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8・二人の記憶



塔太《とうた》から聞いた蘭《らん》の住所を運転手に告げると、

すぐにタクシーは動き出した。


シートにもたれているものの眠ってしまっている蘭の体は、車が揺れるたびにたよりなく左右にずれる。


要《かなめ》は蘭の頭にそっと手を添えて自分の肩に乗せ、その頭を落ち着かせた。



「金曜の夜なのに割と空いてますね」


「そうですか。良かった」



運転手の声に要が小さい声で答える。

着いたら起こさないとならない。

短い時間だがそれまで蘭を寝かせてやりたかった。


蘭の白い頬に夜の灯りが流れていく。

その度に長いまつ毛は影を作っていた。



「…美人さんだね」



要の呟きは運転手にも聞こえていない。

眠っている蘭にはもちろん届かない。


美しい光を纏った蘭に呟かずにはいられなかった。


口元で微笑んだ要は窓の外を見た。




「佐伯《さえき》。起きて。着いたよ」


「んー」



少し目を覚ました蘭を抱えてタクシーを降りる。


ふとすればまた眠りに落ちてしまいそうな蘭に

声を掛けながらなんとか歩かせて部屋の前まで

たどり着いた。



「鍵は?」


「ん?あー、塔太悪い。バッグの中のちっこい

ポケット」



蘭はどうやら連れて帰ってくれたのが塔太だと

思っているようだ。


酔っているのだから仕方ない。

要は言われた通りに蘭のバッグの中にある

内ポケットを探って鍵を見つけた。



「とりあえずベッドでいいか」



話しかけても答えなくなった蘭を引きずって

要はベッドに近づき、掛け布団をめくった。



「はい。寝転んで」



蘭を抱えてベッドに寝かせる。

掛け布団を掛けて、要はふう、と大きな息を吐いた。



「…」



部屋はキレイに片付いていた。

仕事も丁寧にこなす蘭が住んでいそうな部屋だ。


蘭はすーすー、と気持ちよさそうな寝息を立てている。


要は肩から斜め掛けにしていた自分のバッグからメモとペンを取り出した。



【鍵はポストに入れておく 山岡《やまおか》】



ピリッと書いたページをちぎって小さなテーブルの上に置く。

明日は休みだからゆっくり寝て、起きたらメモを見てくれるだろう。


起こさないように帰ろう、と静かにバッグを

掛け直して、要はもう一度蘭を見た。



「おやすみ」



そう言って要が背を向けようとした瞬間、

手首を蘭に掴まれた。



「ごめん」


「いいよ。気にせず寝て」


「…」



要が返事をすると閉じていた蘭の目がそろりと

開いた。


黒目をゆっくりと動かした蘭はニコッと笑った。



「あれ。なんで?」


「ん?」


「要、なんでいるの?

