第七戦 婚約破棄ですか? それより決闘いたしましょう
ノルディア王立学園の卒業祝賀会。
華やかな音楽と談笑に満ちた大広間の一角で、ヴィクトリア・フォン・ブリュンヒルデは数人の令嬢たちに囲まれていた。
十八歳になる彼女は今年度の卒業生であり、ブリュンヒルデ伯爵家の長女にして、正式な次期伯爵でもある。
すらりとした長身に、日々の鍛錬によって引き締められた身体。
濃い青の髪は前髪も含めて同じ長さに短く整えられ、涼やかな切れ長の瞳は灰色だった。
甘さよりも凛々しさが際立つ顔立ちと堂々とした立ち姿から、男子生徒よりもむしろ女子生徒から絶大な人気を誇っている。
今夜の礼装も、彼女らしさをよく表していた。
多くの令嬢たちが色とりどりのドレスを纏う中、ヴィクトリアが選んだのは、黒を基調としたパンツスタイルの正礼装である。
上質な生地には繊細な光沢があり、シャンデリアの光を受けるたび、夜空に散る星のようにきらきらと瞬く。細身の上着は身体の線を美しく整え、襟や袖には控えめな銀糸の刺繍が施されていた。
「ヴィクトリア様、今夜も本当に素敵ですわ」
「ありがとうございます」
ヴィクトリアが微笑むと、令嬢はその礼装をうっとりと眺めた。
「その礼装、ヴィクトリア様だからこそお似合いになりますわね。わたくしが着たら、きっと衣装に負けてしまいますもの」
「そんなことはありませんよ。あなたなら、もう少し柔らかな色を合わせても素敵でしょうね」
さらりと返され、令嬢が頬を赤くする。その様子を見ていた別の令嬢が、くすくすと笑った。
「本当に、ヴィクトリア様は罪なお方ですこと」
「何がです?」
「そういうところですわ」
意味が分からず首を傾げるヴィクトリアに、令嬢たちはまた楽しそうに笑った。
その中の一人が大広間を見回してから、少しだけ声を潜める。
「ところで……今夜もレオナルト様はいらっしゃらないのですか?」
「ああ」
婚約者の名前を出され、ヴィクトリアもようやく思い出したように周囲を見回した。
レオナルト・フォン・ヴェルナー。
ヴェルナー伯爵家の次男であり、幼い頃から決められていたヴィクトリアの婚約者である。
「そういえば、まだ姿を見ていませんね」
「そういえばって……」
令嬢たちは顔を見合わせ、そのうちの一人が眉をひそめた。
「卒業祝賀会なのに、婚約者をエスコートもなさらないなんて」
「いつものことですから」
ヴィクトリアは特に気にした様子もなく、グラスへ口をつけた。
レオナルトが彼女をエスコートしたがらないのは、今に始まったことではない。
二人はほとんど身長が変わらない。
そのことをヴィクトリア本人は一度として気にしたことがなかったが、どうやらレオナルトにとっては違ったらしい。
加えて、ヴィクトリアは女子生徒から妙に人気がある。
本人にその気はまったくないものの、扉を開ければ感謝され、重い荷物を持てば頬を染められ、困っている令嬢へ自然に手を差し伸べれば黄色い声が上がる。
結果として、レオナルトの機嫌は年々悪くなっていた。
とはいえ、それは彼自身の問題である。
ヴィクトリアとしては、こちらが何か悪いことをしているわけでもないのに、わざわざ機嫌を取る必要性を感じていなかった。
「でも、卒業後には正式な婚姻のお話も進むのでしょう?」
「その予定ではありますが――」
そこまで答えた時、大広間の入口付近がにわかにざわついた。
何事かと視線を向けると、人波の向こうから見慣れた青年が歩いてくる。レオナルトだった。
そして、その隣にはもう一人。
「……エルフィ?」
ヴィクトリアの灰色の瞳が、わずかに見開かれた。
レオナルトに伴われていたのは、二歳年下の妹、エルフィ・フォン・ブリュンヒルデだった。
姉と同じ濃い青の髪と灰色の瞳を持ちながら、その印象はまるで違う。
小柄な身体に、ふわふわと柔らかく波打つ髪。ぱっちりとした大きな目も愛らしく、凛々しい麗人と評されるヴィクトリアとは対照的な、可憐な少女だった。
そこまではいい。
問題は、レオナルトの手がエルフィの腰へ回されていることだった。
ヴィクトリアの笑みが消えた。
