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十九話

 ほどなくすると、桶に水を汲んだ老夫婦が戻ってきた。老女は素顔をさらしているキヨノをちらりと見て、目をそらした。

「案内します。こっちです」

 洞穴を出て、向かって右に歩みを進める。やちよは手ぶら。キヨノは布団を二枚持っている。青宗は青慈を背負い、青慈が寝ていた布団も持っている。

 岩壁を半周ほどまわり、なだらかな坂を下ると、山中に古びた家があった。周囲に他の家はない。老父曰く、ここは青野村の反対側、山吹村(やまぶきむら)のはずれで、今この辺りには自分たちしか住んでいないという。

「どうぞ」

 老父は障子に穴が開いた引き戸を開けた。土間と広間がある。広間の奥、襖の先にももう一部屋ありそうだった。

 広間の床は、踏めばギィッと音を立てた。

「背中の彼をここに」

 老父は囲炉裏の横を指し示した。天井からぶら下がっている自在鉤に、鍋がかかっている。キヨノが布団を広げると、青宗は青慈を寝かせた。

 老父が青慈の着物を脱がす。青慈の腹には、真っ直ぐな切り傷が刻まれていた。老父は汲んできた水で手ぬぐいを濡らすと、赤黒く固まった血を拭いた。青慈はうめくが、

「痛いかもしれないが、清潔にしておかないと」

 と、老父は拭く手を止めない。

 血を拭き取り終わると、傷の全貌がよく見えた。深く長い傷から強い殺意を感じる。

「婆さん、薬とさらしを取ってくれ」

 老女は、囲炉裏をいじっていた手を止めて立ち上がった。背の高い棚から、小さい陶器とさらしを取り出し、老父に渡した。

 老父は陶器の蓋を開けた。指先にたっぷり薬をつけると、青慈の腹に塗りつけた。

「くっ、うわぁー」

 塗り薬が傷に染みるのだろう。青慈が声を上げた。それは叫び声に近かった。

 やちよは青慈の手を握る。

「青慈さん、頑張ってください」

 薬が塗られるたびに青慈は声を上げ、拳を握って痛みを堪える。青慈から握られると、骨が折れそうなほど痛かったが、やちよは手を離さなかった。

 最後にさらしが巻かれ、傷の手当ては終わった。

 いつの間にか青慈は寝息を立てていた。眠っている間は痛みを忘れられるため、寝顔は穏やかだ。

 やちよは握られている手を解く。何度も握られた手は、真っ赤になっていて動かすと鈍い痛みがあった。

 皆で囲炉裏を囲う。中央で燃える炎が温もりを与えてくれる。

森田(もりた)様、感謝いたします」

 青宗が座礼をしながら言うと、老父は目を見張った。

「私たちを覚えているのか……」

「忘れてなどいません。たき様とさち様のことも」

 老女が何度も呼んでいた名も、青宗は口にした。

「その言い方、もうさちもこの世にいないのか?」

「残念ながら」

「そうか……」

 老父は鼻をすすると下を向いた。正座の膝の上に置かれている拳が、小刻みに震えている。

「お二人はもうこの世を去ってしまいましたが……」

 青宗は親指以外の四本の指を揃え、隣にいるキヨノを指し示した。

「こちらのキヨノはたき様の子、あっちの青慈はさち様の子です」

 老父は口をぽかりと開け、キヨノと青慈を交互に見た。玉杓子で鍋を混ぜる老女の手も止まる。

 やちよも驚きを隠せなかった。青慈とキヨノの母親の名前は知らなかったし、母親が姉妹だったことも知らなかった。この老夫婦は、青慈とキヨノの祖父母だったのだ。

「たきとさちの子……」

 老父はキヨノをなめ回すように見た。

「どおりで、たきにそっくりなわけだ」

 老女は玉杓子を放り出すと、キヨノを抱擁した。しわしわの瞼をぴたりと閉じる。

「キヨノちゃんは、私たちの孫なんだね」

「おばあ……」

 キヨノは言葉を切った。視線が左右に動いている。言ってもいいのか迷っている顔だ。

「遠慮しないで、ばばと呼んでちょうだい」

 キヨノは忙しなく動かしていた視線を止め、

「……お祖母様」

 ぼそっと言った。

「キヨノちゃん。会えて嬉しいよ」

 老女はさらに抱擁を強める。キヨノも老女の背中に手を回した。鬼ではなく、人間として受け入れられたキヨノは、頬をほんのり赤く染めている。嬉しそうなキヨノを見て、やちよも胸がいっぱいになった。

