42 奇跡の歌
※残酷な描写あり。苦手な方はご注意ください。
あの“死神”との対面からしばらくは泣いて、怒って、意味もなく叫んだ。そして吐き出す言葉を失ってから、本当の地獄が始まる。
ハル、ルードルフ、セーラの三人は洞窟の中をひたすら彷徨った。
出口は見つからない。最後の一人になるまでここから出ることはできない。つまりここから出るためには――。
“死神”が仲間割れを誘っているのは明らかだった。
「あんな奴の思い通りになってたまるかよ……」
「ああ」
ルードルフのかすれた声に、ハルは鼻をすすりながら頷く。
セーラは無言で後をついてくる。ぽろぽろと光る雫が地面に落ちていたが、見えないふりをした。
どこに向かえばいいのか分からぬまま、食料や光晶石を拾いながら進む。
ハルは必死に頭を巡らせていた。
情報を整理し、“死神”の目的を推理する。どうにかして突破口を見つけたかった。
ここはユンルアーラの神域。
神域が何を指すのかはルードルフも知らなかったが、普通の空間ではないことは理解した。
いつの間にか現れる食糧。洞窟そのものが胎動し、道が変化していく。目印をつけても何の意味もない。
上へ上へと掘り進んでも、地上に出ることはできない。セーラがゴーレムを使って試したが、少し掘り進んだだけでゴーレムそのものが壊れた。
セーラよりユンルアーラの力の方が強いからだろう。
ユンルアーラは、母なる大地の女神――豊穣の眷属だ。最高神トーンツァルトに次ぎ、六大眷属神に名を連ねている。
故郷の町ウルデンで信仰していたため、ハルにとってはなじみ深い存在だ。
この世界を彩る六つの属性、地・水・火・風・光・闇のうち、ユンルアーラは地の属性の頂点に君臨し、大地に実りを与える。ようするに豊作の神様だ。
その性格は慈悲深く、特に子どもの健やかな成長を願う母性に満ちた神だと信じられている。
――まさか……そういうことか。
おそらく“死神”の目的は、ユンルアーラを“禍身”にすること。
ユンルアーラが今現在どういう状況なのかは分からないが、ある程度“死神”の制御下にいるのは間違いない。
たくさんの子どもを集め、ユンルアーラの神域でデスゲームをする。慈しんできた子どもが惨たらしく死んでいく。女神からしたらたまったものではないだろう。
いや、もしかしたら既にかの女神は“禍身”に堕ちているかもしれない。
このところの不作の原因はユンルアーラの力によるものだろう。その禍々しい力をさらに強めるため、子どもを生贄にしてユンルアーラを苦しめる。ありそうな話だ。
――オレたちも、生贄にされるってことだよな……。
この神域で死ねば、おそらくユンルアーラに取り込まれる。死なずとも“禍身”になれば“死神”の駒になってしまう。
では、生き残った最後の一人はどうなるのだろう。
分からない。だが、絶対にろくな目に遭わない。その一人だって最終的には殺されてしまうかもしれない。
情報が少なすぎて、これ以上は推測できない。
では、どうすればここから出られるか。
ユンルアーラを超える力を今から身に着けるのは現実的ではない。ハルがこの状況を打破する神技を目覚めさせたところで、六大眷属神よりも強い力を発揮できるとは思えなかった。
外からの助けはどうか。
ハルがこの世界で頼れる相手と言えばスティナくらいだ。インプレット夫人の情報を辿り、もしかしたら探しに来てくれるかもしれない。
しかしスティナがあの恐ろしい“死神”に勝てるとは思えなかった。彼女の性格からいって、絶対に戦闘向きの神候補ではない。
仲間を引き連れてくれれば、あるいは……。
――ダメだ。そんな都合のいいこと考えても仕方ねぇ。
助けを期待してはいけない。相手が悪すぎる。
