第2話「ミミ」
月に一度、私は大崎まで足を延ばす。
目黒川から坂を上り、線路沿いを少し歩いた先に、古いアパートがある。二階建ての、どこにでもある建物だ。ブロック塀に囲まれた狭い敷地があって、入口はガラス戸になっている。私の担当地域の、いちばん端にあたる。
この日を選んで行くのには、理由がある。
「おや、ミミ」
ブロック塀の内側で、箒を持った老人が顔を上げた。灰色の作業着に、紺のジャンパー。このアパートの管理人だ。住んではいない。月に一度、どこからか来て、敷地と廊下を掃いて帰っていく。
私は塀の上に座って、老人を見下ろした。
ミミ、というのは私のことだ。左の耳の先が欠けているから、ミミ。初めてここに来た日に、老人がそう呼んだ。それ以来、月に一度、同じ名前で呼ばれている。
名前をつけられるのは、くすぐったい。
私の名前はキースで、それは自分で名乗っている。人間がつける名前は、人間の都合だ。麦穂の人間は私を呼ばないし、商店街の魚屋は「チビ」と呼ぶ。もうチビではないのに。銭湯の女の人は「サブロー」と呼ぶ。どれも私の名前ではない。けれど、この老人の「ミミ」だけは、なぜか嫌ではなかった。
老人は餌をくれない。撫でようともしない。ただ箒を動かしながら、ときどきこちらを見て、目を細める。それだけだ。
「ミミ?」
足元で、ミントが首を傾げた。昨日から、結局ずっとついてきている。
「人間が勝手に呼んでるだけだ」
「キースって、いっぱい名前あるの?」
「ない。おれの名前は、一つだけだ」
老人は敷地を掃き終えると、ガラス戸を開けて、建物の中へ入っていった。戸の向こうに、まっすぐな廊下が奥まで延びている。老人は、その突き当たりへ歩いていった。
そこに、倉庫の扉がある。
古い金属の扉で、掛け金に南京錠がかかっている。その錠には、鍵が刺さったままになっている。抜き忘れではない。いつ来ても、刺さっている。
老人は扉の前で立ち止まり、指先で鍵の頭を一度だけ撫でた。それから何事もなかったように、階段の方へ歩いていった。
私は、あのアパートの敷地に入らない。
ローザに、そう教わった。あそこには入るな。理由は聞くな。子猫だった私は聞かなかったし、今も知らない。
ただ、ガラス戸越しにあの扉が目に入ると、体が勝手に変わる。
黒目が、まんまるに開く。耳が、後ろへぺたりと倒れる。尻尾が、後ろ脚の間に巻き込まれていく。脚が折れて、腹が地面に近づいていく。唸ろうとしても、喉から声が出ない。見つからないように、見つからないようにと、体が勝手に小さくなろうとする。
よどみの前では、こうはならない。よどみの前では、背中の毛が逆立つ。背中が丸く盛り上がって、喉の奥で唸り声が鳴る。体が、大きくなろうとする。
体が大きくなる相手とは、戦っていい。体が小さくなる相手からは、逃げなさい。
ローザは、それしか言わなかった。
あの扉の向こうにあるのは、よどみではない。よどみなら、見える。あそこにあるのは、見えない何かだ。
「あの扉、なに?」
ミントが、敷地の中へ、とことこと歩きだした。
塀から跳んで、首根っこをくわえた。ミントが「みゃ」と鳴いた。
「入るな」
口から離して、言った。
「なんで」
「入るなと、言われてる」
「だれに」
「先代に」
ミントはまだ何か聞きたそうだったが、私の顔を見て、黙った。私の耳は、まだ半分、後ろへ倒れたままだったらしい。
夕方、アパートの住人らしい男が帰ってきた。鞄を提げて、少し疲れた顔で、敷地の中を入口へ歩いていく。
入口の手前で、男は塀の上の私に気づいた。
目が合った。男は少しだけ頭を下げた。猫に会釈をする人間は珍しい。私も、瞬きを返した。
男の背中に、薄いよどみが一枚、張りついていた。乗っているのではなく、背中の形に馴染んでいる。長いあいだ、自分で抱えてきたものだろう。
こういうよどみは、剥がさないことにしている。私の、勝手な決めごとだ。
男は、ガラス戸の向こうへ入っていった。手前から二つ目の扉の前で立ち止まり、鍵を回す。それから、廊下の奥へちらりと目をやった。突き当たりの、錠の扉の方へ。何も見なかったように顔を戻して、部屋に入った。背中のよどみは、重そうには見えなかった。
*
アパートの裏の空き地に回ったとき、嫌な音がした。
何かを噛み千切るような、湿った音。それに混じって、細い声がした。
空き地の真ん中に、黒い塊が寄り集まっていた。
