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第九戦 婚約破棄ですか? なら決闘だ!

 ノルディア王立学園の卒業祝賀会。


 華やかな音楽が流れる大広間では、卒業生たちが家族や友人と談笑し、学園生活最後の夜を惜しんでいた。


 その壁際で、一人の教師が懐中時計を確認する。


「開始から三十分。今のところ、婚約破棄の宣言はありませんね」

「ええ。順調です」


「決闘担当は?」

「中庭脇で待機済み。審判役も確保してあります」


「薔薇は?」

「予備まで用意しました」


 淡々と交わされる会話に、今年赴任したばかりの若い教師が怪訝そうな顔を向けた。


「あの……卒業祝賀会って、そんな準備が必要な行事でしたっけ?」


 二人の教師が同時に彼を見る。


「必要です」

「ここ数年は」


 近接用の武器庫、遠距離用の防護魔法、観客席の障壁、魔法決闘の術式担当。

 あらゆる事態への準備が整っていると聞き、若い教師はますます困惑した。


「準備が良すぎませんか?」


「去年は急に弓を使うことになって慌てたんですよ」

「一昨年は素手でしたね。武器の準備がなかっただけ楽でした」


「楽だったんですか……?」


 最近、この学園の卒業祝賀会では、妙な伝統が生まれつつある。


 婚約破棄。

 そして、決闘。


 毎年のように繰り返された結果、教師たちはとうとう「何も起こらないことを祈る」だけでなく、「起きた時、いかに速やかに安全な決闘へ移行させるか」まで考えるようになっていた。


