In New York 3
麻痺した理性が戻って来たときにGINを襲ったのは、激しい後悔と自分自身への恐怖だった。頭痛の解消が薬の効果によるものだったとしても、零の《育》を借りずに休息もない中、短時間で《能力》が回復していた。それは説明のつかない新たな現象。自分の中にある攻撃性にもおののいた。少しだけ紀由から理屈を聞いてはいたが、感情の起伏と《能力》の強弱が関係しているのを実感したのは子供のころ以来だ。だが、幼いころの感情的な爆発から来る発動とは比べ物にならない破壊力だった。
また手を穢した。それも、保身のために。あれからふた月が過ぎた今も、ループする罪悪感がタイロンの言葉を思い出させる。
“己の守護精霊を辱める愚行を犯すな。導きの声を、聴け”
それが思い浮かぶたびに、錐のような痛みがGINの胸を刺す。
「導きの声なんて、聞こえないよ……」
由有が、見つからない。なんの情報も手に入らない。施設暮らしの苦痛が生ぬるく感じるほどの別世界に、ひどく疲弊していた。
隙を見せたら返り討ちに遭うのは解っていた。ほとんどまともに眠れない日が続く中で、虚勢を張って二ヶ月近くも過ごした。いくら最初に《送》で恐怖心を叩き込んであったとしても、いい加減《能力》をコントロール出来ないほど弱っている現状に気づかれてしまうころだ。スラムを無事抜け出せたことは、奇跡に近い。
イースト・ハーレムの観光区域が見えて来た辺りまで来ると、気がゆるんだのか、一気に力が抜けた。
(やべ……せめて、人目のつかないところに行かないと)
この格好で卒倒していたら、観光客を狙ったストリート・ギャングと間違われて警察に通報されてしまう。早朝の極寒の中、ようやく昇った陽射しを恋しく思いながらも、GINはビルの狭間まで這いずり、重い身体を滑らせた。
「何やってんだ、俺」
膝を抱えてうずくまる。薄暗いビルの狭間は、施設の押入れを思い出させた。
これからどうすればいいのか解らなかった。ホテルに帰ればいいのだろうか。二ヶ月も連絡をしないまま、延滞した分は未払いなのだ。荷物は処分され、部屋も確保されていないだろう。それともそれらは、宿泊名簿に記載した住所へ返送されてしまっただろうか。
「……腹、減った……」
遠のき始めた意識の中で、本能的なモノだけがGINの意識をとどまらせようとする。
「……由有……」
――お前、どこにいる?
導きの声なんて、聴こえない。辿る思念の中にさえ、彼女どころか、その足掛かりになるようなものさえ視えない。自分がこうしている間にも、由有に何が起きているのかわからないというのに、何ひとつ手立てがない。
そんな焦りが睡魔や空腹と格闘する。もう一度立ち上がろうと、抱えた膝をのろのろと解いた。握り拳を開いて壁を支えに力を入れようとしたそのとき。
(?)
不意にはっきりと“白”を感じた。それが何のイメージなのか、思い浮かべたGIN自身にさえ解らない。咄嗟に湧いた言葉が“白”だった。不可解な安堵感が、GINの全身を脱力させる。重くなった瞼が閉じ始めるのを無理やり上げて、大通りの方へと視線を泳がせた。感じる“白”を視ようと足掻き、少しだけ首を上に傾けてみると、その先には人影がぼんやりと見えていた。
「(誰かいるのか?)」
模範的な英語で問い掛けて来る男性の声がした。朝陽の逆光で、声の主の顔は見えなかった。シルエットが通りすがった彼の長身を映し出す。こんな朝早い時間では、店など開いていない。なのに、その男性はスーツ姿の上に厚手のコートを着込み、いかにも今から出勤するとばかりのいでたちだ。
(エリートなんだろうな。遠目でも既製品じゃないって判る仕立てだし)
などとどうでもいいことを考えた。壁にもたれた体を支える力もついには失せた。GINの体が傾くに従い、そのシルエットも縦と横を入れ替え始めた。