ユンルアーラと“死神”の雛、両方に真っ向から挑むのは無謀だろう。
搦手を考えなければならない。しかし“死神”と取引できる材料はなかった。
――もしも、命乞いしたら……。
重苦しい空気の中、ゴールのない闇を進むうち、ハルの思考は急速に弱気になっていった。
演技でいい。“死神”に忠誠を誓って、取り入るのはどうだろう。命さえ助かれば“死神”から逃れる術がいつか見つかるかもしれない。
――ルードルフやセーラはともかく、オレは無理かもしれねぇけど……。神技も使えない奴を配下にしたってメリットがない。
悪手なのは重々承知だった。“死神”を共通の敵として認識しているからこそ、かろうじて三人は行動に共にできている。その前提を覆したら、今のギリギリの関係を壊してしまうかもしれない。
ハルは迷いに迷った末、その提案を口にした。
ここ数日、食料の箱を見つけても空箱ばかり。
数少ない当たりを引いても、食料と一緒に武器が入っていた。誰も手に取らなかったが、鋭利な刃を目にするだけで息が詰まった。
もう精神的に限界だったのだ。一刻も早くこの暗闇から抜け出さなければ、頭がおかしくなる。
「馬鹿か! 命乞いだと!? そんなことするくらいなら死んだ方がマシだっ!」
予想通り、ルードルフは激高した。ハルは壁に押し付けられ、首を絞められる。
「でも、他に方法が……試してみるくらい――」
「そんなこと言って、俺たちを裏切るつもりかよ!?」
「違う……っ」
このままでは、誰か一人しか生き残れない。その一人だってどうなるか分からない。どんな屈辱的なことでも、全員で助かる方法を探すべきだ。
そう言いたいが、息ができない。
「やめて!」
久しぶりにセーラの声を聴いた。ルードルフが思わずと言った様子でハルから手を離した。
「もういいじゃない。私たちの負けで。どうせ助からない……もうどうだっていいのよ!」
セーラは頭を抱えて蹲る。誰一人動けなくなった。
ハルは早速、命乞いを提案したことを後悔していた。やることなすこと裏目に出る。自己嫌悪でたまらなく苦しい。
「くそっ!」
ルードルフが壁面を殴りつけるのとほぼ同時に、闇の中に風切り音が走る。
矢がルードルフの肩をかすめて土壁に突き刺さる。それを合図に、複数の足音が迫ってきた。
「うああ!」
鬼気迫る表情の子どもたちが一斉に飛び掛かってきた。手にはつるはしや斧、瞳には明確な殺意を宿して。
「死ね!」
「食べ物を寄越せよ!」
「あああああああ!」
生き残りの子どもたちによる襲撃だった。久しぶりに生きた人間を見たが、その感動を味わう暇はなかった。
最初はルードルフが前面に出て攻撃を軽く押しのけた。殺すわけにはいかない。ハルも懸命に呼びかける。
しかし彼らは獣のように叫ぶばかりで、止まることはなかった。それどころか仲間を踏みつけたり、背中を短弓で打ち抜いたり、正気とは思えない突撃をしてくる。
「埒が明かねぇ。走れ! 逃げるぞ!」
ルードルフがセーラを担ぎ、ハルの腕を引っ張って走る。
飛んでくる矢の恐怖に震えながら、三人は逃げ出した。
「…………っ」
道の奥から不気味な風音が聞こえてくる。
今なはっきりと分かる。これは流れる子どもの血を嘆く女性の声。ユンルアーラの悲鳴だ。
それから何度も子どもたちの襲撃があった。
血走った目に痩せこけた頬。恐ろしい形相の子どもたちに追いかけられ、ハルたちは逃げ惑うことしかできない。生きた心地がしなかった。
徐々に満足に眠ることもできなくなり、歩きながらふとした瞬間に意識を落とす。
――これは、前世の夢か。はは……。
ハルは本城晴一であった頃の記憶を思い出していた。
母に失望され、失望し、ステラに出会い、劇的に変わった人生。
どうしようもなく平凡な人生だったが、それでも幸せはあった。恵まれていた。
