CHAPTER1『深海の檻』
深海監獄アビスロック――そこは、この世で最も凶悪な魚人囚人たちが収監される絶望の牢獄だ。
ギルバートに見下ろされたあの場所は、第一階層。
アビスロックの地上部に位置する、監獄への唯一の出入り口にして看守たちの支配拠点。厳重に武装した精鋭看守が常に目を光らせている。
そして――扉の向こうからが、囚人たちの世界。
第二階層――
囚人たちがそこへ向かう道は、ひとつ。
鋼鉄の扉を抜けた先に口を開ける、果ての見えない急角度の階段。
「降りろ!早く行け!」
看守たちが槍の柄で囚人たちを押し込み、怒号を飛ばした。
ジルは深く息を吐く。
そして、暗闇の中へ一歩を踏み出した。
暗い――
深い――
壁には目で追える距離ごとに、油燈が据え付けられている。
小さな灯りが闇の奥へ、点々と沈んでいた。
だが、その灯りは底までは届かない。
ジルは眉間に皺を寄せた。
鎖の外れた拳を固く握り直す。
(……ここからが、本番か)
底を見た一人の囚人が、足を竦ませた。
次の瞬間、看守の靴底がその背を蹴り飛ばす。
「立ち止まるな!」
「ぐあっ……!」
ガッ……ガッ……ゴロゴロ……!
呻き声が階段に吸われ、闇へ落ちた。
囚人たちは黙って階段を降りていく。背中には、看守隊の槍先と怒号が突き刺さっていた。
濡れた鉄の匂い。壁を伝う水滴。
降りるほどに空気が重くなる。
――そして、辿り着いた、下の階層。
階段の終点には、先程、転げ落ちた囚人が、折れたままの姿勢でピクリとも動かずに転がっていた。
その向こう、巨大な鋼鉄の扉がゆっくりと開き始める。
ギギ……ギギギ……。
扉の隙間から湿った空気が漏れた。
鉄錆と血の臭い。
その向こうに広がるのは、灯りの乏しい開けた空間だった。
「行け!」
看守の怒号が飛ぶ。
囚人たちは半ば押し出されるように、次々と扉の向こうへ踏み込まされていった。
そして看守たちは、最後の一人が入ったのを確認すると、階段から転げ落ち、ぴくりとも動かない囚人を靴先で弾くように扉の内側へ蹴り込み、淡々と扉を閉じた。
重い音が響き、看守たちの足音は遠ざかっていった。
ジルは閉ざされた扉を見つめた。
(この先で何が起きても、扉は開かない……看守は助けない、か)
薄暗い油灯の光が揺れ、遠くから不気味な笑い声と罵声が飛び交う。
通路の所々には、骨と化した死体が転がっていた。
その傍らには折れた剣が突き立ち、まるで墓標のようだった。
新入りの囚人たちは、反射的に身を寄せ合う――その時。
「ケヒヒヒ……!」
闇の奥から、粘ついた声が這い出てきた。
「新入りはまず、“血の洗礼”を浴びるのがこの監獄のルールだぜぇ!」
影が伸びるように飛び出し、一人の囚人へ食らいついた。
「グワアァァァッ!」
血が床へ弾け、悲鳴が跳ねる。
襲いかかったのは、ウツボ魚人だった。
しなやかな体躯が闇の中を滑り、牙が獲物を裂く。
「……何なんだ、こいつは……!?」
新入りたちが後ずさる。
その中で、一人だけ足を止めた男がいた。
カンパチ魚人の新入り囚人だった。
額に汗を滲ませながらも、床に転がっていた棒切れを拾い上げる。
「クッ……殺されてたまるかッ……!」
叫びとともに、カンパチ魚人はウツボ魚人へ突っ込んだ。
棒切れが、横薙ぎに振るわれる。
だが――
ウツボ魚人の姿が、ふっと視界から消えた。
「遅ぇな……」
次の瞬間、ウツボ魚人の手刀が、カンパチ魚人の背後から鳩尾へ深く突き刺さる。
ゴボッ。
カンパチ魚人の口から、血が溢れた。
握っていた棒切れが、乾いた音を立てて床へ落ちる。
ジルは、床に崩れ落ちたカンパチ魚人を見た。
(……速い。反応する前に、潰された。それに……こいつ、殺すことに迷いがない)
拳を握った瞬間、右腕の奥に、鉛のような重みが沈んだ。
ジルは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐにウツボ魚人を睨み据えた。
ウツボ魚人は、血に濡れた牙を見せて笑った。
「ケヒヒ……覚えとけよ、新入りども」
長い舌が、牙についた血を舐め取る。
「俺はロークスだ。ここじゃ弱ぇ奴から真っ先に死ぬ……!」
牙を剥き、目をぎょろつかせる。
「次はテメェだ、新入りィ!」
ロークスの視線が、ジルを捕らえた。
ジルが身構えた瞬間――ロークスは跳んだ。
速い――
体が“鞭”のようにしなり、一気に距離を詰める。
(――っ!)
