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約束 1

 二ヶ月ぶりの温かで柔らかなベッド。まともな食事も提供されたが、がっついた挙句に吐き戻し、結局点滴で栄養投与という形に落ち着いた。医者の手配に至ったとき、さすがに恐縮したGINは断りの言葉を言い掛けた。だが、

「誰が恵んでやる言うた、これは貸しや。あとでキッチリ請求する」

 と凄んでGINの辞退を却下した安西の顔が、あまりにも海藤辰巳のそれを思い出させた。結局それ以上の自己主張を許さない雰囲気に呑まれ、厚遇に甘んじている。

 嘔吐の原因は、長い時間ろくなものを胃に入れていなかったところへ、急に大量に食べ物を摂取したせいらしい。やはり発熱もしており、それは過労によるものだろうという医者の診断だった。

「少なくても熱が引くまでは安静に、だとさ」

 安西はそう締めくくると、医者を送り出すために一旦寝室を出て行った。

 情けないと思うのは、このマンションの主が使うべきベッドを自分が占領していること。そして恩人に批難の声が向けられたこと。安西を批難したのは馬宮と呼ばれていた彼の秘書だ。呼び出された彼女と安西の口論している声が、リビングの方から寝室にいるGINの耳まで届いていた。そんな彼女が安西に託された仕事は、GINがスラムで迷う以前まで宿泊していたホテルへの対応。荷物や部屋の状況などの確認に加え、渡部薬品のラボへ赴いて一ヶ月分程度の鎮痛剤を調達して来ることまで請け負わされていた。

「ボルタレンは他社製品やさかいに、取り急ぎはうちので堪忍な」

 という安西の前置きに、GINは肩をすくめて縮こまった。

「いろいろと、すみません。帰ったら必ず返します」

「せやな。金以外で、よろしゅう」

 そう言って含みのある笑みを零されたら、嫌な予感で自然と愛想笑いが引き攣れた。

「金以外で、ですか」

「今は興信所をしてるんやろう? 日本に帰ったら、そっち方面にも何かと世話になる機会が多いさかいに、そんときは最優先に、ということで」

「……高い借りですね……」

 それはGINの心からの嘆きだった。日本で有名な大手企業の社長に作った借りは、返すときどれだけ倍加させられるのだろう。GINが知り合った当時は一介の被雇用社員に過ぎなかった久我貴美子も、今では渡部薬品で経営陣のポジションに収まっているらしい。そんな彼女は今、自らがGINの服を調達すると言って出払っている。それも一度は断ったのだが、

『アタシが服を選ぶって言ってんでしょ。いちいち敬語で命令してんじゃないわよ』

 と強い口調で命じられれば「はい」以外の返事を禁じられた気分になった。


 日常と錯覚してしまいそうなほどの、どこか笑いさえこみ上げるような穏やかなひとときは、そこで一旦終わりを告げた。

「さて。あんたから聞いた本間さんの連絡先では、特定のコール以外からだと回線が繋がらない仕様らしい。で、以前もらった連絡先やと、足がつくからアカンとあんたは言う。あんたのケータイはぶっ壊れてるし、どないせえ、と秘書に怒鳴られているわけだが、どないしたらいい?」

 詰問のような口調に、GINは堪りかねて上布団をずり上げる。「ガキか」というぐくもった呆れ声が、GINの鼓膜をそっと揺らした。

「悪いことは言わんさかい、餅は餅屋、って言うやろうに。人探しは現地の人間に頼んだ方がいい。あんたの話を聞く限り、探し人は黒人と違うやろう。橋向こうのあの区域はブラックの文化圏だったはずやで。普通は近づかへん地区や。方向音痴以前の問題やろう」

 その忠告には、強く首を横に振る。手ぶらで帰るわけにはいかなかった。今ここでのんきに寝ている時間すら、本当は惜しい。小さな溜息のあと、ライターの石が擦れるカチリという音がした。漂って来る紫煙の香りが、妙に懐かしい。スラムにいたときはドラッグしかなかったので、強制的に禁煙させられていたようなものだった。

「吸う?」

「!」

 無意識に布団から目だけ出していたのに気づいたのは、苦笑する安西の目と合ったからだ。下らない手に引っかかった自分に目を伏せながら、GINはおずおずと身を起こした。そして結局は、その好意に甘えてしまう。