ただ、死に方は最悪だったと自嘲する。
あの幼稚園時代の友達には申し訳ないことをした。自分を庇って誰かが死ぬなんて、一生もののトラウマだろう。いっそ死んだ方がマシだったかもしれない。
――ルードルフに話したら怒られそうだな。
彼はヒーローになりたがっている。命がけで誰かを守って死ぬことに一種の憧れを持っているようだった。
本城晴一は、ある意味ルードルフの理想的な死に方をした。あのとき考えていたことを話したらその理想を壊してしまうだろう。
ふと顔を上げると、前方に光が見えた。
――眩しい……。
体の透けた摩訶不思議な少女が立っていた。
柔らかな橙色の光を纏い、ハルに向かって微笑みかけてくる。
緩やかに波打つ長い髪と、少々勝気な瞳が印象的だ。知らない顔だが、文句なしの美少女である。
不思議なことに、少女の姿は他の二人には見えていないようだ。
ついに幽霊や幻が見えるようになってしまったらしい。驚く元気はなかった。どうせならステラの幻影が良かったと思いながらも、ハルはその少女から目が離せなかった。
もう何日も、あるいは何か月も、光晶石が放つ光しか見ていない。少女の放つ温かみのある色に激しく心惹かれた。
少女は手招きをした。
導かれるまま、ハルは少女の後について行った。嫌な感じはしない。
「ハル……どうした?」
ルードルフの言葉を無視して進む。
少女はある一点で立ち止まって地面を指さすと、弾けるように消えた。
そこには食料入りの箱が置かれていた。久しぶりに、武器の類が同梱されていない大当たりだ。
三人は無言で食料と水を分け合った。
それから何度か少女の姿を目撃した。彼女についていくと食料を見つけたり、子どもたちの襲撃を上手くやり過ごせたり、“禍身”の気配から遠ざかることができた。
「きみは誰だ? どうして助けてくれるんだよ」
ハルが問いかけても、少女は微笑むばかりで何も言わない。普通の人間ではないことは分かる。
精霊や旧神、あるいは彼女もハルたちと同じ新たな神候補なのだろうか。
「お、おい。誰と話してるんだ?」
ルードルフとセーラが不気味なモノを見る目で問いかけてくる。
少女は人差し指を口に当て、いつものように弾けて消えた。
「なんでもねぇ」
二人に少女のことを話してしまったら、もう二度と姿を現してはくれない。そう直感した。
思わぬ存在に助けられながら、ハルたちは当てもなく歩き続けた。“死神”に命乞いしようなどという提案は誰も口にしなかった。もう助かりたいという気持ちすら擦り切れていた。
かといって自死を選ぶことはない。
一人じゃないから。まだ誰一人欠けていない。自分はダメでも他の二人だけは――。
そんな思いが残っているから、自分が一番に希望を捨てるわけにはいかなかった。
――どうせ死ぬにしても、“禍身”にはならねぇ。絶対に。
逃げるように、祈るように、足を動かし続けた。
「ごめん、ごめんな。俺のせいだ……せめて最後まで、俺が守るから」
「もういいよ。もう大丈夫だから……ありがとう」
ルードルフがセーラの手を引いて先へ進む。それを後ろから見つめながら、ハルは泣きながら笑った。
終わりを予感させるような、穏やかな光景だった。
子どもたちの襲撃は日を追うごとに減っていった。
彼らももう限界だったのだろう。そしてハルたちも。
しかし、運命は残酷だった。あるいは“死神”の采配だろうか。
曲がり角でばったりと子どもたちと出くわした。お互いに予期せぬ接触である。
「ああっ!」
こちらが身構える前に、子どもたちの一人が反射的に斧を投げつけてきた。ルードルフが力任せに振り払った斧は壁に当たって跳ね返り、子どもの首に直撃した。
「あ……」
吹き出す赤い血に、時が凍りついた。
