第六戦 婚約破棄ですか? よろしいですわ決闘いたしましょう
ノルディア王立学園の卒業祝賀会。
十八歳を迎え、晴れて成人となった卒業生たちを祝う大広間では、この年の成績優秀者を称える表彰が行われていた。
集まった卒業生たちの視線が、壇上に立つ一人の令嬢へ注がれる。
「本年度、最も優秀な成績を収めた者――リーゼロッテ・フォン・トートヴァルト公爵令嬢」
名を呼ばれると盛大な拍手が湧き起こり、リーゼロッテはふわりと微笑んで一礼した。
銀色の髪は丁寧に巻かれた縦ロールとなって両肩へ流れ、後ろには大きな青いリボンが結ばれている。
サファイアを思わせる澄んだ青い瞳に合わせ、ドレスも鮮やかな青を基調としていた。裾や胸元には銀糸で繊細な刺繍が施され、いかにも公爵家の令嬢らしい、華やかで愛らしい姿である。
「リーゼロッテ嬢。見事であった」
「ありがとうございます」
学園長から記念の徽章を受け取り、リーゼロッテはもう一度丁寧に頭を下げた。
彼女が首席となったこと自体に、教員たちはさほど驚いていない。
トートヴァルト公爵家は、代々王国中枢を担ってきた名門である。
現在の当主も国王の右腕たる宰相を務めており、その一人娘であるリーゼロッテも、入学当初から優秀な成績を収め続けてきた。
本人はいつもふわふわと笑っているため、あまり秀才らしく見えないのだが。
壇上を降りたリーゼロッテは、友人たちのもとへ向かおうとして、正面に立つ青年に気づいた。
ノルディア王国王太子、マクシミリアン・フォン・ノルディア。
王家の色である金髪と紫の瞳を持つ、端正な青年だった。
学業成績は学年でも上位に入り、剣術にも秀でている。
王太子として相応の教育を受けており、外見と肩書きだけを見れば、まさしく非の打ち所のない王子だった。
その王太子が今、ひどく不機嫌そうな顔でリーゼロッテを睨んでいる。
「まあ、殿下。どうなさいましたの?」
「どうした、ではない! なぜお前が首席なのだ!」
突然響いた怒声に、大広間の空気がぴたりと止まった。
リーゼロッテは驚いたようにぱちぱちと瞬きをしたあと、少し考えるように首を傾げる。
「わたくしの成績が、一番よかったからでは?」
あまりにも当然の答えだった。
周囲の卒業生たちは何とも言えない顔で、そっと視線を逸らす。ほかにどんな答えを期待していたというのだろう。
マクシミリアンのこめかみに、青筋が浮かんだ。
「そんなことを聞いているのではない! お前は私の婚約者だろう!」
「ええ。そうですわね」
リーゼロッテが頷くと、彼は言い聞かせるように声を張った。
「ならば、私を立てるのが当然ではないのか!?」
今度こそリーゼロッテは、本当に意味が分からないという顔をした。
「なぜ殿下を立てねばなりませんの?」
小さく首を傾げると、銀色の縦ロールまでふわりと揺れる。
「なっ……!?」
「殿下も首席になりたかったのでしたら、もう少しお勉強を頑張ればよかったのでは?」
悪意など欠片もない。
リーゼロッテとしては、首席になりたいのであれば勉強すればよいという、ごく単純な話をしているだけだった。
「リーゼ……」
少し離れた場所から、困ったような低い声が飛んでくる。
銀灰色の髪に藍色の瞳を持つ青年、エルンスト・フォン・トートヴァルト。
二十五歳になる彼はリーゼロッテの従兄であり、彼女が将来王太子妃となって公爵家を離れることを前提に、幼い頃、分家から本家へ迎えられ、以来、次期公爵として育てられてきた人物だ。
幼いリーゼロッテに出会ったその日から「お兄様」と慕われてきた彼には、今の彼女が王太子を挑発しようとしているわけではないこともよく分かっていた。