その頃には、壁際に控えていた教師たちも異変に気づいていた。
「あちら、ブリュンヒルデ嬢の妹君ですよね」
「そうですね」
一人が目を凝らし、二人の立ち姿を確かめる。
「ヴェルナー卿、腰に手を回していませんか?」
「回していますね」
二人の教師が、しばらく無言で顔を見合わせた。
「嫌な予感がするんですが」
「奇遇ですね。私もです」
ここ数年、王立学園では卒業祝賀会のたびに妙な騒動が起きている。
婚約破棄。
そして、決闘。
今年こそは平穏に終わるのではないかと期待していた教師たちだったが、その希望は間もなく打ち砕かれた。
レオナルトが大広間の中央まで進み、ヴィクトリアを指差したのである。
「ヴィクトリア・フォン・ブリュンヒルデ!」
よく通る声に、大広間の視線が一斉に集まった。
「今日この場をもって、私はお前との婚約を破棄する!」
教師の一人が天井を仰ぐ。
「またなのか……?」
隣の教師が、小声で尋ねた。
「決闘担当へ知らせます?」
「まだです。まだ婚約破棄だけですから」
言われた教師は、複雑そうな顔をした。
「だけ、ですか……?」
もはや感覚がおかしくなり始めていた。
一方、婚約破棄を突きつけられたヴィクトリアはといえば、特に驚くこともなくレオナルトを見ていた。
「そうですか。承知しました」
「……は?」
あまりにもあっさりした返答に、レオナルトのほうが目を瞬かせる。
「お、お前……それだけか?」
「何か問題でも?」
問い返され、レオナルトは戸惑いながら口を開いた。
「いや、普通はもっと――」
「それより、レオナルト様」
ヴィクトリアは彼の言葉を遮った。
声は穏やかだったが、先ほどまで彼女を囲んでいた令嬢たちは、揃って一歩だけ後ろへ下がった。
長年ヴィクトリアと交流してきた者には分かる。
これは、あまりよろしくない声だ。
ヴィクトリアはレオナルトの顔ではなく、エルフィの腰へ回されたその手を見た。
「なぜ、わたくしの妹に触れていらっしゃるのですか?」
「何?」
怪訝そうに聞き返されても、彼女の声は変わらなかった。
「婚約破棄については承知したと申し上げました。それよりも、そちらのほうが気になります」
ヴィクトリアの視線がエルフィへ向く。
妹は今にも泣きそうな顔で、ぶんぶんと首を横に振った。
「お姉様、違うの! わたし、レオナルト様から、お姉様との婚約について、わたしにも関係する大事なお話があるって言われて……それで、一緒に来てほしいって」
ヴィクトリアは妹の顔を確かめ、静かに尋ねた。
「では、エルフィはこの方と結婚するつもりなの?」
「そんなこと、ありません!」
エルフィは今度こそ、はっきりと言い切った。
「わたし、そんなお話、一度も聞いていません!」
「エルフィ嬢!」
レオナルトが焦ったように声を上げ、彼女へ顔を向ける。
「今は姉がいるからそう言っているだけだろう! だが、よく考えれば君にも分かるはずだ!」
「何がですか?」
エルフィが戸惑いながら聞き返すと、レオナルトは胸を張った。
「ヴィクトリアより、君のほうが私に相応しいということがだ!」
大広間がざわついた。
ヴィクトリアは何も言わなかったが、レオナルトはその沈黙を、自分の言葉に圧倒されているのだとでも思ったのだろう。得意げな顔のまま、聞かれてもいない説明を続け始めた。
「ヴィクトリアのことは昔から気に入らなかったんだ。私とほとんど身長も変わらないくせに偉そうにして、女のくせに周囲の令嬢たちから持て囃されて! 婚約者である私よりも目立ってどうする!」
ヴィクトリアの表情は変わらない。
それを気にも留めず、レオナルトは隣のエルフィを見下ろした。
「その点、エルフィ嬢は違う。小柄で可愛らしく、素直だ。夫となる男を立てることもできるだろう」
エルフィが露骨に嫌そうな顔をしたが、レオナルトは気づかなかった。
「ヴィクトリアとの婚約がなくなれば、ブリュンヒルデ伯爵家の後継者はエルフィ嬢へ変更すればいい。そうすれば私が彼女と結婚し、夫として支えてやれる!」
ヴィクトリアの眉が、わずかに上がった。
「それで?」
