第1話「担当地域」
世の中には、二種類の猫がいる。
家猫と、野良猫だ。
人間はそれを、飼われているかいないかの違いだと思っている。半分は合っている。けれど、残りの半分を知っている人間はいない。
私たち猫は、生まれたときから役目を持っている。世界のよどみを解くこと。それが、すべての猫に与えられた仕事だ。家猫は家の中から窓の外をじっと見て、決まった場所のよどみを報告する。野良猫は地域を歩き回って、見つけたよどみをその場で解く。人間が「猫って一日中寝てるよね」と笑うのは、私たちが夜通し働いているからだ。
私はキース。自分でそう名乗っている。三歳の雄で、左の耳の先が欠けている。この地域の担当だ。
夜明け前、私の一日は、パン屋の裏口から始まる。
川沿いの「ベーカリー麦穂」。換気扇の下の、室外機の上。そこが私の席だ。四時を過ぎると換気扇が回りはじめて、生地の焼ける匂いが降ってくる。バターと、小麦と、少しだけ焦げた砂糖の匂い。腹は膨れない。けれど、胸の奥の冷えたところが、少しだけ温まる。
この店の人間は、誰も私に餌をくれない。名前も呼ばない。たまに裏口から出てきた職人が、私を見て「あ、いた」と言うくらいだ。それでいい。この店の周りには、よどみがほとんどない。人間たちがよく笑い、よく喧嘩をして、喧嘩をしたあとに、ちゃんと仲直りをするからだ。しばらく揉めていたようだが、それも片づいたらしい。
よどみの少ない場所は、猫にとっての休憩所だ。仕事の前に、ここで胸を温める。私の先代も、そうしていた。
*
よどみとは何か。
人間に説明するなら、絡まった毛玉に似ている。黒くて、湿っていて、触れると重い。大きさは小石ほどのものから、人間の背丈を超えるものまである。よどみは放っておくと、周りの空気を少しずつ重くする。人間は理由もなく苛立ち、犬は吠え、鳥は巣を捨てる。小さな選択が、少しずつ間違った方へ傾いていく。
多くのよどみは、自然の中で勝手に生まれる。風の止まった谷、水の流れない池、枯れたまま倒れない木。けれど、人間の感情から生まれるものもある。行き場のない怒り、言えなかった言葉、置き去りにされた悲しみ。それらが溜まって、形になる。
人間は、自分が何を生んでいるか知らない。知らなくていい。それを解くのが、私たちの仕事だ。
夜が明けきる前に、私は川へ向かった。
昨日の雨で、川は水かさを増していた。橋の下、流れが岸に当たって渦を巻くところに、枯れ葉と枝が溜まっている。その上に、よどみが乗っていた。
大きさは、子犬くらい。黒い靄が、ゆっくりと膨らんだり縮んだりしている。人間のものではない。雨と、止まった水と、腐りかけた葉から生まれた、自然のよどみだ。こういうのは人間の都合とは関係なく生まれるから、人間の誰からも感謝されない。それでも解く。放っておけば、このあたりの水鳥がいなくなる。水鳥がいなくなれば、虫が増える。虫が増えれば、また別の何かが減る。世界は、そういうふうに繋がっている。
私は、岸の上のブロック塀に登った。よどみまでは、十メートルほどある。
近づく必要はない。私の仕事は、遠くからだ。
目を細めて、喉の奥に力を込める。ごろごろと、低い音が鳴る。人間が聞けば、ただの喉鳴らしだ。機嫌のいい猫が、膝の上で鳴らすあれ。けれど私のそれは、もう少し低く、もう少し長い。音というより、振動に近い。空気を伝って、水面を渡って、よどみの芯に届く。
よどみが、震えた。
絡まった毛玉が、端の方からほどけていく。黒い靄が薄くなり、糸のように細くなり、朝の光の中で消えていった。渦の上の枯れ葉が、くるりと回って、流れに乗った。
三分ほどだった。悪くない。
これが、私の解き方だ。子猫のころから、ずっとこうしてきた。
よどみは、猫なら誰でも消せる。小さなものなら、ふつうの爪で引っかくか、牙で噛むか、前足で叩けば、ほどけて散る。けれど、大きなよどみになると、そうはいかない。だから猫は、子猫のころに何かを越えると、自分だけの解き方を一つ持つようになる。牙が伸びる猫もいる。毛を飛ばす猫もいる。私の場合は、それが喉だった。
「……今の、どうやったの」
背後で、声がした。
振り返ると、塀の下に子猫が一匹いた。白と薄茶のまだら。生後半年くらいだろうか。目がまんまるで、尻尾がやたらと細い。
「見えたのか」
