32 救いの歌
スティナのすぐ目の前で一人の少女が化け物になった。
――“禍身”……。
見上げるほど巨大な植物の塊だった。球根を思わせるフォルムから無数の紫色の触手が宙に向かって伸び、一部には蕾が現れる。
やがて球根の部分に二つの赤い目がぎょろりと見開かれた。
その醜悪な姿に先ほどの少女の面影は一ミリも見出せない。完全な化け物だった。
「うわぁあああ!」
周囲は瞬く間にパニック状態に陥った。人々は“禍身”から離れようと四方に向かって走り出し、ドミノ倒しのようになっている。ダスクやライグラが声を出して誘導しているが、本能的な恐怖に抗うことなどできない。
一方スティナは動けなかった。
恐れていた事態と、それを引き起こした“死神”ピリオド。
突然のことに頭が真っ白になっていた。
「どうして、こんなことを……」
「あなたの神技は少々眩しすぎるのですよ、“星”のお嬢さん。なので、死んでください。そうしたらきっと、良いお友達になれるでしょうから」
カタカタと骨がぶつかるような音がピリオドの憑依した男の体から聞こえた。笑っている。ピリオドは笑いながら人を殺そうとしている。
感じたことのない寒々しい恐怖に身が凍りついた。
植物の“禍身”の最も近くにいながら、ピリオドが攻撃されることはなかった。それどころか“禍身”がピリオドに付き従っているように見える。
――今だけじゃない。きっとあの子は最初から利用されていたんだ。
ピリオドこそが元凶だった。
そう思うと、身を焼くような怒りがスティナの腹の底から湧き上がってきた。しかしなす術もない。
振り上げられた“禍身”の触手が自分に向かって真っすぐに振り下ろされた。
「スティナ!」
ミントがスティナを背に庇い、細剣の一撃で迫りくる触手を斬り落とした。しかしすぐに次の触手が二人を叩き潰さんと殺到する。
速さはミントの方が勝っていた。次々と触手を裂いていく。
しかし相手は植物。ミントの攻撃から少し遅れた速さで触手が再生し、攻撃の勢いは止まらなかった。
――このままじゃ……!
スティナは慌てて周りを見渡すが、助けを求めるのは不可能だった。他の触手が暴れて誰も近寄れそうにない。ザミーノは弓で援護射撃しているがあまり効果がなく、ダスクは人波に囚われて動けなくなっている。
スティナは神器に力を注ぎ、盾となるように展開した。しかし歌っていないせいかすぐに吹き飛ばされてしまう。
――歌わなきゃ……でも、息が上がって……。
心臓が忙しなく脈打って息苦しい。息をしようともがけばもがくほど、どうやって呼吸していたのか分からなかった。過呼吸状態となり、とても声を出せるような状態ではなかった。
やがて触手が編み込まれた蔦のように固まり、巨大な一本になる。ミントの剣では斬り落とすことも受け止めることもできない重量だった。
「っく!」
ミントがスティナの頭を庇うように抱きしめる。
「さぁ、死んでください」
不気味な“死神”の声に覚悟を決めたとき、鋭い風音が耳を貫いた。
恐る恐る二人が目を開けると、目の前に銀髪の少年が立っていた。地面には綺麗に両断された巨大な触手が横たわっている。
「っ! アサギくん!?」
「どういう状況か分からないが、最悪に近いということは理解した。……間に合って良かった」
一瞬だけ淡い笑みを見せ、アサギが刀を構えた。切っ先は触手の再生を始めた“禍身”に、そして視線は歩く死体にしか見えないピリオドに向けられる。
――アサギくんが来てくれた……!