しかし悲劇は加速する。
子どもたちは半狂乱に陥り、次々と武器を振りかぶる。投げつけられた鉈がセーラの腹に突き刺さり、ハルの額に石が直撃した。視界で火花が散って、ハルはその場に崩れ落ちる。
それでもなお、攻撃は止まず――。
「あああああああああ!」
ルードルフの堰が切れた。
ハルが頭の痛みに耐えながら目を開くと、凄惨としか言えない光景が広がっていた。
肉の塊が壁にへばりついている。滴る血の音しか聞こえない。
「…………」
血に染まったルードルフと目が合った。立っているのはもう彼一人だけだ。
その瞳は完全に挫けていた。
「ルード、ルフ」
「端から分かってた。俺は……」
神になれない。そんな資格はない。
その呟きとともにルードルフの体が爆発的に膨れた。
卵が無残に潰れて殻が爆ぜるような、ひどい音が聞こえた気がした。禍々しい力が押しよせ、ハルは息もできなくなる。
ルードルフは歪な骨格を持つ巨大な獣に転じていた。オオカミに近い。血だらけの毛皮は逆立ち、ひどい腐臭が洞窟を満たす。
獰猛な赤い瞳がハルを見下ろした。
ルードルフの面影はない。目を覆いたくなるほど醜悪だった。
――これが“禍身”……。
ハルは朦朧とする意識の中で笑った。
本当にひどい。改めてこの世界の最高神は死んだのだと実感した。
神々が天上から罪なき人々を見守っていてくれるなら、こんなこと、起こっていいはずがない。
ハルは手を伸ばした。恐怖の感情よりも憐憫が勝った。
もうルードルフに意識は残っていないかもしれない。それでも伝えておきたかった。
「ルードルフ、お前は、何も、悪くないからな……」
この世界がおかしいだけ。だから、もう苦しまないでくれ。
ハルは化け物になってしまった友達に笑いかけ、意識を失った。
頬に焼けるような痛みを覚えた。
ハルが目を開くと、炎が揺らめいていた。その奥で謎の少女が悲しげに佇んでいる。
「どうして」
割れた額の血がからからに乾いていた。かなりの時間が経過しているようだ。
ルードルフの姿はない。肉の塊も、散乱していた武器もない。きれいさっぱりと消えている。悪夢でも見ていたかのようで、現実感が乏しい。
地面に転がっていたのは自分とセーラだけだった。
――オレたちを殺さなかったのか?
とめどなく涙が溢れてきた。悲しみと憐れみと絶望に襲われ、体が思うように動かない。
『負けないで。立ち上がってほしい。もう少しだけ、頑張って――!』
少女が初めて口を開いた。そしてそれを最後に炎が萎むように消えた。
――頑張って? 何を……。
ハルは涙を拭い、セーラの体を見て息をのんだ。
生きているのが不思議なほどの大きな傷。服にしみ込んだ血液の量にぞっとした。もう手の施しようがない。
「ハル……? 良かった。生きていたのね……」
「セーラ。喋らなくていい。もう……」
セーラは弱々しく笑った。
「ダメよ。聞いてほしいことがあるから……ねぇ、まだ歩ける? お願い。私を連れて、前に進んで」
「は……? どうして」
「立ち止まるのが嫌だから。置いて行かれるのも嫌。だから……私を助けて、ハル」
セーラに言われるまま、ハルはその小さな体を背負った。熱と血の感触が伝わってきて、恐ろしくなった。この行為がセーラの残された命をさらに縮めている。
「セーラ」
「平気よ。もう痛みもないの。ハルは平気? ごめんね」
ハルは鼻水をすすって頷いた。
ここで見栄を張らなければ男ではないと思った。
「……謝らなくていいぜ。オレ、わがままな女の子に振り回されるシチュエーションに憧れてたんだ」
痛みと恐怖に耐え、ハルは足を踏み出した。
「ありがとう。ハルには随分、苦しい思いをさせちゃったね……ごめん」
