CHAPTER12『鉛色の拳、深海に落ちた光』
重い足音が、崩れた通路に響く。
包囲は狭まり、呼吸の間隔すら奪われていく。
ロークスの影が揺れるたび、瓦礫が震えた。
ここはもう監獄ではない――狂気の狩場だ。
ヴォルグの周囲に、深海の狂気の囚人たちが雪崩れ込む。
「ウオォォォッ!!」
咆哮と共に、鉄棍と刃が一斉に振り下ろされた。
ガンッ!!
鉄棒が火花を散らし、軌道を逸らす。
一歩、半歩――後退。
だが次の刃が、間髪入れずに迫る。
ドガッ!
バギィッ!
「……グッ、クソッ……!」
鉄棒で受け流しきれなかった打撃が、背部を掠める。
腕へ衝撃が走り、握力がわずかに鈍る。
さらに横合いからの蹴りが脚を揺らし、頭部をかすめた鉄棍が視界を白く弾いた。
足元の瓦礫が崩れ、重心が一瞬浮く。
(……もう、持たないぞ)
数が減らない。むしろ増えている。
視界の端で――
ボラ魚人が岩壁へ叩きつけられるのが見えた。
ジルの一撃だ。
一瞬だけ、包囲に綻びが生まれる。
(……今しかない)
ヴォルグは低く息を吐き、鉄棒を横薙ぎに振り抜いた。
ガンッ!!
踏み込んできた囚人の膝を砕き、体勢が崩れた隙へ肩から突っ込む。
無理やり道をこじ開けるように、半歩、さらに半歩。
背後から振り下ろされた刃が、肩口を浅く裂いた。
「チッ……!」
血が飛ぶ。
だが止まらない。
滑る足場を蹴り、瓦礫を踏み越え――
ジルの方へ、強引に距離を詰めた。
「……下がるぞ、ジル……!」
低く吐き捨てるように言いながら、背中合わせに位置を取る。
ヴォルグの声に、ジルは小さく息を吐いた。
そして、踏み出そうとしたその瞬間――右腕が、わずかに軋んだ。
ギチ……と、骨の奥で何かが擦れるような感覚。
「……ッ」
拳を握りかけた、その時だった。
「バレル! 下がれ――もう無理だ!」
ヴォルグの叫びが、戦場を裂いた。
「チッ……仕方ねぇ!」
バレルが舌打ちし、巨大なハサミを引き戻す。
だが――
「……逃げ場はねぇよ……!」
ロークスの声が、背後から低く囁いた。
言い終わるより早く、影が消える。
次の瞬間――
バキィッ!!
鈍い破砕音。
ロークスの牙が、バレルの右肩口へ深々と食い込んだ。
「グワァッ!!」
甲殻が軋み、赤い飛沫が弧を描く。
周囲の狂気の囚人たちが、一斉に吠えた。
「押し潰せぇ!!」
「喰われろロブスターァ!!」
鉄棍が壁を叩き、瓦礫がさらに崩れ落ちる。
バレルの巨体が揺れ、足元の瓦礫が砕け散った。
ロークスはそのまま顎を捻り、甲殻を引き裂くように噛み砕く。
ミシッ――バキンッ!
砕けた殻の破片が床へ落ちる。
「ベッ!」
ロークスは吐き捨てるように破片を吹き出し、口元を歪めた。
「……クソマジィ殻だぜ……!」
舌で血を舐め取りながら、愉快そうに口角を吊り上げる。
「バレルッ!!」
ジルが叫ぶ。
血が床を濡らし、バレルの肩口から赤い線が滴っていた。
その姿を見た瞬間――
ジルの右腕が、もう一度だけ強く軋んだ。
ギチッ――
ロークスは喉の奥で笑い声を転がした。
「ケヒヒヒヒ……ロブスター、楽しめたぜ……そろそろ楽にしてやるよ!」
細く裂けた瞳が歪む。
その爪が、わずかに揺れた――次の瞬間。
バレルの背後、瓦礫の影からメバル魚人の男が飛び出した。
ツルハシのような武器を高く振りかぶり、一直線に叩きつける。
バギィッ!!
