7・嫉妬心
責めているのではない。
桜は要を救いたいのだろう。
自分がそうしてもらったように。
桜は穏やかな表情で、少し俯いた要をのぞき込んだ。
「何か理由があるのはわかってます。
そこは聞きません。
でも、山岡さんがしんどくないかなって…」
「桜ちゃん…」
心の病を患っている桜は人の心に敏感なのだ。
桜には要が無理して自分を見せないようにして
いることを感じていた。
理由なんてものは聞くものじゃない。
自分が納得して初めて言うものだ、と
桜の言いたいことは要に伝わった。
迷惑だと思っているのではない。
桜は単に心配してくれているのだ。
「…人と、関わらないようにしてる」
「そうですか」
「関わっちゃいけない、って」
カップをぎゅっと握りしめた要が桜には切ない。
人と関わるのが苦手でもないのに
関わってはいけないと思っているなんて。
しかしそこまで話してくれたということは
やはり今の状況がしんどいということなのだ。
「私たちなら、いいんじゃないですか?」
要はさっきよりも俯いている。
焦げ茶色の男にしてはキレイな髪に桜は微笑んだ。
「だって私たちただの仕事仲間なんですから。
でも、毎日のほとんどの時間を一緒に過ごしてる私たちとなら関わってもいいんじゃないですか?」
「…」
深い付き合いでもない。
しかし一緒にいる時間は家族や友達よりも長い。
アトリエピーチのデザイナーである4人に
もし、本当の自分を見せることができたなら…
今よりもきっと生きやすくなるだろう。
「ありがとう」
「無理に話したりしなくてもいいんです。
少しだけ肩の力を抜きましょう。
って、これも菜々《なな》さんが言ってくれたんだけど」
くすくす、と笑った桜。
要もつられて口元で微笑んだ。
少しだけ肩の力を抜く。
塔太と食事した時、確かにそんな感じだった。
それぐらいなら許されるのか。
ほんの少しだけ人と関わることを…
許してもらえるのだろうか。
時計を見るともう1時間も経っていた。
要は慌てて帰る支度を始めた。
「ごめん、疲れてるのにこんな時間まで」
「いえいえ。山岡さんのおかげでなんだか心が
スッとなりました」
「ホント?」
桜の役に少しでも立てたのだろうか。
それだけで要の心は震えるほど喜んでいた。
「ホントです。モヤがかかっていた心が
スッとなりましたよ」
「良かった」
「ありがとうございます。お礼に送ります」
「いいよ。もう遅いし」
桜の家から駅までは歩いて10分ほどだ。
近いだから大丈夫、と要は言ったが、桜はもう
薄い上着を羽織っていた。
「外に出てみたいんです。
時間が動いているところを見たい」
「うん。わかった。でも帰りが心配だから
この辺を少し散歩しよう。で、俺がまた家まで送るから」
「そんな迷惑は、」
「迷惑はいいんでしょ?心配はダメだけど」
うん、と頷いた桜のメガネが少しずれる。
桜の母親に挨拶をして、要は桜とともに家を出た。
涼しくはないが気持ちの良い夜風が吹いている。
明後日が締め切りの塔太は明日に室長の栗谷に
チェックをしてもらうので今夜中に仕上げ
なければならない。
20時を過ぎた頃、先に仕事を終えた蘭は一人で
駅へ向かって歩いていた。
タイミングが合えば本当に要と晩ごはんを食べて帰れるのだろうか。
一度行ったことのある塔太が大丈夫、というからには要は一緒に行ってくれるだろう。
しかし何を話したらいいのか。
仕事の話をするだけでいい、とわかっているが
せっかくなのでなにか要の心が軽くなる話などをしたい。
まだ行ってもいないのに、蘭はそんなことを
考えながら歩いていた。
会社を出てから駅に向かっているとだんだんと
人通りが多くなってくる。
それに比例して店の数も多くなる。
一人で入れる店なんて限られているのだが
考えごとをしながら歩いている蘭はまだどの店にも入っていなかった。
「ヤバい。なんか食わないと」
蘭が両側に並ぶ飲食店をキョロキョロと見ていると前の方から歩いてきた男女二人。
蘭にはすぐに要と桜だとわかった。
とっさに細い路地を曲がる。
街灯もないその路地で蘭は息を潜めた。
「そろそろUターンしようか」
「大丈夫です。駅まで送ります」
「ダメ。帰りが心配だから」
久しぶりに聞いた要の明るめの声。
会社にいる時はぶっきらぼうな低い声で話して
いるのに。
蘭がいる路地の前を二人は過ぎて行った。
そっと路地から出ると、桜の方を見て笑っている要の横顔が見えた。
蘭はそのままの足でまた来た道を戻った。
そして適当な店に入り空いている席に座った。
「いらっしゃいませ」
水を持ってきた店員が続けてお決まりですか?と尋ねる。
だしのいい匂いが漂う店内。
蘭はテーブルの上に置いていた古びたメニューを取って天ぷらうどんを注文した。
ふう、と大きく息を吐く。
道に面した窓に背を向けて蘭は抱えていたカバンを隣の椅子に置いた。
要の用事は桜の見舞いだったのだ。
一人で見舞いに行けるなんて。
少しずつみんなに溶け込んできている証拠だ。
喜ばなければならないのに、なぜか蘭の心は
重く冷たくなっていた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