「分からないのか? エルフィ嬢はお前のように我が強くない。伯爵家の切り盛りなど負担になるだろう? ならば私が代わりに実務を取り仕切ればいい。ヴェルナー伯爵家の次男である私にも領地経営の知識はある!」
周囲が静まり返っていく。
レオナルトだけがそれに気づかない中、ヴィクトリアはゆっくりと口を開いた。
「つまり、あなたはわたくしとの婚約を破棄し、次期伯爵であるわたくしを後継から外す。そのうえで、何も知らないエルフィを後継者に据え、自分はその夫となり、ブリュンヒルデ伯爵家の実権を握るおつもりだった、と」
「実権を握るなどと人聞きの悪い!」
レオナルトは苛立たしげに言い返した。
「私が正しく導いてやると言っているんだ!」
壁際の教師が、隣の同僚を見た。
「担当者に連絡してください」
「はい」
決闘担当への使いが走った。
ヴィクトリアは小さく息を吐くと、エルフィへ手を差し伸べる。
「エルフィ。こちらへ」
「お姉様……!」
エルフィはすぐにレオナルトの腕を振り払い、姉のもとへ駆け寄った。
ヴィクトリアは妹を自分の背後へ庇うように立たせてから、改めて元婚約者を見る。
「婚約破棄については、何の異論もありません」
「ふん。ようやく分かったか」
得意げに鼻を鳴らした彼へ、ヴィクトリアは静かに頷いた。
「ええ。むしろ、結婚する前にあなたがどういう方なのか分かって安心しました」
「なに……?」
ヴィクトリアの唇に、薄い笑みが浮かぶ。
「ですが、妹を騙し、勝手に将来を決め、我が家まで利用しようとなさったことについては――別の話です」
大広間の空気が変わった。
「それより、決闘いたしましょう」
◇
決闘は、祝賀会場に隣接する中庭で行われることになった。
もはやこの手の騒動に慣れきった職員たちによって、恐ろしいほど迅速に決闘場が整えられていく。
二人の胸元には、それぞれ一輪の薔薇が留められた。
決闘を申し込まれた側であるレオナルトは、武器区分を問われると迷いなく答えた。
「近接武器だ!」
彼も伯爵家の子息である以上、剣術の教育は受けている。学園内でも決して弱いほうではない。
何より、ヴィクトリアが普段から武器を使っている姿など見たことがなかった。
剣なら勝てる。
そう確信したのだろう。
「承知しました。ヴェルナー卿がお使いになる得物は?」
「剣を」
教師が頷き、決闘用の長剣が用意される。続いて、ヴィクトリアへ向き直った。
「ブリュンヒルデ嬢は、何をお使いになりますか?」
「必要ありません」
教師の動きが、一瞬止まった。
「はい?」
「素手で結構です」
教師はしばらくヴィクトリアを見つめていたが、念を押すように尋ねた。
「念のため確認しますが、本当に武器は必要ありませんか?」
「ええ」
ヴィクトリアは黒い上着の袖口を整えながら、何でもないことのように続ける。
「要は、殺さなければよろしいのでしょう?」
「薔薇を散らせば勝ちです。相手を倒す必要はありませんからね」
教師は即座に釘を刺したが、ヴィクトリアは何でもないことのように頷いた。
「承知しました」
あまりにも迷いのない返事に、教師はかえって不安そうに眉を寄せる。
「……本当に承知されています?」
レオナルトは剣を構えながら鼻で笑う。
「素手だと? 私を馬鹿にしているのか?」
「いいえ」
ヴィクトリアは一歩前へ出ると、足を肩幅ほどに開いた。
特定の流派らしい構えではない。
それもそのはず、彼女は幼い頃から身体を動かすことが好きで、趣味は鍛錬。
書物で見つけた体術を試し、騎士たちの訓練を眺めて動きを研究し、投げ技や足運び、蹴り、打撃を自分なりに組み合わせ続けてきたのだ。
要するに、ほぼ独学である。
本人は試行錯誤そのものを楽しみながら鍛錬を続けているのだが、実験と称して時折怪我までしてくるため、学園の医務室に勤める一人の医師だけはあまり喜んでいなかった。
「始め!」
教師の声と同時にレオナルトが踏み込み、迷いなく剣を袈裟に振り下ろした。
ヴィクトリアは受けない。
上体をわずかにずらして刃の軌道から外れると、そのまま一歩踏み込み、あっという間に剣の間合いの内側へ滑り込んだ。