硬質な衝撃音。
バレルは咄嗟に腕の甲殻で受け止めていた。
だが――
ミシ……ッ。
鈍い亀裂が走る。
「クソッ……!」
押し込まれ、足元の瓦礫が砕け散る。
その瞬間――
「邪魔だ! クソ野郎ッ!!」
バレルは大きく体を捻り、巨大なハサミを横薙ぎに振り抜いた。
鈍い衝撃が響く。
メバル魚人の身体が吹き飛び、瓦礫を巻き上げながら壁際へ叩きつけられる。
その刹那――
ロークスの巨体が、弾けるように跳ねた。
空気が裂ける。
跳ね上がる砂塵。
軋む鱗片。
ロークスの影が、宙で歪む。
一瞬で距離が消え――鋭く閃く牙が、バレルの喉元を狙う。
「……死ね!」
鋭い殺意が、一直線に落ちてくる。
ヴォルグの「下がれ!」という叫びが通路を裂いた。
だが、ロークスの影はすでにバレルの背後へ滑り込んでいる。
(――間に合わない……!)
そう判断した瞬間、ジルの右腕が低く唸った。
ギュンッ――。
骨の奥で何かが噛み合う音。
皮膚の色が、急速に沈み込み、鈍い鉛色へと変わっていく。
右腕が鉛色に変わった瞬間――
空気が、わずかに沈んだ。
瓦礫を踏み砕き、ジルの身体が跳ねた。
一直線の軌道――
爆ぜるような加速――
ロークスの鋭い牙が、バレルの喉元へ迫る。
その刹那――ジルの影が割り込んだ。
ロークスの瞳が見開かれる。
(……何っ!?)
振り抜かれたのは、鉛色の右腕だった。
ドガァッ!!
重く鈍い衝撃音。
ロークスの巨体が弾き飛ばされ、岩壁へ叩きつけられる。
瓦礫が跳ね、粉塵が噴き上がった。
周囲の狂気の囚人たちの動きが、わずかに止まる。
振り上げていた鉄棍が空中で迷い、誰もすぐには踏み込めない。
――ロークスが吹き飛ばされた理由を、理解できなかったからだ。
防御姿勢のまま踏みとどまっていたバレルは、巨大なハサミの隙間からそれを見て目を見開く。
「……おい、何だそりゃ……?」
少し後方で状況を見極めていたヴォルグの視線が細くなる。
(……腕が鉛になった、だと?)
ジルはゆっくり息を吐いた。
「……ふぅ……」
視線を落とし、静かに右腕を見つめる。
内部で、鈍い金属音がわずかに軋んだ。
(……使っちまったな)
拳をわずかに握る。
その重さが、骨の奥まで沈み込むように伝わってきた。
――だが。
瓦礫の向こうから、ロークスの低い笑いが滲む。
崩れた岩壁の影が、再び揺れた。
ガラ……ッ。
積み重なった破片が内側から弾け、灰色の塵が舞い上がった。
その奥から、ロークスの歪んだ輪郭がゆっくりと立ち上がる。
(……な……!? あの一撃で……まだ動けるのか……?)
ジルはわずかに目を細める。呼吸を整えながらも、視線だけは決して逸らさない。
爪で身体に乗った瓦礫の破片を払い落としながら、喉の奥で笑った。
「ケヒ……ヒヒヒ……やってくれたなぁ……新入りぃ?」
一歩前へ踏み出す――が、足元がわずかに崩れる。
ロークスの巨体がふらつき、壁へ手を突いた。
ミシ……ッ。
岩肌が軋み、粉塵が落ちる。
「チッ……クソが……!」
吐き捨てた瞬間、口角が再び吊り上がった。
痛みすら、楽しんでいるような笑み。
「……いいねぇ……!