小石ほどの塊が、十も二十も、くっつき合って、子犬ほどの小山になっている。山の表面から、小さな耳がのぞいていた。折りたたまれた細い脚が、はみ出していた。昨日の夕方、私の担当の路地に転がっていたのと、同じ塊だった。
背中の毛が、ざわりと逆立った。
その小山に、一匹の雄猫が食らいついていた。
茶色の虎柄。私より一回り大きい。首から肩にかけて、古い傷がいくつも走っている。そして口元から、普通の猫ではありえない長さの牙が伸びていた。ふだんは、ただの猫の牙だ。よどみを前にしたときだけ、あいつの牙はこうなる。
牙が、小山に深く刺さる。首を振る。黒い塊が、ぶちぶちと千切れて飛ぶ。
そのたびに、鳴いた。
噛まれた塊が、鳴いていた。猫の声のような、もっと小さな何かの声のような。声というより、喉の奥で潰れた息に近かった。ミントが、私の後ろで身をすくめた。
小山は噛まれるたびに崩れ、最後のひと噛みで、ばらばらになった。けれど、消えたわけではなかった。千切れた塊が、空き地のあちこちに散らばって、丸まったまま震えていた。十も、二十も。
雄猫は口元を前足で拭って、こちらを振り向いた。
「遅えんだよ、キース」
アーサーだ。
隣の地域の担当で、私と同じ年。ローザの地域を、二匹で分けて継いだ。自分で、アーサーと名乗っている。
「お前の担当の端っこで、こんなもん集まらせとくなよ。おれが片づけてやったぜ」
「頼んでない」
「頼まれなくてもやるさ。帳簿に載るからな」
アーサーは、にやりと笑った。獲物を失った牙が、ゆっくりと元の長さに縮んでいく。
「今月、いくつだ」
「教える必要はない」
「おれは十九。ご飯の機会、七つだとよ。お前は?」
答えなかった。アーサーは、それで分かったという顔をした。
「相変わらず遅えな。ごろごろ喉鳴らして、一個ずつ丁寧にほどいて。そんなんじゃ、帳簿は埋まらねえぞ」
ミントが、私の後ろで縮こまっていた。アーサーの牙が怖いのだろう。
アーサーはミントをちらりと見て、鼻を鳴らした。
「何だ、そいつ。拾ったのか」
「ついてきただけだ」
「ふうん」
アーサーは、それ以上何も言わなかった。けれどその目が一瞬だけ遠くなったのを、私は見ていた。
アーサーの牙は、誰に教わったものでもない。
あいつは、捨てられた段ボール箱の中で生まれた。兄弟と一緒に、雨の日の公園に置かれていた。母親は来なかった。人間も来なかった。何日も、箱の中で、噛めるものは何でも噛んで、空腹をごまかした。段ボールの角も、濡れた新聞も。兄弟は一匹ずつ、動かなくなっていった。
動かなくなる前に、兄弟たちは鳴いた。寒い。怖い。その声が箱の底に溜まって、黒く固まった。
あいつは、それに噛みついた。兄弟の怖さを、噛んで、噛んで、ほどいた。最後の一匹が動かなくなったとき、箱の底には、もう何も残っていなかった。
箱から這い出したとき、あいつの牙はもう伸びていた。そして誰に教わるでもなく、目の前のよどみに食らいついていた。
ローザがあいつを見つけたのは、その頃だ。年老いた雌猫は、牙を剥く痩せた子猫の前に座って、長いあいだ喉を鳴らしていたという。それから、ついてきなさい、と言った。噛み千切るだけでは、よどみは散らばるだけ。芯まで噛みなさい、と。
私がローザの後ろをついて歩くようになったのは、その少しあとだ。
だからアーサーは、私の兄弟子にあたる。本人は、絶対に認めないけれど。
ローザが最後に路地の奥へ歩いていった夜、残された私たちは、塀の陰に並んで朝を待った。そのときに一度だけ、あいつが話した。箱の中のことを。動かなくなっていく兄弟を、噛むことしかできずに見ていたことを。
「また、見てるだけかよ」
あいつはそう言って、それきり黙った。その話を、あいつは二度と口にしない。
ローザの報告書は、数すらまばらだった。担当を継いだ夜に読んで、それを知った。アーサーを拾った日のことも、私を拾った日のことも、ローザの帳簿には一行もない。
「後始末くらい、しなさいよ」
頭の上から、声がした。
見上げると、空き地を囲むブロック塀の上に、一匹の雌猫が座っていた。
黒と灰色の、細い縞。痩せていて、目が鋭い。尻尾の先だけが白い。
雌猫は、背中の毛を逆立てた。
次の瞬間、毛が飛んだ。
逆立った毛の何本かが、針のように細く固まって、散らばった塊めがけて一直線に飛んでいく。一本、また一本。刺さった塊は、すぐには消えなかった。刺さったまま、しばらく小刻みに震えて、それから弾けて消えた。十も二十もあった塊が、一つずつ、一つ残らず消えるまで、雌猫は毛を飛ばし続けた。
