第3話「空っぽの男」
前回の報告の、続きです。
路地の奥のマンションは、建ってまだ数年の、白い三階建てだった。外壁には染み一つなく、エントランスの植え込みはきれいに刈り込まれている。古い家と空き家ばかりの路地の中で、そこだけが浮いて見えた。明かりが灯っているのは、一階の角部屋だけだった。
私は、向かいの駐車場の車止めの陰に身を伏せた。
足元の塊が、増えていた。車の下に。植え込みの根元に。マンションのエントランスの、白いタイルの段差に。数えるのをやめたくなるほど、転がっている。どれも丸く固まって、小さな耳と、細い脚の形をしている。
近くの一つに、鼻を寄せた。
か細い声が、した。
鳴き声ではない。音ですらない。けれど、私には聞こえた。怖い。痛い。帰りたい。そういう何かが、塊の内側で、ずっと同じところを回っている。
私は鼻を離した。毛が、肌に張りついたまま戻らなかった。
角部屋の窓は、磨りガラスではなかった。カーテンが半分だけ開いていて、中が見えた。
男が一人、台所に立っていた。
若い男だった。二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。白いTシャツを着て、袖をまくって、流しで手を洗っている。丁寧に、長い時間をかけて。指の一本一本を、爪の間まで。洗い終えると、タオルで拭いて、また洗いはじめた。
鼻歌が聞こえた。窓越しに、かすかに。機嫌のいい人間の、何でもない鼻歌だった。
私は、男の肩を見た。
人間には、必ずよどみがある。どんなに幸せそうな人間でも、肩や背中に、小石ほどのものが一つか二つ、まとわりついている。言いそびれた一言。昨日の小さな苛立ち。人間は、そういうものを毎日少しずつ生んで、少しずつ忘れていく。それが、人間というものだ。私はこの三年、何千人もの人間を見てきて、例外を見たことがなかった。
男の肩には、何もなかった。
背中にも、頭のまわりにも、足元にも。何も。
よどみが一つもない人間を、私は初めて見た。
最初は、幸せな人間なのだと思おうとした。けれど違った。見ているうちに、分かってしまった。幸せな人間のまわりには、温かいものがある。日向のような、何か。この男のまわりには、それもなかった。
何もない。
空っぽだった。
人間の形をした、底のない穴。部屋の明かりの中に立っているのに、そこだけ、光が吸い込まれていくように見えた。足元の塊たちのよどみは、あれほど重いのに。この男からは、一滴も出ていない。
これだけのものを生んだのは、この男ではない。
この男に、何かをされたものたちだ。
男が、手を拭く手を止めた。
ゆっくりと、窓の方を向いた。
目が、合った。
男は、笑った。優しい笑顔だった。子どもが、道端で猫を見つけたときのような。
窓が、少しだけ開いた。
「おいで」
柔らかい声だった。舌を鳴らす、ちっちっという音。猫を呼ぶときに、人間がよくやるあれ。男の手に、いつの間にか、小さな缶詰が握られていた。
ご飯の機会。
頭の片隅で、黒の声がした。違う。これは帳簿に載った幸運ではない。誰かが缶詰を開けてくれる日は、こんな顔をして来ない。
黒目が、勝手にまんまるに開いた。
耳が、後ろへぺたりと倒れた。尻尾が後ろ脚の間に巻き込まれ、腹が車止めの冷たいコンクリートに貼りついた。唸ろうとした。声が出なかった。体が、勝手に小さくなろうとしていた。見つからないように。
この感覚を、私は知っていた。大崎のアパートの、ガラス戸越しに見える、鍵の刺さった錠の扉。あれが目に入ったときと、同じだった。けれど今、私とこの男のあいだには、廊下も、扉一枚もなかった。
体が小さくなる相手からは、逃げなさい。
ローザの声がした。脚が、動かなかった。
男が、缶詰の蓋に指をかけた。ぱきり、と乾いた音がした。
その音で、体が戻った。
私は、走った。
振り返らなかった。車止めを跳び越え、路地を駆け抜け、橋を渡って、川沿いの暗がりに飛び込むまで、一度も止まらなかった。
息が切れて、塀の陰にうずくまったとき、ようやく耳に入ってきた。
背中のずっと後ろで、窓の閉まる音と、男の声。
「また今度ね」
*
朝になって、私は二匹に話した。
アパートの裏の空き地。昨日と同じ場所に、アーサーとノアが来ていた。ミントは私の脇で、黙って聞いていた。夜のうちに一匹で出かけたことを、まだ根に持っているらしい。目を覚ましたら私がいなくて、麦穂の裏で朝まで鳴いていたと、パン屋の職人が言っていた。人間の言葉で。
