第五戦 婚約破棄ですか? ならば決闘いたしましょう
ノルディア王立学園の卒業祝賀会。
十八歳を迎え、晴れて成人となった卒業生たちを祝う大広間には、色とりどりの花が飾られ、華やかな音楽と楽しげな笑い声が満ちていた。
そんな穏やかな光景を眺めながら、一人の教師がふと遠い目をする。
「今年こそ、何事もなく終わるといいですね」
隣にいた教師が、手にしていたグラスを静かに置いた。
「そうですね」
「ここ数年、卒業祝賀会のたびに――」
「それ以上、言わないでください」
ぴしゃりと遮られ、最初の教師は口を閉じた。
最近、この学園の卒業祝賀会では、妙な伝統が生まれつつある。
婚約破棄。
そして、決闘。
今年こそは何事もなく、穏やかに卒業生を送り出したい。教師たちは密かにそう願っていた。
――その願いが叶わないことを、この時の彼らはまだ知らなかった。
◇
レイチェル・フォン・ベントハイムは、大広間の壁際で静かに会場を眺めていた。
王国東部に大きな港を有するベントハイム伯爵家の末娘で、上には三人の兄がいる。長兄が跡取りであるため、彼女自身に家督を継ぐ予定はなかった。
背中へ流れるラベンダー色の髪を銀細工の簪でハーフアップにまとめ、灰青色の瞳には、いつものように穏やかな静けさを宿している。
今夜身につけている礼装も、彼女らしいものだった。
濃紺を基調とした上半身は王国貴族のドレスに近い仕立てだが、腰から下には東方の袴を思わせる細かな襞が入っている。銀糸の刺繍に交じって、鮮やかな色糸による東方風の文様も施されていた。
東方との交易が盛んなベントハイム領では、異国の文化そのものが珍しいわけではない。
特に長兄の妻が東方出身であることもあり、レイチェルにとって東方の衣装や料理、風習は、幼い頃から身近なものだった。
「レイチェル様」
穏やかな声をかけられ、レイチェルはゆっくりと顔を向けた。
少し後ろに立っていたのは、黒い髪と黒い瞳を持つ青年だった。
カズト・タチバナ。レイチェルより三歳年上の、彼女付きの従者である。
物腰は柔らかく、いつも穏やかな笑みを絶やさない。
「少しお疲れですか?」
「いいえ。大丈夫です」
レイチェルが答えると、カズトは静かに頷いた。
「そうですか」
その顔を見つめ、レイチェルは一度瞬きをしてから首を傾げる。
「なぜ疲れていると思ったのですか?」
「いつもより瞬きが少なかったので」
そう言われ、レイチェルは試すように二度瞬きをした。
「これでどうですか?」
「そういう問題ではないのですが」
カズトがくすりと笑う。
そんなやり取りが自然にできるほど、二人の付き合いは長かった。レイチェルが五歳、カズトが八歳の頃からである。
東方の有力な家門に生まれたカズトは、幼くして家の後継者争いに巻き込まれ、命を狙われた。
彼を乳母同然に育てていた女性は、まだ八歳だったカズトを連れて故国を脱出し、海を越えてノルディア王国へ逃れてきたのだ。
二人が乗ったのは、偶然にもベントハイム家の交易船だった。
着の身着のままで異国へ渡り、港町で行く当てもなく困っていた二人を見つけたのが、ちょうど領内を視察していたベントハイム伯爵と、その長男である。
事情を聞いた伯爵たちは、カズトとその女性を保護して屋敷へ迎え入れた。
その後、彼女と長男は互いに惹かれ合い、やがて結婚した。今では子どもにも恵まれて夫婦仲も良好であり、レイチェルにとっては大好きな義姉である。
カズトもまた、そのままベントハイム家で育った。
だから、レイチェルの幼い頃の記憶には、いつもカズトがいる。
庭へ行けばついてきて、港へ出かければそばにいて、図書室へ行けば少し離れたところで本を読んでいた。
そうして当たり前のように一緒に育った二人が、正式な主従関係になったのは四年前だった。
十四歳になったレイチェルが王立学園へ入学する際、正式な付き人でなければ学園内まで同行できないと知ったのだ。
その時、レイチェルは少しだけ考えた後にカズトへ尋ねた。
『なら、カズトが付き人になってくれる?』
