↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/10

第五戦 婚約破棄ですか? ならば決闘いたしましょう

ノルディア王立学園の卒業祝賀会。


 十八歳を迎え、晴れて成人となった卒業生たちを祝う大広間には、色とりどりの花が飾られ、華やかな音楽と楽しげな笑い声が満ちていた。

 そんな穏やかな光景を眺めながら、一人の教師がふと遠い目をする。


「今年こそ、何事もなく終わるといいですね」


 隣にいた教師が、手にしていたグラスを静かに置いた。


「そうですね」

「ここ数年、卒業祝賀会のたびに――」

「それ以上、言わないでください」


 ぴしゃりと遮られ、最初の教師は口を閉じた。

 最近、この学園の卒業祝賀会では、妙な伝統が生まれつつある。


 婚約破棄。

 そして、決闘。

 今年こそは何事もなく、穏やかに卒業生を送り出したい。教師たちは密かにそう願っていた。


 ――その願いが叶わないことを、この時の彼らはまだ知らなかった。


 ◇


 レイチェル・フォン・ベントハイムは、大広間の壁際で静かに会場を眺めていた。


 王国東部に大きな港を有するベントハイム伯爵家の末娘で、上には三人の兄がいる。長兄が跡取りであるため、彼女自身に家督を継ぐ予定はなかった。


 背中へ流れるラベンダー色の髪を銀細工の簪でハーフアップにまとめ、灰青色の瞳には、いつものように穏やかな静けさを宿している。

 今夜身につけている礼装も、彼女らしいものだった。


 濃紺を基調とした上半身は王国貴族のドレスに近い仕立てだが、腰から下には東方の袴を思わせる細かな襞が入っている。銀糸の刺繍に交じって、鮮やかな色糸による東方風の文様も施されていた。