だからこそ、片手でこめかみを押さえながら思う。
――リーゼ。正論ですが、それ以上は殿下の心が持ちません。
もっとも、止めるにはすでに遅かった。
「女のくせに!」
マクシミリアンの怒声が大広間いっぱいに響き渡り、今度こそ完全な沈黙が落ちた。
壇上に残っていた学園長が、何とも言えない顔で眉間を押さえる。
一方、壁際に控えていた教師の一人は、隣の同僚へそっと顔を寄せた。
「決闘担当へ知らせますか?」
「まだ早いでしょう」
制された教師は、険しい顔の王太子と、その前に立つ令嬢を交互に見た。
「そうですかねえ……」
ここ数年、どういうわけか卒業祝賀会になると、婚約破棄から決闘へ発展する騒ぎが続いている。
そのせいで教師たちにも、妙なところで経験が蓄積され始めていた。
そんな周囲の空気にも気づかず、マクシミリアンはさらに声を荒らげる。
「女が男より前へ出てどうする! 勉学など、ほどほどにできれば十分だ! 夫を立て、支える。それが女の役目だろう!?」
その言葉を聞いた瞬間、リーゼロッテの柔らかな笑みがほんの少しだけ薄れた。
「ほどほどに……ですか?」
「ああ! お前は王太子妃となる女なのだぞ。私より目立とうとするなど、身の程を――」
「わたくし、別に目立とうとしてお勉強したわけではありませんけど」
静かに遮られ、マクシミリアンは苛立たしげに眉をつり上げた。
「ならば、なぜ首席になった!?」
「ですから、しっかりお勉強したからですわ」
話が一周した。
周囲の何人かが、今度は本格的に遠い目をした。
「もういい!」
マクシミリアンは苛立たしげに手を振ると、自分こそが正しいと疑いもしない顔でリーゼロッテを見下ろした。
「お前のように、将来の夫を立てることも知らぬ女など王太子妃には相応しくない!」
そして、大勢の卒業生や教師たちが見守る中、胸を張って宣言する。
「リーゼロッテ・フォン・トートヴァルト! 私はお前との婚約を破棄する!」
大広間のあちこちから、息を呑む音が聞こえた。
当のリーゼロッテは取り乱すこともなく、ただ静かにマクシミリアンを見つめていた。
やがて彼の言葉を自分の中で噛み砕くように、少しだけ間を置いて小さく頷く。
「……そうですか」
悲しんでいる様子も、怒っている様子もない。むしろ彼の言葉を聞き、ようやく何かに納得したようだった。
「婚約破棄については、承知いたしましたわ」
「ふん。当然だ」
満足げに鼻を鳴らすマクシミリアンに、リーゼロッテは静かな声で続けた。
「ですが、殿下のお考えには賛同できません」
「何だと?」
彼の眉間に再び皺が寄ったが、リーゼロッテは言葉を止めなかった。
「女性はほどほどに努力して、男性を立てていればよい。たとえ女性のほうが優秀であっても、それを表に出すべきではない。殿下は、そうお考えなのですよね?」
「先ほどからそう言っているだろう!」
迷いのない返答を聞き、リーゼロッテは一度だけ目を伏せた。
王太子妃となる以上、自分が彼を支える立場になることは理解している。
けれど、それは自分の努力や才能を抑え、ただ彼より後ろに立ち続けるという意味ではないはずだ。
どうやら、その根本から二人の考えは違っているらしい。
やがて顔を上げると、リーゼロッテはいつものようにふわりと微笑んだ。
「分かりました。わたくしと殿下では、考え方が違いすぎるようですわね」
「は?」
不機嫌そうに聞き返す彼へ、リーゼロッテは静かに頷いた。
「よろしいですわ」
その言葉をどう受け取ったのか、マクシミリアンの口元が得意げに持ち上がる。
ようやく自分の言うことを理解し、非を認めたのだとでも思ったのだろう。だが、リーゼロッテが続けた言葉は、彼の期待とはまるで違っていた。
