第八戦 婚約破棄ですか? じゃあ決闘しよう!
ノルディア王立学園の卒業祝賀会。
色とりどりの礼装に身を包んだ卒業生たちが、大広間のあちこちで四年間の思い出や卒業後の進路について語り合う中、モニカ・フォン・ラスカーノは先ほどから何度も入口へ視線を向けていた。
「ミゲル、遅いなあ」
そう呟きながら、手持ち無沙汰に深緑の宝石が揺れる耳飾りへ触れる。
十八歳のモニカは、ラスカーノ子爵家の令嬢である。
小柄で、明るいピンクブラウンの髪をふわふわとしたポニーテールにまとめている。
大きな琥珀色の瞳は感情に合わせてころころと表情を変え、じっとしているより身体を動かしているほうが好きな、明るく快活な少女だった。
今夜のドレスは淡い生成り色を基調に、深緑のリボンと細かな金糸の刺繍をあしらったものだ。
胸元や裾には矢羽根を思わせる意匠が入り、耳と首を飾る宝石も深い緑色で統一されている。
それらはすべて、婚約者であるミゲル・フォン・グリュンタールの瞳の色に合わせて選んだものだった。
「相変わらず仲がよろしいですわね」
隣にいた令嬢が、モニカの耳元を見ながら微笑んだ。
「え?」
「その耳飾り。グリュンタール様のお色でしょう?」
モニカは嬉しそうに髪を持ち上げ、耳飾りを見せた。
「うん! ミゲルの瞳の色なんだ! 綺麗でしょ?」
隠す気などまるでない素直な反応に、周囲の令嬢たちからまた楽しげな笑い声が上がる。
彼女とミゲルが仲のいい婚約者同士であることは、学園中が知っていた。
両家の親同士が昔から親しく、二人は物心がつく前から家族ぐるみで顔を合わせて育っている。
十歳で正式に婚約してからも関係がぎこちなくなることはなく、むしろ年を重ねるにつれてますます仲は深まっていった。
ミゲルが七歳から習っていた弓を、モニカも学園へ入学した十四歳の頃から教えてもらうようになり、それ以来、放課後の弓場では二人並んで練習する姿がすっかりお馴染みになっている。
そして卒業後は、二人そろって王国軍の弓兵隊へ入ることも決まっていた。
結婚し、王都で暮らし、同じ隊で働く。
それが昨日まで、二人にとって何の疑いもない未来だった。
「昨日もお二人で弓場にいらっしゃいましたものね」
「うん。最後だからって、先生が好きなだけ使っていいって言ってくれて」
昨日の練習を思い出し、モニカは頬を緩めた。令嬢もつられるように微笑む。
「卒業後も同じ職場なのでしょう?」
「そうなの! 配属先まで一緒だったらいいねって話してて――あっ」
大広間の入口へ目を向けたモニカの顔が、ぱっと明るくなった。
「ミゲル!」
いつものように駆け寄ろうとして、しかし数歩進んだところで足を止める。
ミゲル・フォン・グリュンタールは、侯爵家の次男で、モニカと同じ十八歳。
すらりとした長身に、日頃の弓術で鍛えられたしなやかな身体つきをしている。
短く整えられたダークブラウンの髪と深い緑の瞳も相まって、普段は落ち着いた真面目な青年という印象が強かった。
今夜の礼装も深緑を基調としており、モニカのドレスと同じ矢羽根の意匠が金糸で刺繍されている。
どう見ても、仲睦まじい婚約者同士の揃いの装いだった。
だというのに、今夜のミゲルは明らかに様子がおかしい。
いつもならモニカを見つければ表情を和らげるはずなのに、その顔はひどく強張っていた。
「ミゲル?」
モニカは彼のそばまで歩み寄り、心配そうに顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 朝から変だよ。具合悪い?」
「いや……大丈夫だ」
歯切れの悪い返事に、モニカは首を傾げる。
「ほんとに?」
「ああ」
そう答えながらも、ミゲルはモニカから視線を逸らした。
卒業式の朝からずっとこうだった。
声をかけてもどこか上の空で、何かを言おうとしては口を閉ざしている。
生まれた頃から一緒にいるのだ。何かあったことくらい、モニカにも分かる。
「何かあったなら、話してよ」
「……モニカ」
改まった声で呼ばれ、モニカは彼を見上げた。
「うん? なあに?」