 決して喜ばしい成長ではない。


「まあ、備えておいて何もなければ、それが一番です。今年こそ、決闘担当の先生もゆっくり過ごせるといいですね」

「そうですね。去年は最終的に婚約も元へ戻りましたし。今年はきっと――」

「それ以上は言わないでください」


「なぜですか?」

「嫌な予感がするので」


 ――その予感だけは、残念ながら正しかった。


 ◇


「そこの一年生。廊下では走らないでくださいね」

「は、はい! 申し訳ありません!」


 大広間へ駆け込もうとしていた下級生が、慌てて足を止めた。

 注意した令嬢は、怯えさせないよう柔らかく微笑むと、今度は歩いて友人たちのもとへ戻っていく下級生を見送る。


 クラウディア・フォン・メクレンブルク、十八歳。

 メクレンブルク伯爵家の長女であり、将来は父から爵位を受け継ぐことが決まっている次期当主である。


 深いワインレッドの髪には丁寧な編み込みを入れ、後頭部で一つにまとめている。

 落ち着いたオリーブ色の瞳とすらりとした立ち姿が、知的で凛とした印象を与えていた。

 今夜身につけている濃い紫のマーメイドラインのドレスも、その華やかな容姿によく似合っていた。


 そして現在のクラウディアは、王立学園の風紀委員長でもあった。

 成績優秀、品行方正。規則違反を見つければ相手の身分にかかわらず注意するため、教師からの信頼も厚く、下級生から相談を持ちかけられることも多い。


 そんな彼女を少し離れた場所から見ていた教師が、感慨深そうに目を細めた。


「……本当に立派になりましたね」

「何がですか?」


 近くにいた若い教師が首を傾げると、古株の教師は答えず、ただ遠い目をした。


 彼は知っている。

 今では誰よりも規則に厳しいクラウディアが、ほんの二年前まで、教師に呼び止められては面倒そうに振り返る生徒だったことを。


『メクレンブルク嬢! また授業を抜け出しましたね!』

『あ? 午後の授業ならちゃんと出るっつってんだろ』

『午前の授業にも出てください!』


 そんなやり取りも、珍しくはなかった。


 制服のスカートは、なぜか規定より大幅に長かった。

 短くするならともかく、わざわざ床すれすれまで伸ばす意味が、教師には最後まで分からなかった。

 髪も今のように丁寧にまとめることはなく、緩く波打つワインレッドの長髪をそのまま下ろし、言葉遣いも令嬢らしさとは程遠かったのである。


 気に入らないからと弱い者を虐げるようなことは決してしなかったし、むしろ下級生が絡まれているところへ割って入ることもあった。

 ただし、売られた喧嘩はほぼ確実に買った。その結果、生活指導の教師とはすっかり顔馴染みになっていた。


 そんなクラウディアが突然変わったのは、十六歳の時である。

 弟のフランツが生まれたのだ。


 初めて小さな弟を腕に抱いた時、クラウディアはしばらく不思議そうにその顔を眺めていた。

 まだろくに目も開けられない赤子が、自分の指を小さな手で握る。


 ――こいつ、そのうちあたしのこと姉ちゃんって呼ぶのか。


 そう思ったところで、ふと自分の格好を見下ろした。

 着崩した制服に、無駄に長いスカート。その日の朝にも、教師へ悪態をついたばかりだった。


 ――こんなんじゃ、駄目だな。


 翌日、クラウディアは規定どおりの制服を着て登校し、授業にも最初から最後まできちんと出席した。

 教師に注意されれば、素直に謝って頭を下げる。


 あまりの変わりように、担任は反省を喜ぶより先に、本気で体調を心配したほどである。

 しかし、それは一時の気まぐれではなかった。

 クラウディアは一週間、一か月、一年と態度を改め続け、二年後にはとうとう風紀委員長を任されるまでになったのだ。


 ちなみに両親は、娘が荒れていた頃からさほど慌ててはいなかった。


『まあ、そのうち落ち着くだろう』


 そう言う父の隣で、母も平然と頷いていた。


『私たちも若い頃は似たようなものでしたものね』


 どうやら両親も、若い頃は相当やんちゃだったらしい。

 むしろクラウディアがあっさり更生したと知った父は、少し残念そうに呟いた。


『思ったより早かったなあ』


 そして、隣にいた母に頭を叩かれていた。


 ともかく、クラウディアにとって今の自分は、誰かに強制されて作り上げた姿ではない。

 弟に恥ずかしくない姉でありたい。将来、伯爵家を率いる者として胸を張って生きたい。そう思ったからこそ、自分自身で選び、二年間かけて身につけた姿なのだ。


「クラウディア」


 穏やかな声に呼ばれ、彼女は振り返った。

 すると、先ほどまで下級生へ自然に向けられていた柔らかな表情が、ほんの少しだけ固くなる。


「ご、ごきげんよう。ディック様」


 クラウディアの前に立っていたのは、婚約者のディック・フォン・リヒテンベルクだった。

 彼女と同じ十八歳。伯爵家の三男であり、将来はメクレンブルク家へ婿入りする予定の青年である。


 柔らかな金髪に、やや垂れ気味のヘーゼル色の瞳。

 整った顔立ちだが近寄りがたいところはほとんどなく、話し方も物腰も穏やかで、見るからに人当たりがよさそうな青年だった。


「今日のドレス、とても似合ってるね」

「ありがとうございます」


 クラウディアが丁寧に礼を返すと、ディックは彼女の髪へ目を向けた。


「髪も綺麗だね。いつもより編み込みが少し細かいのかな?」

「まあ。よくお気づきになりましたわね」

「クラウディアのことだからね」


 ディックが柔らかく笑うと、クラウディアも微笑み返した。ただし、その笑顔はどこかぎこちない。


 ディックの眉がほんの少しだけ下がったが、クラウディアはその変化に気づかなかった。

 彼女の胸の中では今、ひそかな達成感が生まれていたからだ。


 ――よし。今日もちゃんと令嬢らしく喋れてるぞ。


 クラウディアは、ディックのことが好きだった。

 彼の穏やかな話し方が好きで、柔らかく笑うところも好きだった。


 誰かが話している時には急かさず最後まで耳を傾け、クラウディアが困っていれば、自分の考えを押しつける前に尋ねてくれる。


『何か僕にできることはある?』


 そんな彼の優しさに、クラウディアはとうに惹かれていた。

 だからこそ、どうしても隠しておきたいことがあった。


 ――絶対、昔のあたしのことは知られたくねぇ……!


 ディックが国外留学から戻り、王立学園へ編入してきたのは一年前のことだった。

 その頃にはクラウディアはすでに昔の荒れた生活を改め、風紀委員として真面目に学園生活を送っていた。

 