「決闘いたしましょう」
大広間が、しんと静まり返った。
数秒後、先ほどの教師が隣の同僚へ顔を向ける。
「ほら」
「……決闘担当へ知らせてください」
◇
決闘は、学園の中庭で行われることになった。
ここ数年で妙に手慣れた職員たちによって、決闘場はあっという間に整えられていく。
二人の胸元には、それぞれ一輪の薔薇が留められた。先に相手の薔薇を散らした者が勝者となる。
今回、武器区分を選ぶ権利を持つのは、決闘を申し込まれたマクシミリアンだった。
「近接武器だ!」
問いかけられるや否や、彼は迷いなく即答した。
マクシミリアンは学業だけでなく、剣術にも相応の自信を持っている。
勉学ではリーゼロッテに後れを取ったが、せめて武では自分が上だと証明してみせる。そんな思惑が、ありありと透けて見えた。
「承知しました。では、マクシミリアン殿下がお使いになる得物は?」
「剣だ」
教師は頷き、控えていた職員へ目配せした。
「かしこまりました」
ほどなくして決闘用の長剣が運ばれてくる。マクシミリアンは慣れた手つきでそれを受け取り、軽く握りを確かめた。
続いて、教師がリーゼロッテへ向き直る。
「トートヴァルト嬢は、何をお使いになりますか?」
「そうですわね……」
リーゼロッテは少し考えるように視線を上げ、それから何でもないことのように尋ねた。
「巨大鎌はございますか?」
ざわっ、と周囲が揺れた。
教師も一度だけ目を瞬かせる。
「巨大鎌、ですか?」
「はい」
リーゼロッテがにこやかに頷くと、教師はほんの一瞬だけ口を閉じた。
「……ございます」
ざわっ、ともう一度周囲が揺れた。
「あるのか……?」
「あるんだ……」
近くにいた卒業生たちが顔を見合わせる。そのうちの一人が、ぽつりと疑問を口にした。
「この学園の武器庫の品揃えおかしくないか……?」
もっともな疑問である。
なぜかノルディア王立学園の決闘用武器庫は、異様なほど充実している。
剣や槍はもちろん、普通ならまず必要にならないような武器まで一通り揃っていた。
誰が、いつ、何を想定してここまで充実させたのかは、誰も知らない。
しばらくすると、二人の職員が一本の長大な得物を運んできた。
柄だけでもかなりの長さがあり、その先には大きく湾曲した刃が取り付けられている。もちろん決闘用なので刃は潰されているものの、華奢な令嬢が扱うにはあまりにも物々しい。
それを見たマクシミリアンの顔が、目に見えて引きつった。
「お、お前……それを使うのか?」
「はい。わたくしの得意武器ですから」
リーゼロッテは、何を今さらというように当然の顔で答えた。
そして巨大鎌を受け取る前に、少し離れた場所に立つエルンストを振り返る。
「お兄様。鎌用の手袋をくださいませ」
「はい。どうぞ」
エルンストは、これまた当然のように懐へ手を入れ、濃紺の革手袋を一組取り出した。
周囲が再びざわめく。
「なぜ、こんな場でも持っているんだ……?」
「鎌用の手袋って何……?」
人々の視線が、差し出された革手袋へ集まった。
「専用品なのか……?」
しかし、当の二人に周囲の困惑を気にする様子はない。
「ありがとう、お兄様」
リーゼロッテは慣れた手つきで手袋をはめたが、それを見たエルンストが軽く眉を寄せた。
「リーゼ、右手を」
「はい?」
素直に差し出された手を取り、エルンストは手首の留め具を少しだけ締め直す。
「緩んでいました。このまま回転を上げたら危ないでしょう」
「さすがお兄様ですわ」
にこにこと見上げるリーゼロッテに、エルンストは念を押すように告げた。