「お、日本人か? ってか、行き倒れ?」
懐かしい母国語が、一歩近づいた影から紡がれる。それに小さく頷くのがやっとだった。
「いきなり散歩につき合えなんて言っておいて、何先にさくさく行っちゃってるのよ、あんたって子は」
と女性の荒ぶる声がしたかと思うと、人影の隣にもうひとつの影が立った。
「ちょっと、聞いてるの……って、え? ちょっと、あんた、ひょっとして」
(あれ? この声……どこかで聞いた気がする)
半分以上閉じた瞼の向こうに、赤茶色をした長いウェイブの髪を見た。それも、やはりどこかで面識のある女性だと思わせた。
「貴美子さんの知り合いか?」
貴美子。その名前も知っている。誰だったかとGINが過去を辿る間にも、見知らぬふたりの日本人はのんきな会話を続けていた。
「知り合いっていうか。個人的にはあんまり会いたくなかったヤツね。日本人でグローブをつけてる人って珍しいから、人違いじゃないとは思うけど。使い込んでる感じじゃない?」
「なるほど……。翠が夢枕に立った理由が解った気がするわ。この人を助けろってか」
「くぅが夢枕に? あんたがそういうのを信じるなんて意外」
「俺は頑固親父か」
「自覚ないの? っていうか、そんなのどうでもいいわ。それより、どうしてこの人がこんなところにいるのかしら」
そんな会話を交わしながら、ふたつの影がビルの隙間へと更に足を踏み入れて来た。
「あんた、風間刑事でしょう?」
「!」
本能的な危機感が、GINを一時的に覚醒させた。閉じた目を見開き、崩れ掛けた姿勢を正して壁に手をついた。
「アタシ、久我。久我貴美子よ。“ぺーぺー刑事”って引っ叩いてやったのを覚えてる?」
その名前が過去の人名リストをソートする。その声が自分のことを過去にもそう呼んだ記憶が蘇った。
「げ、貴美子さん、それ公務執行妨害でパクられるんと違うんか?」
何も知らないという声が彼女の隣で漫才に近いツッコミを入れた。そんなやり取りが、自分の置かれた状況とは別世界だと感じながら、GINはかじかんだ唇を開こうと躍起になった。
「公務じゃないわよ。藤澤会事件のときの、あの裏計画を知っていたデカよ、コイツ」
彼女のその言葉が、記憶から引きずり出して来たことがらと完全に一致した。
久我貴美子。七年前の藤澤会幹部銃乱射事件直前に、海藤辰巳と高木がやろうとしていた藤澤会幹部殲滅計画の詳細を調べるに当たり、重要参考人として聴取した人物だ。久我は当時、海藤辰巳の元愛人として行方不明だった彼を匿っていると踏んだGINと零の独断による聴取対象だった。
思い出した。だが、そう返すための声が出ない。凍えて固まった唇が、GINの発言を容赦なくを阻む。
「風間って、高木さんの部下だった刑事の、ノンキャリの方か」
久我の隣に佇む男が、自分や自分の知る人物の名を口にした。ビルの狭間に射し込んで来た朝陽が三人を照らし出す。そこで初めて彼の顔を認識し、その瞬間GINの心臓が悲鳴を上げた。
(まさか。だってこいつは)
日本人にも関わらず、ゆうに百九十センチは超えているであろう長身の男は、その大柄さだけでなく風貌までがGINの記憶から消えることのない人物と同じだった。
「そ。でも、どうしてこんなカッコで? 組織犯罪で動くとしても、こっちの警察に任せるのがセオリーだろうし」
「つうか、貴美子さん、今はそれどころと違うんちゃうか? 風間さん、うちらのマンションが通りふたつ向こうにある。取り敢えずそこまでは動けそうですか?」
その顔、その風貌から、初見みたいな言葉が出るとは思わなかった。関西弁も似合わない。あの男は東京生まれの東京育ちだったはずだ。何より、あれから七年の歳月が過ぎている。彼があのころと同じ姿など、あり得ないはずだ。
(けど……まんま、辰巳じゃんか……どうして……生きてる?)
