約束 2
GINが仮眠から目覚めた正午を過ぎた辺りで、久我が服の調達から帰って来た。GINの体温が微熱まで下がったと知った途端、久我は溜めに溜めた七年間分の罵詈雑言をまくし立ててGINを苦笑させた。
それからほどなく昼食に出ていた安西と馬宮がふたり揃って帰宅した。
「ダメ元で風間事務所に電話をしてみたら、本間警視正の携帯電話へ転送されました。荷物などはこちらへ出向いている本間さんの部下が回収したと仰っていました。よかったですね、この辺りをまともに認識している方がお迎えに来てくださるそうです」
と報告する馬宮の声はかなり尖っていた。
「はあ……どうも、すみません。ありがとうございます」
「社長が知らせろと言うのでここの住所を伝えました。ですが、私どもでは本当にそちら関係の方なのかどうかを判りかねますので。フラフラなところを大変申し訳ございませんけど、訪ねて来られたらあなたご自身で確認をお願いします」
つっけんどん且つ慇懃無礼な口調でそう述べる馬宮がすこぶる不機嫌なのは明白だ。安西の警戒心のなさに苛立っている、といったところだろう。
「馬宮、態度に出し過ぎ」
笑ってやんわりとそう諭す安西は、彼らしくもない遠慮がちな態度で秘書に接した。社長と秘書の間柄とは何か別の関係を感じさせる。そうとは口に出来ないものの、GINは無意識のまま不思議そうに小首を傾げて三人の年長者が交わすやり取りを見守った。
「だって、体裁を取り繕ったところでなんのメリットもないじゃないの」
「だからってストレート過ぎるっちゅうねん。子供じゃあるまいし」
「まーみーや。穂高はともかく、アタシも風間の身元は保障するって言っているでしょ。心配しなくていいの」
「もう、なんなの? ふたりして私にはナイショってこと? だいたいね、貴美子先輩も穂高くんも自分の立場に対する自覚ってのがないの? あまりにも危機管理がなってないわ」
馬宮のその口振りから、彼らの相関関係がなんとなく察せられた。言いたいことを言い合える信頼関係を懐かしく思い出し、そんなやり取りに少しばかりの羨望を覚えた。
(紀由、怒ってるかな……怒ってるんだろうな……)
ここの連絡先を伝えたと馬宮は言った。それにも関わらず、馬宮が戻るまでの間に一度も連絡が入った様子はない。アメリカにいる部下とは、恐らくキースのことだろう。自分の存在価値が、紀由にとって代理にことを任せられる程度にまで堕ちた気分にさせられた。
頭上を通り過ぎてゆく喧騒は、GINの耳にはあまり入っていなかった。ぼんやりと自分の手を見る。グローブの向こうにある自分の素手が、赤く染まったまま落ちていない。ぬるりとした錯覚を覚えた。
(……こんな手でも、“助けてくれてありがと”って……また言って、くれるかな……)
全部、知っている。それも含めて、それでも同じ場所で一緒に生きていたい。そう言ってくれた少女の笑顔見たさに、両の手を握りしめた。
幻聴かも知れない。眠りに就く前、安西と話していたときに聴こえた彼の亡妻が紡いだ言葉。
“アタシとの約束も”
彼女は、約束“を”ではなく、“も”と並列をにおわせた。GINにはもうひとつ約束があるはずだと言いたげに。気の中に個として留まったまま安西を見守る彼女には、自分の思念が視えたのだろうか。
――あたし、諦めないから。
言外に交わした約束を守りたい。由有に由良の二の舞を踏ませるわけにはいかない。そんな想いからまた浮き足立ったところで、隣のリビングから響いたインターホンの音がGINの焦りを遠回しに諌めた。
「いらしたみたいですね」
馬宮がそう言って、GINのベッド脇から立ち上がる。同時に、GINをリビングにあるモニターへと暗に促した。GINはゆっくりとベッドから降り、彼女に遅れてリビングへと足を運んだ。隣室までの短い距離さえ、移動に苦痛を感じたが。
「……え? 子供?」
インターホンのモニターを覗いた馬宮が、意外な声で呟いた。その声に弾かれる。
(まさか、レインも? ニュークやリザに狙われているかも知れないのに?)