「いつも言っているでしょう。回転を上げる時ほど、手元を疎かにしないようにと」
「はあい」
決闘を目前にしているとは思えない、あまりにのんびりしたやり取りだった。
まるで朝の支度でも手伝っているかのような二人を、マクシミリアンは口を半開きにしたまま見つめている。
「……エルンスト」
「はい、殿下」
マクシミリアンは巨大鎌と、それを当たり前のように扱おうとしているリーゼロッテを見比べ、ようやくエルンストへ顔を向けた。
「お前、知っていたのか?」
「何をでしょう?」
穏やかに問い返され、マクシミリアンは巨大鎌を指差した。
「こいつが巨大鎌などというものを使うことをだ!」
エルンストは一瞬だけ考えるような顔をしたものの、すぐに当然のこととして答えた。
「トートヴァルト家の者ですからね」
「なぜ私に言わなかった!」
「特にお尋ねになりませんでしたので」
あまりにも淡々と返され、マクシミリアンは言葉を失った。
もっとも、トートヴァルト公爵家にとって、巨大鎌は何も特別なものではない。
家名であるトートヴァルトは、古い言葉で『死の森』を意味する。そして遥か昔、とある当主がふと思ったらしい。
――死の森を名乗るのなら、名前負けしない武器が必要なのではないか。
そこで家臣たちと相談したところ、一つの案が出た。
――鎌などよいのでは?死の森っぽいから。
そのまま採用された。
それだけである。
ところが、始まりこそ驚くほど軽かったものの、一度それを家伝の武器と定めてからのトートヴァルト家は妙に真面目だった。
歴代当主たちは何世代にもわたって研鑽を重ね、巨大鎌の扱いに適した足運びや体重移動、遠心力の使い方まで研究し続けた。
その結果、今では巨大鎌を用いる独自の武術体系が、立派に完成している。
ちなみに、家へ嫁いできた者も希望すれば習うことができる。リーゼロッテの母も使える。
つまりトートヴァルト家では、巨大鎌を扱えること自体はさほど珍しくないのである。
リーゼロッテは職員から巨大鎌を受け取り、軽く握りを確かめた。
華奢な少女の手に収まると、ただでさえ大きな得物が、いっそう巨大に見える。
「双方、準備はよろしいですか?」
教師の声に、マクシミリアンはまだ何か言いたげな顔をしながらも口を閉ざし、決闘用の長剣を構えた。
「いつでもいい」
向かい合うリーゼロッテも、巨大鎌を構える。
鮮やかな青いドレスに銀色の縦ロール、髪の後ろには大きな青いリボン。
そして、巨大鎌。
あまりにも似合わない――はずだった。
「始め!」
合図と同時に、マクシミリアンが勢いよく踏み込んだ。
その瞬間、ぶぉんっ、と空気を唸らせ、巨大鎌が横薙ぎに旋回する。
「っ!?」
予想を遥かに上回る速度に、マクシミリアンの足が止まった。
リーゼロッテは、巨大な得物を腕力だけで振り回しているわけではない。
長い柄を軸に、遠心力と体重移動を巧みに利用しながら、軽やかな足運びで鎌の軌道そのものを操っていた。
くるりと身体の向きを変えれば、巨大鎌もそれに合わせて大きな円を描く。
一歩踏み込み、さらに一歩。リーゼロッテが位置を変えるたびに、鎌は空気を唸らせながら途切れることなく舞い続けた。
青いドレスの裾が大きく翻り、髪に結んだリボンが風を孕む。銀色の縦ロールまでふわりと浮き上がった。
「くっ……!」
マクシミリアンは一度距離を取り、剣を構え直した。
巨大鎌が強力な武器であることは分かった。
だが、これほど大きな得物なら必ず隙があるはずだ。振り切った直後か、あるいは切り返しの瞬間。そこを狙って一気に踏み込めば、懐へ入れる。
そう判断し、鎌が通り過ぎた瞬間に踏み込もうとした。
ぶぉんっ!