GINの息が浅くなる。夢と現実の境が解らなくなる。
「うちにひと通りの常備薬があるさかいに、まずは治療せんと。傷の化膿がひどい」
そう言いながら近づいて来る彼の手が、GINの混乱を呼んで防御本能を働せた。
「さ、わるな……ッ!」
咄嗟に伸びて来た手を払いのけた。だがその手があっさりと相手の手に掴み返され、封じられてしまった。わずかに燻っていた《能力》が、GINの視界を少しずつ緑色に変えていった。
「あんた、瞳が……ってか、え、なんやこれ」
明らかに驚きを表す声がGINの肩を上げさせた。マズい。そう思ったときにはすでに、男の差し出して来たもう一方の手がGINの額に触れていた。コントロール出来ない《送》が、彼の掌を介して駄々漏れに伝わっていく。
「あんた、刑事を辞めてたんか。何やって」
「離せッ! 海藤辰巳、どうして貴様が生きている!」
堪り兼ねて彼を押しのけた。明るい茶髪は短く整えられ、どこかいい企業に勤めているエリート風情な見た目に変わってはいるが、かもし出す雰囲気を見誤るはずがない。切れ長の涼しげな目許は、常に上から人を見下ろし、無自覚の威圧を放っている。口許だけがゆるんでいて、目は笑っていない。冷静な目が、GINをつぶさに観察するとともに警戒もしている。その慎重さは、七年前に焼きついた抗争時の海藤辰巳を彷彿とさせた。
「落ち着け。眼の充血が発熱時になるそれと似てるさかいに、検温しようとしただけや。噛みつくな」
途端に命令形に変わった口調は、まるで調教師が捕らえたばかりの野生の獣をなだめるような信憑性を感じさせた。だが理性が懐柔されることを許さない。GINは《流》でこの場を逃れようと脚に意識を集中させた。
「痛……ッ」
それが叶わずうずくまるGINの頭上から、小さな苦笑が降って来る。手負いの獣を鎮めるような低い声が、ゆっくりと言の葉を紡いだ。
「辰巳を知る人間からは、よくヤツと間違われる。けど、あいつは、もういない。翠に遺骨を届けてくれたのは、あんたと本間刑事やろう」
――その節は、辰巳の遺骨とメッセージを届けてくれて、ありがとうさんでした。
辰巳の遺骨、という言葉が、あの乱射事件後のことをGINに振り返らせた。
高木と辰巳は、例えるなら紀由と自分の関係に近しいものがあったように思う。使命とは別に、個としての信頼関係にあったと言えばいいのだろうか。
そんな彼らには、ふたりの少女、という共通の宝があった。
守谷克美。海藤辰巳の育てた内縁の女。売春宿で匿われていたところを、辰巳が引き取って育てた少女。高木も実の娘のような思いで彼女を気に掛け、潜伏中の辰巳ともども見守って来たということは、辰巳の思念を読んだ藤澤会事件のときに初めて知った。
安西翠。高木が辰巳絡みの別件で保護した、克美の心友。高木が別件の解決後も事件のトラウマで苦しんでいた彼女を自分の身近に呼び寄せ、自分の娘として扱い、慈しんでいた。
辰巳の死によって克美の心が壊れることを憂慮した翠の意向により、その事実を克美から隠蔽した経緯がある。そのころの翠は結婚していたが、克美の傍にある療養所で不治の病の治療を受けていたため、夫とは別居していた。
『あなた方を克美ちゃんに会わせることは出来ません。でも、もし私に何かあったとしても、辰巳さんが遺した想いを彼女に伝えたい、というあなた方のご意向は主人に伝えておきます』
そう言って克美の行方について、かたくななまでに口を閉ざした翠に対し、GINと紀由は「何かあれば連絡が欲しい」と名刺を渡してあった。彼女が事後を託すとしていた彼女の夫本人とは、結局これまで会う機会を得られないままうやむやになっていた。
『だから辰巳さんの遺骨をお渡しください。私と主人が責任を以てお預かりいたします』
近づいて来た、白。目の前にいる彼らをそうイメージした理由が、今判った。安西翠の放つオーラは、純白だった。彼女が夫を導いてくれたのだ。GINが彼女と交わした約束を果たすまで、その使命を果たすまでは死ぬ権利さえないと言わんばかりの強い主張。彼らの周辺に漂う彼女の気配を、GINの《送》がうっすらと感じ取った。
(ってことは、翠さんは……そうか……)
彼女の死を知り、複雑な心境になる。彼女はGINの《送》を知っても怯えることなく、ありのままを受け容れてくれた。だが、かすかな希望がGINの警戒を解いた。グリーンを帯びた景色が、普通の色合いに戻ってゆく。
「翠さんから、俺が思念を《送》って辰巳のメッセージを彼女に伝えたことも聞いている、ってことですね」
目の前に膝をつき、視線を合わせる辰巳とよく似たこの男は、つまり。
「あなたが、安西穂高――渡部薬品の、社長さん、ですか」
「せや。初めまして。サイキック殿」
金と薬と紀由への連絡手段。そのすべてを携えた存在が、そう言って苦笑した。