ミゲルはしばらく黙っていたが、やがて覚悟を決めるように拳を握った。
今朝、グリュンタール侯爵家から緊急の知らせが届いていた。
兄が落馬事故に遭ったという。
本来ならば家督を継ぐはずだった兄は意識が戻らず、医師からは、たとえ命が助かったとしても以前と同じ生活へ戻れるかどうか分からないと告げられたらしい。
もし兄が侯爵家を継げないのなら、次男である自分が継がなければならない。
そうなれば、王国軍へ入る予定は白紙になる。
そして侯爵家を継ぐ男の妻となれば、モニカにも領地や社交を支える役割が求められるだろう。
彼女は弓が好きだ。王国軍へ入ることを心から楽しみにしていたし、この四年間、どれほど努力してきたのかも、ミゲルは誰よりよく知っている。
自分の都合で、その未来を奪いたくはなかった。
そう考えた末に出した結論は、彼女を自分から解放することだった。
ミゲルは目の前のモニカをまっすぐに見つめ、大きく息を吸った。
「モニカ・フォン・ラスカーノ!」
思いのほか大きな声が、大広間へ響き渡った。
「君との婚約を破棄する!」
大広間が静まり返った。
誰もが動きを止め、何が起きたのか分からないという顔で二人を見る。
モニカも、大きな琥珀色の瞳を瞬かせた。
「……え?」
そして、ミゲル自身も気づく。
――声が大きすぎた。
本当は、もっと静かに告げるつもりだった。
こんな大勢の卒業生と教師たちに囲まれながら宣言するつもりなど、一切なかったのだ。
緊張しすぎて失敗した。
「……ミゲル」
「なんだ」
モニカは周囲を見回してから、もう一度彼を見上げた。
「なんでそんな大声で言ったの?」
「……俺にも分からない」
ひそひそとした声が、やがて大広間のあちこちへ広がっていく。
「え? ラスカーノ嬢とグリュンタール卿が?」
「婚約破棄?」
二人をよく知る令嬢たちも、戸惑ったように顔を見合わせた。
「昨日まで一緒に弓場にいましたわよね?」
「というか、今日の衣装もお揃いですよね?」
揃いの矢羽根の刺繍へ目を向け、一人が困惑したように首を傾げる。
「卒業後も同じ弓兵隊へ行くと言ってましたよね……?」
事情を知らない同級生たちは、本気で困惑していた。
壁際に控えていた教師の一人も、聞き覚えのありすぎる単語に眉間を押さえる。
「また婚約破棄ですか……」
しかし、隣にいた教師は二人を見つめたまま首を傾げた。
「でも、待ってください。あの二人ですよ?」
「そうなんですよね……」
学園公認のおしどりカップルである。教師たちですら、今回は事情が分からなかった。
そして当然ながら、一番分かっていないのはモニカ本人だった。
「ねえ、ミゲル。昨日までは普通だったよね?」
「……ああ」
ミゲルの顔を見つめたまま、モニカは一つずつ確かめていく。
「一緒に弓兵隊へ行こうって言ったよね?」
「そうだな」
「王都で家を探そうねって話もしてたよね?」
昨日の会話を思い出したのか、ミゲルは苦しげに眉を寄せた。
「……ああ」
「じゃあ、なんで?」
まっすぐに問いかけられ、ミゲルは一度目を伏せた。それから、今朝届いた知らせについて順を追って説明する。
兄が落馬事故に遭い、家督を継げなくなる可能性があること。その場合は、自分が侯爵家を継がなければならないこと。
モニカは口を挟まず、最後まで彼の話を聞いていた。
「俺はもう、君と一緒に弓兵隊へは行けないんだ」
「……うん」
モニカの返事を聞き、ミゲルは言葉を継いだ。
「けれど、モニカまでそれを諦める必要はない。君はずっと王国軍へ入るために努力してきただろう? 俺と結婚すれば、侯爵夫人として家を支えなければならなくなるから」
そこで一度言葉を切り、苦しそうに息を吐く。
「俺の事情に、モニカまで巻き込みたくはない」
「それで?」
「だから、婚約を解消することにした」
モニカはぱちぱちと瞬きをした。
「わたしのために?」
「ああ」
真面目な顔で頷くミゲルを、モニカはじっと見つめた。
「わたしが弓兵隊へ行けなくなるかもしれないから?」
「そうだ」
「それ、わたしに聞いた?」
ミゲルが黙り込んだ。
モニカは少しだけ身を乗り出す。
