★時空の断片:本城晴一/ハルチェル
時折、とても壮大な夢を見ることがあった。
自分ではない別の男になり、世界を滅ぼす夢だ。
ある時は世界大戦を誘発し、ある時は凶悪な細菌を撒き散らし、ある時は人口雲で太陽光を遮ってじわじわと。
筋書きは少しずつ違ったが、結末はいつも同じ。
男にはとても大切なモノがあった。
物なのか人なのか、あるいは目に見えないものなのか。夢の中では明らかにならない。
とにかく男にとっては命よりも尊く、何よりも愛しい宝物。つまらない人生の中で、唯一誇れるモノだった。
それを失くしてしまったせいで、自分にも世界にも失望して派手に自爆するのだ。
たくさんの人々を巻き込んで、無慈悲に残酷に、何もかもを破壊していく。狂っていた。
幼い頃はただ怖かった。その夢を見る度にうなされて泣いた。
小学校に上がった頃からは「馬鹿な奴だ」と夢の男を蔑むようになった。
そんなことをしたって何の意味もない。周りに迷惑をかけるな。破滅願望があるのなら一人で静かに死ねばいい。無関係の誰かを巻き添えにするとか、性格悪すぎだろ。
しかし、年を重ねるごとに考えが変わっていった。
どうしてこんなことができるのだろう。何をそんなに大切にしていたのだろう。
最悪なことをしている男に、少しずつ興味を持つようになっていく。
夢の中の男は攻撃的で自己中心的だ。それでも、ただのひどい奴とは思えなくなったのだ。
動機はともかく、やろうと思ったって普通の人間には世界を滅ぼせない。尊敬は全くできないが、ある意味すごい。そのエネルギーを別のことに注げば、さぞ素晴らしい偉業を達成できただろうに。
成長しても、男の気持ちは分からない。
世界を滅ぼしたくなるくらい大切なモノなんてないから。
だからこそ、男の有り様に心惹かれる。
男はいつも笑いながら泣いている。
あまりにも哀れだ。男も、その周りにいる人々も。
そばにいたら、励ましてやるのに。
男の有様を見て悲しんでいる人の存在を教えてやるのに。
そんなことを思いながら、本城晴一は代り映えしない日常を過ごしていた。
晴一の人生最大の挫折は、小学校のお受験だった。
医師の父と、医療コンサルタントとして活躍し、結婚して専業主婦となった母。両親ともに優秀で非凡。
その血を引いているだけあって、幼い頃から晴一は聡い子だと評判だった。知能も社交性も問題なく、何でも平均以上の結果を出してきた。家庭環境も申し分ない。
両親も祖父母も誰もが合格を疑わなかった。しかし、晴一は受からなかった。
いとも容易く試験会場の独特の雰囲気にのまれた。周りの子どもたちの様子が気になって仕方がなく、試験に集中できない。面接の受け答えも練習通りにはいかず、ボロボロだった。
晴一は軽い気持ちでいた。
すごい学校と普通の学校、どちらに通うことになっても良かった。すごい学校に入れたらみんなが喜ぶ。普通の学校なら幼稚園から仲良しの子と一緒にいられる。
その程度の認識だった。
だから不合格の通知に母親が落ち込んでいるのを申し訳なく思いながらも、けろりとしていた。
本当にショックを受けたのは、その後の母親の対応だ。
「夫の仕事の都合でどうしても、ね。せっかく合格したのに残念ですが……」
母は周囲に嘘を吐いた。
そして、嘘がバレないように遠い町へ引っ越し、これまでの人間関係を全てリセットした。
友達に連絡することもできなくなり、晴一は呆然とした。
そこで初めて思い知った。
自分の失敗は、取り返しのつかないこと。
母にとって認められないことだったのだと。
公立の小学校に通う日々。
母の関心は二つ年下の弟に移り、晴一に笑いかけることはなくなった。
食事を作ってもらえなくなったり、お小遣いを減らされたり、無視されたり、そういう露骨な差別はない。表面上の生活は何も変わっていない。
しかしそれでも、生まれてからずっと絶対的な味方であった母に失望されたことが、たまらなく悲しかった。
父もまた、晴一には無関心だった。
というよりも、仕事に打ち込みすぎて、家庭をおろそかにしていただけだが。晴一にも弟に対しても平等ではあったが、それはそれで寂しかった。