子供という単語が、GINの歩みを急がせた。
『じーん、生きてるー?』
モニターには、カメラに向かって手を振りながらキースに抱きかかえられているレインの元気そうな明るい笑顔が映っていた。
少女の存在は、部外者を隣室に追い払う格好の釣り餌になった。また、女性陣とのいい緩和剤にもなったようだ。馬宮の尖った態度も和らぎ、レインに果汁百パーセントのオレンジジュースを勧めながら寝室を出て行った。キースの機転というよりも紀由のそれだと思ったが。
「いつまた拉致られるかわかんねえから、いつも連れ歩いてる。もうレインを置いていくのは懲り懲りだ」
安西がキースの流暢な日本語と、その内容に目を丸くした。キースはそんな彼を尻目に、ためらうことなくきな臭い言葉を口にした。
「ハニーは零がこっちへ来るまで手配したホテルに軟禁。回復してから日本へ戻れ、だとさ。本間からのハニーへの指令は、以上」
と、当然といえば当然過ぎる指示が出た。キースはそれ以上GINへの指示はないとでも言いたげに視線を逸らし、安西へ向き直った。
「社長サンへの伝言。うちのバカが世話になった経費を請求してくれって。これが本間のダイレクトコールな」
と紀由の連絡先を彼に手渡したキースは、聞く耳を持たないとアピールしているようにしか見えなかった。
「キース、まだなんにも手掛かりを掴んでない」
GINはごり押しでふたりの間に割って入り、紀由からの指示に異論を唱えた。
「俺は帰るつもりなんか」
と言い掛けた言葉が、キースの発した安西への忠告と重なった。
「それと、社長サンも火の粉を被る前にXファイザーから一度手を引いて日本へ戻れ、だそうだ。Xファイザーの社長は近々消される。表舞台の政治屋どもが自由を手に入れたから」
ふたつの険しい視線が一斉にキースの方へ集中した。
「どういう」
「意味だ」
GINと安西の声が重なった。
各国の闇組織が、異常な速さで抹消されている。
キースからの報告は、端的に言えばそういうことだった。“草”と呼ばれる存在の消失は、ある国では政治家たちを臆病にさせ、また別のある国では主従逆転化していたため異様な活気を見せているらしい。サレンダー消失に対する日本の対応は、後者と断定出来る反応だろう。キースは詳細を語りながら、長い銀髪を指に絡ませては乱暴にほどくという無駄を繰り返していた。彼が苛立っていることは容易に想像がついた。
「そっか、もう本庁の台場移転が済んでいるのか」
「報道されていた予定よりも随分早かったんだな」
GINと安西は、それぞれが日本を離れている時間を振り返り、改めて時の流れを認識させられた。
「みたいだな。俺は部外者だから詳しい内容はよくわかんねえけど。稼動してない旧庁舎で、これまで以上に光熱費が増えているんだってさ」
「ってことは、見えないどこかで誰かが何かを稼動させている、ということなんだろう」
「イエス。地下層のシステムが、一部使えなくなったらしい。あんた、パニクって完全には破壊してなかったろう」
そう言われてギクリと肩をすくませる。紀由には破壊した理由がばれているのだろうかと不安になった。
「あんたが壊し損ねた部分からデータのログを掘り起こして照合した、って言ってた。推測の域を出ない、とは言っていたけど、各国の組織消失と無関係ではなさそうだってのが本間の結論らしい」
と言葉を続けたキースの口から由良の名が出なかったことに、GINはそっと安堵の溜息を漏らした。肝心の部分はきちんと消すことが出来ていたようだ。
「ってことは、俺らのラスボスってヤツが動いてる、ってことか」
「イエス。そいつの正体については訊かれても答えらんねえぞ。その辺の質問は、こっちもスルーされた」
「そか」
GINとキースがそんなやり取りをしている傍らでキースに手渡された資料を読んでいた安西が、次第に顔色を変えてゆくのを視界の隅に捉え、つい彼の手元に視線が移った。彼が無造作にめくっているように見える、その資料の数は膨大だ。
「信じられん。まさか、この研究がアメリカでまだ続けられているとは思ってもみなかった」
安西はGINの腰掛けたベッドへ手にしていた資料を放り投げると、深い溜息をついた。
資料の表紙には、“脳移植の被験者リスト”という見出しが印字されていた。GINがおずおずとそれを手に取り、パラパラと資料を繰ってみる。そこに実験内容は一切記されておらず、人名と登録時点での居住地が列記されているのみだ。被験者の氏名はところどころが青色と強調文字で装飾されており、その行間と行数から察するに、目を剥くほどの人数だ。
(被験者の整理されたリストもあったなんて。あのデータは氷山の一角だった、ってことか)
その資料は、GINが渡米前に本庁の最地下層で見た資料も含まれていた。
「まだってことは、過去には実験が公にされたことがあるんですか」