あ、ここ、生徒会室かあ」



あはは、と蘭が笑った。

振り向いた要は言葉が出なかった。



「またぶつかった時の夢見たんだ。

もうー何回見るんだって。俺ヤバくない?」



照れ笑いした蘭はまた目を閉じて寝息を

立て始めた。

それと同時に要の手首を掴んでいた手は

力が抜けて、パタン、と掛け布団上に落ちた。



数分間、動けなかった。

要はやっと動いた体を返して蘭のベッドのそばでひざまづいた。


掛け布団の上でふわりとなっている蘭の手を

両手ですくう。

男にしては小さなその手を要は自分の額にそっと当てた。



「…覚えててくれたの?」



顔を合わせて話をしたのはたったの一度。


10年経った今、自分のことなんて、そして

ぶつかったあの時のことなんて覚えているはずもないと思っていたのに。



蘭は覚えてくれていた。

もうそれだけでいい。



これから何も起こることも起こすこともない

自分の人生だ。


変わることなどない。



「蘭。ありがとう」



要の目から涙が落ちた。


蘭の手を濡らさないように掛け布団の上に戻し、涙を拭うこともせずにそのまま部屋を出た。











アラームに起こされずに目覚めるのは気持ちが良い。


自然と開いたまぶたに昼前の元気な日差しが

ぶつかってきた。



「ふあー」



よく寝たからなのだろう。二日酔いもなにもない。

というか二日酔いになるほど飲んでいないのだが。


記憶はほとんどないが酔っ払って眠くなり

塔太が送ってくれたことはうっすらと覚えている。


塔太にお礼のラインをしようと、蘭はベッドから出た。



「バッグどこだ」



小さなテーブルの横にバッグが置いてあった。

それよりもテーブルの上になにかメモのような

物が見える。


もう一つあくびをして髪を触りながら

蘭はそのメモを拾い上げた。



「え」



確かに昨日も夢を見た。

今まで数え切れないほど見て来た要とのたった一度の出会いの夢だ。


しかしそれは夢ではなかったようだ。

山岡、と書いてあるところに辿り着く前に

蘭には要の字だとわかっていた。



「マジ?嘘だろ」



メモを持ったままバッグから携帯を取り出す。


蘭は携帯の画面に11:50と表示されているのを見てラインではなく塔太に電話をかけた。



「塔太?起きてた?」



窓の外は真っ白な光。

さすがに起きていた塔太は電話の向こうで笑っていた。



「お前今起きたの?頭痛くないか?」


「それは大丈夫。てか昨日…」


「なんか話せた?山岡と」



もちろん家が同じ方向だということもあったが

蘭も歩いているうちに目が覚めるだろう。


要は自分のことなど覚えていない、と言っていた蘭だったが、もしかしたらということもありうる。


二人きりの方が話しやすいかもしれない。


塔太なりに少し気を効かせたつもりだった。



「やっぱ山岡か。送ってくれたの」


「同じ方向だっていうから頼んだんだよ。

高円寺に住んでるんだって。

ってその言い方。まさか蘭、記憶ないの?」



塔太の耳に、はあ、と大きなため息が聞こえてきた。


図星か。

塔太は見えないのを良いことに盛大に眉を下げた。



「送ってくれたの、塔太だと思ってたんだよ」


「マジ?記憶無さすぎ」


「山岡は夢には出てきたんだよ。

夢かうつつか状態。なにが夢か現実かわかんねー」


「なんだ。なんか話せたのかなって思ってたのに」



歩いていたら酔いも冷めるだろう、と塔太は思っていたのだが、思いの外蘭は深く酔っていたらしい。


蘭が高校の話をしたら要も思い出すかもしれない。

蘭のことを思い出さなくとも同じ高校なのだ。

懐かしさに話も盛り上がる。


しかし塔太の予想は大幅に外れた。



「なに話したか全く覚えてない」


「うわ。蘭、最悪」


「変なこと言ってないかな」



塔太にそう言った蘭は急に不安になってきた。


要に聞くのも緊張するが、確認しなければ

月曜日から会うのが恥ずかしい。



山岡にお礼言うわ、と言ってごまかして塔太との通話を切った。



「ライン、で…いや、電話?」



要とのトークルームを開く。

今まで交わしたラインはたったの2行だった。

しかもそれは仕事のこと。


蘭は首をがくり、と垂れた。



「昼だしさすがに起きてるよな。よし、電話すっか」



文字だともどかしい。

それに声を聞かないとわからないこともある。


蘭は自分にそう言い聞かせて大きく息を吸い、

要に電話をした。




「はい」



すぐに出た要に蘭の心臓は爆発しそうなほどの

鼓動を叩き出した。


意味もなく携帯を反対の手に持ちかえて

もう一度大きく息を吸った。



「あの、昨日、ありがとう」


「ううん」


「メモ、見たよ」


「ラインにしようと思ったんだけど起こすと

いけないから」



だからわざわざメモに残していってくれたのか。


蘭の口元が微笑みを浮かべる。



要は優しい人だった。

卒業までずっと見てきたが誰にでも優しく、

人によって態度を変える人間ではない。


その優しさは健在だった。

それが蘭にはうれしかったのだ。


こんな些細なことでも胸は躍る。


要のことをまだ想っていることを認めざるを得なかった。



「そか。悪い」


「全然」


「あの、俺、寝てて…、その、寝ぼけてなかった?全く記憶なくてさ」



今まですぐに返ってきていた要の声が聞こえない。

こんな時電話ももどかしいものだ。


蘭はいたたまれなくなって無意識に目を閉じた。



「ずっと寝てたよ。歩かせた時もなんにも

言わなかった」


「マジ?良かったあー!変なこと言ってたら

どうしようかと思って焦ったわ」


「大丈夫だよ」



良かった良かった、と何度も言っている蘭の声が要の耳に聞こえてきて思わず微笑んだ。



「楽しかったよ。昨日」


「うん!楽しかったよな。途中から記憶ないけど」


「行ってよかった。桜《さくら》ちゃんの言うとおりだ」


「…桜ちゃん?」



あ、と言って要は座り直した。


詳しく話さなくてもいい。


しかし桜が今の自分に力をくれたことを

要は蘭に話しておこうと思った。



「桜ちゃんに聞きたいことがあって。

前に家に、」


「桜ちゃんが休んだ日?」


「知ってたのか」


「あ、いや、」



家に行った、と要から聞いて思わず言ってしまった。


ずっと蘭の心に引っかかって外れなかったあの光景。

楽しそうに笑っていた要と桜が歩いてきたのは

桜の家の方からだった。



「ごめん。実は見たんだ。二人が歩いてるとこ」


「そうだったんだ」


「声かけようかと思ったんだけど、ごめん」


「謝ることない。別にいいから」



要にしてみれば桜といるところを蘭に見られてもなんともないのだ。


意識しているのは自分だけ。


蘭は今さらながらそれがすごく恥ずかしく感じた。



「桜ちゃんなら答えをくれるかなと思って」


「答え?」


「うん。俺、アトリエピーチのみんなと

関わってもいいのかなって…考えてたから」



馴れ合いはしたくない、と言っていた要が

自分たちと関わりたくないのだと思っていた

蘭は目を丸くした。


そして、嫌ではないのならなぜそんなに躊躇するのかが不思議だった。



「桜ちゃんが言ってくれた。

ただの仕事仲間なんだからやりたいようにやればいいって」


「うん。そう。そうだよ。そのとおりだよ」



だから塔太が食事に誘っても来てくれるように

なったのか。


すごくうれしい反面、蘭はどうしても

関わりを持つことを躊躇している要が気になった。



「なあ。なんで関わりを持っちゃダメだって

思ってたの?」


「…」


「山岡?」



つっこんだことを聞いてしまったのか。


殻で覆うようにしている要には聞いてはならないことだったのか。



黙ってしまった携帯を耳に当ててふと窓の外を

見ると、高校の時の要の優しい笑顔が見えた気がした。







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