二十話
森田家に身を寄せて十日。まだ痛みはあるようだが、青慈も長座ができるまで回復した。
やちよは青慈の手当を終えた。薬を棚にしまっていると、何かが爆ぜるような音が腹から聞こえた。その直後、股に生温かさを感じた。下を向く。股の部分がびっしょりと濡れていた。
「よしさん!」
名を呼ぶと、土間の台所で昼餉を作っていたよしがこちらを向いた。
「これ……」
「産まれるんだよ」
よしと並んで台所に立っていたキヨノも、こちらを向いた。
「いよいよですね」
「産屋に行こう」
やちよはよしと一緒に、近くにある産屋に向かった。キヨノは男性陣に昼餉を出してから、産屋に来るという。
産屋は森田家から徒歩十分のところにあった。六畳ほどの板の間には、天井から縄が垂れていて、部屋の中央に囲炉裏があった。誰かが準備していてくれたのだろう。囲炉裏には火が揺れていた。
「産婆を呼んでくるから」
よしは産屋を勢いよく飛び出した。外で吹く風の音と、ぱちぱちと炎の弾ける音がよく聞こえる。
薄暗い屋内。一人になると途端に心細くなった。他人の出産を見たことがやちよには、これから起きる全てが未知。どんなことが起きるのか想像がつかないし、無事に生まれてくるかも分からない。考えれば考えるほど不安が募る。
腹をさすりながら一人不安に耐えていると、鼻先と耳を真っ赤にしたキヨノがやって来た。ここまで走ってきたのか、息が上がっている。
「キヨノさん……」
キヨノは板の間に上がると、やちよの手を握った。
「大丈夫です。無事に生まれてきますよ」
キヨノの手は冷たかった。けれど不安なやちよの心を温めてくれた。
ようやくよしが、産婆を連れて戻ってきた。
「これから痛くなるからね。頑張るんだよ」
産婆がやちよの肩に手を置いた。何人もの赤子を取り上げたであろう手は、シミとシワが多くて小さかったが頼もしく見えた。
産婆の言った通り、腹が痛くなってきた。痛くなっては収まって、と繰り返す。
夜が深まると痛みが強くなりすぎて、話すこともままならなくなった。こんな痛みは経験したことがない。
「もうちょっとだ。頑張れ」
縄に掴まり、産婆の指示通りにいきむ。
囲炉裏とろうそくの炎の明かりに頼っていた室内に、自然光が差し込みだした頃、
「頭が全部見えたよ!」
産婆が言った。
「やちよ様、あと少しです」
「やちよちゃん、頑張って」
キヨノとよしが背中を支えてくれている。背後は心丈夫だ。
「ほとんど見えた。もうすぐだよ!」
残っている体力を目一杯使っていきむ。直後、産声が聞こえてきた。
「生まれたよ!」
命がけの戦いが終わった。安堵と感動。やちよの目から涙がこぼれる。
夜はすっかり明けていた。上部の小窓から見える空は、淀み一つなく澄みきっていた。
くらりとし意識が遠のく。落ちる瞼に抗えず、やちよの視界は真っ暗になった。
騒々しい音でやちよは意識を取り戻した。最初に目に飛び込んできたのは、キヨノの顔だった。
「目覚められてよかったです」
と、キヨノは安堵の表情を見せた。
やちよは上体を起こす。よく見えない視界のまま、きょろきょろと産屋の中を見回し、子を探す。産婆の肩越しに、毛の少ない小さめの頭が見えた。
産婆がこちらを振り返った。彼女の腕の中に、玉のように可愛らしい子がいた。眠っているのか、目を閉じてじっとしている。
「おめでとう。男の子だよ」
男児がやちよの元に来た。腹にいた頃とはまた違う重みを感じる。
やちよは男児をまじまじと見つめた。ぷくぷくと丸い頬、小さな手足、全てが可愛い。
「可愛いですね」
キヨノは目を細めながら、男児の足の裏を触った。くすぐったいのか、男児はぴくりと動く。
「本当、可愛いです」
やちよは男児の手に自分の指を置いた。弱い力で握り返された。
「ふふっ、可愛い」
やちよは握られている指をそっと抜き、男児の餅のように柔らかい頬を撫でた。すると、男児が目を開けた。
青慈よりも深い青の中に黒が混じっている瞳。それは神秘的で、宝石のように美しかった。
「不思議な目の色だねぇ」
産婆が顔を近づける。生まれたてで、まだよく見えない視界なのに、男児は瞳を見られていると感じ取ったのだろう。瞼を閉じてしまった。
「この子だけの綺麗な色ですよ」
やちよは産婆を見ながら言った。誰かが不気味がったり、嫌悪を示したりしても、自分は絶対にこの子の味方でいる。それが母親としての決意と責任だ。
「そうだね。綺麗な色だね」
産婆は言いながら顔を遠ざけると、男児の頭に手を置いた。
「元気に大きくなるんだよ」
やちよには、頭を撫でられた男児が笑ったように見えた。
やちよは一週間ほど産屋でよしとキヨノと過ごして、森田家に帰った。