一方、学校は楽しかった。
家庭内の居心地の悪さを発散するように、晴一は学校では友人をたくさん作り、遊び尽くした。
母との関係がトラウマになっていた晴一は、相手に嫌われないよう、相手の望む言動をとる方法を自然と身に着けていった。それでいてトラブルに巻き込まれないように上手く立ち回ることも覚えた。
普段から人間観察を怠らないこと、表情や声の変化を見逃さないこと、場の雰囲気をよく読むこと、でしゃばらないこと、そして、相手の良いところに目を向けること。
異性の気持ち――いわゆる乙女心には謎が多く、恐れ多かったため女友達はいなかったが、同性の友達にはたくさん恵まれた。
教師にもウケが良かった。面談の後は、心なしか母の機嫌が良い。
幸か不幸か、弟はあっさりと難関私立の初等部に入学できたため、母の関心を取り戻すことはできなかったが。
……悔しかった。
全く期待されていなかったものの、晴一は中学受験に挑戦した。
塾には通わず、家庭教師もつけなかった。母にも父にもお願いできなかった。それくらいのハンデをひっくり返さなければ、見直されることはない。そう判断して、何年も独力による猛勉強をしていた。
当然、これで不合格になったらもう目も当てられない。今度こそ、存在自体をなかったことにされる。それくらいプレッシャーの中、試験に臨んだ。
中学受験は成功し、晴一はその地域では有名な中高一貫の男子校に通えるようになった。母の態度はあっさりと軟化した。それはもう、あっさりと。
弟びいきなところは変わらなかったが、晴一にも笑いかけるようになった。
――つまんねぇ……。
晴一の胸を占めたのは、喜びではなく虚しさだった。
母が子どものステータスによって態度を変える人間だと、はっきり分かってしまったから。
今度失望したのは晴一の方だった。
思春期特有のもやもやも関係あるのだろう。冷めた。というか、興醒めだ。
今まで切望していた母親の関心が、どうでもいいものに変わった。どうしてこんなものにこだわっていたのだろう。過去の自分に対しても情けなく思った。
中学でも新しい友人関係を築き、上手くやっていたが、どこか味気ない。母に干渉されない程度の成績を維持し、外聞の悪い付き合いはせず、ひたすら淡々と過ごした。
何も楽しくない。作り笑いで場を繋ぐ。
このまま無難に大人になるのだろうか。その過程を想像するだけで面倒くさかった。
――世界、滅亡しねぇかな。
授業中、ふとそんなことを考えた。
幼い頃から時折見てきた夢の影響だろう。しかしそれすら、色褪せて思える。
試験前に学校が火事になってほしいとか、そういう怠惰でイタい妄想は誰でもする。中高生が主人公の小説で、度々そんな心理描写を見たから間違いない。
つまらない。自分も、世界も、何もかも。夢の中の男とは正反対だ。
しかし、人生の転機というものは予兆なく訪れる。
晴一がそれを実感したのは、中学三年の冬のこと。
問題集を買うために、ショッピングモール内の大型書店に足を運んだ。一冊ずつ手に取って中を見てみるが、内容が頭に入ってこない。
エスカレート式の学校でも、進級試験はある。
特に年明けに行われる内部入試は、高等部における特進科と普通科のどちらに所属するのかを決める組み分けテストである。稀にテスト自体に不合格になって、高等部に進学できない者もいるらしいが、晴一の場合その心配はない。
母親からは当たり前のように特進科に入るように示唆されている。
――嫌だな……勉強漬けになっちまう。
惰性で勉強は続けていたが、もはや母親からどう思われても構わない。
いっそのこと、こっそり普通科志望にしてしまおうか。
最近、弟の成績が良くないらしい。母はヒステリックに怒鳴り散らしているし、弟は随分と不満をため込んでいるようだ。二人が晴一に突っかかってくることも多い。
いつのも増して家の中がピリピリしていた。父も面倒事を察して仕事を詰め込んで帰ってこない。卑怯だ。
特進科に行きたくない。いや、そもそも定員に割り込めるか分からない。外部受験で入学してくる者もいるのだ。相応の努力をしなければ危ないだろう。
頑張る必要があるのか?