「なっ――」
レオナルトが反応するより早く、ヴィクトリアの手が剣を握る手首を捉える。
肘を押さえながら腰を落とし、相手の重心を崩した次の瞬間、どんっ、と重い音が響いた。
「ぐっ!?」
レオナルトの身体が勢いよく地面へ転がった。
何をされたのか理解できないまま、彼は慌てて身体を起こす。
「今のはなんだ!」
「投げました」
「それくらい分かる!」
ヴィクトリアは涼しい顔のまま、何事もなかったように構え直した。
怒りに任せ、レオナルトが再び剣を振るう。だが、今度は先ほど以上に動きが読みやすかった。
ヴィクトリアは斬撃の軌道から一歩外れると、そのまま軸足を踏み込み、長い脚を鋭く跳ね上げた。
ぱんっ、と足先が剣を握る手首を正確に打ち、レオナルトの手から長剣が弾き飛ばされる。
「な――!」
思わず宙を舞う剣へ目を向けた、その一瞬。
ヴィクトリアの足が彼の軸足を払い、体勢を崩したレオナルトは、再び地面へ転がった。
二度続けて、ほとんど何もさせてもらえず転がされた。
周囲から、戸惑い交じりのざわめきが広がっていく。
「ブリュンヒルデ嬢、強くないか?」
「強い。というか……」
見物していた生徒が、起き上がろうとするレオナルトへ目を向けた。
「ヴェルナー卿、さっきからずっと転がされてない?」
ヴィクトリアは追撃しなかった。
倒れた相手へ手を出すこともなく、レオナルトが立ち上がるのを静かに待ってから、再び構える。
その余裕が、かえって彼の自尊心を刺激したらしい。
「ふざけるな!」
地面に落ちた剣を拾い上げたレオナルトは、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「女のくせに、どうしてそんな真似ができる!」
「趣味ですので」
平然と答えられ、レオナルトは目を剥いた。
「趣味だと!?」
「鍛錬が好きなんです」
ヴィクトリアの落ち着いた声に、彼の顔がさらに歪む。
「だからお前は可愛げがないんだ! エルフィ嬢なら、こんな――」
その名が出た瞬間、ヴィクトリアの灰色の瞳がすっと細くなった。
しかし、レオナルトは気づかない。
「エルフィなら私に逆らわず、従順な妻になったはずだ!」
ヴィクトリアの動きが止まった。
怒鳴ることも、声を荒らげることもない。ただ静かに片手を握り込み、正面からレオナルトを見据える。
「そうですか」
そして、ひどく穏やかな口調で告げた。
「とりあえず、奥歯は食いしばっておいたほうがいいですよ」
「は?」
次の瞬間には、ヴィクトリアはもうレオナルトの懐へ入り込んでいた。
踏み込んだ脚から腰へ、腰から肩へと全身の力を淀みなく連動させ、そのまま下から拳を跳ね上げる。
ごっ!
「っっ……!」
華麗なアッパーが顎を捉え、レオナルトの上体が大きく仰け反った。
数歩よろめいてどうにか踏みとどまった彼は、顎を押さえながら、信じられないものを見るようにヴィクトリアを睨む。
「お、お前……パンチ重すぎるだろ!?」
ヴィクトリアは打った右手を軽く開閉してから、何でもないことのように答えた。
「鍛錬しておりますから」
「そういう問題か!?」
抗議する彼を、ヴィクトリアはまっすぐに見据えた。
「今のは、妹を侮辱された、姉としての一発です」
「何……?」
ヴィクトリアは再び静かに構える。
「そして、ここからは決闘として終わらせます」
その言葉に完全に頭へ血が上ったのか、レオナルトは剣を大きく振り上げ、力任せに踏み込んできた。
あまりにも分かりやすい動きだった。
ヴィクトリアは斬撃の軌道から半歩だけ外れ、相手の腕へ軽く手を添えて勢いを逸らす。
そのまま身体を沈めながら一気に踏み込み、体勢を崩したレオナルトが慌てて振り返った時には、もう彼女の長い脚が高く跳ね上がっていた。
黒いパンツスタイルの礼装だからこそ映える、まっすぐで美しい蹴りだった。
足先はレオナルトの顔――ではなく、その少し下を鋭く通過する。
ぱしんっ。
胸元の薔薇が弾け、赤い花弁が宙へ舞った。
ヴィクトリアは高く上げた脚を滑らかに下ろすと、乱れ一つない姿勢へ戻る。