 だからディックは、彼女が二年前まで教師に悪態をつき、売られた喧嘩を買っていたことなどまったく知らない。


 帰国後、学園でそんなクラウディアを見かけたディックは、凛とした立ち姿と真面目な人柄に惹かれた。

 何度か言葉を交わすうちに好意はますます大きくなり、やがて自分から父へ頼み、メクレンブルク伯爵家へ婚約を申し込んだのである。


 リヒテンベルク伯爵家の三男であるディックと、将来メクレンブルク伯爵家を継ぐクラウディアなら、家格の釣り合いにも問題はない。

 婚約成立後は、いずれディックがメクレンブルク家へ婿入りすることも決まった。


 突然舞い込んできた婚約話には、クラウディアも最初こそ驚いた。けれど、嫌ではなかった。

 むしろ、自分も好意を寄せていた相手から望まれたのだと知って、かなり嬉しかったくらいである。


 しかし、その喜びと同時に、新たな悩みも生まれた。

 ――もし、昔のあたしを知って嫌われたらどうしよう。


 穏やかで優しいディックの前で、平然と悪態をついていた頃の自分など、絶対に見せられない。

 そう思えば思うほど、クラウディアは彼の前で必要以上に緊張するようになった。


 普段より丁寧に話し、いつも以上に淑女らしく振る舞い、何一つ失敗しないよう気を張る。

 挨拶から礼の言葉まで気を配り、会うたびに完璧な令嬢として振る舞い切っては、帰宅してからひそかに胸を撫で下ろしていた。


 ――今日も大丈夫だった。


 ところが、そんなクラウディアの努力を、ディックはまったく別の意味に受け取っていた。


 ――やっぱり、僕といると緊張するんだな。


 そもそも、この婚約を望んだのは自分のほうだ。

 同じ伯爵家同士とはいえ、一度家同士の話になってしまえば、クラウディア本人が嫌だと言い出せなかった可能性だってある。


 実際、彼女は他の生徒とは自然に笑って話しているし、下級生に対しても気さくで優しい。

 それなのに、自分の前ではいつも背筋を伸ばし、決して我儘を言わず、怒った顔すら見せない。

 婚約して一年が経っても、その距離はほとんど縮まっていないように思えた。


 ――僕が、彼女に無理をさせているんじゃないか。


 そうして二人は、一年間まったく正反対の勘違いを育て続けた。

 クラウディアは、好きだからこそ嫌われないよう完璧に振る舞い、ディックはその完璧さを見て、自分は好かれていないのだと思い込む。


 そして迎えた卒業祝賀会の日、とうとうディックは一つの決断をした。


「クラウディア」

「はい?」


 いつもより少し真剣な声に、クラウディアも表情を改めた。

 ディックはしばらく彼女を見つめたあと、小さく息を吸う。


「話があるんだ」


 ◇


 ディックは本来、人目のない、もう少し静かな場所へ移ってから話をするつもりだった。

 ところが、いざクラウディアを前にすると緊張してしまったのか、大広間の中央近くまで来たところで足を止めてしまう。


 周囲にはまだ大勢の卒業生がいて、少し離れた場所では楽団も演奏を続けている。

 今ここで話すべきではないと気づいた時には、もうクラウディアが不思議そうに自分を見上げていた。


「……クラウディア」

「はい」


 ディックは一度だけ拳を握り、それから覚悟を決めるように彼女をまっすぐ見つめた。


「僕は――君との婚約を、解消したほうがいいと思っているんだ」


 その言葉が届いた瞬間、近くにいた生徒たちの会話が途切れた。

 楽団の演奏は続いているはずなのに、それさえ妙に遠く聞こえるほど、二人を取り巻く空気が一気に張り詰める。


 会場の端で様子を見ていた教師の一人が、静かに目を閉じた。


「……来ましたね」

「来ましたねぇ」


 隣の教師も頷き、中庭へ続く扉へ視線を向ける。


「決闘担当へ知らせます?」

「まだ待ってください。現時点では婚約解消だけです」


 制された教師は、不服そうに眉を寄せた。


「ここ数年、そのあとほぼ百パーセント決闘になってますが」

「だからといって、婚約解消騒ぎのたびに即座に決闘担当を呼ぶのはどうかと思いますよ」


 二人はしばらく顔を見合わせたあと、再び会場へ目を戻した。


「では、念のため近くにはいてもらいましょうか」

「それくらいなら」


 もはや慌てる者はいなかった。

 その妙に手慣れた教師たちのやり取りをよそに、クラウディアはしばらく黙ってディックを見つめていた。


「婚約解消……ですか?」

「うん」


 ディックの返事は、いつもと変わらず穏やかだった。

 少なくとも今のところは、クラウディアも落ち着いた口調を保っている。


「理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「もちろん」


 ディックは少し困ったように微笑むと、どう説明すれば伝わるのか考えるように、一度視線を伏せた。


「この婚約は、僕が望んだものだろう?」

「そう伺っております」


 丁寧に頷くクラウディアを見て、ディックは言葉を継いだ。


「僕が君を好きになって、父上にお願いした。それで家同士の話を進めてもらったけど……ずっと気になっていたんだ」


 そこで彼は、再びクラウディアを見る。


「君は本当は断りたかったのに、家同士の話になってしまったから受け入れただけなんじゃないかって」

「そのようなことは――」

「君は僕の前では、いつも緊張しているでしょ」


 反論しかけたクラウディアの言葉を、ディックの声が遮った。

 彼女は一瞬口を閉ざす。そこだけは、否定できなかった。


「僕には一度も我儘を言わないし、怒ったところだって見せない。いつも丁寧で、いつも完璧で……他の人と話している時には自然に笑っているのに、僕といる時だけ少し表情が硬い」


 クラウディアの眉がわずかに寄った。

 しかしディックは、それを言葉の意味を考えているだけだと受け取ったらしい。


「だから、ずっと思ってたんだ。僕には、本当の君を見せてくれないんだなって」


 その言葉に、クラウディアのオリーブ色の瞳がわずかに細くなる。

 けれど、一年間一人で悩み続けてきたディックは、その小さな変化にも気づかなかった。


 自分が婚約を望んだせいで、彼女は無理をしている。ならば、自分から身を引くべきだ。

 それがクラウディアのためなのだと、本気で信じていた。


「だから、もういいんだよ」


 彼女を安心させるつもりなのだろう。ディックはいつもの優しい笑みを浮かべた。


「僕のために無理をして、完璧な令嬢を演じなくてもいいんだ」


 大広間が、しんと静まり返った。

 近くにいた数人の同級生が一斉にクラウディアを見て、彼女の二年前を知る教師の顔が、目に見えて引きつる。


「……今、何て?」


 クラウディアが低い声で聞き返した。

 先ほどまでと音量はほとんど変わらない。それなのに、周囲の生徒たちが何かを察したように身を引いた。


「え?」

「今、なんつった?」


 その言葉を聞いた瞬間、昔のクラウディアを知る者たちの表情が変わった。

 丁寧に整えられていた口調が、一瞬で二年前のものへ戻っている。


 何人かの生徒がそっと距離を取る中、事情を知らないディックだけが不思議そうに瞬きをした。


「クラウディア?」


 彼女は答えず、後頭部へ手を伸ばした。

 まとめ髪を留めていた飾りを引き抜き、編み込みを指でほどいていく。ワインレッドの髪が肩から背中へ流れ落ちると、先ほどまで隙なく整えられていた風紀委員長の印象が一変した。