「黒いのが、消えた。お兄さんが、ごろごろしたら」
見えている。ということは、この子も役目を持って生まれた、まっとうな猫だ。けれど解き方はまだ知らないし、担当地域も持っていない。迷い込んだ見習いだ。
「名前は」
「ミント。お母さんが、つけた」
「母さんは」
ミントは、少し黙った。それから、小さく首を振った。
それ以上は聞かなかった。野良の子猫に、それ以上を聞いても仕方がない。
「帰れ。ここは、おれの担当だ」
「帰るとこ、ない」
「なら、どこかで寝てろ」
塀を降りて歩きだすと、後ろから小さな足音がついてきた。立ち止まると、足音も止まる。振り返ると、ミントは知らん顔で、自分の前足を舐めていた。
ため息をついた。
三年前、私も同じことをした。耳の欠けた、痩せた子猫だった私は、年老いた雌猫の後ろを、追い払われても追い払われてもついて歩いた。その雌猫の名前は、ローザといった。この地域の、前の担当だ。
「……勝手にしろ」
ミントの尻尾が、ぴんと立った。
*
駅へ続く大通りに出ると、人間たちが動きはじめていた。
スーツの男が、早足で歩いてくる。スマホを見ながら、眉間に皺を寄せている。その肩のあたりに、小さなよどみがまとわりついていた。昨夜の何かを、引きずっているのだろう。小石ほどの大きさだが、放っておけば、今日一日、彼は誰かに八つ当たりをする。
私が喉を鳴らそうとしたとき、路地から一匹の黒猫が出てきた。
艶のある、真っ黒な毛並み。目だけが、金色に光っている。黒猫は、男の前をゆっくりと横切った。
「うわ。朝から黒猫かよ」
男が顔をしかめて、舌打ちをした。縁起でもない、と小さく呟いて、足を速めた。
その肩から、よどみが消えていた。
黒猫が横切った瞬間に、持っていったのだ。男は気づかない。今日一日、彼は誰にも八つ当たりをしない。その代わり、朝から黒猫に縁起の悪いことをされた、と思い続ける。
あんたは今、救われたんだよ。
心の中で、そう言った。言っても、人間には届かない。
「あの子、だれ」
ミントが、私の後ろに隠れながら聞いた。
「黒だ」
「くろ?」
「おれたちの、上司みたいなもんだ」
黒猫は、こちらを振り向いた。金色の目が、まっすぐ私を見た。それから、路地の奥へすっと消えた。ついてこい、という意味だ。
*
路地の突き当たり、室外機と壁の隙間に、黒は座っていた。
「おはようございます、キース」
丁寧な声だった。黒は、いつも丁寧だ。三年間、一度も声を荒らげたことがない。笑ったこともない。
「そちらの方は」
「ついてきただけだ」
「そうですか」
黒は、ミントを一瞥しただけで、それ以上は何も言わなかった。
天の使い。使猫。黒は自分のことを、そう呼ぶ。私たちの仕事を見て、記録して、報いを届ける。どこから来て、いつからいるのか、誰も知らない。ローザも知らなかった。
黒の前には、何もない。けれど黒が目を伏せると、そこに見えない帳簿が開くのが、私には分かる。
「今月の帳簿です」
黒は、淡々と読み上げた。
「川辺、自然由来、中。商店街、人由来、小、四件。公園、自然由来、小、二件。今朝の川辺の一件を加えて、今月の成果は以上です」
「それで」
「来週、ご飯の機会が三つ増えます」
ミントの耳が、ぴくりと動いた。
それが、私たちの報酬だ。よどみを解いた分だけ、天から幸運が降りてくる。猫にとっての幸運とは、つまり、誰かが缶詰を開けてくれる日のことだ。通りすがりの人間の鞄に、なぜか煮干しが入っていた日。軒先に、なぜか皿が出ていた日。人間はそれを、ただの気まぐれだと思っている。気まぐれではない。帳簿に載った、正当な報いだ。
「三つか。悪くない」
「それと、もう一点」
黒は、目を上げた。
「この地域は、最近、よどみが多すぎます」
「多い?」
「先月の倍です。先々月の、三倍。自然由来ではありません。人由来とも、少し違います」
「どういう意味だ」
「分かりません」
黒は、首を傾げることもなく言った。
「分からないことは、記録しておきます。キース、注意してください」
それだけ言って、黒は消えた。消えるところは、いつも見えない。瞬きをしたら、もういない。
「……ご飯、三つ」
ミントが、うっとりと呟いた。
「お前の分じゃない」
*