カズトは、いつものように笑って頷いた。
それ以来、彼はレイチェル付きの従者として、身の回りの世話から日々の雑務、家の仕事に関する書類の整理まで、何でもそつなくこなしている。
「そういえば、ディートリヒ様はどちらに?」
カズトが何気ない様子で会場へ視線を向けた。
「会場内のどこかにはいるのではないでしょうか。後ほど、お話があると仰っていましたし」
「おや。そうですか」
ディートリヒ・フォン・ヴァルデック。
侯爵家の次男であり、レイチェルの婚約者である。
二人の婚約が決まったのは、ちょうど四年前。レイチェルが学園へ入学する少し前だった。
その婚約が決まった時、カズトは初めて、自分の中にある感情へ名前をつけた。
それまでレイチェルを大切に思うのは、幼い頃から一緒に育ったからだと思っていた。
いつもそばにいたいのも、心配になるのも、何かあれば真っ先に助けたいと思うのも、すべて長年の親愛なのだと。
レイチェルが、いずれ誰かと結婚する。
そんな当然の未来を具体的に突きつけられて初めて、カズトは気づいた。
自分は、この人が好きなのだと。
けれど、それを口にするつもりはなかった。
だから四年間、カズトは何も変えることなくレイチェルのそばで笑っている。
「レイチェル!」
その時、少し離れた場所から名を呼ばれた。
振り返ると、茶色の髪に淡い色の瞳を持つ青年が、こちらへ歩いてくるところだった。ディートリヒである。
「少しいいか」
「はい」
レイチェルはちらりとカズトを見た。すると、まだ何も言っていないのに彼は微笑む。
「ここでお待ちしていますのでご心配なく」
「まだ何も言っていませんけど」
少し不思議そうに見上げられても、カズトの笑みは変わらなかった。
「お顔を見れば分かりますので」
「そうですか」
いつものことなので、レイチェルもそれ以上は気にせず、ディートリヒのもとへ向かった。
◇
どうやらディートリヒは、人のいない場所へ移って話すつもりなどなかったらしい。
大広間の中央近くまで来たところで足を止めると、周囲に人がいることを確かめるように視線を巡らせ、大きく息を吸った。
「レイチェル・フォン・ベントハイム!」
その声に周囲の生徒たちが振り返り、嫌な予感を覚えた教師たちも、一斉にそちらを見た。
「俺は今日をもって、お前との婚約を破棄する!」
大広間が、しんと静まり返った。
教師の一人が目を閉じる。
「今年もか……」
教師たちが深く肩を落とす中、レイチェルは灰青色の瞳を一度だけ瞬かせた。
「婚約破棄……ですか?」
「そうだ!」
ディートリヒが胸を張る。レイチェルはその顔を見上げ、静かに頷いた。
「そうですか。承知しました」
ディートリヒが黙った。
レイチェルもそれ以上は何も言わず、しばらくして彼の眉間に皺が寄った。
「……それだけか?」
「ほかに何か?」
「あるだろう!?」
なぜか怒鳴られたが、レイチェルには理由がよく分からなかった。
婚約を破棄したいと言われたので、それを承知しただけである。
ディートリヒは苛立ったように髪をかき上げた。
「そういうところが嫌なんだ! 昔からお前は何を考えているのか分からない!」
「そうですか。それは失礼しました」
淡々と返され、ディートリヒはますます声を荒らげる。
「愛想もない! 婚約者の俺が何を言っても、その顔だ!」
「顔は、生まれつきですので」
どこかで、誰かが小さく吹き出した。
ディートリヒの顔が赤くなる。
「そういう意味じゃない!」
「では、どういう意味でしょう?」
レイチェルが首を傾げると、彼は言い聞かせるように声を張った。
「もっと女らしく、可愛げを見せろと言っているんだ!」
レイチェルは少し考えてみたが、やはりよく分からなかった。
「申し訳ありません。そう言われましても、具体的に何をすればよいのか分かりません」
「ほら、それだ!」
また怒鳴られたものの、レイチェルは特に腹を立てなかった。
自分が愛想のいい人間ではないことも、表情が豊かではないことも自覚している。