かわしたはずだった。
だがロークスの身体は、信じられない角度で捻れた。
鋭い爪が、ジルの脇腹を裂く。
「ぐっ……!」
熱い痛み。遅れて血が滲む。
踏み込んだジルの足が一瞬浮き、体勢が崩れた。
そこへ――
ゴキンッ!
ロークスの尾がムチのようにしなり、ジルの背を打ち抜く。
視界が揺れた。
「ケヒヒヒ! いい反応だなァ!」
ロークスが笑いながら、さらに畳みかける。
牙。爪。尾。
三つの殺意を孕んだ攻撃が、波のように襲いかかる――!
ジルは後退し、石壁の角に背をぶつけた。
(……まずい)
壁がある。逃げ道はない。
ロークスが笑う。
「追い詰めたぜぇ……噛み千切ってやるよぉ!」
ロークスが大口を開き、喉元へ噛みつこうとした瞬間――
ジルは咄嗟に腕を差し込んだ。
ガッ!
牙が肉を抉り、骨に届きかける。
痛みが神経を焼く。
(グッ――このまま噛み砕かれれば、終わりだ……引けば、腕を持っていかれる。ならば、逆に押し込む……!)
ほんの一瞬。
脳裏をよぎった“死”を、ジルは歯を食いしばって噛み潰した。
その瞬間、ジルの目が据わった。
(――今だ!)
ジルは噛まれた腕を引かず、そのまま踏み込む。ロークスの牙ごと腕を押し込み、距離を潰した。
そして、空いたもう片手を――渾身の力で突き上げた。
ゴギッ!
拳が顎を打ち抜く。
ロークスの頭が跳ね、牙が外れた。
「ぐぅっ……!」
ジルは血の滴る腕を振り払うように引き抜き、距離を取る。
噛み千切られそうな痛みが、まだ腕の奥で脈打っている。
(……次は、腕じゃ済まない……!)
だが――ジルの視線は落ちない。
「……こんな海の底を、俺の墓にしてたまるか……!」
ロークスはふらつきながらも、狂気の笑みを崩さなかった。
「ケヒヒヒヒ……最高だぜ……新入りィ……!」
その声を合図にしたように、暗がりから囚人たちが姿を現す。
獣のような目でジルを睨み、口々に嘲笑を浴びせた。
「逃げ場はねぇぞ、新入りぃ!」
「なぶり殺しにしてやるぜ!」
逃げ出そうとした他の新入りたちは、取り巻きたちに次々と潰された。
足を払われ、壁に叩きつけられ、床に沈む。
悲鳴が消えたあと、残ったのはジルだけだった。
ジルは周囲に視線を走らせた。
囚人たちがぐるりと円を作る。
一人が動けば、一斉に群がってくる――そんな気配が肌を刺した。
(……クソ、囲まれた)
ロークスが舌を出す。
「へへ……まだ足りねぇなァ。もっと血を見せろよ、新入りィ!」
次の瞬間――囚人たちが一斉に動く。
刃物、鉄パイプ、石の塊。
あり合わせの武器が殺意に変わって迫る。
ジルは拳を握りしめる。
呼吸は荒い。傷は熱い。
だが――折れる気はない。
群れの中心、ロークスを睨みつける。
その時だった。
豪快な声が、空気を割った。
「おいおい、多勢に無勢ってのは感心しねぇな!」
闇の中から現れたのは、ロブスター魚人。
両腕の巨大なハサミをぶら下げた、異様な存在感の男だった。
「……邪魔だ、どけ!」
次の瞬間、巨大なハサミが横薙ぎに振るわれた。
ゴギャッ! バキンッ!
骨の折れる音と悲鳴が混ざり、囚人が宙を舞って転がった。
一撃で空気が変わる。
囚人たちの足が止まり、嘲笑が喉の奥で詰まる。
ロークスが歯を剥く。
「チッ、クソロブスターか……! テメェら!簡単に怯んでんじゃねえ!死んでも叩き潰せッ!」
その一喝で、荒くれどもが再び咆哮を上げながら突撃してくる。
鋭い鉈を振り下ろす者、鉄パイプを構える者――群れは狂気に駆られた獣のように、ジルとロブスター魚人へと殺到した。
ジルは拳を握り直す。
足を踏み込んで重心を下げ、その拳を正面から突き出した。
ドガッ!