 編み込みの癖を残した長い髪が、緩く波打っている。

 その様子を見ていた男子生徒が、顔を引きつらせた。


「まずい。髪を下ろしたぞ」

「何がまずいんだ?」


 不思議そうに尋ねた友人の腕を引き、さらに一歩退く。


「お前、二年前のメクレンブルク嬢知らねぇのか?」


 その声を背中で聞きながら、クラウディアはゆっくりと顔を上げた。

 オリーブ色の瞳は、完全に据わっている。


「ああ?」


 ディックが思わず息を止めた。


「え……? クラウディア……?」

「誰が演じてるっつった?」


 静かだった大広間に、小さなどよめきが広がる。

 教師の一人が額へ手を当てた。


「二年ぶりですね」

「ええ。あの口調、懐かしいですね」


 しみじみと頷いた二人へ、別の教師が顔を向ける。


「懐かしんでいる場合ではありませんよ」


 そんな周囲の反応など耳に入っていないのか、クラウディアは濃い紫のドレスの裾を揺らし、ディックへ一歩近づいた。


「確かに、昔のあたしは素行が悪かったよ。授業はサボったし、制服も勝手にいじった。教師に悪態もついたし、売られた喧嘩だって買った」


「そうだったの?」

「そうだよ! 学園の問題児だったんだよ!」


 初めて聞かされた事実に、ディックが目を丸くする。

 しかしクラウディアは眉を吊り上げたまま、今まで隠していた過去を吐き出すように続けた。


「でも二年前、弟が生まれたんだ。フランツっていう、今二歳の弟がな」


 弟の名を口にした時だけ、張り詰めていた表情がほんの少し柔らぐ。


「初めてそいつを抱いた時に思ったんだよ。こんなんが姉貴じゃ駄目だって。だから自分で変わるって決めた。勉強もした。言葉遣いも直した。風紀委員だって、誰かに言われたんじゃなくて自分からやった」