「あなたは青午ではないね」

 老父は青宗を見ながら言った。

「はい。私は青午の弟の青宗と申します」

 老父はやちよを見た。

「あなたは?」

「やちよといいます」

「青慈の妻かい?」

「はい」

「そうか……」

「お祖父様たちの名は何ですか?」

 キヨノが問うた。

「教えていなかったね」

 老父は(ただし)、老女はよしと名乗った。

 広間に味噌の香ばしい匂いが満ちる。それは自在鉤にかけられ、底に炎が当たっている鍋の中からだった。芋が入った汁がくつくつと煮えている。

 よしは玉杓子で汁をすくい、碗についだ。

「食べて」

 やちよは碗を受け取る。碗の中、味噌がもくもくと揺れていた。

 眠っている青慈以外に、碗が行き渡った。朝餉以来の食事。芋の素朴な甘さが身に染みる。

 青宗も面を外した。正とよしは青宗の碧色の瞳を見たが、何も言わなかった。

「キヨノはいくつなんだ?」

「二十四です」

「青慈は?」

「二十一です」

 キヨノが代わりに答える。

「そんな年なのか」

「母上とさち様は、いつ嫁いだのですか?」

「たきが青午の妻になったのは、二十五年前、十八のときだったな」

 正は床に碗を置くと、瞑目した。そして、思い出したくないであろう日のことを話してくれた。

「謝礼品の作物が不出来で、たきは妻に選ばれてしまった。たきをとられた代わりに、家を建ててもらった。

 さちをとられたのは、たきをとられて一年半くらい経った頃だった。百目鬼青岳(せいがく)がうちに来たんだ。もう一人の娘も娶らせてほしい、ってな。もちろん断った。でもさちが、『姉さん一人じゃ可哀想だから、私も姉さんのところに行く』って言って、百目鬼のところに行ってしまった。まだ十六になったばかりだったのに。

 さちを連れて行かれた翌日、また祝言を挙げた。百目鬼には他にも男がいたから、その誰かの妻かと思ったけど、さちも青午の妻だった。さちの祝言の場にたきはいなかった。たきが死んだから、さちをもらいに来たんだな、とあの場で悟ったよ」

 正は瞼を開いた。在りし日を思い出した彼は遠い目をしていたが、瞬きをして表情を引き締めた。

「そうなんだろう。青宗さん?」

「私はさち様が嫁いできたとき、十五だったので、当時のことはよく分かりません。これから言うことは私の推測です」

 青宗は深呼吸をし、真っ直ぐ正を見た。

「我らの一族は、何故か碧色の瞳を持って生まれてきます。何世代にも渡って、ずっと碧色です。ですが、たき様が産んだキヨノが深く青い瞳でした。父の青岳は、『一族が人間に戻れる日も近い』と思ったでしょう。できれば次は男児を産んでほしいと思ったと思います。ですがたき様がこの世を去りました。青岳はたき様の妹のさち様も、黒い瞳に近い子を産んでくれると思ったのでしょう。なのでさち様も、青午の妻として迎え入れようと思ったのかと」

「それで青慈はどんな色の瞳をしているんだい?」

「キヨノと同じ、深い青です」

「そうなのか」

 正は青慈を一瞥して、また青宗に視線を戻した。

「青岳が失礼いたしました」

「青宗さんが謝ることじゃないでしょう」

「しかし、大事な娘様を二人も我が一族とられた上、どちらも亡くなられているのですから」

「謝ったところで仕方がないでしょう」

 当事者ではない青宗から謝られても仕方がないし、謝られたところで娘が生き返るわけでもない。やちよには正の目が、変えられない過去を受け入れたように見えた。

「けれど、今日あなたたちに会えてよかったと思うよ。あなたたちが鬼じゃなかったと分かったし、孫にも会えた。もうすぐひ孫も生まれるようだし」

 正はやちよのほうを向いた。

「やちよさん」

「はい」

 やちよは居住まいを正す。

「百目鬼の皆が鬼じゃないと教えてくれてありがとう」

 正には百目鬼家の者が鬼じゃない、と伝わっていていた。

「もうすぐ生まれる子は鬼じゃない。例え青い瞳の子が生まれても、可愛いひ孫だ」

「ありがとうございます」

 あなたがどんな色の瞳で産まれたって、愛してくれる人が他にもいるよ。やちよは心の中で言いながら、腹をさすった。子にも届いたのだろう。今日、初めて腹を蹴られた。強い蹴りは、今までで一番痛かった。

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