昼のあいだ、私は担当地域を見回った。商店街で二つ、公園で一つ、小さなよどみを解いた。ミントは、ずっと後ろをついてきた。私が喉を鳴らすたびに真似をして、ぴいぴいと甲高い音を出した。もちろん、何も起きなかった。
途中で、二か所に寄った。どちらも、私が昼に休むための場所だ。
一つは、川沿いの古い銭湯だった。煙突の根元、ボイラー室の屋根の上は、冬でもトタンが温かい。昼過ぎ、開店前の銭湯の裏口で、若い女の人がしゃがみこんで、デッキブラシを握ったまま空を見ていた。最近、この銭湯の番台に座るようになった人だ。前に座っていたおばあさんは、夏から姿を見ない。女の人の肩に、小石ほどのよどみが一つ乗っていた。私は屋根の上から、少しだけ喉を鳴らした。よどみは消えた。女の人は、何も知らずに立ち上がって、ブラシを動かしはじめた。
「あ、また来てる。サブロー」
屋根を見上げて、女の人はそう言った。ここでは、私はサブローらしい。
もう一つは、坂の上の小さな神社だった。境内の楠の根元は、昼でも涼しい。拝殿の石段に、制服の男の子が一人、座っていた。学校に行く時間のはずだった。男の子はスケッチブックを膝に乗せて、鉛筆を動かしていた。描いているのは、たぶん私だ。目が合っても、男の子は何も言わなかった。呼びもしなかった。ただ、描き続けた。男の子の背中に、よどみが一つ、ぴったりと張りついていた。小石ほどの大きさなのに、ずいぶん古いものに見えた。喉を鳴らしてみたが、剥がれなかった。何年もかけて、背中の形に馴染んでしまったよどみだ。こういうものは、たまにある。
ミントが男の子に近づこうとしたので、尻尾ではたいて止めた。
夕方、帰り道。私は、いつもの角で足を止めた。
古い一軒家の、二階の出窓。レースのカーテンの内側に、灰色の長毛の猫が座っている。
ニャムだ。
この家の家猫で、定点観測の担当。窓から見える範囲のよどみを、黒に報告している。私よりひとつ年上で、生まれてから一度も、この家の外に出たことがない。
私は、向かいの塀の上に登った。窓まで、ちょうど一跳びの距離。けれど、跳んだことは一度もない。ガラスの向こうには行けない。
ニャムがこちらに気づいて、ゆっくりと瞬きをした。猫の挨拶だ。
「おかえり、キース」
ガラス越しでも、声は届く。猫同士なら。
「ああ」
「その子は?」
「ついてきた」
「かわいいね」
ニャムが目を細めると、ミントは私の後ろに隠れた。
「ねえ、キース。最近、窓の外が濁ってるの」
「お前も、そう思うか」
「うん。夜になると、路地のあたりがずっと暗い。報告はしてるけど、黒は何も言わない」
ニャムは、少し不安そうに尻尾を揺らした。
私は、何か言おうとした。大丈夫だ、とか、おれが見ておく、とか。けれど言葉はいつも、喉の手前で止まる。
本当は、別のことを言いたいのだ。初めてこの窓を見上げた日から、ずっと。
家猫は長生きをする。野良猫は、そうじゃない。それを知っているから、言えない。
「……また来る」
「うん。待ってる」
ニャムが、もう一度瞬きをした。私も、瞬きを返した。それが、私たちにできる精一杯だった。
*
日が沈んで、路地に影が落ちはじめた。
麦穂の裏へ戻る途中、ミントが急に立ち止まった。
「キース」
初めて、名前を呼ばれた。
「あれ、なに」
ミントが見ている方を、見た。
路地の隅。電柱の根元。自販機の下。側溝の蓋の隙間。
黒い塊が、転がっていた。
一つではない。三つ、四つ、五つ。どれも小石ほどの大きさで、よどみには違いない。けれど、普通のよどみとは何かが違う。毛玉のように絡まっていない。丸く、固まっている。
近づいて、よく見た。
背筋の毛が、逆立った。
塊には、形があった。
小さな耳。丸めた背中。折りたたまれた、細い脚。
動物の形をしていた。眠っているような。あるいは、怯えて体を縮めているような。
「キース。これ、なに」
ミントが、もう一度聞いた。
私は、答えられなかった。
子猫のころから三年、この地域を歩いてきた。ローザから担当を引き継いで、何百ものよどみを解いてきた。けれど、こんなよどみは一度も見たことがなかった。
自然由来ではない。人由来とも、少し違う。
黒の言葉が、耳の奥で鳴っていた。
喉を鳴らそうとして、やめた。解き方が、分からなかった。
路地の奥で、何かが小さく鳴いた気がした。
以上、本日の報告です。
担当、キース。
(第1話 了)