「ねえ。聞いた?」
「聞いていない」
「だよね。だってわたし、今日初めて聞いたもん」
呆れたように腰へ手を当てるモニカへ、ミゲルはなおも真面目な顔で言い聞かせようとした。
「だが、これは俺の家の問題だ」
「でも、わたしの将来の話も入ってるよね?」
「君には夢があるだろう!」
珍しく声を荒らげ、ミゲルは拳を握りしめた。
「王国軍へ入るために、四年間どれだけ努力してきたか俺は知っている。君がそれを俺のために諦める必要なんてないんだ!」
モニカはその顔を見上げ、静かに頷いた。
「うん。弓兵隊には行きたいよ」
「だったら――」
「でも、ミゲルと結婚したいのも、わたしのやりたいことだよ?」
あまりにも当然のことのように返され、ミゲルは言葉を失った。
モニカはそんな彼を見上げながら、不思議そうに首を傾げる。
「どうして、どっちかしか選べないの?」
「侯爵家を継ぐ以上、そんな簡単にはいかないんだ」
それでもモニカは引き下がらず、彼から目を逸らさなかった。
「じゃあ、どうすれば両方できるか一緒に考えればいいじゃん」
「モニカ……」
「わたしの人生なんだから、わたしにも決めさせてよ」
その言葉に、ミゲルの表情が揺れた。
だが、今朝突然背負わされた責任と、彼女の未来を奪ってしまうかもしれないという恐怖は、十八歳の青年から冷静に考える余裕を奪っていた。
しばらく黙った末、ミゲルはゆっくりと首を横に振る。
「それでも、俺は婚約を解消する」
「どうしても?」
「ああ」
モニカはわずかに眉を下げ、もう一度尋ねた。
「わたしが嫌だって言っても?」
「君のためなんだ」
「話し合っても変えない?」
ミゲルは唇を引き結んだあと、はっきりと答えた。
「変えない」
「……そっかあ」
モニカは腕を組み、しばらく考え込んだ。
そして何かを思いついたらしく、ぱっと顔を上げる。
「じゃあ、決闘しよう!」
「……は?」
今度はミゲルが目を丸くした。
周囲で成り行きを見守っていた教師たちも、揃って固まる。
「なんでそうなるんですか?」
思わず教師の一人が口を挟むと、モニカはむしろ不思議そうに首を傾げた。
「だって、話してもミゲルが聞いてくれないので」
「だからといって、決闘をする必要はないでしょう?」
諭すように言われても、モニカは納得していない顔だった。
「でも、ちゃんと王国の制度ですよね?」
「制度ではありますが……」
言い返せないのが、この国の困ったところだった。
モニカは再びミゲルへ向き直る。
「わたしが勝ったら、婚約破棄はいったんなし。ちゃんと二人でもう一回考える」
「俺が勝ったら?」
ミゲルの問いに、モニカは迷わず答えた。
「わたしは婚約解消を受け入れる」
その言葉に、ミゲルの表情が変わった。冗談で言っているわけではないと分かったのだろう。
「本気なんだな」
「うん」
きっぱりと頷いた彼女をしばらく見つめ、ミゲルも静かに頷いた。
「分かった」
ミゲルも逃げなかった。
モニカを自由にすると決めた以上、自分も本気で勝つつもりだった。
◇
決闘は、学園の中庭で行われることになった。
「遠距離武器戦を選ぶ」
申し込まれた側として武器区分を問われたミゲルが、静かにそう告げる。
「使用武器は?」
「弓で」
それは、ミゲルが最も得意とする武器だった。
七歳から十一年間、鍛え続けてきた。学園でも弓術の成績は常に上位であり、王国軍弓兵隊への採用も、その腕を高く評価された結果である。
周囲がざわついた。
「グリュンタール卿、本気ですわね」
「弓なら学園でも指折りでしょう?」
見守っていた令嬢の一人が、心配そうにモニカへ視線を向ける。
「ラスカーノ嬢も弓を使いますけれど……」
教師もモニカへ顔を向けた。
「ラスカーノ嬢は?」
「じゃあ、わたしも弓で!」
迷うことなく答えたモニカへ、ミゲルが眉を寄せる。
「モニカ。悪いが、手加減はしないぞ」
「うん!」
モニカは嬉しそうに頷き、まっすぐに彼を見つめた。
「わたしもしないよ!」
遠距離武器による決闘では、近接戦以上に厳重な防護措置が取られる。