「よどみが、ない?」
アーサーが、眉間に皺を寄せた。
「一つもない。何も、ない」
「そんな人間、いるわけねえだろ」
「いた」
アーサーは何か言い返そうとして、私の顔を見て、やめた。
ノアは、ずっと黙っていた。尻尾の先の白いところだけが、小刻みに揺れていた。
「電柱を、見た」
私は続けた。
帰り道、路地の入口の電柱に、紙が何枚も貼ってあった。夜は気づかなかった。朝の光の中で、見た。どれも、同じような紙だった。猫の写真。犬の写真。小さな、ウサギのような写真。その上に、人間の文字で、何か大きく書いてある。
私は文字が読めない。けれど、どの紙にも同じ形の文字が並んでいた。そして、古いものほど色が褪せて、端がめくれていた。
探しています、と書いてあるのだと、誰かに聞かなくても分かった。
「……そいつが、やってんのか」
アーサーの声が、低く沈んだ。
口元から、牙がのぞいた。いつもより長く。よどみもないのに、伸びかけていた。
「おれが行く。噛み殺してやる」
「駄目だ」
「なんでだよ」
「おれたちが解くのは、よどみだ。人間じゃない」
「知るかよ、そんなもん」
アーサーが、地面を蹴った。
「じゃあ何のための牙だよ。目の前で、おれたちの仲間がやられてんだぞ。ほっとけってのか」
「猫は、人間を止められないわ」
ノアが、静かに言った。
「人間の体は大きい。猫が噛みついても、引っかいても、人間は止まらない。止まらないどころか、もっとひどくなる。それに」
ノアは、そこで一度、言葉を切った。
「それは、わたしたちの役目じゃない。役目じゃないことをした猫がどうなるか、わたしは知ってる」
アーサーが、ノアを睨んだ。ノアは目を逸らさなかった。
長い沈黙のあと、アーサーの牙が、ゆっくりと縮んだ。
「……じゃあ、どうすんだよ」
「よどみを、解く」
私は言った。
「おれたちにできるのは、それだけだ。あの塊は、あいつに何かをされたものたちの、怖さだ。怖いまま、置き去りにされてる。抱えてくれる者は、もういない。だから、おれたちが解くしかない。おれたちが戦う相手は、あいつじゃない。あの怖さだ。全部、ほどく。放っておけば、集まって大淀になる。目を開けたら、この地域ごと沈む」
*
昼過ぎ、私たちは四匹で、あの路地へ向かった。
ミントを置いていくつもりだった。けれど、今朝の鳴き声のことを考えると、置いていく方が危ない気がした。何より、ミントが私の尻尾に、噛みつくように張りついて離れなかった。
昼間の路地は、夜ほど暗くはなかった。それでも空気は重く、足元の塊は、昨夜よりさらに増えていた。
角部屋の窓は、カーテンが閉まっていた。男の気配はなかった。
「いねえな」
アーサーが、鼻を鳴らした。
「昼は、いないのかも」
ノアが言った。
駐車場の奥に、小さな空き地があった。雑草が伸び放題で、錆びた自転車が一台、横倒しになっている。
そこに、塊が集まっていた。
路地中に散らばっていた塊が、少しずつ、少しずつ、そこへ転がっていく。見えない坂を下るように。空き地の真ん中で、塊と塊がぶつかり、くっつき、混ざり合っていた。
一つの形に、なりかけていた。
大きさは、中型犬ほど。四本の脚がある。頭のようなものがある。けれど、どれも定まらない。猫の耳が生えたかと思えば、犬の鼻先に変わり、鳥の羽のようなものが背中から突き出して、また沈む。いくつもの動物の形が、一つの体の中で溺れているようだった。
浮かんでは沈む顔は、どれも目を閉じていた。
まだ、大淀ではない。けれど、なりかけている。
それが、私たちの方を向いた。
鳴いた。
今度は、はっきりと聞こえた。猫の声と、犬の声と、もっと小さな何かの声が、全部重なった鳴き声。怖い、痛い、帰りたい。夜中に塊から聞いたあの声が、何十倍にもなって、空き地を揺らした。
「来るぞ」
アーサーが前に出た。牙が、一気に伸びた。
獣のよどみが、跳んだ。
アーサーが、その首に食らいついた。牙が深く刺さる。首を振る。黒い塊が千切れて飛ぶ。いつものやり方だ。
千切れた塊のうち、ごく小さなものは、地面に落ちて震え、そのまま薄れて消えた。けれど大きな塊は、地面に落ちると同時に転がって、また獣の体に戻っていった。十噛んで、消えるのは一つか二つだった。
「なんだ、こいつ」