「な――」
もう戻ってきていた。
マクシミリアンは反射的に足を止める。
速い。
あまりにも、速い。
その光景を見ていた近くの貴族が、思わずエルンストへ声をかけた。
「あれが、トートヴァルト家の鎌術なのですか?」
「ええ」
エルンストは驚く様子もなく、いつもの落ち着いた表情で答えた。
「リーゼロッテ様は……かなりお強いのですか?」
「まあ、私よりは弱いですよ」
貴族は意外そうにエルンストを振り返った。
「え? あれでですか?」
そう聞き返されても、エルンストは決闘場から視線を外さない。
巨大鎌を自在に操るリーゼロッテの動きを見つめ、その口元にほんの少しだけ感心したような笑みが浮かんだ。
「ただし、鎌を振る速度だけならリーゼのほうが上ですね」
巨大鎌が空気を唸らせる音が、立て続けに響いた。
リーゼロッテが得物を振るうたび、その回転はさらに速さを増していく。
やがて鎌が巻き起こす風に煽られ、地面へ散っていた花弁が一枚、また一枚と浮かび上がった。
「風……?」
誰かが呟いた時には、巨大鎌の高速旋回によって生まれた風が、リーゼロッテを中心に渦を巻き始めていた。
最初はドレスの裾を揺らす程度だったものが徐々に勢いを増し、青いスカートを大きく膨らませ、髪のリボンや銀色の縦ロールまで激しく揺らしていく。
「ちょっ……待て! なんだその規格外の動きは!」
思わずマクシミリアンが叫んだが、もちろん待つ理由などない。
リーゼロッテは楽しそうに微笑んだまま、さらに一歩踏み込んだ。
軽やかな足運びに合わせて巨大鎌が大きな円を描き、その軌道が幾重にも重なっていく。
巻き上げられた花弁まで風に乗り、ついには小さな竜巻のようになってマクシミリアンの周囲を取り巻いた。
「くっ……!」
花弁と風に視界を遮られ、マクシミリアンが思わず顔を背ける。その一瞬、構えていた剣先がわずかに下がった。
リーゼロッテのサファイアの瞳が、その隙を捉える。
鋭く踏み込むと同時に、巨大鎌が横薙ぎに走った。
ばさっ。
次の瞬間、吹き荒れていた風が嘘のように止んだ。
膨らんでいた青いドレスの裾がゆっくりと元の形へ戻り、舞い上がっていた花弁も、ひらひらと地面へ降りていく。
その中心で、マクシミリアンは呆然と立ち尽くしていた。
身体には傷一つない。ただ、先ほどまで胸元に留められていた薔薇だけが、跡形もなく散っている。
しんと静まり返った中庭で、ようやく我に返った教師が二人を見比べた。
「勝者――リーゼロッテ・フォン・トートヴァルト!」
歓声が上がった。
リーゼロッテは巨大鎌をくるりと一度回し、柄の先を地面へ軽く立てる。そして、呆然としている元婚約者へ、いつものふわりとした笑顔を向けた。
「殿下」
呼びかけられ、マクシミリアンがわずかに顔を上げる。
「もう少しわたくしのことも、お勉強なさるべきでしたわね」
マクシミリアンの顔が、真っ赤になった。
◇
少し離れた二階の回廊から、その決闘をじっと見つめていた少女がいた。
まだ十四歳。王立学園へ入学したばかりの彼女は、兄と同じ金色の髪と紫の瞳を持つ、ノルディア王家の第一王女である。
視線の先では、マクシミリアンの胸元から散った薔薇の花弁が、まだ何枚か宙を舞っていた。その向こうには、巨大鎌を手にした銀髪の公爵令嬢が立っている。
兄が敗れたことに驚いているのか、それとも、その前に交わされた言葉を思い返しているのか。
王女はしばらく何も言わず、その光景を見つめていた。
やがて、ほんの小さな声で呟く。
「お兄様……」
それ以上、彼女が何を思ったのかを口にすることはなかった。
◇
当然ながら、この一件がそれで終わるはずもなかった。
数日後、王宮の執務室に国王の怒声が響き渡った。
「馬鹿者!」
マクシミリアンは父の前で肩を縮めていた。
その横には、宰相であるトートヴァルト公爵も控えている。
娘を公衆の面前で侮辱され、婚約を破棄された父親でもあり、国王としても気まずいことこの上ない。