端的に言って、格好良すぎた。精神的にも肉体的にも追いつめられていたスティナは、アサギに泣いて縋りつきたい衝動に駆られた。見ればミントもほっとしたような表情をしている。
「おやおや、情報通りですねぇ。麗しき“吊るされた男”の君。そちらのお嬢さんと随分仲が良さそうだ。もしかして付き合っているんですかぁ?」
「雛の一人か。名乗れ」
いつになく冷たいアサギの声音に、スティナは少し驚いた。
「ノリが悪いですねぇ。……私は“死神”の雛、ピリオドです。アサギさん、どうぞよろしく」
「なぜ俺のことを知っている?」
「無自覚なんですかぁ。そうですかぁ。あなたは雛の中では有名ですよ。その強さと美しさ、あの“皇帝陛下”が目をかけるわけです。いやぁ、お会いできて光栄ですよ」
くつくつと笑い、ピリオドは肩をすくめた。
「一応お尋ねしますが、私と敵対なさるのですか? そのお嬢さんを守るために?」
「スティナとは助け合う約束をしている。それに、この町の惨状もその“禍身”の出現も、お前の仕業じゃないのか?」
「んふふ、ご明察」
「なら、検討の余地はない。俺は目的のために手段を選ばない者を認めたくない。ああ、だが、もしもこうせざるを得ない特別な理由があるのなら、話を聞くが」
「……残念です」
ピリオドがにっこりと微笑むと同時に、“禍身”が攻撃を再開した。降り注ぐ無数の触手をアサギが確実に刈り取っていく。
「スティナとミントさんは攻撃が届かない場所まで下がっていてほしい」
「わ、分かった」
触手はどんどん再生して、いつまでも攻撃が止むことはなかった。ピリオドは一本の触手に持ち上げられ、その様子を高いところから観戦している。
「アサギさんが参戦なさるなら、勝ち目はなさそうですねぇ。でも、ただではやられませんよ。なんの役にも立たずに討伐されるなんて、その子があまりにも可哀想じゃないですかぁ」
ふざけたことを言うピリオドに、怒りが再燃してきた。
アサギの登場による安心と、“禍身”の攻撃範囲から逃れたことで落ち着き、スティナの呼吸はだいぶ整ってきていた。今ならば歌えそうだ。
「お前たち、無事か!?」
ダスクとザミーノが瓦礫を飛び越えるようにして、スティナとミントの元に駆けつけてきた。ようやく人々の避難が済んだようだ。もう民間人の姿はない。ライグラの私兵が周りを取り囲むようにして、“禍身”とアサギの戦いを唖然とした様子で見つめている。
「ダスク様、ミントさん、ザミーノさん! わたし、アサギくんの援護がしたいです! 協力してくれませんか?」
スティナが決死の想いで訴えると、
「ダメだ」
「やめておいた方が良いです」
「ごめんな、嬢ちゃん」
三者からまさかの即答が返ってきた。
「えぇ!?」
ダスクは言う。植物型の“禍身”は弱点が分かりづらく、精霊の属性魔法では援護できない。風属性で攻撃したところですぐに再生するし、単純に炎で焼き払おうとして爆発したケースもあるし、土属性や水属性は逆に活性化させる恐れがある。今の時点で手を出すのは得策ではない。
ミントとザミーノの意見は単純だった。
アサギの戦いのリズムを崩すのは危険だ。下手に横やりを入れれば、周囲に被害が及ぶかもしれない。アサギの負担が増えるだけである。
「で、でも、このままアサギくん一人に戦ってもらうなんて……」
「心苦しいが仕方あるまい。あれは我々の手に負える相手ではない。それに、お前が手を汚すことは、アサギとて望んでいないだろう」
スティナは自分の無力さごと奥歯を噛みしめた。
アサギにだけ手を汚させるのが申し訳なく、同時に安堵している自分がいた。先ほどまで人の形をしていた“禍身”を殺すのを想像するだけで足がすくむ。