久々に面白ぇ野郎が出てきやがった……!」
血を舐めるように舌を走らせ、ロークスはゆっくりと顔を上げる。
――その瞬間だった。
「……よっと!」
低く軽い声と共に、バレルの巨体が跳ね上がる。
瓦礫を踏み砕き、巨大な影が一直線に落ちてきた。
ギィン――ッ!!
振り下ろされた巨大なハサミが、ロークスの側頭部へ叩き込まれる。
バキィンッ!!
鈍く重い衝撃が通路を震わせた。
ロークスの巨体が弾き飛ばされ、再度、岩壁へと激突する。
粉塵が爆ぜ、瓦礫が崩れ落ちた。
衝撃の余波で周囲の囚人たちがよろめく。
壁面に叩きつけられたロークスの身体が、ずるりと滑り落ち――動きが止まった。
「……フゥ……」
バレルは肩を回しながら息を吐く。
砕けた甲殻から血が滲み、床へ滴った。
「これで……しばらくは動けねぇだろう……!」
周囲に、わずかな静寂が落ちる。
深海の狂気の囚人が、震えた声で呟いた。
「……ロークスさん……!?」
「クソッ……!」
別の囚人が牙を剥く。
「テメェら……!」
「ぜってぇ逃がさねぇぞ!!」
腕が振り上がり、狂気の声が重なった。
「……一斉にかかれぇぇッ!!」
鉄棍と刃が一斉に持ち上がり、通路の空気が再び殺意に染まる。
(……クソッ。この数で乱戦に持ち込まれたら、全滅は必至だ……!)
ヴォルグは奥歯を噛みしめ、崩れた通路の逃げ場を何度も見返す。
だが――退路は、すでに塞がれている。
――次の瞬間だった。
崩れた通路の奥――暗闇のさらに向こうで、閃光が、爆ぜた。
白く鋭い光が一線となって走り、通路を真っ直ぐに切り裂く。
監獄の油灯とはまるで違う。
濁りのない、冷たい深海光。
視界が一瞬、塗り潰される。
ギィン――と耳鳴りが走り、振り上げられていた鉄棍が空中で止まった。
囚人たちの瞳孔が強制的に絞られ、誰一人として踏み出せない。
「何だ!? 眩しすぎて前が見えねえぞ!」
バレルが思わず顔を背け、巨大なハサミで視界を庇う。
(……まさか、この光は……!?)
ヴォルグの瞳が細くなり、崩れた通路の奥を睨み据える。
ジルはわずかに息を止めた。
頬を撫でていた粉塵の流れが、ふいに途切れる。
(……空気が、止まった)
――カラン……!
誰かの手から、鉄棍が力なく滑り落ちた。
乾いた金属音が、異様なほど大きく通路に響く。
光はさらに膨れ上がり、まるで通路そのものを押し広げるように前へと近づく。
砂塵が逆巻き、殺気が押し返されていく。
ゆらり、と。
その中心から、影が歩み出た。
そして、気だるそうな声が落ちる。
「……うるせぇなあ……」
狂気の囚人たちの喉が鳴り、誰かが思わず半歩だけ後ずさる。
ざわ……と小さな動揺が波紋のように広がった。
「……人が筆走らせてんのに、ガタガタピーピーうるせえぞ!」
甲高い声が落ちた瞬間――通路の空気が、わずかに沈んだ。
提灯の光が、ゆらりと脈打った。
そこに立っていたのは――
小柄なチョウチンアンコウ魚人の男だった。
丸みを帯びた体躯に、不釣り合いなほど重たい気配。
頭部の提灯状の発光器が静かに脈打ち、淡い光が周囲の瓦礫を照らしている。
小柄なその男が立った瞬間、通路を満たしていた狂気は、音もなく沈んだ。
そして――新たな波紋が、深海監獄に広がり始める。
ジルは、無意識に拳を握っていた。
《蒼海の解放軍》より、深海監獄から感謝を込めて。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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監獄で抗い続ける仲間たちの力になります。
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これからも『半魚囚人ジル』をよろしくお願いします。