ディートリヒがそんな自分を妻にしたくないというのであれば、それは彼の自由だろう。
婚約は元々、家同士が決めたものだ。
これまで婚約者として相手を知ろうとはしてきたし、夫婦になるのなら関係を築いていく必要があるとも考えていた。しかし、相手が望まないものを無理に続ける必要はない。
「婚約破棄については承知しました。後ほど、両家で正式にお話しいたしましょう」
そう言って話を終わらせようとした、その時だった。
「だいたい、お前は昔から東方かぶれが過ぎるんだ!」
歩き出しかけていたレイチェルの足が止まった。
「服も、装飾品も、それに――」
ディートリヒの視線が、レイチェルの後方へ向けられる。その先には、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべたカズトがいた。
「いつまで、あんな得体の知れない東方人をそばに置いておくつもりだ」
レイチェルの灰青色の瞳が、ほんのわずかに細くなった。
「カズトのことですか?」
「ほかに誰がいる。伯爵令嬢ともあろう者が、あんな卑しい従者をいつも連れ回して――」
「撤回してください」
声は大きくなく、先ほどまでと口調もほとんど変わっていない。
それなのに、空気だけが明らかに変わった。ディートリヒも何かを感じ取ったのか、一瞬だけ言葉を止める。
「何?」
「今、カズトについて仰った言葉を撤回してください」
ディートリヒは眉をひそめ、不快そうに口を開いた。
「なぜ俺が、従者ごときに――」
「撤回なさらないのですね?」
「するわけがないだろう!」
レイチェルは数秒、黙って彼を見つめた。
「そうですか」
ほんの少しだけ顎を上げ、まっすぐにディートリヒを見据える。
「ならば、決闘いたしましょう」
会場にいた教師たちが、一斉に天井を仰いだ。
◇
決闘は、祝賀会場に隣接する中庭で行われることになった。
もはやこの手の騒動に慣れてしまった学園職員たちによって、恐ろしいほど迅速に決闘場が整えられていく。
二人の胸元には、それぞれ一輪の薔薇が留められた。
申し込まれた側であるディートリヒが選択したのは、近接武器による決闘だった。
彼が得意とするのは剣であり、学園内でも上位に入るだけの腕を持つ。本人も、それなりに自信を持っていた。
「決闘用の剣を」
ディートリヒが告げると、職員が規定の決闘剣を運んでくる。
続いて、審判役の教師がレイチェルへ顔を向けた。
「ベントハイム嬢は?」
「私の武器はこちらで用意します」
レイチェルは振り返った。
「カズト」
「はい」
たった、それだけだった。
けれどカズトは何を求められているのか当然のように理解し、細長い包みを手に進み出る。
その様子を見ていた生徒が、小声で隣へ尋ねた。
「今ので何を頼まれたか分かったのか?」
「さあ……」
二人が首を傾げる前で、カズトが包みを解いた。
現れたのは、王国ではほとんど見かけることのない細身の武器だった。
緩やかに反った鞘と独特の鍔を備えた、東方の刀である。
審判役の教師が、困惑したようにそれを見る。
「これは……東方の武器ですね?」
「刀です」
レイチェルが答えると、教師は武器庫のほうへ目を向けた。
「ですが、学園の決闘用武器庫には、この形式のものは用意されていません」
「ああ。それでしたら大丈夫です」
レイチェルは刀を受け取り、刀身をわずかに鞘から抜いて見せた。
「私物ですが、決闘や稽古に使えるよう刃を潰してありますので」
「そういう問題でもないのですが……」
教師は小さく呟いたものの、武器を受け取って状態を確認した。
刃は完全に潰されており、切っ先も丸められている。さらに規定どおりの安全措置を施したところで、使用が許可された。
刀を受け取る前に、レイチェルは髪へ手を伸ばした。
ハーフアップを留めていた銀細工の簪を抜くと、ラベンダー色の髪がさらりと背へ流れ落ちる。
カズトが、懐から黒い髪紐を取り出し、そっと差し出した。
「レイチェル様、どうぞ」
「ありがとう」
レイチェルは簪を預けると、受け取った紐で髪を低い位置に一つにまとめた。