 クラウディアは胸元へ手を当て、まっすぐにディックを見据えた。


「今のあたしだって、本当のあたしだ。誰かに言われて完璧な令嬢を演じてるわけじゃねぇよ!」


 言い切ると、荒くなっていた呼吸を整えるように一度息を吐く。

 ディックはしばらく黙って彼女を見つめていたが、やがて納得したようにゆっくりと頷いた。


「そうだったんだね」

「ああ」


 そこでディックは、ふと何かに引っかかったように首を傾げた。


「じゃあ、僕の前で緊張していたのは、どうしてなの?」


 クラウディアの勢いがぴたりと止まった。

 何も答えない彼女へ、ディックがもう一度呼びかける。


「クラウディア?」

「それは……」


 先ほどまであれほど滑らかに出ていた言葉が、急に喉につかえた。

 オリーブ色の瞳がわずかに泳ぎ、ディックから逃げるように視線が横へ逸れる。


「その……」

「うん?」


 穏やかに先を促され、クラウディアはドレスの脇で拳を握った。


「てめぇの前で硬ぇのは……」


 耳のあたりから、じわじわと赤くなっていく。

 周囲の生徒たちは、その変化を見て何となく事情を察したのか、先ほどとは別の意味で静かになった。


 しかしディックだけは分からないらしく、穏やかな顔で続きを待っている。


「てめぇが……」

「僕が?」


「てめぇのことが好きだからだろうが!!」


 大広間に怒鳴り声が響き渡った。

 言った直後、クラウディア自身が固まる。


「あ……」


 ディックも目を見開いたまま動かなかった。

 しばらくして、その顔がみるみるうちに明るくなっていく。


「僕のこと、好きなの?」

「聞き返すなよ!」


 思わず声を張り上げたクラウディアへ、ディックはまだ信じられないように答えた。


「だって、僕はずっと嫌われてると思ってたから」

「んなわけあるか! 嫌いな男との会話で、毎回あんなに緊張するか!」


 ディックは心底安心したように息を吐き、そのまま嬉しそうに笑った。


「そうだったんだ……嬉しいな」

「うるせぇよ!」


 クラウディアは顔を真っ赤にしたまま睨みつける。

 普通なら、ここまで怒鳴られれば少しくらい怯みそうなものだが、ディックにはその気配がなかった。


 それどころか、初めて見る彼女の姿を確かめるように視線を動かし、やがてほどけたワインレッドの髪へ目を留める。


「それに……」

「まだ何かあんのかよ」

「髪を下ろしたクラウディアも、すごく綺麗だね」


 思いもよらない言葉を投げられ、クラウディアの怒気が一瞬だけ抜けた。


「……は?」

「いつもと雰囲気が全然違う。格好いいし素敵だな」


 しみじみと告げられ、クラウディアは再び眉を吊り上げる。


「てめぇ、今何の話してんだよ!?」

「クラウディアの話だけど」

「そうじゃねぇ!」


 クラウディアが声を荒らげても、ディックはまったく動じない。

 むしろ、知らなかった彼女の表情や口調を次々に見られることが嬉しいらしく、婚約を解消しようとしていた数分前より明らかに楽しそうだった。


 その変化には、周囲の生徒たちも気づき始める。


「リヒテンベルク令息、すごい嬉しそうじゃない?」

「さっきまで深刻な顔で、婚約解消しようとしてたよね?」


 問いかけられた生徒も、困惑したように二人を見比べた。


「ついさっきまでしてたね」

「何なんだ、あの二人……」


 誰にも分からなかった。


 ひとしきりクラウディアを眺めたあと、ディックはようやく自分が何をしに来たのか思い出したように表情を改める。


「クラウディア。ごめん」

「あ?」


 今度の声には、先ほどまでとは違ってきちんと反省の色があった。


「僕が勝手に勘違いしてた。君の気持ちを確かめもしないで、僕が婚約を望んだから君を困らせているんだって、自分だけで決めつけてた」


 クラウディアは黙って聞いている。

 ディックはその顔を見つめたまま、言葉を継いだ。


「君が自分で今の生き方を選んで、二年間ずっと頑張ってきたことも知らなかった。本当にごめん」


 一度頭を下げ、それから顔を上げる。


「だから……婚約解消って言ったことは撤回したい」


 その瞬間、クラウディアの口元がゆっくりと引きつった。


「……勝手に勘違いして、勝手に婚約解消して」


 ディックの笑顔が消え、気まずそうに眉が下がる。


「うん……」

「今度は勝手に撤回するってか?」


 そこでようやく、ディックも問題に気づいたらしい。

 少し気まずそうに目を伏せた。


「本当にごめん」


 クラウディアは何も答えず、大きく息を吸った。

 次に顔を上げた時、その口元には、二年前までよく浮かべていた少し獰猛な笑みが戻っていた。

 昔を知る生徒たちが、一斉に息を呑む。


「てめぇ、覚悟はできてんだろな?」


 普通なら、ここで少しくらい怯む。

 だがディックは、初めて見るその笑い方をしばらくまじまじと眺めたあと、なぜか頬を緩めた。


「その笑い方も、結構好きだな。可愛い」


 クラウディアのこめかみに青筋が浮かぶ。


「てめぇマジで何なんだよ!!」


 怒声が大広間中に響き渡った。

 ディックが口を開きかけたところへ、さらに声を重ねる。


「もういい! とりあえず一発殴らせろ!」

「えっ?」


「なら、決闘だ!!」


 とうとうその言葉が飛び出し、会場の端で成り行きを見守っていた教師たちが、揃って天井を仰いだ。


 ◇


 決闘は、祝賀会場に隣接する中庭で行われることになった。

 近年すっかりこの手の騒動に慣れてしまった職員たちによって、決闘場は恐ろしいほどの速さで整えられていく。


 二人の胸元には、決闘用の赤い薔薇が留められた。

 今回、武器区分を選択する権利を持つのは、決闘を申し込まれたディックである。


「リヒテンベルク令息。武器区分を選択してください」

「はい」


 ディックは少し考えたあと、隣に立つクラウディアへ顔を向けた。


「クラウディアは、何がいい?」

「あ?」

「近接、遠距離、魔法。どれがいい?」


 思いがけない問いに、クラウディアが怪訝そうに眉を寄せる。

 その横で、審判役の教師も同じような顔をした。


「選択権は、決闘を申し込まれたリヒテンベルク令息にありますが」

「分かっています。でも、クラウディアは僕を一発殴りたいそうなので、やりたいものを選んでもらったほうがいいかなと」


 教師は眉間を押さえ、一つひとつ言い聞かせるように告げた。


「決闘は、一発殴るための制度ではありませんよ」


 もっともな指摘にも、ディックは困ったように笑うだけだった。


「僕はどれでも構いません。それなら、クラウディアが一番納得できるものでお願いします」


 クラウディアはしばらく疑うように彼を睨んでいたが、どうやら本気で譲るつもりらしいと分かると、小さく鼻を鳴らした。


「近接だ」

「では、近接武器でお願いします」