――情けない……わたしの覚悟ってそんなものなの? ううん、違う。人を傷つける覚悟なんて、そんなのしたくないのは当たり前だよ。いや、今はそんなこと言っている場合じゃ……どうしよう、わたしに今、できることは……。
ぐるぐると出口の見えない思考に囚われる。
戦いには不向きな神技と神器。大地のマナを活性化させ精霊を生み出し、つい先ほど傷を癒やすこともできるようになった。
他に何かできることはないのか、と己自身に問いかけ続ける。
「…………あ」
ふと“禍身”と視線が交錯した。この世の全ての憎悪を凝縮したような真っ赤な瞳。しかし、何かを訴えているようにも見える。
スティナはとある幻聴を耳にした。
助けて、怖い。
スティナは息を飲んだ。
確かに“禍身”から感情が伝わってきた。
死ぬのが怖い。化け物になるのが怖い。痛いのは嫌だ。
彼女は怯えているのだ。
“禍身”になってしまった以上倒さねばならないのは分かっている。相手はドムドウッドの町を無茶苦茶にした少女だ。同情の余地もない。
だけど、それでも……。
スティナは救いを求めてアサギを見つめた。
彼は防戦一方になっていた。猛烈な“禍身”の攻撃をしのぎ続けているのは驚異的だが、攻勢に転じる隙がないのだ。
――アサギくん、神技の力を溜めてるの?
彼の神技は受けた攻撃を蓄積し、跳ね返すカウンター技だ。もうずいぶんと攻撃を受け続けているので今神技を使えば、一気に“禍身”を倒すことができるだろう。
なぜ神技を使わないのか、考えるまでもなかった。見せたくないのだ。“死神”の雛に切り札を。
おそらくピリオドはアサギの神技を引き出すことを目的にしている。相手の思う壺だと分かっていたら使いたくない。
「埒があきませんねぇ。仕方ありません。先にこちらのとっておきを使いましょうか。……やりなさい」
ピリオドがやれやれとため息を吐くと、“禍身”の触手の先、蕾の部分が膨張した。
「くっ!」
すぐさまアサギが蕾のある触手を根元から斬り落とした。地面に落ちた蕾の隙間から、ぐつぐつと甘ったるい匂いの汁が広がった。
「毒か……!」
「えぇ。神の雛を殺すには弱いかもしれませんがねぇ、早くこの子を殺さないとこの町全体に毒が降り注ぎますよ? さぁ、見せて下さい! あなたの神技を!」
最悪だった。町全体を人質に取られたようなものだ。
“禍身”が触手を高らかに持ち上げる。その先端には全て蕾がつき、ゆっくりと開いていく。
「さぁ、さぁ!」
選択を迫られるアサギ。
しかし、なかなか蕾は開かなかった。“禍身”が小刻みに震えている。しん、と周囲が夜の静けさを思い出す。
「ははっ、今更反抗ですかぁ? もう何もかも遅いというのに。あなたは“死神”に魂を渡したのですよ。逃げられるとは思わないことです」
ピリオドの体が――憑依した男の体がどす黒い炎を上げた。
その瞬間、“禍身”のぎょろりとした瞳から、真っ赤な涙が零れ落ちた。軋むような甲高い音――悲鳴も聞こえてくる。
彼女の意志がピリオドに飲み込まれていくのが分かる。
――こんなのひどすぎるよ!
もう黙って見ていることなんてできなかった。
スティナは思い切り息を吸い込む。同時に星の神器も光り、音を奏で出した。
「――――――」
選んだ歌は『指先に天使』――ファーストアルバムに収録されたバラード。
優しいメロディと、恋人との死別を思わせる切ない歌詞が印象的な楽曲だ。カグヤがどんな思いでこの歌を紡いだのかは分からない。教えてもらえなかった。
――誰かに頼ってばかりじゃいけない。カグヤちゃんにも、アサギくんにも、ダスク様たちにも。
スティナはこの歌にある願いを込めた。真っ直ぐに“禍身”を見つめる。
わたしにあなたを救わせてほしい。




