十六話
十一月になると、やちよの腹は太鼓のように前にせり出した。重い体では、起居するのも一苦労だ。ヤス曰く、生まれるのは十二月。あと一ヶ月もすれば生まれてくるのだから、あと少し我慢しよう、とやちよは前向きだった。
「うっ」
「また蹴られましたか?」
「はい」
腹の子の胎動は激しすぎるくらいだった。腹を突き破るのではないか。それくらいの勢いで蹴ってくる。
「元気な男の子でしょうか?」
「もしかしたら、お転婆な女の子かもしれませんよ」
やちよは腹をさすった。子もさすったのが分かったのか、また蹴ってきた。
「ちょっと厠に」
やちよが立つと、キヨノも立ち上がった。腹が目立つようになってから、キヨノは厠の前までついてくるようになった。厠だけではない。風呂にもついてくる。背中を洗ってくれたり、体も拭いてくれたりと、甲斐甲斐しく世話をしてくれる。やちよは自分が赤子になった気分だった。
用を足したやちよが厠から出ようとしていると、話し声が聞こえてきた。
「さきほど、村で田村様に声をかけられた」
「田村様とは、やちよ様のお父上の?」
「ああ」
話しているのは青達と青宗だった。おっとさんの話をするのか。やちよは厠の中で聞き耳を立てる。
「やちよ様に会わせてほしい、と言われた」
「また何でだ?」
「そよ様が体調を崩して寝たきりで、夜になるとやちよ様の名をつぶやいているらしい。できることなら一日だけでも家に連れ帰って、そよ様に会わせたい、と。明日の夕方、兄上に頼みに来るとおっしゃっていた」
「来られても、青午兄上は……」
二人の声が聞こえなくなった。
おっかさん、悪いんだ……。やちよは床に伏せている母親のことを考える。おっかさん、ちょっと神経質なところがあったから、きっと祝言のあとから気落ちしちゃったんだろうな。ご飯もあまり食べなくなって、体力の限界がきちゃったんだろうな……。やちよはため息をつきながら、厠を出た。
キヨノも青達たちの話を聞いていたはずだが、政吉のことには触れてこなかった。
部屋に戻ったやちよは、キヨノの真正面に座った。面の下に隠れて見えない瞳を、真っ直ぐ見つめる。
「キヨノさん、お願いします。おっとさんにだけでも会わせてください」
やちよは村に行かせてもらえない身。そよと会えないのは明白だった。だからせめて政吉には、「私は幸せに暮らしているから安心して」、と言いたい。
「申し受けできません」
抑揚のない声で返された。
「お願いします!」
「どれだけお願いされても、申し受けできません」
と、キヨノは首を横に振った。説得は無理そうだ。
「それなら勝手に会いにいきます」
「……やちよ様は、時々強情になられて困りますね」
キヨノは肩をがっくりと落とし、深いため息をついた。
「私がこっそり政吉様を呼び止めますので、一分だけお会いくだざい」
「ありがとうございます!」
会えないと思っていた父親に会えるのなら、一分でも充分だった。
「ただし、政吉様と会ったことは、誰にも言わないでください」
「はい。絶対に誰にも言いません」
おっとさんはどうか元気でありますように。と、一年半ぶりに会える父親に、やちよは思いを馳せた。
翌日の夕方。やちよは、政吉を呼び止めにいったキヨノが部屋に戻ってくるのを待った。
おっとさんを呼び止められたのだろうか。心がそわそわとして、じっと待っていられない。手の指をしきりに動かしてしまう。
障子が開いた。キヨノが戻ってきた。
「政吉様には、松の木の側で待っていただいています」
キヨノはやちよの草履を持ってきていた。やちよは縁側から庭に出て、敷地の角にある松の木に向かう。
政吉は松の木の影に身を屈め、隠れるようにして待っていた。やちよは足を速め、父親の元に急ぐ。
「おっとさん!」
後ろ姿に声をかける。振り返った政吉は、相変わらず、色白で痩せこけていた。
「やちよ! 無事だったのか!」
娘の無事が分かった政吉が興奮したのも束の間、化け物にでも出くわしたかのように目を見開いた。
「その腹……。もしかして鬼の子か?」
声と指を震わせながら、政吉はやちよの突き出た腹を指さす。白い顔は血を抜かれたように青ざめる。
「ここの人たちは鬼なんかじゃない。人間だよ」
「やちよ、もしかして、身ごもったときに洗脳されちまったのか。百目鬼の一族は鬼だろう?」
「違う!」
「……はは」
政吉から漏れた弱い声には、絶望しか含まれていなかった。百目鬼家の者を鬼と思っている政吉に、やちよの叫びは届いていない。
「やちよはもうすぐ、鬼を産んじまうんだな……」
政吉は言いながらやちよに背を向けた。精気を抜かれたようなおぼつかない足取りで、歩いていく。あの日、自分を最後まで守ろうとしてくれた父親は、もういなかった。
一年半ぶりの対面は、一分にも満たなかった。
やちよの視界が涙で歪む。遠ざかっていく痩せた背中も、涙でよく見えなかった。刃物で切られたように心も痛い。
その場に立ち尽くして泣いていると、キヨノがやってきた。
「戻りましょう。冷えは体に悪いです」
キヨノが肩をさすってくれた。
部屋に戻ると、余計に涙があふれ出てきた。やちよは顔を覆い、すすり泣く。キヨノは何も言わず、ただやちよの背中をさすり続けた。
やちよは、夕餉の場でいつも通りに振る舞ったつもりだった。けれど、
「元気がないではないか。姉上と何かあったのか?」
寝床で青慈から問われた。どうやら、うまく振る舞えなかったようだ。
「何もないです」
政吉と会ったことは誰にも言わない、という約束。青慈にも絶対に言えない。
「それならよいが。何かあったら言うのだぞ」
政吉が来たら教える、と言った青慈だが、青午から口止めされているのだろう。政吉が来たことを教えてくれなかった。