力なくハルの背に体を預け、セーラは今までの口数の少なさが嘘のように雄弁に語りだした。
「私、前世では重い病を患っていてね……家と病室の記憶しかない。どこにも行ったことがなかったの。足が動かなくて、ひどいときには指一本動かせなかった。本当につまんない人生だったわ」
セーラが前世での最大の楽しみは、両親が病室に飾ってくれる絵を見るとき。
ハルのいた世界と比べると、だいぶ文明が遅れていたようだ。インターネットはおろか、テレビもラジオもなかった。
閉ざされた狭い世界の中にいて、セーラは色鮮やかな絵画に想いを馳せた。
嘘か本当かも分からない美しい景色。それをこの目で見られないことが堪らなく悔しかったらしい。
「死ぬ間際、今度生まれ変わったら冒険家になりたいと願ったわ。自分の足で世界を見て回るの。なんてありがちで陳腐な願いかしら。でも、真剣だった」
くすぐったい声でセーラは笑った。
「まさか、本当に生まれ変わるとは思わかった。それも神の卵になるなんてね。遊戯のことを聞いて呆然としたわ。前世の記憶があると言っても、何の役にも立たないし、この世界でも世間知らずの田舎娘に過ぎない。健康な体に生まれたことには感謝したけど、それだけ。前世の最後の願いを諦めかけていた」
そんなとき、彼女はルードルフに出会った。
「一目見て『ああ、放っておけないな』って思ったの。あんな怖い顔してるのに、ちょっと虐めるだけで泣き出しそうに見えた。でも、志だけは高くてね……憎まれ口を叩きながら、私のことを助けようとするの。男の子ってすごいわね」
私が彼の心の支えになり、彼は私を守る盾になる。
そうしてセーラとルードルフはお互いを必要としていった。
「短い旅だったけど、楽しかったわ。世界って本当に広いのね。それに、いろんな人がいる。最後がこんな殺伐とした場所なのはいただけないけれど……私、後悔はないわ。ルードルフに出会って旅をして、ハルに出会えて良かった。それだけで、世の中捨てたものじゃないって思える。それが今、ようやく分かった……」
溌剌としていたセーラの声が、徐々に湿って力を失くしていく。
「それを、ルードルフにも伝えたかった。ひどいことばかり言っちゃった……もう私のことも分からなくなってしまったかしら」
ハルは即座に否定した。
「そんなわけねぇじゃん。きっと伝わる。ルードルフはお前のこと、めちゃくちゃ大切に思ってたよ。オレに嫉妬するくらいだからな」
「……そう。残念。そのネタで虐めたかったわ」
ここにきて鬼みたいなこと言う。ハルとセーラは声を上げて笑った。もう感情の制御ができなくなっていた。
「ルードルフに、もう一度、会いたかった……ちゃんと謝りたかった……私は――」
それからしばらくの間、セーラは壊れように繰り返し呟いた。
ごめんね、ありがとう、出会えてよかった。
ハルが不安になって立ち止まろうとする度に、その言葉が聞こえた。
しばらくすると、ユンルアーラの悲鳴が洞窟に響いた。
ハルは歩みを止めなかった。
セーラの体が冷たくなっても、土壁が盛り上がって彼女を奪い去っていっても、ひたすら歩き続けた。
時間の感覚を失って久しい。
つい先ほどまでルードルフとセーラがそばにいたような気がするし、彼と彼女を失ってから何十年も経ったような気がした。
もう光晶石を使う気にもなれず、正真正銘の暗闇を漂い続ける。食欲も眠気も感じなくなっていた。
風の音も聞こえない。人の気配はどこにもない。この世界でたった一人、孤独の中をもがいている。
「――――」
ハルは自然とドッペルワンダーの曲を口ずさんでいた。
何度も足を止めようとした。
もう嫌だ。神になろうなんて最初から無謀だったのだ。こんな残酷な世界、ヒトの手ではどうしようもない。