どうせ、さほど期待されているわけではない。できて当然、できなければさらに失望されるだけ。
努力の過程など、誰も見てくれないのに。
――これは逃げか? 分かんねぇ。
母親に反抗したいがために手を抜くなんて、母親の見栄のために言いなりになるのと同じくらいダサい。
勉強するのは絶対に悪いことではない。特進科に入れば、大学受験やその先の就職が有利になる。それは分かっている。
将来の夢もないのに? いや、ないからこそ、基礎学力を上げておくべきじゃないか。
いつかなりたいものが見つかったとき、挑戦すらできないのはカッコ悪い。あのとき勉強しておけばと後悔するなんて想像するだけで最悪だ。
――でもオレには……大切なモノなんてない……やる気になれねぇよ。
晴一は完全に目的と目標を見失い、モチベーションが迷子になっていた。
とりあえず一番売れているらしい問題集を購入し、とぼとぼと書店を後にした。
「ふざっけんなよ!」
人の怒声にはっとする。
書店の向かい、エスカレータを挟んだ向こう側にあるCDショップで何か揉めているようだった。普段なら関わらないように距離を置く晴一だが、吸い込まれるように騒ぎの中心に足を向ける。
「なんでカグヤちゃんがいないんだよ! こんなの意味ねぇだろ!」
客の男が激高し、店員に文句を言っていた。
『ドッペルワンダー デビューシングル発売記念! CDお渡し会!』
でかでかと張られたポスター、山積みのCD、動揺する人だかり、そして、店の隅に立つ一般人とは思えない可愛らしい少女たち。
晴一はすぐに状況を察した。
カグヤは最近話題の新人アイドルだ。
絶世の美貌と神がかった歌唱力を持ち、その上、作詞作曲を自ら手掛けているという天才。アイドルではなくセルフプロデュースの歌姫として売り出すべきだと大半の人間が思うだろう。
至高の存在過ぎて、親しみやすさがない。アイドルというイメージからはかけ離れている。
晴一もデビューシングルのショートPVを動画で観たことがあるが、ただただ圧倒された。カグヤが自分より一つ年下と知ったときは信じられなかった。
しかし晴一がドッペルワンダーというグループ名を認知したのは今この瞬間である。他のメンバーもPVに映っていたのに、ダンサーか何かだと思っていた。
カグヤの存在が突き抜けすぎていて、アイドルグループの一人ということすら気づかなかったのだ。
今日のイベントにカグヤの姿はない。
告知ポスターを見てみれば、カグヤを含めて七人の少女が写っていて、「※どのメンバーが来るかは当日まで内緒です」と書いてある。
この場にいるのは、告知をよく読まずにやってきたカグヤ目当てのファンなのだろう。店員に対して恨みがましい視線をぶつけている。
「なんだよ、生のカグヤに会えると思ったのに!」
「え、マジ。カグヤちゃんいないの?」
「最悪……もう帰ろ」
ファンの露骨な態度は残酷で、店員たちは配慮に欠けていた。
店の隅でカグヤ以外のドッペルワンダーのメンバー三人が、ファンとスタッフの衝突を目の当たりにしている。
――可哀想に……きついよな。
カグヤだけが注目され、自分たちは必要にされていない。せっかくデビューしてイベントを開催しても、歓迎されないなんて、心が折れても仕方がない。
晴一は居た堪れず、三人に憐憫を込めた視線を送る。
涙をこらえている子、不満が顔に出ている子、その中で一人だけ「ですよね!」と言わんばかりにどや顔で笑っている子がいた。
「え」
まるでこうなることが分かっていて、覚悟を決めてきたかのよう。望まれていないのは当たり前。それを受け入れ、なお楽しげに笑っている。
そうとしか思えない。
晴一はその少女の姿を見て息をのんだ。彼女の笑顔から目を離せない。不思議な引力に体が逆らえなかった。
――普通の子なのに……なんで、こんなに。
顔は可愛い部類だろう。スタイルもいい。ただし、都会を少し歩けば出会える程度のルックスだ。しかも、正直に言って垢抜けてない。
――でも、すげぇよな。この状況であんなにニコニコと……天然? それともプロ根性ってやつか?