教師から返された刀を腰に差すと、先ほどまで夜会に佇んでいた伯爵令嬢の印象が一変する。
濃紺の袴風ドレスに、低く束ねられたラベンダー色の髪。その腰には、東方の刀が不思議なほど馴染んでいた。
向かい側で、ディートリヒが鼻を鳴らす。
「何だ、その細い剣は」
「刀です」
レイチェルが訂正しても、彼は取り合わなかった。
「剣と同じだろう」
「全く違います」
きっぱりと言い返され、ディートリヒは手にした剣を持ち上げた。
「そんな細い武器で、俺の剣を受けるつもりか?」
レイチェルは左手を鞘へ添え、右手を静かに柄の近くへ置いた。灰青色の瞳が、まっすぐディートリヒを見据える。
「いいえ」
ほんのわずかに腰を落とす。
「受ける必要はありませんから」
「何?」
問い返したディートリヒとの間へ、審判役の教師が立った。
「双方、準備はよろしいですね」
ディートリヒが剣を構える。
対するレイチェルは刀を抜かず、鞘へ左手を添え、右手を柄へ近づけたまま、ただ静かに立っていた。
「始め!」
開始の声が響くと同時に、ディートリヒが鋭く踏み込んだ。
学園内でも優秀と評されるだけあって、その動きに迷いはない。瞬く間に距離を詰め、間合いへ入ると同時に剣を振り上げる。
「抜かないのか!」
レイチェルは、まだ動かない。
ディートリヒの剣が振り下ろされようとした、その瞬間。
銀色の軌跡が閃いた。
誰かが息を呑む。
かすかに金属が擦れる音が響いたが、ほとんどの者には何が起こったのか分からなかった。
気づいた時には、レイチェルはすでにディートリヒの横を通り過ぎていた。
細い刀身は、もう静かに鞘へ戻っていくところだった。
かちり。
鍔が鞘口に触れる。
その音を合図にしたかのように、ディートリヒの胸元から赤い花弁が一斉に舞い上がった。
風に乗った花弁が中庭へ広がる。
その向こうで、納刀を終えたレイチェルは、何事もなかったかのように立っていた。
誰も、すぐには声を出せなかった。
しばしの静寂のあと、ようやく誰かが呆然と呟く。
「今……何した?」
「刀を、抜いたのか?」
問いかけられた生徒も、レイチェルの腰にある刀を見つめたまま首を振った。
「見えなかったぞ……」
ディートリヒ自身も、自分の胸元を呆然と見下ろしていた。
そこにあるはずの薔薇はもうなく、花弁だけがはらはらと足元へ落ちていく。
審判役の教師も遅れて我に返り、慌てて片手を上げた。
「勝者――レイチェル・フォン・ベントハイム!」
その宣言と同時に、観客からどよめきと歓声が沸き起こった。
レイチェルは静かに一礼すると、呆然としているディートリヒへ向き直る。
「先ほどのお言葉を、撤回していただけますか?」
問われたディートリヒは、しばらく何も答えられずにいた。
やがて顔を歪め、気まずそうに視線を逸らす。
「……撤回する。悪かった」
「はい。それで構いません」
そう告げると、レイチェルは静かに踵を返し、まっすぐカズトのもとへ戻っていく。
彼は先ほどまでと変わらない、いつもの穏やかな笑みを浮かべて待っていた。
「レイチェル様、お見事でした」
「ありがとう、カズト」
レイチェルは腰から刀を外し、差し出す。
カズトは慣れた手つきでそれを受け取ると、ふと彼女の顔を見て笑った。
「珍しく、少し怒っていらっしゃいましたよね」
その言葉に、レイチェルが顔を上げる。
「分かりましたか?」
「もちろん」
迷いのない返事に、レイチェルはわずかに首を傾げた。
「皆には分からなかったようですけど、どうしてカズトには分かるのでしょう?」
「レイチェル様のおそばにずっとおりますからね。分かりますよ」
いつもと変わらない笑顔で、カズトはごく自然にそう答えた。
レイチェルは数秒だけ彼を見つめる。
「そうですか」
そう答えたあと、ほんのわずかに口元を緩めた。
その小さな変化を見た瞬間、今度はカズトの笑みがわずかに止まる。けれど、そのことにはレイチェルは気づかなかった。
◇
その後、両家で話し合いが行われ、レイチェルとディートリヒの婚約は正式に解消された。