友達を二人も失くしてしまった。自分も早く後を追いたい。会いに行きたい。
そんな悲痛な思いを遮るように、前世とこの世界で出会った人々の顔が思い出される。
――スティナ、気をつけろよ。すっげーヤバい神候補がいる……。
幕を閉じる前に伝えたかった。伝えなければならないと思った。
――ルードルフ、セーラ……二人の仇をとりたい。
二人とも優しい人だった。“死神”なんかよりよほど尊い存在だった。負けてなんかない。
ここでハルが歩みを止めて倒れてしまったら、その証明はできなくなる。
――もう楽になろう。十分頑張ったじゃないか。
――もっと頑張れ。最後まであがくんだ。
二つの感情が反発し、ハルの内側でせめぎ合う。
やがて体の全てのエネルギーを使い切ったのか、ハルはその場に倒れ伏した。
足が痙攣して動かない。絶望が禍々しい気を引き寄せる。
――こんな情けない神がいるかよ……馬鹿みたいだ。
胸の奥が反転するような気配を感じ、ぐっと奥歯を噛みしめて耐える。
命が尽きるのが先か、心が折れて“禍身”になるのが先か。
――スッティーのいない世界なんて知らない。最初からどうなってもいいと思っていた……でも。
腕に力を込め、這うように前に進む。
『いやぁ、予想外でした。まさかあなたが生き残るとは。少々残念です。一番期待していなかったもので』
暗闇の中に忌々しい声が響いた。全身に悪寒が走る。
『可哀想に。もう辛くてたまらないのでしょう? 早く諦めることです。そうしたら強大な力が手に入り、楽になれますよ。私の下に来れば、死者の国でお友達にも会える。さぁ、力を抜いて。あなたごときがこれ以上頑張っても、何も良いことなんてないんですから』
憎悪が膨れ上がり、心が黒く塗り潰されていく。
――この世界を“死神”の好きにさせてたまるかよ!
期待してなかった? 構うものか。そんなの前世で慣れ切っている。
頑張っても無駄? 決めつけるんじゃねぇ。まだ終わってない。
ヒトの神経を逆撫でるようなことばかり言いやがって。それで勧誘のつもりかよ。全然心惹かれねぇ。へたくそ!
憎まれ口を叩きながら、ハルは“死神”の言葉を聞き流した。
ドッペルワンダーの、ステラの歌を口ずさむ。
やがて声も枯れ、瞼が落ちてくる。腕にも力が入らない。
自分の内側を何かが食い破ろうとしている。抵抗する気力ももう尽きて、絶望に飲み込まれていく――。
『さぁ、さぁ、お休みなさい。希望はこの世界のどこにも』
「信じて! 暗闇にも光はあるから! わたしにあなたを救わせて!」
闇を祓う少女の声。
ハルは息をのむ。
これも“死神”の策略だろうか。
いや、違う。先ほどまで感じていたおぞましさは遠のき、きれいさっぱり消え去った。
代わりに温かい気配が満ちてくる。
――この曲は……。
死んでも忘れられなかったメロディ。
この世界では絶対に聞くことがないと思っていたサウンド。
恋焦がれ続けた彼女の声。
「神の雛になって最初のライブは、絶対にハルに観てほしかった。……遅くなってごめんね。わたし、ここにいるよ!」
小さな光が灯る。一つ、二つと、暗闇をかき消して世界を書き換えていく。
ユンルアーラの神域が破れる。安堵にも似た悲鳴が聞こえた。
ハルは願った。夢ではなく現実であってほしい。この奇跡を信じたい。
――この世界に、きみがいるなら……。
どれだけでも頑張れるから。
ハルは最後の力を振り絞って顔を上げた。
眩い光の中心で少女がにこりと微笑む。
青い瞳が涙で潤み、星空のようにキラキラと輝いていた。
「聞いてください! 『ワンダー・デビュー』!」
ドッペルワンダーのデビュー曲。それをステラの歌声で聞けるだけでも奇跡なのに、ハルと少女を隔てる者は誰もいなかった。
ここは、アリーナ最前列だ。




