10・動き出してしまった時間
何かヒントが得られるかもしれない。
「桜ちゃん。今思い出したんだけど
だいぶん前に山岡が桜ちゃんちに行ったよね?」
「菜々さんの代わりにお見舞いに来てくれたんです」
見舞いに来てくれたあの日。
要がなにかを抱えていることが桜にはわかった。
その大きなものをデザイン室のみんなで
少しずつ持ってあげたいと思った、と桜は
みんなに話した。
「そうだったんだ」
「山岡くんも、桜ちゃんには話しやすかったの
かもしれないわね」
「私の病気のことも知ってるし、
いろいろあったのもわかってるんでしょうね」
人と関わるのは本当に大変なことだ。
日常でそれをさらりとやってのける人もいれば
桜のようにやっとの思いでそれを掴んだ人もいる。
要が桜と話をしたかった理由はきっと前を
向きたかったからだ。
今の自分から変えたい。
そのために人と関わることに要は一歩
踏み出したのかもしれない。
桜の思いが要に少なからず響いている。
入社して来たときに比べて、要は確実に変わった。
塔太だけではない。
菜々も桜も要のために動こうとしている。
蘭にとってこんなに心強いことはなかった。
「さっき来てた、大学の友人って人なんだけど…」
三人とも真剣な眼差しだ。
蘭は要を訪ねてきた篠塚光里のことを話した。
「篠塚さんって名乗ってた。でも彼女のお姉さんが山岡の友人らしい」
「なんで妹が来たんだろ」
「その辺はわからない。
篠塚さんはやっと山岡を見つけたみたいな感じだった。
いないって言ったらまた来るって言い切ってた」
「でも変よね。
働いてるところがわかったんなら外で待ってたら会えるのにね」
腕を組んでそう言った菜々に蘭は大きく頷く。
塔太と桜も賛同するようにうんうん、と首を縦に振っていた。
「そこなんですよ。わざわざ呼び出してもらわなくても外で待ち伏せしてたら会えるでしょ」
「それをしないということは…
その篠塚さんって方、山岡さんの顔を知らないってことですか?」
桜の言う通りだった。
顔を知らないから出てきてもわからないのだ。
「そう考えるのが普通だよね」
「よし。蘭の言うことを整理するぞ。
訪ねてきた篠塚さんの姉さんが山岡の大学の時の友人。
なのにその姉さんは来なくて、山岡の顔も知らない妹が山岡を探していた」
「お姉さんになにかあったのかしら」
「それを知らせに来たんでしょうか」
「うーん。でも、そうだとしたらおかしくない?」
要の友人だった姉ではなく来たのは妹。
姉にあったことを要に知らせに来たと考えると
筋は通る。
しかし連絡先も知らなくて、やっとの思いで
勤務先にたどり着いたところを考えると
そこまで繋がりのない友人である要に
何を知らせようと言うのか。
わざわざ探し出してまで。
蘭がそう言うと三人は大きく頷いた。
なんだかなにもかもがおかしい。
説明できないことばかりだった。
「佐伯くーん。資料室のB社のファイルなんだけど」
タブレットを見ながら室長の栗谷がデザイン室に入ってきた。
「あれさ…、ってなに!」
話の途中でいきなり蘭に腕を掴まれた栗谷は
タブレットを落としそうになった。
塔太たちの集まっているところまで蘭が栗谷を
連れて行く。
なになに?と言いながら栗谷は目をキョロキョロさせた。
「室長にお願いがあります」
「なんだよ。怖いなあ」
「さっきの、山岡を訪ねてきた客のことなんですが、あまりよろしくない人物のようで。
なので今後また訪ねてきた時は山岡ではなく
僕に繋いでもらえますか?」
緊張して強張っていた栗谷の表情から力が抜ける。
ふう、と息を一つ吐いてタブレットを持ち直した。
「なんだそんなこと?わかったよ」
「ありがとうございます」
「よろしくないって…ストーカーとか?」
「かもしれません」
「山岡くんモテそうだもんね」
ははは、と笑いながら栗谷はタブレットの画面を蘭に見せる。
そしてさっき言いかけていた資料室の話の続きを始めた。
一週間後。もうすぐ定時という時間。
デザイナン室には蘭、塔太、要の3人がいた。
菜々は依頼主との打ち合わせに行っていた。
勉強のため同行した桜と直帰するらしい。
部屋に残された男3人は黙々と仕事をしていた。
ガチャ、と入り口のドアが開いたが誰一人顔を上げない。
菜々たちがいないとなると入ってくるのは室長の栗谷と決まっているからだ。
「えーと、佐伯くん」
「はい」
名前を呼ばれたので蘭はやっと顔を上げたが
視線はパソコンに置いたままだった。
手が放せないのが見て取れたので栗谷は蘭の
デスクに向かって歩いて行った。
「佐伯くん。篠塚さんが来てるよ」
「…」
視線だけで要を見る。
今の栗谷の声は聞こえていたように思ったが
デスクに顔を突っ込むようにして仕事をしている要を見て、
蘭はひとまず安心して、そのまま栗谷を
デザイン室の外へ押し出した。
「室長!名前言わないでくださいよ」
「え?名前もダメだったの?」
そこまで口止めしていなかった自分が悪いので
蘭はそれ以上言わなかったが、
空気読めよ、と心でつぶやきながら応接室へ向かう。