大声で不満を言っていた男たちは警備員が駆け付けると逃げていき、場の空気に負けずに残った者はわずかだった。デビュー曲が流れ始め、少女たちが表に出てくる。
「み、皆さん、今日は来てくださってありがとうございます! えっと……ドッペルワンダーです! よろしくお願いします!」
イベントが始まり、晴一は見えない力に導かれるように彼女の列に並んだ。
風邪の予防にマスクをしてきて良かった。アイドルのイベントに一人で参加しているところを友人に見られたら、恥ずかしくて死ぬ。
彼女の名前はステラというらしい。
そう名札に書いてある。思い切り日本人の顔なので、おそらく芸名だろう。
――確かラテン語だかイタリア語だかで、星って意味だったっけ。
彼女にぴったりだと思った。目がキラキラと輝いていて、吸い込まれそう。
順番はすぐに回ってきた。スタッフに代金を払い、CDを彼女の手から受け取る。
彼女の手は少し震えていた。緊張が伝わってくる。
「お買い上げありがとうございます」
はにかむ笑顔と可愛らしい声。彼女と目が合った瞬間、体温がぶわっと急上昇した。心臓が一際強く脈打ち、意識が遠のく。
眩しすぎて直視できなくなった。マスクをしていてもなお恥ずかしく、晴一は咄嗟に顔を逸らしてしまう。
「あ、あの……頑張ってください。応援、してます」
絞り出すようにお決まりの文句を告げる。感じ悪かっただろうか。恐る恐るステラの反応を伺う。
ステラは少し前のめりになって言った。邪気のない瞳をさらにキラキラ輝かせて。
「わたしも! わたしも応援します! 一緒に頑張りましょうね!」
彼女は晴一が持っていた書店の袋……少し透けて見えている問題集を指さした後、ぐっと拳を握り締めた。
応援された。一緒に頑張ろうと言ってもらえた。
彼女にとっては何気ない言葉だろう。これから別の人間にも同じことを何百回と言うはずだ。心を込めて言ってくれたように見えたものの、実際には演技だったかもしれない。
だが、それでも、晴一にとっては――。
呆然としている間にスタッフに剥がされ、晴一は熱に浮かされたまま帰路についた。頭の中はステラのことでいっぱいになり、たった数十秒の出来事が繰り返し再生される。夢心地だった。
――推せる……っ!
問題集とCDを抱きしめて、晴一は奥歯を噛みしめた。ドキドキとニヤニヤが止まらない。心の底からマスクをしていて良かったと思った。
本城晴一、十五歳。アイドルにガチで恋した瞬間であった。
晴一は無事に高等部に進学し、特進科に入った。
ステラに応援されて、手を抜くことなんてできなかった。
それだけではない。晴一は強かに母親と交渉した。
特進科に入れたら、お小遣いを上げてもらう。そして成績の維持を条件に、バイトを認めてもらう。それだけで嫌でたまらなかった勉強に熱が入った。
――ステラちゃんを応援するために、金を惜しみたくない……!