「婚約者が首席になったことを妬み、公衆の面前で婚約破棄だと!? しかも女は男を立てろだと!? お前はこれまで何を学んできた!」
「しかし父上、私は王太子で――」
「だから何だ!」
言い訳を一喝され、マクシミリアンは口をつぐんだ。国王は厳しい眼差しで息子を見据え、言葉を続ける。
「王太子であるならば、自分より優れた者の才を認め、それを国のために生かすのがお前の役目だ! 男か女かなど関係あるものか!」
さすがに返す言葉を失ったのか、マクシミリアンは黙り込んだ。
結局、トートヴァルト公爵家との婚約は正式に解消され、マクシミリアンにはしばらくの謹慎が言い渡された。
王太子として受けてきた教育についても、これを機に内容を改めて見直し、一から学び直すこととなる。
もっとも、王位継承権そのものを取り上げられることはなかった。
マクシミリアンはまだ十八歳であり、学業や剣術も含め、王太子としての能力そのものが著しく欠けているわけではない。だからこそ国王も、今ならまだ考え方を改められると判断したのだろう。
一通りの処分を告げたあと、国王は改めて息子をまっすぐ見据えた。
「マクシミリアン」
「はい、父上」
それまでとは違う、低く厳しい声が執務室に落ちる。
「今回だけは、若さゆえの未熟さとして機会を与える。だが、今後のお前をよく見させてもらうぞ」
マクシミリアンもさすがに顔を上げることができず、黙って父の言葉を聞いていた。
「二度目はないと思え」
「……はい」
マクシミリアンは、深く頭を下げた。
◇
それから数日後、トートヴァルト公爵邸の庭園では、リーゼロッテとエルンストが向かい合い、午後の紅茶を楽しんでいた。
あの騒動が嘘のように穏やかな時間の中、エルンストはしばらく言い出しにくそうにしていたものの、やがてカップを置いてリーゼロッテを見た。
「本当に、これでよかったのですか?」
「何がですの?」
リーゼロッテが顔を上げると、エルンストは少し声を落とした。
「殿下との婚約のことです」
彼女も手にしていたカップをソーサーへ戻し、特に迷う様子もなく頷く。
「ええ。あれほど考え方の違う方と夫婦になっても、きっとお互いに幸せにはなれませんもの」
「確かにそうですね」
エルンストも、その答えに異論はなかった。
王太子との婚約がなくなったことで、リーゼロッテの未来は大きく変わる。
これまで彼女が王家へ嫁ぐことを前提として考えられていたトートヴァルト家の継承についても、今後改めて話し合う必要があるだろう。
だからこそ、エルンストには伝えておきたいことがあった。
「ですが、リーゼ。一つだけ覚えておいてください」
「はい?」
不思議そうに首を傾げる彼女へ、エルンストは穏やかに告げた。
「殿下との婚約がなくなったからといって、今度はトートヴァルト家のために誰かと結婚する必要はありませんよ」
リーゼロッテが、ぱちりと瞬きをした。
「あなたが王家へ嫁ぐ予定だったからこそ、私は分家から本家へ迎えられました。事情が変わった以上、今後の継承については父上たちとも改めて話すことになるでしょう」
「そうですわね」
彼女が頷くのを確かめてから、エルンストは言葉を続けた。
「ですが、だからといって『それなら私と結婚すれば、家の継承もすべて丸く収まる』などと考える必要はないですからね」
穏やかながらも真剣な眼差しで、幼い頃から妹同然に大切にしてきた少女を見つめる。
「あなたはようやく、自分の未来を自由に選べるようになったのですから。次は家のためでも、誰かのためでもなく、リーゼ自身が望む道を選んでください」
「わたくしが望む道……」
リーゼロッテはしばらく彼の顔を見つめていた。
そして、エルンストが予想もしなかったことを、何でもないことのように口にする。
「わたくし、お兄様がよろしいのですけれど」
エルンストの動きが止まった。
「…………はい? 今なんと……?」