ノアが塀の上から毛を飛ばした。針のような毛が、獣の背中に何本も突き刺さる。刺さったところから、黒い煙のようなものが噴き出した。背中の端が、少しだけ削れて消えた。けれど、それきりだった。獣は身をよじり、残りの毛を体の中に呑み込んでいった。そして背中から、黒い脚のようなものを一本、鞭のように伸ばした。脚は塀の上を薙ぎ、ノアの脇腹をかすめた。ノアが短く鳴いて、塀の向こうへ落ちた。
私は、空き地の端の塀に跳び乗った。
距離を取る。目を細める。喉の奥に、力を込める。
ごろごろと、低い音。振動が、空気を伝って、獣の体に届く。
獣が、震えた。
絡まりが、端の方から、少しだけほどけた。背中から、小さな塊が一つ、ふわりと離れた。猫の形をしていた。それは私の喉鳴らしに包まれて、ゆっくりと薄くなり、消えた。
消える直前、その塊が、ほんの少しだけ、体を伸ばしたように見えた。丸めていた背中を、伸ばして。眠る猫のように。
一つ、ほどけた。
けれど、獣の体は何十もの塊でできている。一つほどくのに、川辺のよどみを丸ごと解くのと同じだけの力が要った。喉が焼けるように熱くなった。
アーサーが、また噛みついた。千切れる。戻る。噛みつく。千切れる。戻る。獣の体が、ほんの少しずつ小さくなっていく。けれどそのたびに、アーサーの口元から黒い汁が垂れた。牙が、よどみに焼かれているのだ。
「やめろ、アーサー」
私は叫んだ。
「噛んでも駄目だ。こいつらは、ほどけない。千切られると、余計に怖がる」
「じゃあどうしろってんだ」
「眠らせるしかない。一匹ずつ」
アーサーが、獣の体を蹴って飛びのいた。
獣は、それ以上は追ってこなかった。空き地の真ん中で身を縮め、塊の形に戻り、また少しずつ、輪郭を崩しながら混ざり合っていった。最初より、ひと回り小さくなっていた。三匹で削った分だ。けれど路地の隅から、また新しい塊が、ずるずると転がって集まってくる。削った分は、夜のうちに埋まってしまうだろう。まだ、完全な形にはなっていない。まだ、育っている途中なのだ。
「キース」
ミントが、私の足元に来ていた。ずっと、塀の陰に隠れていたはずだった。
「あのなか、知ってるにおいがする」
小さな声だった。
「どのにおいだ」
ミントは答えなかった。答えられないのだと、分かった。丸い目が、獣の体のどこか一点を、じっと見つめていた。
*
夕方、私たちは駐車場の陰で息を整えていた。
アーサーの口元には、黒い汁のようなものがこびりついていた。牙の根元が腫れて、口がうまく閉じないらしい。ノアは脇腹の毛が焦げたように縮れ、ときどき、そこを舐めては顔をしかめた。飛ばした毛の分、体がひと回り小さく見えた。私の喉は、まだ熱を持っていた。
誰も、口をきかなかった。
路地の向こうから、足音が聞こえた。
男だった。
白いTシャツの上にパーカーを羽織って、コンビニの袋を提げて、歩いてくる。何でもない、夕方の帰り道の顔で。鼻歌を歌いながら。
私たちは、駐車場の車の下に身を潜めた。
男が、路地を歩く。男の足元を、塊が転がっていく。
いや、違った。
塊は、男から逃げていた。
男が一歩進むたびに、路地中の塊が、ずるずると後ずさりしていく。電柱の陰へ。植え込みの奥へ。空き地の獣の方へ。男のまわりだけ、ぽっかりと、何もない道ができていく。
よどみが、怯えていた。
よどみは、人間の怖さや痛みが形になったものだ。そのよどみが、一人の人間を怖がって、逃げている。
男は何も気づかずに、角部屋のドアを開けた。袋の中で、缶詰同士がぶつかる、かちりという音がした。ドアが閉まった。
車の下で、アーサーが、小さく息を吐いた。
「……なんだよ、あれ」
誰も、答えなかった。
私は三年間、よどみと向き合ってきた。よどみはいつも、世界でいちばん重くて、いちばん暗いものだった。それを解くのが猫の仕事で、それさえ解けば、世界は少しずつ軽くなると思っていた。
子猫のころ、一度だけ、ローザに聞いたことがある。あの扉の向こうには、何がいるのか、と。
ローザは、長いあいだ黙っていた。それから、言った。
よどみの出ないものには、近づくな。よどみが逃げていくものにも。あれは、虚だ。猫の喉は、虚には届かない。
あのときは、意味が分からなかった。
よどみより怖いものがある。
それを、初めて知った。
そして、それを解く方法を、猫は持っていない。
以上、本日の報告です。
担当、キース。
(第3話 了)