競技者の身体には決闘用の防御魔法が施され、矢が命中しても重傷を負わないよう衝撃を吸収する。観客との間にも防護結界が張られるため、流れ矢が外へ飛び出す心配もない。
ただし、胸元に留められた一輪の薔薇だけは防護対象外。先に相手の薔薇を散らした者が勝者となる。
準備が整うと、二人には同じ規格の決闘用弓と矢が渡された。
ミゲルは慣れた手つきで弦の張りを確かめる。その向かいでは、モニカも同じように弓の具合を確かめていた。
その姿を眺めているうちに、ミゲルの脳裏へ四年前の記憶が蘇る。
学園へ入学したばかりの十四歳の春。
弓場で自分が射る姿を見ていたモニカが、突然目を輝かせて言った。
『ねえミゲル! わたしにも教えて!』
最初は弦を引くだけでも一苦労で、肩にばかり力が入り、放った矢も的の端へ飛んでいった。
それでもモニカは一度も嫌そうな顔をせず、何度失敗しても楽しそうに笑い、翌日にはまた弓場へやってきた。
そうして四年間、彼女はずっと練習を続けてきたのだ。
「準備はよろしいですか?」
教師の声に現実へ引き戻され、ミゲルは目の前のモニカを見る。
彼女もこちらを見ており、二人はほとんど同時に頷いた。
「始め!」
合図と同時に、二人は矢をつがえた。弦を引き、狙いを定めて放つまで、ほとんど差はなかった。
ひゅっ、と風を切って二本の矢が空中を走る。
ミゲルは身体を捻ってモニカの矢をかわし、モニカも同じように身を翻して彼の矢を避けた。
互いに一射目が外れたと見るや、すぐさま次の矢へ手が伸びる。
ミゲルが二射目の矢をつがえ、弦を引こうとした、その時だった。
ひゅん、と再び風を切る音がした。
こちらが引き切るより早く、モニカの二射目が飛んでくる。
「っ!」
咄嗟に横へ跳ぶと、矢は胸元の薔薇すれすれを通過し、観客から大きなどよめきが上がった。
「速い……」
思わず呟いた時には、モニカの手はすでに次の矢へ伸びている。
三射目が右側の進路を塞ぐように飛んできたため、ミゲルは反対側へ身体をかわした。ところが、そこへ追い立てるように次の一射が迫り、今度は逆方向へ逃れざるを得ない。
避けながら、ミゲルはようやく気づいた。
モニカは、ただ素早く矢を放っているのではない。こちらが次にどこへ動くのかを読み、一本ずつ逃げ道を削るように矢を放っているのだ。
「モニカ!」
「なにー?」
弓を構えながら、いつもの調子で返事が飛んでくる。ミゲルは距離を取り直し、彼女を見据えた。
「お前……いつから、こんなに上手くなってた?」
「え?」
モニカは一瞬だけ不思議そうな顔をしたあと、すぐに笑った。
「ずっとミゲルと練習してたよ!」
再び矢が飛び、ミゲルも負けじと射返した。
もちろん、十一年間積み上げてきた彼の技術も伊達ではない。狙いは正確で、胸元へ向かった一射を、モニカは身体を沈めてぎりぎりでかわした。
「危なっ!」
そう言いながらも、なぜか楽しそうだ。
「笑っている場合か!」
「だって、ミゲルと本気で弓を射るの、初めてだから!」
弾むような声で答えながら、モニカは次の矢をつがえた。
「今は決闘中だ! 真面目にやれ!」
「分かってるよ!」
返事とともに、再び矢が放たれる。
その姿を目で追ううちに、ミゲルはふと妙な感覚を覚えた。
構え方も、肩の位置も、呼吸の整え方も、弦から指を離す瞬間も、確かに自分が教えたものだった。
十四歳の頃から何度も隣に立ち、一つずつ教えてきた基礎が、今も彼女の中にしっかりと残っている。
けれど、もう自分が教えたままではない。
その土台の上に、モニカはこの四年間で自分なりの技術を積み重ねていた。
矢を放つ速度も、狙いの正確さも、相手の動きを見て次の一射を選ぶ力も、いつの間にか、自分が一から弓を教えていた頃とは比べものにならないほど磨かれている。
「俺より……」
思わず漏れた声に、モニカがこちらを見る。
「ん?」
「俺より、上手くなっていたのか」
その言葉を聞いた途端、モニカの琥珀色の瞳が大きく見開かれ、すぐに嬉しそうに輝いた。
「ほんとに!?」
「喜ぶな!」
「だって嬉しいよ!」
弓を引きながらも抑えきれない笑みを浮かべ、モニカは弾むような声で言う。