あまりに鮮やかな決着に、我に返った教師が声を上げた。
「勝者――ヴィクトリア・フォン・ブリュンヒルデ!」
その宣言を合図に、中庭いっぱいに歓声が広がった。
その中を、エルフィが真っ先に駆け寄ってくる。
「お姉様!」
「エルフィ。怪我はない?」
ヴィクトリアが妹の顔を覗き込むと、エルフィは頷きながらも、その右手へ目を落とした。
「ありません! でも、お姉様のほうが――」
「私は平気よ」
「平気ではありませんよ」
聞き慣れた声が割って入り、ヴィクトリアは振り返った。
人混みを抜けて現れたのは、蜂蜜色の髪を後ろで一つに束ねた青年だった。
ヨハン・フォン・プラーテン。二十七歳。
子爵家の次男であり、王立学園の医務室に勤務する医師である。
眼鏡越しのオレンジ色の瞳が、まっすぐヴィクトリアの右手へ向けられていた。
「ヨハン先生」
「ヴィクトリア嬢、拳を見せてください」
差し出された手を見て、ヴィクトリアは右手を軽く握った。
「これくらいなら問題ありません」
「あなたの『これくらい』は信用していません」
いつものやり取りだった。
ヴィクトリアは少しだけ不満そうな顔をしたものの、結局は素直に右手を差し出す。
ヨハンはその手を取り、拳の腫れ具合を確かめながら小さく息を吐いた。
「やはり少し腫れていますね」
「一発しか殴っていませんよ」
「回数の問題ではありません」
即座に返され、ヴィクトリアは少し考えてから口を開いた。
「相手には、奥歯を食いしばるよう忠告しました」
「私は相手ではなく、あなたの手の話をしています」
エルフィが、ぷっと吹き出した。
ヨハンはそんな彼女へ一瞬だけ視線を向けたあと、もう一度ヴィクトリアの拳を見る。
「骨には問題なさそうですが、念のため冷やしてくださいね」
「分かりました」
素直な返事を聞いても、ヨハンは念を押すことを忘れなかった。
「今日はもう鍛錬もしないこと」
「……分かりました」
少し間を置いて答えたヴィクトリアに、ヨハンが目を細める。
「今、何か企んでいましたね」
「いいえ」
「なら結構です」
それ以上言い返す隙もなく、ヴィクトリアはわずかに眉を寄せた。
その様子を見ながら、エルフィはまた楽しそうに笑っていた。
◇
数日後、婚約は正式に解消された。
レオナルトがエルフィを利用し、ブリュンヒルデ伯爵家へ入り込もうとしていた件についても、両家の間で厳しく話し合われることとなった。
当然ながら、エルフィが彼と婚約する話など一切ない。
その日の午後、ヴィクトリアが自室で書類へ目を通していると、向かいで菓子を食べていたエルフィが、ふと思い出したように口を開いた。
「お姉さま、ヨハン先生って素敵ですね」
「ヨハン先生が?」
思いがけない名前に、ヴィクトリアは顔を上げた。
エルフィは嬉しそうに頷く。
「はい。だって、レオナルト様とは全然違いますもの」
「どこが?」
問い返され、エルフィは手にしていた菓子を皿へ置いた。
「ヨハン先生は、お姉様のことをちゃんと見てくださっていますから」
ヴィクトリアは目を瞬かせた。
「お姉様が平気な顔をしていても、怪我をしていたらすぐ気づくでしょう? 鍛錬が大好きなことも否定しないし、でも無茶をしたらちゃんと叱ってくださるし」
ヴィクトリアは少し考えてから、もっともだと思う理由を口にした。
「それは医師だからでしょう?」
「それだけでしょうか?」
エルフィは意味ありげに笑った。
「先生は、長年婚約者だったレオナルト様より、ずっとお姉様のことをご存じですよね」
ヴィクトリアは答えられなかった。
そう言われてみれば、確かにヨハンは以前からよく気づく。
右肩を少し庇っていれば前日の鍛錬を見抜かれ、拳を握る癖だけで痛みを我慢していることまで気づかれた。
何度大丈夫だと伝えても信用されない。
それなのに、鍛錬そのものをやめろと言われたことは一度もなかった。
『あなたが楽しいのなら、それは結構です。ただし、怪我をしない範囲でお願いします』
以前、そんなことを言われたのを思い出す。
「……お姉様?」
