが、視線だけで問い返す。
バレルは、遠ざかっていく沈黙の牙の背中を一瞥し、鼻で笑った。
「……最大派閥の連中に目ぇ付けられたら、ちっと厄介なんだが……」
肩をすくめ、いつもの調子で続ける。
「まぁ、なるようになるだろ」
ジルは視線を外さず、静かに問い返した。
「……これで終わりじゃなさそうだな」
「ああ」
バレルは頷く。
「目立った以上、このまま二人きりってわけにもいかねぇ。
ここで生き残るには……もう少し仲間が要るかもしれねぇな」
ジルは一瞬考え、口元をかすかに歪めた。
「仲間、か……俺たちと同じ考えを持つ奴が――この監獄に、まだいると思うか?」
バレルは、甲殻を軋ませた。
「ああ。ひとり、心当たりはある。ただな……」
通路の闇へ視線を向け、低く続けた。
「この監獄は、思ってる以上に広い。どこに潜んでるのか、さっぱりだ」
ジルは少しだけ黙った。
それから、通路の奥へ目を向ける。
「なら、探すだけだ」
その声に、迷いはなかった。
「どうせ、じっとしてても奴らに目を付けられたんだろ?」
バレルは、にやりと笑った。
「違いねぇ」
その瞬間、湿った通路を、潮を含んだ冷たい風がひとすじ通り抜けた。
遠くで、怒鳴り声と金属のぶつかる音が響く。
沈黙の牙のアジト――
薄暗い空間で、ひとりの男が報告を聞き終え、静かに立ち上がった。
「……厄介な芽だな、小さいうちに摘んでおくか」
短く言い捨てる。
「……始末するぞ」
その男が一歩踏み出した瞬間――
沈黙の牙が、確かに動き出す。
そしてその矛先は、静かに、だが確実に――“第四の勢力”へと向けられていた。
《蒼海の解放軍》より、深海監獄から感謝を込めて。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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監獄で抗い続ける仲間たちの力になります。
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これからも『半魚囚人ジル』をよろしくお願いします。




