特別編 勇気を出してごらん その4
高校生になれば忘れられると思った。
本当にそう信じていた。
ところが人間の心は、とても頑固なのだ。
忘れるどころか、ますます好きになっていく。
夏のあの日、彼と会って話をした。
夢のようなひと時だった。
彼と同じ空間にいられるだけで、幸せだった。
広場にある階段に座り、彼と一緒にジュースを飲んだだけで、心が満たされた。
けれど。彼の心の中は、ある人への想いでいっぱいだった。
カンナの入り込むすき間は、ほんの少しも用意されていないかったのだ。
誰であるかは、はっきりと名を明かさなかったけど、カンナはわかってしまった。
実は中学生の時、彼がその人らしき女子生徒と、廊下でこそこそとしゃべっているところを目撃したことがあった。
あの子は彼の親戚の子だから、カノジョとしては対象外だと当時女子バスケの友だちが言っていた。
けど、彼が好きな人は、その人に違いないと思った。
そんなに美人だとか、かわいいとか、そういった目立つタイプの子じゃなかったけど。
日に焼けた健康そうな肌をした、優しそうな笑顔を持った人だった。
二人の距離は、とても近かった。
兄弟でもそこまで近付かないだろうというくらい寄り添って、なにやら真剣に話していたのをはっきり憶えている。
普段、絶対に見せることの無い、素の表情を彼女にだけ見せていた彼。
彼はとても不機嫌そうで横柄な態度だったけど、それを諌める彼女もまた、彼を特別な存在として接していたように思う。
対象外どころか、その人こそが、彼の本命だったのだ。
彼は彼女のことが好きだと、はっきりとそう言った。
だから、誰とも付き合わないし、今後も彼女以外の女性に心が傾くことは一切ないと言い切った。
彼の意思は鋼鉄のように固い。
彼の心の要塞を破るには、カンナごときの力量では到底太刀打ちできないとわかっていた。
次第に打ち解けてきた彼は、将来の夢も話してくれた。
彼はカンナの高校の隣にある、県下でも有数の進学校を目指していると言った。
やっぱりそうなんだ……。
これで同じ高校になるかもしれないという最後の望みも絶たれてしまった。
文武両道を突き進む彼が、その高校を目標にすることなど、カンナが中三の時から充分に予想できたはずだ。
もう少し勉強して、隣の高校を目指すべきだったと後悔してみても、もう遅い。
カンナには、今の高校に進学できたのが、精一杯の努力の結果だったのだから。
でも、少しだけ希望の光が射し込む。
彼が隣の高校に進学したならば、二年間だけ、その姿を見ることが出来るはずだ。
制服もほとんど同じで、部活の交流も盛んな隣の高校だ。
まだチャンスはある、と思ったのも束の間……。
彼は、その彼女と一緒に、同じ高校に進学するつもりだと、これまたびっくりするような宣言をした。
二学期は彼女から目を離さず、お互いの不得意な分野を教え合って、実力を付けていく予定だと言う。
眠たがりの彼女をしっかりとサポートして、夜遅くまで一緒に勉強すると息巻いていた。
夜遅くまで一緒に勉強するって、いったいどういうことだろうか?
付き合ってもいない相手とそのようなことが可能だなんて、普通はありえない。
それって、親戚同士だからこそなせる裏技なのだろう。
なーんだ。結局二人は、付き合っているのも同然の関係なんだと、その時ようやく理解した。
告白こそしていないけれど、お互いに信頼しあっているのは一目瞭然だ。
その人も彼のことが好きに違いないと思った。
これは、女の勘。
悲しいけれど、その勘に自信がある。
カンナは、彼の話を聞きながら、何度も込み上げてくる哀しみの塊りを飲み込んだ。
へえ、そうなんだ。
そっか、なら、私が堂野君の彼女になる可能性なんてゼロだね。
そうだ、いつでも彼女のことや受験のこと、相談に乗るよ。
彼女とうまくいくといいね。
受験勉強も頑張ってね。
なんて、物分りのいい先輩風を存分に吹かせて、彼への思いを封じ込める。
軽いノリで付き合って欲しいと言ったことにして、精一杯平気なフリを演じてみた。
その方が、彼の重荷にならないし、カンナにとっても、この失恋が後を引かず、早く立ち直れるに違いないと思ったから。
カンナの話術にはまった彼は、心の中にたまっていたものを吐き出すかのように、次々と彼の身辺に巻き起こったことを語り始めた。
夏祭りの時に、人生最大のピンチが訪れたらしく、その時から彼女と一緒にいることが多くなったと、嬉しそうに話す彼。
そして、ふと真顔になって、国崎さん、すみません、自分のことばかり話してしまって……と謝ったりもする。
まさか、高校生が中学生相手に、真剣交際を望んでいるなどとは、夢にも思わなかったのだろう。
体のいい聞き役に徹していたカンナは、最後まで笑顔で、彼の話を聞き続けた。
高校生になれば忘れられると思った。
でも忘れることはなかった。
ならば……。
大学生になれば忘れられると思った。
けれど忘れる努力も虚しく、大学三年生になった時、彼がネットに雑誌にと、モデルとして世間に登場し始めたことで、カンナの思いに再び火がつく。
雑誌は全部買った。
時々ゲスト出演するテレビ番組やラジオも全てチェックした。
彼とデートした過去を知っている友人から、冷やかされたりもした。
そして二度目の失恋は、女優との交際宣言だ。
なんで、あの女優なんだろう。
どうして、親戚のあの子じゃないの?
相手が誰であれ、堂野遥はすでにカンナには手の届かない人になってしまっていたのに、不思議なことに、あの女優だけはどうしても許せなかった。
そしていつしか彼の姿を見なくなり、芸能界を引退したと風のうわさで聞く。
それから月日を重ね、ようやく……。
社会人を経て、穏やかな年上の伴侶にめぐり合った。
カンナは今、人生で一番幸せな時を過ごしている。
決して彼のことを忘れたわけではないけれど。
これでよかったのだ。
この幸せを手放す気はない。
夫を心から愛している。
二歳になったわが子の手を、夫と共に両側からつないで。
今また、中学校の校門のそばで葉を揺らす桜の木を、三人で見上げていた。
その時、なつかしい香りを含んだ風が、すっとカンナの横を通り抜けたような気がした。
はっとして振り返る。
けれど、そこには。
ベビーカーを押して連れ立って歩く若い夫婦の後姿が、次第に遠ざかって行くのが見えただけだった。
fin