「ずっとミゲルに追いつきたくて練習してたんだもん!」
その言葉に、矢をつがえようとしていたミゲルの指が一瞬だけ止まった。
「俺に?」
「うん!」
迷いのない返事に、ミゲルは戸惑いながら口を開いた。
「なぜ、そこまで……」
「ミゲルと一緒に弓を射るのが好きだったから!」
あまりにもまっすぐな答えに、ミゲルは息を呑んだ。
自分は彼女の夢を守るつもりで、婚約まで手放そうとしていた。
けれどモニカは、この四年間ずっと自分の背中を追いかけ、隣に並ぼうとしていたのだ。
それでも、ここで負けるわけにはいかない。
彼女に弓兵隊への道を諦めさせないためにも、自分の決意だけは最後まで貫くつもりだった。
「それでも、俺は勝つ」
「うん!」
モニカも弓を構え直し、迷いのない笑顔で答える。
「わたしも勝つよ!」
二人はほとんど同時に走り出し、互いに距離を取りながら次の矢をつがえた。
ミゲルは呼吸を整え、モニカの胸元に留められた薔薇へ狙いを定める。
七歳から十一年間、何千、何万と繰り返してきた動作だった。
弦を引き切り、迷いなく放つ。ほぼ同時に、モニカの矢も弦を離れた。
モニカは射った直後に身を翻し、飛んできたミゲルの矢をかわす。その手は、すでに次の矢へ伸びていた。
一方、正面から迫る矢を見たミゲルは、考えるより先に左へ身体をかわした。
正面から射られた時は、左へ避ければそのまま次の射撃へ移りやすい。それは十一年間の鍛錬で身体に染みついた、本人すらほとんど意識していない癖だった。
そして――モニカは、その癖を知っていた。
彼が動き出すより早く、次の矢はその行き先へ放たれていた。
左へ踏み出したミゲルの目に、まっすぐ迫る矢が映る。
「――っ!」
気づいた時には、もう避けられなかった。
矢の先端が、胸元の薔薇を正確に捉える。
ぱしゅっ、と小さな音を立てて、赤い花弁がふわりと宙へ舞った。
一瞬、場が静まり返った。
そして教師が、高らかに宣言する。
「勝者――モニカ・フォン・ラスカーノ!」
「やったー!」
モニカが弓を持ったまま両腕を上げ、ぴょんと跳ねた。
観客から歓声と拍手が沸き起こる中、ミゲルは胸元から散っていく花弁を見つめたまま立ち尽くしている。
しばらくして、駆け寄ってきたモニカへ静かに尋ねた。
「最後の一射……」
「うん?」
モニカが顔を覗き込むと、ミゲルは足元の花弁から視線を上げた。
「俺が左へ避けると分かっていたのか?」
「うん!」
モニカは迷うことなく頷いた。
「だって、ずっとミゲルを見てたから!」
あまりにも当然のように言われ、ミゲルは返す言葉を失った。
十一年かけて身についた、自分ですら意識していなかった癖を、モニカは知っていた。
それほど長い間、彼女は自分を見ていたのだ。
それなのに自分は、モニカの気持ちを確かめもせず、彼女のためだと勝手に結論を出していた。
職員へ弓を返したモニカは、黙り込んだままのミゲルへ向き直り、腰に手を当てた。
「じゃあ、約束どおり、婚約破棄はいったんなしだよ!」
ミゲルも弓を職員へ預け、浮き立つような声で告げた彼女を見下ろす。
「正確には、もう一度話し合う、だ」
「あ、そうだった!」
「忘れていたのか?」
思わず呆れた声を返すミゲルに、モニカは悪びれる様子もなく笑った。
「でも、わたしはミゲルと婚約破棄したくないよ」
その言葉だけは、少しも冗談めかしていなかった。
まっすぐな琥珀色の瞳で見つめられ、ミゲルは言葉を詰まらせる。
「ミゲルの気持ちは?」
返事がない。
モニカはもう一歩近づき、彼の顔を覗き込んだ。
「ねえ?」
しばらく迷った末、ミゲルは観念したように小さく息を吐く。
「俺だって、本当はしたくない」
その瞬間、モニカの顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ決まり!」
「まだ何も決まっていないだろ」
浮かれかけた彼女を制しながら、ミゲルはすぐに現実へ話を戻した。
「兄上のことも、家のこともある。俺が侯爵家を継ぐ可能性は――」
その時だった。