「お互いオフレコにしたい事情がある、という前提で」

 安西が煙とともに、そんな言葉を吐き出した。

「ちと気になる名前が、あんたの思念から読めてんけど」

 その声に弾かれ、心臓がドクンと強い脈を打った。不可抗力とはいえ、この部屋まで彼に背負われて来た。彼の顔や手などの肌が露出した部分に、グローブと服の隙間や顔が触れるのを防ぐ余裕はなかった。

「ニュークなんとか言うその組織、ニューク・ケミカルと関係しているんかな」

 安西はそんな切り出しから、彼が気になっていることに付随するオフレコの概要を説明した。

 ニューク・ケミカルという医療化学関連の小さな会社と、渡部薬品が共同開発の研究を進めているXファイザーという製薬会社との間でトラブルがあったらしい。それに巻き込まれた格好で、渡部薬品はXファイザーから研究開発の契約を白紙に戻したいと言われているそうだ。

「Xファイザーの担当と腹を割って話してみれば、どうも協力関係にあったニューク・ケミカルが突然“消えた”らしい」

「消えた? 倒産ではなく?」

「せや。夜逃げでないのは確かや。機材一式、役員のみならず従業員とその家族まで、文字通り、一昼夜で突然消えてしもうた」

「そんなこと……可能なんですかね」

「さあな。せやけど、仮にXファイザーの虚言画策だとしても、こんなことはXファイザーにとってデメリットにしかならへん。あっちもかなり憔悴しとったし、嘘ではないと踏んでいる」

 安西は疲れた表情を浮かばせると、気だるげに紫煙を吐き出した。

「で、ニューク・ケミカルっていうのは、今回のXファイザー幹部との面談で初めて聞いた会社名やってんな。そんなけったいな名前をつけること自体が怪しいことこの上ないさかい、あんたの中にあったニュークなんとかいうのんと関係があるのかな、と」

「けったい、ですか」

「普通、“核”を表す社名なんてつけへんやろう」

「そか。特に日米間では慎重にならざるを得ないっていう考え方が普通ですよね」

「アクションを掛けた当初は、Xファイザーも優良企業やってんけどな。どうもここ数年の間に内部分裂があったらしい。今までは経営理念も似ている企業やってんけど、どうも今の社長は営利に偏り過ぎとってな。患者やその家族のニーズをまるで考えとらんさかいに、反りが合わんとは思うとったんや」

 そんなXファイザーの社長は、安西がニューク・ケミカルに関して尋ねても口を濁すばかりで要領を得なかったそうだ。

「どうも釈然としなくて、何か情報を掴まれへんかと、動いてるところやってん」

「そんな小規模の会社で、薬品の製造設備なんて可能なものなんですか」

「多分、不可能や。せやから、バックについているのがヤバいもんと違うかな、と」

「であれば、その共同開発、ですか? 白紙に戻したいというのを受け容れてしまえば、渡部薬品への被害も最小限で済むんじゃないですか。安西さんにとっても都合のいい話だと思いますけど」

「んー。まあ、Xファイザーを切ろうと思えば切れるんやけどな」

 安西はそこでなぜか一瞬言葉を詰まらせた。だがやがて、

「あっちはあっちで社員とその家族の生活が掛かってるさかい、どうにか出来るもんならしたいな、と」

 と、少しばつの悪そうな苦笑を交えてぽつりと零した。

「辰巳の件といい、安西さんって割とお人好しっすね」

「貴美子嬢にもよくそう言ってド突かれる」

 どうやら安西にとっても、久我貴美子は鬼門の女性らしい。ふたりはその一瞬だけ互いに引き攣れた笑みを零し、だがそのすぐあとにはしばしの沈黙が漂った。安西が何を考えているのかは解らなかったが、GINには嫌な憶測が浮かんでは消え、また浮かんでは澱のように沈んでいった。

「安西さん」

 先に口火を切ったのはGINだった。

「その、共同開発というのが、何の薬に関する研究なのか、伺ってもいいですか」

 渡部薬品と言えば、漢方薬と向精神薬の開発研究で復興を遂げた有名企業だ。それに思い至った瞬間、なぜか警視庁の地下にあったガラスケースが脳裏をよぎった。

「鎮痛剤や。モルヒネ以上の即効性と非依存性を兼ね備えた薬品の開発研究をしている」

 鎮痛、というキーワードに強い引っ掛かりを覚えた。

「渡部薬品は、向精神薬と漢方薬で有名な企業ですよね。鎮痛剤は、別の分野じゃあないんですか」

「いや、中枢神経に作用する薬品という意味では、同じ分野と言ってもいい。ホスピスに入所している患者が精神疾患を患う原因のひとつに、罹患による痛みがある。それを知ってから、そちらへも対応したいと考えての共同開発プロジェクトやった」