 ディックが教師へ向き直って告げると、教師は頷いた。


「承知しました」


 もう何も言わず、今度は双方が使用する得物の確認へ移る。


「メクレンブルク嬢は、何を使用しますか?」

「鉄バット」


 教師の動きが止まった。


「はい?」

「鉄バットで」


 真顔で繰り返され、教師は確認するように武器庫係へ目を向けた。

 視線を受けた職員は、特に驚く様子もなく頷く。


「ございます」

「あるんですね……」


 教師は遠い目をした。

 この学園で決闘の立会人をしていると、武器庫の品揃えに驚かされることにも慣れてくる。それでも、まだ驚く余地が残っていたらしい。


 ほどなくして運ばれてきたのは、決闘用に安全調整が施された金属製の棍だった。

 柄から先端へ向かうにつれて太くなる、一体型の独特な形状。


 どう見ても、鉄バットである。


 クラウディアはそれを受け取ると、片手で何度か軽く振って重さを確かめた。

 ぶん、と低く空気が鳴る。その感触に満足したのか、今度は先端を地面へ落とした。


 カンッ。


 乾いた金属音を響かせてから、ごく自然な動作で鉄バットを右肩へ担ぐ。

 その瞬間、昔から彼女を知る生徒の一人が思わず声を漏らした。


「懐かしいな」

「何が?」

「あの構え」


 顎で示され、隣の生徒もクラウディアへ目を向ける。


「使ってたのか?」

「ああ。毎日ああやって肩に担いで校内を闊歩してたぞ」


 そんな会話を耳にしたディックは、クラウディアの肩にある鉄バットを興味深そうに眺めていた。

 やがて何かを思いついたように、武器庫係へ近づく。


「それ、僕にも一本持たせてもらえますか?」

「は?」


 クラウディアが振り返ると、ディックは穏やかに笑った。


「ちょっと持ってみたいんだ」


 同じ鉄バットを受け取ったディックが何気なく持ち上げると、予想していたより重量があったのか、その腕が一瞬大きく沈んだ。


「おお……」

「何だよ」


 クラウディアに睨まれながら、ディックは慌ててもう片方の手を添える。


「思ったより重いんだね、これ」

「鉄でできてるからな」


 当然だろうと言わんばかりに返され、ディックは手の中の鉄バットを持ち直した。


 自分は両手でようやく安定する。

 それなのに、クラウディアは同じものを片手で肩へ担いだまま、まるで重さなど感じていないような顔をしている。

 ディックはしばらく、彼女と鉄バットを交互に見比べた。


「クラウディア、こんなの振り回せるんだね」

「あ?」

「すごいなあ」


 あまりにも素直な声音だったため、クラウディアは思わず返事に詰まった。

 怒るところなのか、照れるところなのか、一瞬判断が遅れる。


 その隙に、ディックは手にしていた鉄バットを軽く持ち上げ、教師へ向き直った。


「僕も、これにします」


 教師は黙り込んだ。

 返事を待っていたディックが、不思議そうに首を傾げる。


「駄目ですか?」

「規定上は問題ありませんが……」

「では、これで」


 あっさり決めてしまったディックに、教師は思わず眉を寄せた。


「なぜ、わざわざ同じ武器を選ぶのですか?」

「彼女がどれくらいすごいのか、同じものを使ったほうが分かるかなと思って」


 そう答えながら、ディックは当然のようにクラウディアを見る。

 あまりにも素直な理由だったため、彼女は一瞬言葉を失い、わずかに耳を赤くした。


「てめぇ、決闘なんだぞ。真面目にやれよ」

「真面目にやってるよ?」

「そういう態度が腹立つんだよ!」


 クラウディアが睨みつけても、ディックは困ったように笑うだけだった。

 これ以上聞いても同じ調子だろうと判断したのか、教師は深く息を吐き、二人を所定の位置へ立たせた。


 クラウディアは鉄バットを右肩へ担ぎ、わずかに腰を落とす。

 濃い紫のマーメイドドレスを纏った令嬢が取る構えとしては、あまりにも物騒だ。だが、その姿には不思議なほど迷いがなかった。


 対するディックも鉄バットを両手で握ったものの、先ほど初めて持ったばかりの得物である。

 クラウディアの真似をするように構えてみても、二人を見比べれば経験の差は一目瞭然だった。


「双方、準備はよろしいですね」

「はい」


 ディックが頷き、クラウディアも彼を見据えたまま短く答えた。


「ああ」


 教師は二人を確認してから、片手を高く上げた。


「始め!」


 その声が響くと同時に、クラウディアが地面を蹴った。

 濃い紫の裾が大きく翻る。身体の線に沿う細身のドレスでありながら、動きに窮屈さはまるでない。


 踏み込んだ勢いのまま腰を鋭く回転させると、肩へ担いでいた鉄バットを横薙ぎに振り抜いた。


「速――」


 ディックは目を見開きながらも、反射的に自分の鉄バットを差し込んだ。


 キィィィン!!


 二本の鉄バットが真正面から激突し、甲高い音が中庭いっぱいに響き渡る。

 予想以上の轟音に観客の何人かが思わず耳を塞ぎ、ディック自身も衝撃に押されて一歩後ろへ下がった。


 しかしクラウディアは止まらない。

 打ち合った反動すら利用するように鉄バットを引き戻すと、そのまま身体を切り返し、今度は逆方向から叩き込む。


 カァン!!


 再び金属音が弾けた。

 ディックはどうにか受け止めたものの、今度は二歩分押し込まれる。


「本当にすごいなあ」

「ああ?」


 クラウディアが低く返す。

 ディックは構えを立て直しながら、自分の手に残る痺れを確かめるように鉄バットを握り直した。


「これだけ重いのに、振り切ったあと全然体勢が崩れてない」

「戦ってる最中に褒めんな!」


 怒鳴ると同時に、クラウディアが再び間合いを詰める。

 ディックは正面から受けるのを避けて横へ逃れたが、クラウディアはその動きを読んでいた。素早く足を切り返し、逃げた先へ鉄バットを滑り込ませる。


 キィン!


 今度は斜めに受け流したディックが、そのまま数歩距離を取った。


「今の足運びも綺麗だった」

「うるせぇよ!」


 クラウディアが再び迫ると、ディックは鉄バットを構えながら、その裾の動きへも目を向ける。


「そのドレスでよくそんなに動けるね。よく似合ってるし素敵だな」

「黙れって!」


 ディックは褒めているだけなのだろうが、クラウディアにとっては完全に逆効果だった。

 怒気を増した彼女が勢いよく鉄バットを振り下ろし、ディックが身体を捻って紙一重で避ける。


 その動きで、ほどけたワインレッドの髪が大きく広がった。

 夜風を受けて揺れる髪へ、ディックの視線がつい向いてしまう。


「それに、髪を下ろしてるのも綺麗だな」


 クラウディアの動きが、一瞬だけ止まった。


「てめぇ……」

「うん?」


「どこ見て戦ってんだよ!」


 先ほどまで以上に鋭い一撃が飛び、ディックは慌てて鉄バットを合わせた。


 キィィィン!!