自分の声ではないようなかすれた声。
呼吸をし過ぎたのだろうか。喉が渇ききっていた。
置いてある割り箸を割って熱そうなうどんをすすり、汁で柔らかくなった天ぷらを頬張った。
熱いうどんを食べた蘭の体は汗ばんでいた。
なぜこんなに心が冷たいのだろう。
馴れ合いなどしたくない、と言っていた要が
塔太とサシメシに行ったり、桜の見舞いに行ったりしている。
それは本当に喜ばしいことなのに。
味も何もわからないうどんを食べ終えた。
二人はもうこの店の前を通り過ぎている頃だ。
蘭は会計を済ませて店を出た。
駅に着いたが、予想通り要と桜の姿はなかった。
自分のマンションに着く前に答えは出ていた。
心が重くて冷たくて、冷た過ぎて痛い理由。
要が自分以外と話したり笑ったりしているからだ。
「矛盾してる、よな」
マンションに着いた途端にひとりごとを呟く。
要が楽しく仕事ができたらそれが一番だ、と思う気持ちはもちろん嘘ではない。
手助けもなにもできない自分が情けないのも
あるが、この心の冷え具合は
単に嫉妬だ。
桜に向けていたあの笑顔も、なぜ自分には向けてもらえないのか。
塔太とは食事に行けてなぜ自分とは行かないのか。
結局、要のことよりも自分のことを考えている。
「最低だ。俺」
蘭はソファに突っ伏した。
それから数日後、蘭、塔太、要は同じぐらいの時間に仕事が終わった。
いわゆるタイミングが合ったのだ。
「よし。おつかれ。メシ行こうぜ」
「うん」
すぐに返事をした蘭。
要は返事をせずに片付けをしていた。
「山岡もだぞ」
「あ、うん」
塔太が蘭を見てニコッと笑う。
要のことで自分自身が嫌いになりそうな蘭は
その思いを悟られないように明るく笑って
塔太に頷いた。
信じるということは思った以上に難しかった。
そしてそう思ってしまっている胸の内を要に見せてはならないのだ。
運良く個室が空いていた。
蘭と塔太がよく来る居酒屋だが、酒よりも
食事目当てに来る店だ。
ごはんものやパスタなどもあり、3人はそれぞれ好きなものをいくつか頼んでシェアすることにした。
「蘭は…初だよな?」
要と食事をするのが、という意味だろう。
塔太はそう言ってうれしそうに蘭と要のグラスに自分のグラスを当てた。
「この前は二人で行ったんだろ?何食ったの?」
「焼肉。うまかっただろ?山岡」
「うん。マジでうまかった」
要が頼んだ海鮮サラダがやって来た。
取り皿に分けながら要はうんうん、と頷いた。
桜に言われたことはあれからずっと要の心で
存在していた。
今日もこうして自分が参加しただけで
塔太も蘭もうれしそうにしてくれている。
本当に良いのだろうか、という迷いがまだ消えない要はどうしていいのか正直わからなかった。
仕事の話をしながら酒を飲み、料理を食べる。
塔太が話題の中心となって蘭にも要にもうまい具合に話を振る。
同じ仕事をしているもの同士、勉強になることもあれば小さな悩みなども話し合えるのだ。
「おかわり頼も。塔太と山岡は?」
蘭か珍しく4杯目を頼もうとしていた。
いつもならよく飲んでも3杯。
ここから2駅だが電車に乗って帰らないとならないのでセーブしているのだ。
「俺はもういい」
「俺も。てか蘭。飲み過ぎじゃね?
何杯飲んだんだよ」
「次で3杯目だよー」
「そんなもんか。それならいつもだから大丈夫か」
頼んだ酒がやって来ると、蘭はすぐに口をつけてごくごく、と半分ほど飲んだ。
胸の内を見せないために、穏やかに微笑んで
いられるようにするには飲むしかなかった。
「資料室の…A産業の商品のイラスト。
すごい数だよね」
「ああ。A産業は新商品が出るたびにうちに
デザインを依頼して来るんだ。
資料室には歴代のもの全部置いてあるからなあ。
俺たちが入る前からの分からだから数はすごいよな」
「なるほど。この前菜々さんが描いてたよね」
店員が持って来た熱いお茶を飲みながら
塔太と要は仕事の話をしていた。
その時、カチャン、と皿にグラスがぶつかった
派手な音が2人の会話を遮った。
「え。蘭?」
「ん?なに?」
「なにって、お前、今一瞬寝ただろ」
派手な音の正体は、空っぽのグラスを持っていた蘭の手の力が抜けてその下にあった皿にグラスが落ちたものだった。
「寝てないよ」
そう言ってニコッと笑った蘭の目はいつもの半分しか開いていない。
呆れたように笑った塔太は蘭の前に熱いお茶を
差し出した。
「それ飲め。タクシー呼ぶから」
「は?電車で帰れるよ」
「乗り過ごしたらどうすんだよ」
「2駅だよ?乗り過ごすわけないじゃん」
電車で帰るときかない蘭の顔を見ながら
塔太は家まで送るか、と考えていた。
「あ、そうだ。山岡、家どこ?」
「高円寺」
「マジ?こいつ中野なんだよ。頼んでいい?」
要が蘭の方へ顔を向けると、蘭は腕を組んで
目を閉じていた。
「うん。わかった」
「どうする?タクシーにするか?」
「電車無理っぽいしな」
かくん、と蘭の頭が落ちる。
塔太が携帯でタクシーを呼び、蘭のバッグを
要に向かって差し出した。
「俺、抱えるわ」
「…いや、俺が、」
塔太が差し出した蘭のバッグを受け取らずに
要は蘭の腕を自分の肩に乗せてゆっくりと立たせた。