拳が顔面に炸裂し、一人が吹き飛んだ。
だが、すぐに二人目が横から迫る。
ジルは肩で受け、歯を食いしばって押し返す。
背後から三人目が飛びかかる。
振り向きざまの膝蹴りが、首筋を叩いた。
男が床へ崩れ落ちる。
だが、次の囚人がすでに迫っていた。
「どけぇッ!」
ロブスター魚人は両手のハサミを振るい、襲いかかる敵をまとめて薙ぎ払う。
金属音と断末魔が交錯し、石壁へ叩きつけられた影が沈黙する。
囚人たちの足が止まった。
ロークスだけが、血の滲む口元を歪める。
「ケヒヒ……やってくれるじゃねぇか、クソロブスター」
倒れた取り巻きたちを一瞥し、舌打ちした。
ロークスの視線が、ジルへ戻る。
「いいぜ、新入り。今日はここまでにしといてやる」
長い舌が、牙についた血を舐め取った。
「次の楽しみに、残しておいてやるよ……」
ロークスは長い身体をくねらせ、踵を返す。
「帰るぞ」
残った仲間を促し、通路の奥へ消えていった。
血の臭いだけが残る。
まだジルの腕からは、血が滴り落ちている。
ロブスター魚人はジルに向き直り、不敵に笑った。
「……ふう。新入りにしちゃ、やるじゃねぇか」
ジルは血の滲む腕を押さえ、息を整える。
「……ああ。助かった」
少し遅れて、言葉を継ぐ。
「……借りができたな」
男は肩をすくめる。
「へっ、気にすんな。――で、どっかの派閥に入る気はあるのか?」
ジルは少し間を置き、眉を寄せた。
「……派閥? なんだ、それは」
男は鼻で笑った。
「……だろうな。新入りにそんなこと教える親切な看守はいねぇ」
男は通路の奥へ視線をやり、顎で奥を示す。
「いいか? ここ第二階層の囚人たちってのは三つの派閥のどれかに所属している奴が大半なんだ」
男は足元の血の跡を踏み越え、壁際にどかりと立った。
周囲を一度だけ見回し、鼻を鳴らす。
「まずは“沈黙の牙”だ。裏で看守と繋がってるこの監獄の最大派閥だ」
遠くで金属音と罵声が響いた。
男は続ける。
「次に“霧の幻影”。監獄内のあらゆる情報を握ってる謎の多い連中だ。
そして最後が“深海の狂気”。……さっきのウツボ野郎どもがそれだ」
男は、忌々しげに通路の奥を見た。
「理性の欠片もねえ。手当たり次第に暴れ回る、名前通りのイカれた連中さ」
ジルは小さく息を吐き、男を見る。
「……随分、詳しいんだな」
少し間を置いて、続ける。
「それで、あんたはどこに所属してる?」
男はハサミを小さく鳴らした。
「俺か?……どこにも属してねぇよ。少数派の“無所属囚人”ってやつだ」
倒れた囚人たちへ目をやる。
「無所属ってのは、“味方がいない”って意味じゃねぇ。
“狩っても面倒が起きねぇ獲物”って意味だ」
ジルは目を細めた。
「……なるほどな」
そして、拳を握り直す。
「……それでも俺は、どこにも入らない。
誰の駒にも、なる気はない……この地獄を、自分のやり方で抜けてみせる」
男は鼻で笑った。
「……いいねぇ。俺も、お前と同じことを考えてる……この監獄の“仕組み”が気に食わねぇんだよ」
そして――男はジルの腕に残る血痕へ目をやり、ふっと息を吐いた。
笑みを消し、低い声で言う。
「腕を噛み抉られても、目が死んでねぇ……ここがどんな地獄かも分かった上で、それでもお前は立ち向かおうとしている」
「気に入ったぜ」
男は大きなハサミをぐっと掲げた。
「……どうだ? 俺たちで同盟を組まねえか?」
ジルは血の滲む腕を押さえ、短く息を吐く。
「……俺は……馴れ合う気はない」
一度、言葉を切る。
「だが、目的が同じなら……力を合わせるのも悪くない」
男は満足げに笑い、巨大なハサミを鳴らした。
「なら、決まりだな!――そういや名前も聞いてねぇな?」
ジルは短く答える。
「ジル・レイヴンだ」
男はニヤリと笑った。
「俺はバレル。
バレル・ラクロワだ。相棒、よろしくな!」
深海監獄アビスロック。
その底で――無所属の二人が並び立つ。
まだ小さな火種。
だが、この地獄は、“異物”を決して見逃さない。
二人を狙う影は、すでに静かに動き始めていた。
《蒼海の解放軍》より、深海監獄から感謝を込めて。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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監獄で抗い続ける仲間たちの力になります。
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これからも『半魚囚人ジル』をよろしくお願いします。