「何でもないわ」
ヴィクトリアは書類へ視線を戻した。
けれど、なぜか文字が少しだけ頭へ入ってこなかった。
◇
翌日、ヴィクトリアは約束どおり、学園の医務室を訪れていた。
卒業後も拳の経過を確認するよう、ヨハンに言われていたのだ。
「もうほとんど治っていますね」
机を挟んだ向こうで、ヨハンが眼鏡を押し上げる。
「ですから、最初から問題ないと申し上げたでしょう?」
「そういうことを言うから、あなたの自己申告を信用できなくなるんですよ」
苦笑しながら、ヨハンが手を差し出した。
「念のため、もう一度見せてください」
いつもなら、何とも思わず差し出していたはずだった。
けれど、昨日のエルフィの言葉がふと頭をよぎる。
――ヨハン先生は、お姉様のことをちゃんと見てくださっていますから。
ヴィクトリアが一瞬だけためらってから右手を差し出すと、ヨハンはいつものようにその手を取った。
指先で拳の状態を確かめ、軽く掌を返される。ただそれだけの、何度も受けたことがある診察だった。
なのに今日は、妙に彼の手の温度が気になった。
「ヴィクトリア嬢?」
「はい?」
ヨハンが眼鏡の奥から、不思議そうに彼女を見る。
「少し顔が赤いですが、熱でもありますか?」
「ありません」
ヴィクトリアが即答しても、ヨハンは心配そうに眉を寄せた。
「ですが――」
「ありません」
いつもより少しだけ早口で言い切ると、ヨハンはますます不思議そうな顔をした。
「そうですか?」
それでも納得しきれていないらしく、しばらく顔を見つめられる。
ヴィクトリアは耐えきれず、わずかに視線を逸らした。
やがてヨハンは彼女の手を離すと、診察道具を片づけ始めた。
「これなら、もう大丈夫でしょう」
「では、これで終わりですか?」
ヴィクトリアが尋ねると、ヨハンは頷いた。
「ええ。しばらく無理な鍛錬さえしなければ」
「分かりました」
これで診察は終わったのだから、もう帰ればいい。
そう思ったのに、なぜか立ち上がる気になれなかった。
ヨハンもそれに気づいたのか、片づける手を止める。
「ヴィクトリア嬢、どうしましたか?」
「先生」
「はい」
呼んでから、ヴィクトリアは自分でも何を言おうとしているのか分からず、一瞬だけ口を閉じた。
けれど、やがて思ったままを尋ねる。
「私は、もう学園を卒業しましたし、これからは先生に診ていただくこともなくなるのでしょうか」
ヨハンがわずかに目を瞬かせた。
「まあ、学園の医務室に来ることはなくなるでしょうね」
「……そうですか」
思った以上に残念に感じた自分に、ヴィクトリアは少し驚いた。
そんな彼女を見ていたヨハンが、ふっと笑う。
「ですが、私は学園から出られないわけではありませんよ?」
ヴィクトリアが顔を上げると、ヨハンは穏やかに続けた。
「何かあれば、いつでも呼んでください。あなたの場合は、怪我をした時に限らず」
「怪我をしていなくても、ですか?」
確かめるように尋ねられ、彼はごく自然に頷いた。
「ええ。できれば怪我をしていない時のほうが、私としては安心できますし」
その言葉に、ヴィクトリアの頬がまた少し熱くなる。
「では」
一度息を整えてから、まっすぐ彼を見る。
「怪我をしていなくても、先生に会いに行ってよろしいのですか?」
今度は、ヨハンが黙る番だった。
眼鏡の奥のオレンジ色の瞳がわずかに見開かれ、ほんの少しの間を置いてから、彼は柔らかく笑った。
「もちろんです」
「……わかりました」
ヴィクトリアも、ほんの少しだけ笑った。
婚約を失ったことには、何の未練もなかった。
むしろ、妹を利用するような男と結婚する前に気づけてよかったと、心から思っている。
そして自由になった今、これまでとは少し違う目で誰かを見てみるのも、悪くないのかもしれない。
その相手が誰なのかは、もう考えるまでもないような気がしていた。
自分の強さを否定せず、無茶だけは叱り、怪我をしていなくても会っていいと言ってくれる眼鏡の医師を、以前とまったく同じようには見られなくなっている。
そのことだけは、ヴィクトリアにもよく分かっていた。