ドッペルワンダーのデビューシングルは、結局もう一枚買った。ステラに手渡されたCDはビニールを破ることができないまま、勉強机の目につく位置に飾っている。
曲自体も、インストゥルメンタルばかりを繰り返し聞いていた。ステラのコーラスが良く聞こえるからだ。こんな奴、日本中を探しても自分くらいだろう。
母は晴一の変化に気づきつつも、追及しなかった。さして興味がなかったのだろう。都合が良い。
発足した有料のファンクラブに登録し、グッズが届くようになっても見向きもせずに受け取っておいてくれる。ありがたいことだった。
「兄ちゃん。これ、交換して。カグヤか現金で」
「なっ!? 一発でスッティ―を当てるだと? 気をつけろ。幸運の揺り返しがくるぞ!」
「いや、俺の推しじゃないし、幸運でも何でもない。確率的には今は五分の一じゃん」
晴一はノータイムで財布を出した。休日のほとんどをバイトに充てているので、資金は潤沢だ。
兄がアイドルにハマったと知り、弟は最初のうちは微妙な顔をしていたが、隣の部屋から漏れ聞こえるドッペルワンダーの楽曲に魅了されたらしい。いつしかカグヤのファンになり、ランダム封入のグッズを交換する仲になった。
ステラの魅力を語っても理解してもらえなかったが、兄の情熱が恐ろしかったのか悪くは言わなかった。だいぶ大人になったようだ。
『じゃあ行くよ! レディー・スッティー・ゴー!』
『ちょっと待って! ステラ、読み方違う!』
『嘘! ……あ、ホントだ。Dがある。す、すてでぃ?』
『もうスッティーでいいよ』
『今度からスッティーって呼ぶね』
『みんな、笑わないでよー。……あっ、カグヤちゃんだけ笑ってない!』
『……今後あなたに英詩パートは歌わせません』
『いやー!』
ネット配信のバラエティ番組では、ステラの天真爛漫な姿を堪能できた。期間限定なのが惜しまれる。カグヤの熱狂的なファンが「カグヤ様のイメージが壊れる!」と騒がなければ定着したかもしれないのに。
デビューからずっと、カグヤの人気は群を抜いている。まぁ、ほとんどカグヤのために結成されたアイドルグループなのだから当然だ。知名度もずば抜けて高い。
ファンクラブに入っているおかげで、ライブに何度か参戦することができた。確かにカグヤの生の歌声は観客を虜にする魔性を秘めている。楽曲も素晴らしい。
みんながカグヤの歌声に酔いしれる中、晴一はひたすらオペラグラスでステラの姿を追い続けていたが。とても贅沢な時間だった。
カグヤはあらゆる意味で絶対的な独裁者だ。自分にも他人にも厳しい。厳しすぎる。
……それゆえにトラブルが耐えなかった。メンバーが何度も入れ替ったり、スポンサーと揉めてタイアップ企画が白紙になったり、ファンがカグヤを賛美するために過激な行動をしたり……何度炎上したことか。
晴一はステラもいつか脱退してしまうのではないかと心配しつつも、彼女は生半端なことでは心が折れたりしないだろうと半ば確信していた。
ステラは普通の子だが、普通ではない。カグヤのような天才少女のそばにいても、色褪せることなく輝いている。最高だ。
そんな彼女をもっともっと応援したい。しかし、晴一は消極的なファンだった。
ファンレターやSNSにコメントを送ることはしなかった。プレゼントも同様だ。
否。したかったが、どうしてもできなかった。
このどうしようもない一方的な愛と感謝を伝えようとすれば、文字数が膨大になって気持ち悪くなる。ステラならばもしかしたら純粋に喜んでくれるかもしれないが、ドン引きされたら耐えられない。万が一、億が一にも反応が返ってこようものなら物理的に爆発する可能性もあった。晴一はまだ死にたくなかった。
――今なら分かる……あの男の気持ちが。
ステラに出会ってから不思議とあの夢は見なくなっていた。
ステラがカグヤ不在の中、生放送で最高のパフォーマンスを見せた。ファンが爆増した。
ドラマへのゲスト出演がきっかけで女優の仕事が増えていくと、どんどん知名度が上がる。