「猿を使った実験で、一週間生存していたと発表されたことがある。当時は世界中で物議をかもしたらしい。まだ俺らが生まれてもいないころの古い話だが」
そう語る安西の険しい表情に言葉を失くす。背筋を凍らせるその表情が、GINに口をつぐませた。
「脳のすげかえ、という内容だった。気絶という逃げ道も許されない状況下で、神経系回路を繋ぐ実験だ。正常に繋がっているかどうかの反応を見る必要があるという理由から、麻酔を使わずに行われたらしい。そういった非人道的な実験内容に、批判や反対運動がかなりあった。それ以来こういった類の実験は禁忌だと認識していたんだがな。想定外の話だ、これは」
安西は独り言のように小さく唸り、親指の爪を噛んだ。乱暴に煙草を取る手は震えている。彼のそんな仕草が、頭に血の上り掛けていたGINを少しだけ冷静にさせた。
「社長サン、ニューク・ケミカルのことを調べてたんだってな。あれはニューク・ファイブが作ったダミー会社だ。この実験をやらせていたのが、ニューク・ファイブってことらしい」
それは恐らく、紀由がこの資料とともに安西へ手渡すよう指示したことなのだろう。キースは彼が今最も欲しがっていた情報を口にした。
「なるほどな。道理でいくら探っても空振りが続くわけだ。一般人の手には負えん物件、ということか」
「イエス。政治を牛耳ってる連中がこれを知れば、戦争が始まりかねない。というわけで、これ以外の資料は全部、マスターデータごと本間が消去した。ニューク・ファイブがXファイザーに自分の手駒を仕込んだのは、この名簿の面子を集めるのに何かと都合のいい優良企業だったからなんだと。ま、モルモット集めも今はもうストップしたけどな。組織自体が消えちまったわけだし」
この人体実験のせいで稼ぎ頭を失くし、困窮に喘ぐ家族が数多くいる。対応出来る範囲内で、また、その気があればで構わない、という前置き付で、紀由から安西へこの資料を渡せと言付かったそうだ。
「不要になったら、その資料も確実に破棄しろ、だってよ。随分本間の信用が厚いのな。個人的な知り合いか?」
疲れたように椅子の背もたれへ身を預けていた安西の眉が、ひくりと小さく動いた。
「信用とはベツモノだ。遺族のフォローについては了解、と本間刑事に伝えてくれ」
彼はそれだけに答えを留めると、一度は捨てるように投げた資料へ再び手を伸ばした。
「ラジャー。さて、社長サンに話せる情報はここまで。あとはこっちの話だから、このバカを連れて帰るぞ」
キースがそう言って早々に椅子から立ち上がる。驚いて見上げたのは、GINだけではなかった。
「待ちぃさ。まだ安静が必要や」
「タクを使うから問題ねえよ。ハニー、その程度なら動けるだろう。行くぞ、さっさとしろ」
そう言ったキースに上掛けを引き剥がされる。全身に一瞬寒気が走ったものの、これ以上の長居は安西を危険に晒すことになる気がした。
「うぃ」
気のない返事をしながらベッドから足を投げ出し、靴を履く。
「待て。まだ肝心なことを聞いてへん」
資料を束ねていた安西が、人質のようにGINの腕をキースから奪い返して彼をねめつけた。
「このデータのソースは、どこだ。成功例はあったのか。高木さんの秘蔵っ子なら、それくらい調べ上げているはずだ」
と言及する安西を見下ろしたキースは、蔑むような冷ややかな声で言い捨てた。
「俺は聞いてねえよ。それに、もし仮に聞いていたとしても、小綺麗な道しか歩いたことのない一般人のあんたに話す気はないね」
キースはそれだけ言うと視線を逸らし、GINと安西に背を向けた。
「社長サン、あんたが首を突っ込めるような話じゃねえ。あんたは自分の守れるものだけ守ってりゃいい」
キースは吐き捨てるようにそれだけ言うと、レインの待つリビングへさっさと向かってしまった。寝室を出てしまった彼のあとを、GINも急ぎ足で追い掛ける。
「おい、キース。もうちょっと言い方ってのがあるだろうに」
肩を並べて隣からそうごちると、キースがGINにしか聞こえない小声で囁いた。
「知らなくて済む立場の人間が、わざわざブラックなネタに足を踏み入れる必要なんかないだろう。巻き込むな、ってのも本間からの指示だ。黙ってついて来い」
そう語るキースとGINの背後にいる安西からは、ふたりを引き止める気配を感じなかった。GINは肩越しに彼を振り返り、その横顔を窺った。
「……」
安西は口惜しげに唇を噛んで、じっと資料を見据えていた。彼の眉間には苦悶の皺が深く刻まれ、資料を握りしめる手は震えていた。
己の守備範囲や立ち位置を自覚する理性と、それに承伏しかねている感情がせめぎ合っている。GINの目には、そう見えた。
「安西さん。必ず本間に事後報告をさせますから」
GINは彼にそう告げるのがやっとだった。




