第29話 その殺し屋、父と娘と①
庭園に咲く薔薇の花弁に降りた朝露が、陽の光を蓄えキラキラと輝きを放っている。深呼吸をすると、爽やかで甘い香気が肺を満たし、吐き出した息に混じって、胸の奥の緊張が少しだけ溶けていく気がした。
私は胸元で揺れる、〈サートゥルヌス〉のペンダントをそっと握りしめ、真っ直ぐに前を見据える。視線の先には、黒塗りの四頭立ての馬車が佇んでいた。
艶やかな漆黒の車体には、パパラチア家の紋章が刻まれており、その隣には銀の装甲を纏った護衛騎士たちが、一糸乱れず整列をしている。
「さぁ、サフィラ。お手を」
微笑みと共に差し出された手は、白く、節くれ立ち、血管が浮き上がっていた。私は口の中に溜まった唾液をそっと飲み込み、躊躇いながらもその手を取る。
「サフィラ、無理をしてはダメよ? 異変を感じたら、すぐお父様に言うように。……道中、お気を付けて。両陛下へよろしくお伝えください」
馬車へ乗り込むと、お見送りに来てくれたお母様が、扉の前で私たちを交互に見つめ、穏やかに微笑んだ。
「ああ、勿論だとも。では行ってくるよ」
公爵は、身を乗り出してお母様の頬に、そっと唇を落とす。夫婦の儀式を終えた後に、馬車の扉が静かに閉じられた。
にこやかな表情で、優雅に手を振るお母様。
その後ろには使用人たちが控えており、皆一斉に頭を下げる。――その中の一人に、黒髪眼鏡の長身メイドの姿が見えた。
「……あ、アメリア」
思わず小声で、彼女の名前を呟く。
そして、同時に馬車がゆっくりと動き出した。車輪が回り、馬の蹄鉄が大地を蹴る音と共に、屋敷が、お母様が、アメリアの姿が遠ざかって行く。
……そう、アメリアは今日、私の側に居てくれない。公爵の命で、屋敷の留守を任されたのだ。
いつも一緒だった彼女と離れることに、一抹の不安を覚えるが、そうも思っていられない。
私はそっと視線を上げ、隣に座る公爵の顔を一瞥する。
「サフィラと二人で出かけるだなんて、いつ以来だろうね? 嬉しさのあまりに心が躍るよ」
声高らかにそう言って、絵に描いたような、にこやか笑顔を浮かべる公爵。そんな上機嫌な父親に対し、内心たじろぎながらも、私は返す言葉もなく曖昧に笑った。
――王宮に辿り着くまでの道中、この男と共に過ごすだなんて。正直、物凄く気が重い。
(……でも、私には私の目的がある。今は、その〝任務〟を遂行するための辛抱だ)
そう意気込みながら、そっと窓の外へ視線を逸らし、流れゆく街路樹を静かに眺めるのであった。
◇
馬車の中では、公爵の快活な声が響いていた。
ひとりで喋り続ける公爵と、それをただ聞き、時たま相槌を打つ私。――この人、よく息が持つなぁ。そんな感想が、ふと頭によぎる。
ゲームでもセリフ量が多かったし、元よりお喋りな人なのだろう。
先程から彼が語っている、外交や神学の話の内容はさっぱりだが、幸いなことにサフィラという少女は、元より無口な性格。
黙って頷いてさえいれば、疑われはしない筈だ。
(それに、前から思ってはいたけど……公爵の声――めちゃくちゃ良い)
至近距離で響く、香り立つような艶のあるバリトンボイスに、思わず聴き惚れてしまう。声が良い人は、話す言葉に説得力が増すと言うけど、まさにその通りだと思う。
背筋の伸びた立ち姿には品があり、顔立ちまで整っている。そんな素敵な公爵様に優しく語りかけられて、警戒を解かずにいられる人がどれほどいるだろうか。
「――にしても、今日のサフィラのドレスはいつにも増して可憐だね? 暫く見ない間にお姉さんっぽくなって……成長に驚くよ」
……なんてことを考えていたら、いきなりドレスの話題を振られハッとする。
〝お着替え隊長〟ローズ曰く、本日のテーマは「愛らしい薔薇の蕾の妖精」――王宮訪問ということで、今日はお茶会のときよりもフォーマルな装いだ。
胸元から袖口にかけて透け感のある白いレースをあしらった、深い臙脂色のドレスが、エレガントなシルエットを描いていた。
髪型は王道のお嬢様スタイルである、三つ編みのハーフアップ。そしてその頭の頂には、赤い薔薇のコサージュが幾重にも重ねられたボンネットが合わせられている。
普段は髪や瞳の色に合わせた青みの服が多い私だけれど、今日は真紅の装い。
お着替え隊はみんな口を揃えて、「緋冠祭にご参加できないお嬢様の弔い合戦です!」だなんて大袈裟なことを言っていたけれど、鏡台に映った自分の姿はいつもより大人びて見えた。
「ありがとうございます。……お着替え隊のメイド達が、素敵にしてくれたお陰です」
「なるほど。確かに、彼女達のセンスには目を見張るものがある。……因みにこのペンダントも、彼女達の仕立てなのかい? 昨夜の晩餐の際にも付けていたね?」
突然、〈サートゥルヌス〉のペンダントに言及され、思わず胸が跳ね上がる。
このペンダントは、ルベルから贈られた輝石を加工したもの。ペンダントが届いたあの日から、私はこれを肌身離さず身につけている。
パパラチア公爵は、反ルベル派の筆頭。……ここで、彼の名を出すわけにはいかない。
それに、この輝石は――元々、彼の母親であるパライバ様が使用していた舞台演出用の幻影輝石と呼ばれるものだ。
パライバ様は、かつての大劇場の歌姫。この国で彼女を知らぬ者はいない、伝説の大女優。もしかすると、公爵は〈サートゥルヌス〉の名を知っているかもしれない。
(……ここは、〝何も知らない風〟を装うのが吉と見た)
このペンダントは、あくまでお着替え隊が用意してくれたアクセサリー。私はただ――〝与えられた装飾を身に着けているだけ〟という顔をしていよう。
「……はい。このペンダント、私のお気に入りなんです。あまりの美しさに一目惚れをして――毎日、身に付けています。……変、でしょうか?」
「いや、その逆さ。とても似合っているよ」
公爵はゆっくりと首を振り、口元に優美な弧を描く。
だがその直後――彼は突然、前のめりになり、〈サートゥルヌス〉へ顔を近付けてマジマジと覗き込んできた。唐突な奇行に、ギョッとして目を見張ってしまう。
「ほぉ……角度によって、茜や橙、翠の色彩を帯びるんだね。まるで黄昏空のような美しさだ。そして、微弱に光と雷の魔力を帯びているのか……」
光の宿らぬ蓮華色の瞳で、じっとりと〈サートゥルヌス〉を観察――いや、鑑定をする公爵。ほんの少しだけ湿度を感じる視線が不快で、眉を顰めてしまいそうになる。
「――流石は、我が娘。キミも知っていると思うが、雷の魔力は、元は神々のみが使役を許された特別な力。そんな神聖なる魔力が込められた輝石を選ぶだなんて、素晴らしい。だが、これはとても珍しい品だね? 輝きや大きさ……単なる、装飾用のものとは思えない」
公爵の声音は、娘の持ち物を褒めるそれではない。まるで尋問を受けているような、息苦しいほどの圧を感じる。
「元々は……〝別の用途〟に使用されていたものだったのではないかな?」
その一言が、胸の奥で針のように突き刺さった。




