かりそめの平和
目を覚ました時、僕は再び保健室の天井を見上げていた。
壁掛けのデジタル時計の時刻は13:00。
枕元に置いておいたスマホを手に取ってみる。
ホーム画面を開いてみると、普通のアプリしか並んでなかった。
スマホのOSが元に戻っていた。
無事、元の世界に戻ってくることができたらしい。
僕が基底世界で目覚めたのは12:00で、元の世界に戻ってきたが13:00。
1時間くらい基底世界にいたようだ。
もっとも、そんな世界が実在すればの話である。
保健室のベッドで眠った後に不思議な体験をして、目が覚めた時には同じベッドの上にいた。
要するに僕は夢を見ていたんだ。
隣りのベッドには、スマホをいじる安峰さんの姿があった。
どこか普段よりも少しだけ機嫌がよさそうで、これなら僕から話しかけても睨まれないはずだ。
「安峰さん」
「ああ、時枝。起きたんだ? 体調は大丈夫?」
「うん。それより、ちょっと聞きたいんだけど――」
「何?」
「ケット・Dなんて知らない――よね?」
安峰さんが目を見開いていた。
「――まさか、時枝も見たの? ワームの夢」
ぞわぞわとミミズが這うような感覚が僕の肌の上を走った。
「あれが現実?」
「――ってことでしょ」
「でも、そうだとしたら――」
基底世界。
137年後の僕たちの世界の姿。
ワームの出現は2038年1月19日。
「本当に3か月後に1億人が死ぬってこと――?」
1億人だけじゃない。それは日本だけの話だ。
単純計算で世界の人口の90%が失われたのだとしたら、加えて80億人が死ぬ。
「死なないよ」
安峰さんが言った。
「だって、そのためにあたしたちがいるんじゃん? ケット・Dもいるし何とかなるって」
そう言って、安峰さんは笑った。
たったそれだけのことで、なんだか安心してしまっている僕がいた。
「――そうだね」
ガラリと保健室のドアが開いた。
悩美先生が帰ってきたのかと思ったら、僕たちの担任教師だった。
「なんだ、お前たちか。体調不良か? 帰れなそうなら車で送ってやるぞ」
「すみません。もう大丈夫です」
「それなら、そろそろ帰れ。明日も試験だぞ」
担任教師はそう言い残すと、ドアを閉めてどこかへ行ってしまった。
職員室にでも戻ったのだろう。
「――そういえば、悩美先生、ちょっと遅いね。1時間くらいで戻るって言ってたんだけど」
「僕はそろそろ帰ろうかな。明日の試験勉強もしたいし」
「あたしも帰る。悩美先生、すぐに戻ってこないかもだし。時枝は電車?」
「うん」
「最寄り駅は?」
「春日」
「なら、時枝も大江戸線か。逆方向だけどね。あたしは六本木。駅まで一緒に帰ろうよ」
「いいよ。でも、鞄、教室だ」
「あたしもそうだったわ」
鞄を取りに保健室を出て2階に上がる。
2ーAの教室にはもう誰も残っていなかった。
玄関で靴を履き替えて校庭へ。
当然、僕たちの世界にワームなんてまだいないけど、ワームホールが開いていた辺りがつい気になってしまう。
校門を出ると舗道には行き交う自動車や自転車、歩行者の姿が見えた。
知らない人だけどなぜかホロリとする。
築地市場駅に入って改札を通る前に、僕は安峰さんに言った。
ちょうど2人ともスマホを出していたからだ。
「安峰さん、よかったら〈リンク〉のID交換しない?」
僕たちの世界のメッセージアプリだ。
「いいよ。あたしも言おうと思ってたところだったし」
QRコードを安峰さんに見せて僕の〈リンク〉のIDを教える。
早速、安峰さんから猫のイラストのスタンプが送られてきた。
猫が好きなんだろうか。
ちょうど、反対側のプラットフォームに外回りの電車が停まった。
安峰さんは「じゃあね」と軽く手を挙げて、電車に乗り込んでいった。
内回りの電車に乗って春日駅で降りた僕は、アパートに1人帰った。
中間試験はあと2日間。
ちゃんと試験勉強をするつもりだったけれど、基底世界のことがつい気になってしまって、結局、あまり身が入らなかった。
後日、返却された試験結果は、可もなく不可もなくといったところ。
そして、普段の学校生活がまた始まる。
東京の街。暮らす人。
僕たちの世界では、まだかりそめの平和が続いている。
僕の平和な学校生活も。
唯一の例外。
悩美先生が突然いなくなってしまったことを除いては――。
2024/12/05:担任教師のセリフを修正
2025/02/01:養護教諭の名前を変更