 東方との交易が盛んなベントハイム領では、異国の文化そのものが珍しいわけではない。

 特に長兄の妻が東方出身であることもあり、レイチェルにとって東方の衣装や料理、風習は、幼い頃から身近なものだった。


「レイチェル様」


 穏やかな声をかけられ、レイチェルはゆっくりと顔を向けた。


 少し後ろに立っていたのは、黒い髪と黒い瞳を持つ青年だった。

 カズト・タチバナ。レイチェルより三歳年上の、彼女付きの従者である。

 物腰は柔らかく、いつも穏やかな笑みを絶やさない。


「少しお疲れですか?」

「いいえ。大丈夫です」


 レイチェルが答えると、カズトは静かに頷いた。


「そうですか」


 その顔を見つめ、レイチェルは一度瞬きをしてから首を傾げる。


「なぜ疲れていると思ったのですか?」

「いつもより瞬きが少なかったので」


 そう言われ、レイチェルは試すように二度瞬きをした。


「これでどうですか?」

「そういう問題ではないのですが」


 カズトがくすりと笑う。

 そんなやり取りが自然にできるほど、二人の付き合いは長かった。レイチェルが五歳、カズトが八歳の頃からである。


 東方の有力な家門に生まれたカズトは、幼くして家の後継者争いに巻き込まれ、命を狙われた。

 彼を乳母同然に育てていた女性は、まだ八歳だったカズトを連れて故国を脱出し、海を越えてノルディア王国へ逃れてきたのだ。


 二人が乗ったのは、偶然にもベントハイム家の交易船だった。

 着の身着のままで異国へ渡り、港町で行く当てもなく困っていた二人を見つけたのが、ちょうど領内を視察していたベントハイム伯爵と、その長男である。


 事情を聞いた伯爵たちは、カズトとその女性を保護して屋敷へ迎え入れた。

 その後、彼女と長男は互いに惹かれ合い、やがて結婚した。今では子どもにも恵まれて夫婦仲も良好であり、レイチェルにとっては大好きな義姉である。


 カズトもまた、そのままベントハイム家で育った。

 だから、レイチェルの幼い頃の記憶には、いつもカズトがいる。

 庭へ行けばついてきて、港へ出かければそばにいて、図書室へ行けば少し離れたところで本を読んでいた。


 そうして当たり前のように一緒に育った二人が、正式な主従関係になったのは四年前だった。

 十四歳になったレイチェルが王立学園へ入学する際、正式な付き人でなければ学園内まで同行できないと知ったのだ。


 その時、レイチェルは少しだけ考えた後にカズトへ尋ねた。


『なら、カズトが付き人になってくれる?』


 カズトは、いつものように笑って頷いた。

 それ以来、彼はレイチェル付きの従者として、身の回りの世話から日々の雑務、家の仕事に関する書類の整理まで、何でもそつなくこなしている。


「そういえば、ディートリヒ様はどちらに?」


 カズトが何気ない様子で会場へ視線を向けた。


「会場内のどこかにはいるのではないでしょうか。後ほど、お話があると仰っていましたし」

「おや。そうですか」


 ディートリヒ・フォン・ヴァルデック。

 侯爵家の次男であり、レイチェルの婚約者である。

 二人の婚約が決まったのは、ちょうど四年前。レイチェルが学園へ入学する少し前だった。


 その婚約が決まった時、カズトは初めて、自分の中にある感情へ名前をつけた。

 それまでレイチェルを大切に思うのは、幼い頃から一緒に育ったからだと思っていた。

 いつもそばにいたいのも、心配になるのも、何かあれば真っ先に助けたいと思うのも、すべて長年の親愛なのだと。


 レイチェルが、いずれ誰かと結婚する。

 そんな当然の未来を具体的に突きつけられて初めて、カズトは気づいた。


 自分は、この人が好きなのだと。


 けれど、それを口にするつもりはなかった。

 だから四年間、カズトは何も変えることなくレイチェルのそばで笑っている。


「レイチェル!」


 その時、少し離れた場所から名を呼ばれた。

 振り返ると、茶色の髪に淡い色の瞳を持つ青年が、こちらへ歩いてくるところだった。ディートリヒである。


「少しいいか」

「はい」


 レイチェルはちらりとカズトを見た。すると、まだ何も言っていないのに彼は微笑む。


「ここでお待ちしていますのでご心配なく」

「まだ何も言っていませんけど」


 少し不思議そうに見上げられても、カズトの笑みは変わらなかった。


「お顔を見れば分かりますので」

「そうですか」


 いつものことなので、レイチェルもそれ以上は気にせず、ディートリヒのもとへ向かった。


 ◇


 どうやらディートリヒは、人のいない場所へ移って話すつもりなどなかったらしい。

 大広間の中央近くまで来たところで足を止めると、周囲に人がいることを確かめるように視線を巡らせ、大きく息を吸った。


「レイチェル・フォン・ベントハイム!」


 その声に周囲の生徒たちが振り返り、嫌な予感を覚えた教師たちも、一斉にそちらを見た。


「俺は今日をもって、お前との婚約を破棄する!」


 大広間が、しんと静まり返った。

 教師の一人が目を閉じる。


「今年もか……」


 教師たちが深く肩を落とす中、レイチェルは灰青色の瞳を一度だけ瞬かせた。


「婚約破棄……ですか?」

「そうだ!」


 ディートリヒが胸を張る。レイチェルはその顔を見上げ、静かに頷いた。


「そうですか。承知しました」


 ディートリヒが黙った。

 レイチェルもそれ以上は何も言わず、しばらくして彼の眉間に皺が寄った。


「……それだけか?」

「ほかに何か?」

「あるだろう!?」


 なぜか怒鳴られたが、レイチェルには理由がよく分からなかった。

 婚約を破棄したいと言われたので、それを承知しただけである。

 ディートリヒは苛立ったように髪をかき上げた。


「そういうところが嫌なんだ! 昔からお前は何を考えているのか分からない!」

「そうですか。それは失礼しました」


 淡々と返され、ディートリヒはますます声を荒らげる。


「愛想もない! 婚約者の俺が何を言っても、その顔だ!」

「顔は、生まれつきですので」


 どこかで、誰かが小さく吹き出した。

 ディートリヒの顔が赤くなる。


「そういう意味じゃない!」

「では、どういう意味でしょう?」


 レイチェルが首を傾げると、彼は言い聞かせるように声を張った。


「もっと女らしく、可愛げを見せろと言っているんだ!」


 レイチェルは少し考えてみたが、やはりよく分からなかった。


「申し訳ありません。そう言われましても、具体的に何をすればよいのか分かりません」

「ほら、それだ!」


 また怒鳴られたものの、レイチェルは特に腹を立てなかった。

 自分が愛想のいい人間ではないことも、表情が豊かではないことも自覚している。

 ディートリヒがそんな自分を妻にしたくないというのであれば、それは彼の自由だろう。


 婚約は元々、家同士が決めたものだ。

 これまで婚約者として相手を知ろうとはしてきたし、夫婦になるのなら関係を築いていく必要があるとも考えていた。しかし、相手が望まないものを無理に続ける必要はない。


「婚約破棄については承知しました。後ほど、両家で正式にお話しいたしましょう」


 そう言って話を終わらせようとした、その時だった。


「だいたい、お前は昔から東方かぶれが過ぎるんだ!」


 歩き出しかけていたレイチェルの足が止まった。


「服も、装飾品も、それに――」


 ディートリヒの視線が、レイチェルの後方へ向けられる。その先には、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべたカズトがいた。