 またしても耳をつんざくような金属音が響き、今度は観客のほうから苦笑交じりのざわめきが広がる。


「あの方、さっきからメクレンブルク嬢を褒めてませんか?」

「褒めてますよね」


 二人の打ち合いを目で追いながら、一人が怪訝そうに首を傾げた。


「婚約解消しようとしてたんですよね?」

「してましたね」


 当のディックは嬉しそうに何かを言い、クラウディアがまた声を荒らげる。

 その様子に、二人は揃って眉を下げた。


「本当に別れたかったのでしょうか」

「少なくとも今は、まったくそうは見えませんね」


 観客だけでなく、教師たちまで何とも言えない顔になっている。


 その間にも、決闘は続いていた。

 クラウディアが間合いを詰めるたびに、ディックは必死で鉄バットを受け、あるいは避ける。

 運動神経そのものは悪くないのだろうが、技量の差は明らかだった。


 クラウディアは、ただ腕力任せに鉄バットを振り回しているのではない。

 踏み込みに合わせて重心を移し、腰と肩を連動させながら、鉄バットそのものの重さを活かしており、やんちゃだった時期に毎日担いでいた名残が見られる。


 対するディックは、つい先ほど初めて持ったばかりである。同じ武器を選んだからこそ、その差は本人にもよく分かった。

 それでも、押され続けているはずのディックは、なぜか先ほどより楽しそうだった。


「クラウディア」

「何だよ!」


 呼びかけに、クラウディアは鉄バットを振り抜きながら怒鳴り返した。

 ディックはそれを受け止め、金属同士が軋む音の向こうで穏やかに笑っている。


「僕、今の君も好きだよ」

「……は?」


 次の一撃を放とうとしていたクラウディアの腕が、わずかに止まった。

 その隙にディックは距離を取ったものの、攻め込もうとはせず、鉄バットを構え直しながら彼女を見つめる。


「風紀委員長として頑張ってる君も好きだし、いつも真面目で、きちんとしている君も好きだ」

「今言うことか!?」


 頬に熱が集まるのを誤魔化すように、クラウディアは再び踏み込んだ。

 横薙ぎに振られた鉄バットをディックが受け、甲高い音が響く。


「でも今日、僕の知らなかった君もたくさん見られた」

「だから何だよ!」

「怒った顔も可愛いなって思った」


 クラウディアは眉を吊り上げたまま、低く返した。


「やめろ」


 今度は下から鉄バットを跳ね上げる。

 ディックは慌てて身を引いたが、それでも口は止まらない。


「口が悪くなるところも結構好きだな」

「やめろっつってんだろ!」


 クラウディアが間合いを詰めると、長い髪が肩から滑り落ちた。

 ディックはそれを見て、また柔らかく目を細める。


「髪を下ろしてる君も綺麗だし」

「ディック」

「鉄バットを振ってる姿は、すごく格好よくて素敵だ」


「黙れってば!!」


 怒鳴るたびに声は大きくなっていくのに、クラウディアの耳まで真っ赤になっている。

 もはや怒りだけで赤くなっているのではないことは、周囲にも明らかだった。


 それでもディックは止まらない。

 からかっているわけでも、わざと動揺させようとしているわけでもなく、全部、本心だった。


 クラウディアの振り下ろした鉄バットを両手で受け止め、その重さに腕を震わせながらも、ディックはまっすぐ彼女を見る。


「僕は、どのクラウディアも可愛いと思ってるよ」

「――っ!」


 二本の鉄バットが押し合ったまま、クラウディアの動きが止まった。

 ディックはその目を見つめ、静かに続ける。


「だから、もう僕の前で無理に隠さなくていいんだよ」


 その声があまりにも優しくて、クラウディアは何も返せなくなった。

 頬の熱がさらに増していく。そんな彼女を見て、ディックは一層柔らかく笑った。


「それに、今みたいに照れてる君は――」

「うるせぇ!!」


 これ以上最後まで言わせるものかと、クラウディアが鉄バットを弾き返した。

 勢いのまま、一気に間合いを詰める。


「黙れぇぇぇ!!」


 ディックは反射的に鉄バットを正面へ構えた。

 しかし、クラウディアの狙いは最初からそこではない。踏み込みと同時に腰を低く落とし、防御の下へ潜り込むように鉄バットを走らせる。


 金属の先端が、ディックの胸元だけを正確に掠めた。


 ぱしんっ。


 赤い花弁が、一斉に舞い上がった。

 ディックが目を瞬かせ、自分の胸元へ視線を落とす。


 そこに留められていたはずの薔薇はもうなく、散った花弁だけが二人の間をゆっくりと落ちていった。

 鮮やかな決着に見入っていた審判役の教師も我に返り、声を上げる。


「勝者――クラウディア・フォン・メクレンブルク!」


 宣言とともに、観客から歓声が上がった。

 クラウディアは大きく息を吐くと、振り抜いた鉄バットをそのまま肩へ戻す。顔はまだ赤い。


 一方のディックは、足元に散った薔薇を眺めてから、改めてクラウディアへ顔を上げた。


「最後の一撃、すごく速かったね」


 クラウディアは無言で睨む。

 その顔を見ても、ディックの笑みは変わらなかった。


「照れた勢いって、すごいんだなあ」

「てめぇ、まだ言うか!!」


 決闘が終わったというのに再び響いた怒声に、今度は観客から大きな笑いが起こった。


 ◇


 決闘が終わり、二人の鉄バットが武器庫へ回収された頃には、中庭に集まっていた観客たちも少しずつ大広間へ戻り始めていた。

 クラウディアはその喧騒から少し離れた場所に立ち、乱れた髪を手櫛で整えている。


 編み込みを結い直す気力まではなかった。

 卒業祝賀会の最中に婚約者から突然婚約解消を告げられ、二年ぶりに昔の口調へ戻ったうえ、大勢の前で鉄バットまで振り回したのだ。