 中枢神経。鎮痛。強い痛み――頭痛。

「安西さん」

 あまりにも滑稽な憶測だとは思うが、根拠もなくうがった見方と感じた私見を彼に確かめた。

「脳自体には痛覚がありませんよね。それでも痛みを感じる、ということは、神経伝達物質が電気信号を脳へ送るから、ですよね」

「まあ、だいたいそんなところかな」

「たとえば、直接脳に電気信号が送られた場合は、それも脳は痛みとして認識するものですか」

「痛みとして認識するかどうかはさておき、脳へ直接電気信号を送ることで四肢の再活性化を図る研究は進められているな。実用化には程遠いものの、理論的にはアリだと思う」

「たとえば」

 最も訊きたい質問を口にするのに、異様に喉が渇いた。知りたいのに知りたくないという矛盾がそうさせた。

「たとえば、すごくこれはSFみたいなバカバカしい仮説なんですけど」


 ――脳が単独で生きていた場合、五感を代理する機材に脳を繋ぎ、電気信号の送受信で脳個体の活動が可能であれば、頭痛のリスクが伴うことも考えられますよね?


 安西は大きく目を見開き、次の瞬間、俯きながら口を押さえて噴き出した。だが「失礼」と言いながらGINに視線を戻した途端、堪えていたと言わんばかりの弧を描いた両目が、元の鋭いものへと戻った。崩れた表情も真顔に戻り、しばし思案に耽る。GINはそんな彼が口を開くのを辛抱強く待った。

「九割九分九里……ないな」

 安西は燻らせていた煙草をねじ消しながら、GINに噛み砕いた説明をした。

「電気信号を脳に認識させるには、化学信号に変換させる必要がある。末梢神経から送られるのはマイナスの電子」

「つまり、マイナスイオンで運ばれた情報を、脳へ送るときにプラス分子と結合させる必要がある、ということですか」

「そういうこと。変換にはカルシウムが必要不可欠だが、カルシウム化合物は毒性の高いものが多い上に、常温時では固体を成すのがほとんどだ。その問題が解決出来ている現状があるとすれば、世界がひっくり返っている。脳だけを生かしておくなど非現実的過ぎる。物理的に不可能だ、あり得ない」

 否定しながらも、安西はひどく不快げに顔をしかめた。GINという“あり得ない非現実的な存在”が目の前にいるのだ。そして文字通り忽然と“消えた”ニューク・ケミカルというもうひとつの非現実。

「……別の方向からXファイザーを攻める方がよさそうだな」

 いつの間にか、安西の口調がゆるい関西弁からビジネス色の濃い標準語に変わっていた。視線はすでにGINから逸れ、自社の展望や研究に関する諸々へと関心が向けられているのが一目瞭然だった。

「関わらない、という選択肢もありますよ」

 腕を組んで思案に耽る安西に再び打診するが、彼ははたと気づいたように顔を上げると、

「逃げるというカードは、若い時分にすべて使い果たした」

 と苦笑いを浮かべた。

「君子危うきに近寄らず、って言いますけど」

「うちに貢献してくれた向こうの社員が数多くいる。彼らが巻き込まれていると知った上で見て見ぬ振りが出来るほど、器用に生まれついてない」


 ――苦しんでいる人を一人でも多く助けるというのが、亡妻(みどり)との約束やさかい。


「女との約束を破ると、あとが怖いさかいにな。直接額に触れたあんたなら、あいつの性格もあらかた解ってるはずやろう」

 たとえ死んだあとでも、根に持ち続ける。そう言ってくつくつと笑う安西を、白いもやがうっすらと包んだ。それは恐らくGINにしか視えていない“白”だと思われる。


 ――アタシとの約束“も”、ちゃんと守ってくださいね。風間さん。


 一度だけ聴いた翠の声が、そう語り掛けて来た錯覚に陥った。

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