「ですから、わたくしはお兄様がよろしいのですわ」
リーゼロッテは、いつもと変わらずにこにこと笑っている。
あまりにも自然に言われたせいで、エルンストのほうが意味を理解するまでに時間がかかった。
「それは……トートヴァルト家のために、という意味でしょうか」
「違いますわ」
即座に否定され、エルンストは戸惑いながら問いを重ねた。
「では、殿下への当てつけということでも?」
「まあ。どうしてそうなりますの?」
本気で意味が分からないらしく、リーゼロッテは不思議そうに首を傾げる。
エルンストはますます混乱した。
「では……なぜ、私を?」
そう尋ねられたリーゼロッテは、今度こそ少し考えるように視線を上げた。
「なぜ、と聞かれましても……」
やがてサファイアのような瞳を柔らかく細め、当たり前のことを告げるように微笑む。
「わたくし、ずっとお兄様のことが好きでしたもの」
エルンストは、しばらく何も言えなかった。
脳裏に浮かんだのは、分家から本家へ迎えられたばかりの頃のことだった。
慣れない場所で緊張していた自分のもとへ、小さなリーゼロッテが駆け寄ってきて、屈託なく笑ったのだ。
『では、あなたが今日からわたくしのお兄様ですね!』
それ以来、彼女はずっと自分を「お兄様」と呼び、何の疑いもなく慕ってくれた。
エルンストにとっても、リーゼロッテは大切な妹分であり、守るべき家族だった。
少なくとも、これまではずっとそう思っていた。
けれど今、その彼女から告げられたのは、兄に向ける親愛とは明らかに違う意味の「好き」だった。
改めて、目の前のリーゼロッテを見る。
十八歳になった彼女は、もう幼い頃の少女ではない。青いドレスに身を包み、銀色の縦ロールを揺らして微笑む姿は、どこから見ても一人の美しい令嬢だ。
――先日は、その姿のまま巨大鎌を振り回して、王太子の薔薇を刈り取っていたが。
「お兄様?」
黙り込んだエルンストを不思議に思ったのか、リーゼロッテが首を傾げた。
つい先ほどまで何とも思っていなかったその呼び方が、今になって妙に引っかかる。
エルンストは思わず片手で口元を覆い、少し考えてから、改めて彼女を見た。
「……リーゼ」
「はい」
まっすぐに向けられた青い瞳を見つめ、慎重に言葉を選ぶ。
「その件に関しては、少し、時間をいただいても?」
「もちろんですわ」
あっさり頷いたリーゼロッテは、何事もなかったように紅茶へ口をつけた。
どうやら本人にとっては、とんでもない告白をしたという自覚すらあまりないらしい。
その様子を見ながら、エルンストは小さく息を吐いた。
これまで妹同然に思っていた相手を、たった今から別の目で見ろと言われても、すぐに答えが出せるはずもない。
ただ、一つだけ、今のうちに変えておいたほうがよさそうなことがあった。
「ですが、一つだけお願いしてもよろしいですか?」
「何でしょう?」
リーゼロッテがカップを置き、彼へ顔を向ける。
「もし本当に、私をそういう意味で選んでくださるのでしたら……」
「はい」
エルンストは、少し困ったように笑った。
「まずは、その『お兄様』という呼び方をやめてもらうところから始めましょうか」
リーゼロッテは大きな目を更に丸くした。それから少し考えるように首を傾げる。
「では……エル様?」
今度は、エルンストが目を瞬かせた。
「ずいぶん急に縮まりましたね」
「だって、エルンスト様では少しよそよそしいでしょう?」
そう言って、リーゼロッテはふわりと笑う。
「これからは、エル様とお呼びしますわね」
「……はい。それでお願いします」
十五年近く聞き慣れていた「お兄様」とは違う呼び方。
たったそれだけなのに、思っていた以上に響きが違って聞こえた。
誰かに決められた相手ではない。誰かを立てるためでも、家の都合でもない。
自由になったリーゼロッテが今度こそ自分自身で選んだのは、ずっと「お兄様」と呼んできた、一番近くにいた人だった。