カグヤが書き下ろした『星空の靴でアンダンテ』によってアイドルとしての人気も上がり、カグヤとのデュエット曲も好評を博した。
ステラの輝きは増すばかり。デビュー当時にあった野暮ったさは消え、日毎に綺麗になっていく。
晴一は彼女の活躍を喜びつつも、少し寂しかった。
ステラの魅力を全世界の人々に伝えたい。一方で独り占めしたくもなる。ありがちなファン心理を抱えながら、晴一はステラの姿を追いかけ続けた。
しかし現実を生きる限り、夢に浸り続けるわけにはいかない。
高校三年生になると、晴一はバイトを辞めて受験勉強を始めた。
志望したのは国立の医学部だ。
結局なりたいものは見つからず、親からの影響がそのまま形になって残った。しかし以前のような反抗心はなく、ただ今できる最高難度に挑むことにした。
一生頑張れる仕事が良かった。誰かが大切なものを失わないように守る仕事が良かった。
どこで何をしていても、ステラの応援はできるから。
受験を控えた冬。
人生最高の奇跡が起こった。
「神かよ……!」
ドッペルワンダー初のドーム公演。そのチケットが当たっただけでも嬉しいのに、発券したらまさかのアリーナ最前列であった。
誰よりも近くでステラに会える。
ライブの日は受験の合格発表の後だ。
――これで不合格だったら、心から楽しめねぇ……!
それから晴一は死に物狂いで机にかじりついた。心身ともに万全の状態でライブに参加するために。
父も弟も、母ですら心配するほど必死だった。
そして試験当日の朝。
会場へ向かう晴一は、晴れ晴れとした気持ちでいた。
何一つ手を抜かずに準備した。これでダメならそもそも無理だったということだ。そう考えると気持ちが楽になり、試験に対する不安はなくなっていた。
ここまでの道中、ドッペルワンダーの曲をリリース順に聞いてきた。全身が高揚している。
試験会場がある駅に降り、交差点で信号待ちをしていると、道路を挟んだ反対側にいる女子高生と目が合った。
――どこかで見たことあるような……?
雰囲気はドッペルワンダーの白雪に似ているが、もちろん本人でもないし、他の芸能人でもない。近所の子やバイト先で見かけた子でもない。だが、確実に知っている。
相手も晴一の顔を見て、何かを思い出そうとするかのように眉を寄せている。やがてその顔が閃きに変わると同時に、横断歩道の信号に青が点る。
少女はこちらに向かって駆け出した。晴一はまだ思い出せない。しかしその視線の端に猛スピードで突っ込んでくる車が飛び込んできた。ブレーキを踏む様子はない。
衝動的に晴一は走った。
これから起こることが分かっていた。周りも気づいて声を上げる。少女の顔が驚きに染まるが、もう何もかもが遅かった。
その中で、晴一だけが間に合った。無我夢中で名前も思い出せない少女を突き飛ばして、そして――。
世界が弾けた。
唐突に少女のことを思い出す。ああ、そうだ。幼稚園で仲が良かった子だ。懐かしい。
笑いがこぼれた。
――馬鹿だな、オレ。どうすんだよ。
正直に言って、十年以上昔の名前も出てこない友達のことなんてどうでも良かった。自分の方が百倍大事で、受験やドッペルワンダーのライブをふいにするなど愚の骨頂。
勉強のし過ぎで判断力が鈍ったのかもしれない。ステラ以外の人間のために命を捨てることになるとは、想像もしていなかった。
――スッティーに、もう一度会いたかったな……。せめて、声だけでも。
イヤホンは外れてどこかに行った。もう少しでステラのソロ曲が聞けたのに。
幸運の揺り返しだろうか。アリーナ最前列が当たった反動だとしたら、神様は残酷だ。喜ぶだけ喜ばせておいて、どん底に突き落とすなんてひどすぎる。
意識が朧気になり、視界が暗闇に堕ちていく中、晴一は後悔した。
どんな形でもいい。飾りのない言葉で十分だった。自己満足になってしまったとしても、憧れの彼女に伝えれば良かった。
――オレの人生を変えてくれてありがとう。大好きだ。