家の外、青慈がうろうろしながら待っていた。村民の襲撃から約三週間。少しは動けるようになったようだ。
「青慈さん」
やちよが離れたところから名を呼ぶと、青慈がこちらに歩いてきた。歩くと傷が痛むのか、歩き方は少々ぎこちない。
「やちよ、お疲れであった」
「ありがとうございます」
青慈はやちよの背中に手を回し、男児を覗き込んだ。
「おお、なんと可愛い子だ」
青慈は男児の頬を指でつついた。
「目に入れても痛くなさそうだ」
やちよには、子とふれあい、笑みがこぼれる青慈が可愛く見える。
「ぜひ、抱いてあげてください」
「では抱かせてくれ」
男児は青慈の腕に収まると、手足をじたばたとさせて泣き出した。今まで大人しかったのが嘘のようだ。青慈は苦笑いする。
「どうやら母がいいようだ」
男児はやちよの胸に収まるとすぐに泣き止み、動きが少ない大人しい子に戻った。
「お祖父様と叔父上にも会わせてやってくれ」
「はい」
家の中に入ると、正と青宗が労いの言葉とともに出迎えてくれた。
「その子、ちょっと抱かせてくれないかい?」
正に抱かせたが、やはり男児は泣いてしまった。今度はやちよの胸に帰ってきても、なかなか泣き止まない。広間の奥の座敷に行く。皆、男児のことが気になるようで、やちよについてきた。男児をあやすやちよを五人が囲う。
背中をさすったり声をかけたりしても、男児は泣き止まない。喋れないため、原因は手探りで探すしかない。
「どうしたのであろうか?」
「きっとお腹が空いているんだよ。やちよちゃん、お乳をあげてみて」
よしが言うと、正と青宗は半回転し、やちよに背を向けた。
「あっ、その……」
やちよは青慈を一瞥し、頬を赤らめた。同性のキヨノとよしに授乳を見られるのは何とも思わないが、青慈に見られるのは恥ずかしい。
「お前も後ろを向かないか」
キヨノが睨みながら言うと、青慈ははっとした。
「おお、すまぬ」
と、半回転した。
よしの予想通り、男児はお腹が空いてぐずっていた。乳をあげると、ぴたりと泣き止んだ。
「もういいよ」
よしが言うと、男性陣がこちらを向く。
「落ち着いたみたいだな」
「はい」
皆でしばし、ご機嫌になった男児を見つめたあと、
「父母でごゆっくり」
と、よしたちは座敷から出て行った。親子三人になると男児も安心したのか、欠伸をしぼーっとどこかを見つめている。
「うとうとしておる。可愛いなあ」
やちよは青慈の横顔に、ふと青午のことを思い出す。
「青午様たちにも、会っていただきたかったです……」
彼らも子の誕生を楽しみにしてくれていた。それなのに、会うこと叶わず、この世を去ってしまった。あの日のせいで、彼らは命を落とした。やちよは悔やんでも悔やみきれない。
「もう気に病むでない」
「そんなこと言われても、私が青午様たちを殺してしまったも同然ですから」
「もう言うでない」
青慈の声から怒りを感じなかった。感じたのは、憐れみだった。
「父上はきっと、そなたのことを責めることはせぬ。これは運命だ、と言って受け入れると思うのだ。どうか、もう自分を責めないと約束しておくれ」
やちよは俯いた。青慈の言っていることが、本心か自分をかばうための優しい嘘か分からない。とても「はい」とは言えなかった。
口を噤んだままでいると、頬に手を当てられた。ゆっくりと顔を上に向かせられる。
「俺はそなたには笑顔でいてほしい。それにその子も、母の悲しい顔など見たくないと思うのだ。どうか笑っておくれ」
青慈の目は怖くなるほど真っ直ぐだった。
「……はい」
やちよは小さく首を縦に振った。青慈の前では自分を責めない。けれど、心の中では一生自分を責め続ける。そう決めたから頷いた。
「それでいい」
青慈は笑うと、やちよの頬から手を離した。
「そなたも、母には笑っていてほしいだろう?」
と、眠ってしまった男児に問いかける。ちょうど男児がこくりと頷いたようになった。
「ほら、この子も眠ったまま頷いたぞ」
子の前ではおかしなことを言う青慈が面白い。やちよはくすっと笑った。
「ずっと『この子』って呼んでいますけど、名はどうしましょう?」
やちよが言うと、青慈は顔を上げ、表情を引き締めた。
「食事作りに帰ってきていた姉上から、男児と聞いて、実はもう考えてみたのだ。優しいに慈しむと書いて、優慈はどうだろうか?」
「優慈……。よい名だと思います」
「では決まりだ」
青慈は優慈の頭を撫でた。名が決まった我が子を見る目は、慈しみで満ちていた。
「優慈、優しい子に育ってね」
やちよは優慈を強く抱きしめた。愛おしい我が子は、言葉で言い表せないほど温かかった。