栗谷もぶつぶつと言いながら蘭に続いて
2階に降りて行った。
ガタン、という音に塔太が顔を上げる。
要がタブレットを持って立ち上がっていた。
「…どこ行くの?」
篠塚、という名前を聞いた要。
友人というのが本当ならその名前を聞いて
何かを感じていてもおかしくはない。
塔太は今にも泳いでしまいそうな瞳を真っ直ぐに要に向けた。
「資料室。写真撮ってくる」
「あ。うん。いってら」
うん、と一つ頷いて要がデザイン室を出て行く。
力が抜けた塔太は椅子から落ちそうになった。
「だよな。よくある名前だもんな。
蘭の取引先の人か何かと思ってるよな」
塔太たちは篠塚光里の姉と要が
そこまで親しくない友人だと考えている。
それが真実だとすると、要が覚えていない可能性の方が高いのだ。
「よし。あと少しがんばるか」
要が出て行った入り口を見ていた塔太はペンを
握りなおし、再び机に顔を突っ込むようにして仕事をした。
応接室をノックすると、中からあった返事。
一週間ほど前に要を訪ねてきた篠塚光里の声だった。
蘭は失礼します、と声を掛けてからドアを開ける。
光里は目を丸くしてしばらく蘭の顔を見上げていたが、
すぐに視線を逸らしてふう、とため息をついた。
光里は一週間前に会った蘭のことを
思い出すために今、時間を要したのではない。
要かどうかを確認していたのだ。
やはり光里は要の顔を知らないようだ。
「申し訳ないです。山岡はまた外出中でして」
「いつ帰ってくるんですか?」
「それが私どもにもわからないんです」
「…じゃあ、また来ます」
一週間前と同じだ。
光里は不満げに蘭から視線を逸らして、
自分の横に置いていたバッグを乱暴に掴む。
そしてそのまま蘭を見ることもなく立ち上がった。
「あの、篠塚さん」
「はい?」
「山岡に会ったことあるんですか?」
「…どういう意味ですか?」
蘭は単刀直入に聞いた。
今一番確認したいことがそれだったからなのも
あったのだが、
この時蘭は誘導してみようと咄嗟に考えたのだ。
「そのままの意味です」
「…」
「もし、僕が山岡だったら?」
「え」
光里は大急ぎで蘭に視線を戻した。
そして大きな目で蘭の顔のすみずみまでその視線を走らせた。
「んなわけないんですけどね」
「…はあ?」
「顔も知らない山岡になんで会いに来てるのかなという素朴な疑問です」
落ち着いているように見えた蘭だったが
余裕などなかった。
要を守りたい一心で動いてはいるものの、
光里の口から要に関するとんでもない事が発されるかもしれない状況なのだ。
「そうですね。あなたの言う通り
私は山岡さんの顔を知りません」
あっさりと認めた光里は蘭の目をじっと見ていた。
蘭はその視線を受けてゆっくりと頷いた。
応接室のドアの上半分は一部だけすりガラスに
なっている。
その前に立つと中から影が見えてしまうので
要は少し避けたところでドアに耳を近づけていた。
さっき室長が言った篠塚という名前。
忘れようにも忘れられないその名前の人物…
いや、家族か何かだろう。
その人がなぜか蘭を訪ねてきている。
自分の知る篠塚とは別人であってほしいと
願いながら要は手に持っているタブレットを
握りしめて応接室での会話を聞いていた。
しかし願いは届かなかった。
蘭と話しているその声は篠塚光里のものだった。
「姉のことで話があります」
「お姉さんのことなのにあなたが?」
「姉は…来られないので」
光里は今から蘭に全てを打ち明けるのだろうか。
ガタガタと震え出した足をなんとか動かして
要は応接室を後にした。
光里の姉は来られない。
来られない理由なんて山ほどある。
しかし今それらを考えている余裕も時間もない。
蘭は本当は聞きたくない光里の次の言葉を
待っているだけだった。
「姉は…、って。あなたに言う話じゃないですね。また来ます」
瞬きを繰り返している蘭の横を通って光里は
応接室を出て行った。
光里が座っていた前のローテーブルに置かれているお茶の器が閉めたドアによってカタカタ、と揺れる。
蘭はその場にべちゃりと座り込んだ。
全てを受け入れられるのだろうか。
何があっても要を信じるという決意は変わらないが
信じることと、要の過去を受け入れることは
同じではないのかもしれない。
想像もつかないが、どうやらそんな小さなことではないらしい。
そしてそれが要を変えてしまった理由だという
思いが拭えない。
なんとか立ち上がった蘭はデザイン室に戻った。
「あれ。山岡帰ったの?」
震えそうな声を塔太に気づかれないように
蘭は明るくそう言った。
「さっき、蘭が出て行ってすぐに資料室に
行ったんだけど、戻ってきてすぐに用を思い出したとかなんとか言って帰ったよ」
「…どれぐらい前?」
全身から血の気が引いた。
直感で、要が応接室の会話を聞いていたと思った。
「5分ぐらい前かな。で、どうだった例の女」
「…」
「蘭?」
「あ、ごめん。また詳しく話す」
蘭はデスクとデスクの間を走って自分のデスクに行き、上に置いてあるものをバッグに詰め込んでデザイン室を出た。