 明日からもう風紀委員長ではないことだけが、せめてもの救いだろう。


「クラウディア」


 聞き慣れた声が背後から近づいてきても、彼女は振り返らなかった。


「……何だよ」


 やがてディックが隣へ並ぶ。

 先ほどまで鉄バット同士で打ち合っていた二人の間にも、今は穏やかな夜風が通り抜けていた。

 しばらく何も言わずにいたディックが、やがて静かに口を開く。


「もう一度、ちゃんと謝りたい」


 クラウディアが横目を向けると、彼はもう笑っていなかった。

 ヘーゼル色の瞳をまっすぐこちらへ向け、真剣な表情をしている。


「君の気持ちを確かめもしないで、僕だけで結論を出した。自分が身を引けば君のためになるんだって、勝手に決めつけて……ごめんね」


 クラウディアは黙ったまま聞いていた。

 ディックも言い訳を続けることはせず、一度言葉を切ってから、もう一度しっかりと告げる。


「次からは、ちゃんと君に聞くようにする」


 クラウディアはしばらく彼を見つめていたが、やがて張っていた肩からふっと力を抜いた。


「当たり前だろ」

「うん。ごめんね」


 素直に頷くディックへ、念を押すように顔を向ける。


「勝手にあたしの人生決めんな」

「分かった。これからはちゃんと相談する」


 まっすぐに答えられ、クラウディアもようやく怒りを収めた。

 そこで少し迷うように視線を逸らし、ほどけた髪の先を指で弄る。


「あと……昔のあたしのこと……、知りたいなら、そのうち話してやるよ」


 ディックの表情が、ぱっと明るくなった。


「本当に?」

「ただし、笑ったら殴るからな」

「笑わないよ」


 にこやかにそう言われても、クラウディアは疑うような目を向けたままだ。


「引いても殴る」

「たぶん引かないと思うから安心して」

「……なんで言い切れんだよ」


 眉を寄せたクラウディアへ、ディックは少しだけ首を傾げた。

 夜風に揺れる彼女のワインレッドの髪へ、目を向ける。


「だって、今日のクラウディアも可愛かったから」


 クラウディアの動きが止まった。

 ディックはそんな彼女の反応にも構わず、至って自然な調子で続ける。


「真面目で頑張ってる君も可愛いし、怒ってる君も可愛い」

「……やめろ」


 低く制されても、ディックは嬉しそうに目を細めるばかりだった。


「髪を下ろしてる姿も綺麗だったし、鉄バットを持ってる時は格好よかった」

「やめろっつってんだろ……」


 言葉とは裏腹に、クラウディアの頬はみるみる赤くなっていく。

 それでもディックは、本当に褒めているだけなのだろう。少しも悪びれず、むしろ嬉しそうに彼女を見ていた。


「それに、今みたいに照れてる君も――」

「……ざけんな」


 最後まで聞く前に、クラウディアは耳まで真っ赤にして、ぷいと顔を背けた。

 そんな彼女を見て、ディックが柔らかく笑う。


「そういうところも可愛いね」

「てめぇ!!」


 クラウディアが勢いよく振り返った。


「もう一回そこ立て! 今度こそ一発――」

「再戦は禁止ですよ!!」


 離れた場所から飛んできた教師の怒声に、クラウディアの言葉が止まった。

 どうやら教師は、先ほどから二人の様子をずっと警戒していたらしい。


 ◇


 その後、クラウディアとディックの婚約は、改めて両家の了承を得たうえで正式に継続されることになった。


 もっとも、卒業祝賀会で婚約解消を申し出て、その日のうちに撤回した経緯を帰宅後に説明したディックは、父親からしばらく無言で見つめられたという。

 ようやく口を開いた父親は、真顔で尋ねた。


『お前は何をしに卒業祝賀会へ行ったんだ?』


 ディック自身も返す言葉がなかったらしい。


 一方、メクレンブルク伯爵夫妻の反応は少し違っていた。

 娘が二年ぶりに昔の口調へ戻り、しかも鉄バットまで振り回したと聞いた父は、妙に感慨深そうに頷いた。


『そうか。まだやんちゃぶりは残っていたか』


 母も、その隣で微笑む。


『少し安心しましたわね』


 どうやら二人にとっては、模範的な令嬢となった現在のクラウディアだけでなく、かつての気の強い娘らしさも失われていなかったことのほうが嬉しかったらしい。

 クラウディア本人だけは、その感想を聞いて何とも言えない顔をしていた。


 ◇


 卒業祝賀会が終わり、生徒や家族たちが帰ったあとの大広間では、職員たちが後片づけを進めていた。

 華やかだった会場は少しずつ元の姿へ戻り、中庭に散った薔薇の花弁も、今では一枚残らず片づけられている。


 その様子を眺めながら、二人の教師が並んで深く息を吐いた。


「今年も大変でしたね」

「ええ。まさか最後に鉄バット同士の決闘を見ることになるとは思いませんでした」


 予想外の武器こそ飛び出したものの、幸い怪我人は出なかった。

 騒動の発端となった婚約も、結局は元の鞘へ収まっている。結果だけを見れば、悪くない一年だったのかもしれない。


 一人の教師が、ようやく肩の力を抜いたように微笑んだ。


「まあ、なんだかんだありましたが……去年と今年は、平和に終わりましたね」

「そうですね。どちらも最後には婚約が元へ戻りましたし」


 もう一人の教師も頷き、静かになった大広間を見渡す。


「来年こそは、何事もなく卒業祝賀会を終えたいものです」

「ええ。本当に」


 二人は心からそう願い、穏やかに頷き合った。


 ――翌年。

 彼らは、この日の鉄バット同士の決闘を思い出しながら、心の底からこう思うことになる。

 去年は、平和だった。


 なぜなら、次の卒業祝賀会で決闘を始めるのは――。

 ノルディア王国の王女なのだから。

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