元々、公衆の面前で婚約破棄を宣言したのはディートリヒ自身である。そのうえ正式な決闘にまで発展し、彼は敗北した。
今さら婚約を元へ戻す理由など、どちらの家にもなかった。
話が片づき、卒業祝賀会も終盤へ差しかかった頃、レイチェルは大広間の喧騒を離れ、一人でテラスへ出ていた。
夜風が心地よい。眼下には王都の灯りが広がり、遠くまできらきらと輝いている。
「冷えませんか?」
ほどなくして背後から声が聞こえてきたが、レイチェルは振り返らなかった。誰なのかは、確認するまでもない。
「大丈夫です。心地いいです」
「そうですか」
カズトは、いつものように静かに隣へ並んだ。
近すぎず、遠すぎないその距離は、五歳の頃から当たり前のように二人の間にあったものだ。
しばらく並んで王都の夜景を眺めてから、レイチェルが口を開いた。
「カズト」
「はい」
穏やかな返事を聞きながら、レイチェルは手すりに手を添えた。
「婚約がなくなりました」
「そうですね」
あらためて言葉にすると、少し不思議な気分だった。レイチェルは王都の灯りを見つめたまま続ける。
「なんだか、少し、自由になった気がします」
その言葉に、カズトがわずかに目を細めた。
「何か、なさりたいことでも?」
「ええ」
レイチェルは夜空へ視線を向けた。
考えてみれば、これまで彼女の未来には、いつも誰かが先に道を引いていた。
誰と婚約し、どの家へ嫁ぎ、その先でどんな人生を歩いていくのか。
家族は自分を大切にしてくれているし、決められた婚約についても、貴族の娘ならそういうものなのだと思っていた。だから、特に不満を抱いたことはなかった。
けれど今日、その道はなくなった。
せっかく自由になったのだから、今度は自分で行き先を決めてみたい。
「私、一度見てみたい場所があるんです」
「どちらでしょう?」
カズトが顔を向けると、レイチェルは迷いなく答えた。
「東方です」
彼の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
「……東方を?」
「はい」
レイチェルは頷き、思い描いていたことを言葉にしていく。
「お義姉様から、たくさんお話を聞きました。衣装も、料理も、刀も知っています。でも私は、実際にあの国を見たことがありません」
そう言ってから、隣に立つ青年へ顔を向けた。
黒い髪と黒い瞳。
五歳の頃に出会ってから、ずっと当たり前のようにそばにいた人。
「カズトが生まれ育った国を実際にこの目で見てみたいです」
カズトの黒い瞳が、わずかに見開かれた。
レイチェルはほんの少しだけ笑う。
「ついてきてくれますか?」
けれど、カズトはすぐには答えなかった。
いつも穏やかに浮かべている笑みがふっと消え、数秒の間、ただ静かにレイチェルを見つめている。
そんな彼の珍しい反応に、レイチェルは不思議そうに首を傾げた。
「もしかして、嫌ですか?」
「まさか」
カズトは小さく息を吐くと、再び笑みを浮かべた。
けれどそれは、いつもの感情を隠すような微笑みより、ほんの少しだけ柔らかかった。
「喜んで、お供させていただきます」
「そうですか」
その返事に満足したように頷くと、レイチェルはもう次のことを考え始めた。
「では、帰ったらお父様に相談しましょう」
「もう行くことは決定しているのですね」
カズトが確かめるように顔を覗き込むと、レイチェルは頷いた。
「もちろん。善は急げと言うでしょう?」
迷いのない返事に、彼が小さく笑う。
「承知いたしました」
夜風が吹き抜け、レイチェルのラベンダー色の髪を柔らかく揺らした。
行きたい場所も、歩いていく道も、これからは自分で選べる。そう思いながら、彼女は隣の青年へ顔を向けた。
「カズト」
「はい、レイチェル様」
いつものように呼べば、いつものように返事が返ってくる。
その声を聞きながら、レイチェルはほんの少しだけ笑った。
自由になった彼女が最初に選んだのは、海の向こうへ続く道。
そして、その旅でも、きっと彼はいつものように隣にいてくれる。