「グリュンタール卿!」
切迫した声とともに、校舎のほうから一人の職員が慌ただしく駆けてくる。
「至急の電報です!」
「俺に?」
怪訝そうに眉を寄せながら、ミゲルは差し出された電報を受け取った。
すぐに封を切って書面へ目を落としたものの、内容を読み進めるにつれて表情が変わり、やがて動きがぴたりと止まる。
「ミゲル?」
声をかけても返事がない。
不思議に思ったモニカが隣から覗き込むのを、ミゲルは止めることもなく、ただ呆然と電報を見つめていた。
そこには、兄の意識が戻ったことが記されていた。
受け答えはしっかりしており、手足にも大きな異常は見られない。
医師によれば、当初懸念されていた重い後遺症が残る可能性も低く、このまま順調に回復すれば、予定どおり家督を継ぐことにも支障はない見込みだという。
最後まで読んだモニカは、ぱっと顔を輝かせた。
「よかったね!」
「ああ……」
ミゲルは、まだ信じられないように書面を見つめている。
モニカももう一度その内容へ目を落とし、嬉しそうに彼の袖を引いた。
「お兄様、元気になるんだよね!」
「そうらしい」
「じゃあ、ミゲルも弓兵隊に来られるよね!」
そこでようやく、ミゲルが顔を上げた。
「……そうだな」
心の底から嬉しそうなモニカとは対照的に、その返事は妙に重かった。
もちろん、兄が無事だったことは嬉しい。
知らせを聞いた周囲からも安堵の声が上がり、教師たちもほっとしたように表情を緩めている。
だが、ミゲルはしばらく電報を見つめたまま動かなかった。
やがて、ある事実に思い至ったように、ゆっくりと片手で顔を覆う。
「俺は……」
「どうしたの?」
モニカが首を傾げると、指の隙間からくぐもった声が漏れた。
「俺は何のために、大広間中へ聞こえる声で婚約破棄を……」
教師の一人が耐えきれず顔を逸らし、何人かの同級生も笑いを堪えるように肩を震わせた。
しかしモニカだけは、何がおかしいのかよく分かっていないらしい。きょとんとしたあと、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。
「でも、よかったじゃん!」
「ああ。よかった。兄上が無事なのは、本当に……よかった」
それだけは間違いなかった。
ミゲルが深く息を吐くと、モニカはさらに嬉しそうに続けた。
「じゃあ婚約もそのままだよね!」
「ああ」
頷くミゲルを見上げ、モニカは声を弾ませる。
「一緒に弓兵隊に入れるね!」
「そうだな」
「やったー!」
勢いよく抱きついてきたモニカを、ミゲルは反射的に受け止めた。
その小さな身体を腕の中に収めると、ようやく張り詰めていたものがほどけたのか、安堵したように息を吐く。
周囲からは、二人を祝福するような拍手が沸き起こった。
兄には回復の見通しが立ち、二人の進路も元どおり。
愛する婚約者との未来も失わずに済んだのだから、何もかもめでたい結末である。
――ただし、一つを除いて。
「そういえば、ミゲル」
腕の中から、モニカがにこにこと彼を見上げる。
「なんだ」
「さっきの婚約破棄、ほんとに声大きかったね!」
嫌な予感が的中したらしく、ミゲルの顔が引きつった。
「頼む。やめてくれ」
「『モニカ・フォン・ラスカーノ! 君との婚約を破棄する!』って!」
朗々と再現され、ミゲルは慌てて声を挟んだ。
「やめろ。再現するな」
「大広間の端まで聞こえてたんじゃないかな?」
モニカは楽しそうに笑っているが、ミゲルはそれどころではない。
彼女の肩へ手を置き、真剣な顔で呼びかけた。
「モニカ」
「なあに?」
「お願いだから、その話だけは、忘れてくれ」
心底から頼み込まれ、モニカは少しだけ考える素振りを見せた。
そして、満面の笑みを浮かべる。
「無理かも!」
「……そうか」
この日、モニカ・フォン・ラスカーノは婚約者との決闘に勝利し、ミゲル・フォン・グリュンタールは兄の無事を知り、愛する婚約者との未来を取り戻した。
その代わり、卒業祝賀会で学園中へ響き渡る声で婚約破棄を宣言したという黒歴史だけは、この先も長く抱えていくことになった。