アーサーが、舌打ちをした。
「余計なことすんなよ」
「余計じゃないわ。あなたが散らかしたのよ。放っておいたら、また集まる」
雌猫は、塀から音もなく降りてきた。
「ノア。先週から、この先の地域の担当になった」
「前は?」
私が聞くと、ノアは少しだけ黙った。
「別の地域。もう、ないけど」
もうない、という言い方が引っかかった。地域がなくなることはない。なくなるとすれば、担当の方だ。
ノアは、私の後ろのミントに目をやった。ミントが、おずおずと顔を出す。
ノアの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。それから、すっと逸らされた。見てはいけないものを見たように。
「その子、見習い?」
「まだ、何でもない」
「そう」
ノアは、それ以上ミントを見なかった。
*
日が傾くころ、私たちは空き地の隅に集まっていた。
話を切り出したのは、アーサーだった。
「さっきの塊、お前らも見たことあるか」
私とノアは、顔を見合わせた。
「おれの担当の路地にも、転がってた。動物の形をしてた」
「それだ。おれの担当でも、最近やたらと転がってやがる。噛んでも、手応えがねえ。聞いたろ。噛むと、鳴くんだよ。小せえ声で」
アーサーの声が、少しだけ低くなった。
「気味が悪い」
「わたしのところにも、出てる」
ノアが言った。
「射っても、すぐには消えない。さっき見たでしょう。しばらく震えてる。痛がってるみたいに」
ミントが、私の脇腹に体をくっつけた。
「それに、集まってた」
ノアが、空き地の真ん中を見た。小山のあった場所には、もう何もなかった。
「ばらばらに転がってるだけなら、まだいい。でも、さっきのは集まって、一つになろうとしてた」
私は、ローザの言葉を思い出していた。
よどみは、育つと形を持つ。形を持ったよどみを、大淀と呼ぶ。大淀は動きだす。けれど、目は閉じたままだ。
目を開けたら、大禍ノ淀。人が死ぬ。猫も死ぬ。
ローザは一度だけ、それを見たと言った。そのときのことは、最後まで話さなかった。
さっきの小山に、目はなかった。まだ、塊が寄り合っただけのものだ。けれど、寄り合うことを覚えはじめている。
「どこに多い」
私が聞くと、二匹はそれぞれ、自分の担当で塊が見つかった場所を挙げた。私も、昨日の場所を言った。
並べてみると、一つの線が見えた。
三匹の担当地域の境目。目黒川沿いの、ある路地。白いマンションと、空き家と、小さな駐車場が並ぶ細い道。そこを中心に、塊は輪を描くように広がっていた。ここ大崎は、その輪のいちばん外側だ。こんな端まで、転がってきている。
源は、そこにある。
「自然由来じゃねえな」
アーサーが言った。
「人間か」
「人間なら、おれたちの仕事じゃない。おれたちが解くのは、よどみだけだ」
私は言った。それから、付け足した。
「それに、人由来とも少し違うと、黒は言っていた」
ノアが、小さく息を呑んだ。
「黒が、分からないって言ったの?」
「ああ」
「……そう」
ノアは、それきり何も言わなかった。けれど尻尾の先の白いところが、かすかに震えていた。
「明日、行ってみるか」
アーサーが立ち上がった。
「三匹で行きゃ、何とかなるだろ」
「明日でいい」
私は、そう答えた。
*
その夜、ミントは麦穂の裏の室外機の陰で、丸くなって眠った。換気扇は止まっていて、パンの匂いは薄れていた。それでもミントは鼻をひくひくさせながら、安心しきった顔で寝息を立てていた。
私は、そっと立ち上がった。
明日でいい、と言ったのは嘘だった。三匹で行く前に、一度だけ、自分の目で見ておきたかった。担当は、私だ。何が待っているのか分からない場所に、見習いや後輩を連れていくわけにはいかない。
ローザなら、そうしたはずだ。
夜の目黒川は、街灯の光を細かく揺らしていた。川沿いを下り、橋をひとつ越え、あの路地の入口に立った。
空気が、重かった。
一歩踏み込むごとに、湿った空気が毛の間にまとわりついてくる。足元に、塊が転がっている。昨日よりも、ずっと多い。路地の奥へ行くほど、数が増えていく。どれも目を閉じて、丸まっている。
その奥に、真新しい白いマンションが一棟、明かりを一つだけ灯していた。
耳の付け根が、ぴくりと引きつった。
本日の報告は、ここで一度、中断します。
続きは、戻ってから書きます。担当、キース。
(第2話 了)