「いつまで、あんな得体の知れない東方人をそばに置いておくつもりだ」


 レイチェルの灰青色の瞳が、ほんのわずかに細くなった。


「カズトのことですか?」

「ほかに誰がいる。伯爵令嬢ともあろう者が、あんな卑しい従者をいつも連れ回して――」

「撤回してください」


 声は大きくなく、先ほどまでと口調もほとんど変わっていない。

 それなのに、空気だけが明らかに変わった。ディートリヒも何かを感じ取ったのか、一瞬だけ言葉を止める。


「何?」

「今、カズトについて仰った言葉を撤回してください」


 ディートリヒは眉をひそめ、不快そうに口を開いた。


「なぜ俺が、従者ごときに――」

「撤回なさらないのですね?」

「するわけがないだろう!」


 レイチェルは数秒、黙って彼を見つめた。


「そうですか」


 ほんの少しだけ顎を上げ、まっすぐにディートリヒを見据える。


「ならば、決闘いたしましょう」


 会場にいた教師たちが、一斉に天井を仰いだ。


 ◇


 決闘は、祝賀会場に隣接する中庭で行われることになった。


 もはやこの手の騒動に慣れてしまった学園職員たちによって、恐ろしいほど迅速に決闘場が整えられていく。

 二人の胸元には、それぞれ一輪の薔薇が留められた。


 申し込まれた側であるディートリヒが選択したのは、近接武器による決闘だった。

 彼が得意とするのは剣であり、学園内でも上位に入るだけの腕を持つ。本人も、それなりに自信を持っていた。


「決闘用の剣を」


 ディートリヒが告げると、職員が規定の決闘剣を運んでくる。

 続いて、審判役の教師がレイチェルへ顔を向けた。


「ベントハイム嬢は?」

「私の武器はこちらで用意します」


 レイチェルは振り返った。


「カズト」

「はい」


 たった、それだけだった。

 けれどカズトは何を求められているのか当然のように理解し、細長い包みを手に進み出る。


 その様子を見ていた生徒が、小声で隣へ尋ねた。


「今ので何を頼まれたか分かったのか?」

「さあ……」


 二人が首を傾げる前で、カズトが包みを解いた。

 現れたのは、王国ではほとんど見かけることのない細身の武器だった。

 緩やかに反った鞘と独特の鍔を備えた、東方の刀である。


 審判役の教師が、困惑したようにそれを見る。


「これは……東方の武器ですね?」

「刀です」


 レイチェルが答えると、教師は武器庫のほうへ目を向けた。


「ですが、学園の決闘用武器庫には、この形式のものは用意されていません」

「ああ。それでしたら大丈夫です」


 レイチェルは刀を受け取り、刀身をわずかに鞘から抜いて見せた。


「私物ですが、決闘や稽古に使えるよう刃を潰してありますので」

「そういう問題でもないのですが……」


 教師は小さく呟いたものの、武器を受け取って状態を確認した。

 刃は完全に潰されており、切っ先も丸められている。さらに規定どおりの安全措置を施したところで、使用が許可された。


 刀を受け取る前に、レイチェルは髪へ手を伸ばした。

 ハーフアップを留めていた銀細工の簪を抜くと、ラベンダー色の髪がさらりと背へ流れ落ちる。

 カズトが、懐から黒い髪紐を取り出し、そっと差し出した。


「レイチェル様、どうぞ」

「ありがとう」


 レイチェルは簪を預けると、受け取った紐で髪を低い位置に一つにまとめた。

 教師から返された刀を腰に差すと、先ほどまで夜会に佇んでいた伯爵令嬢の印象が一変する。


 濃紺の袴風ドレスに、低く束ねられたラベンダー色の髪。その腰には、東方の刀が不思議なほど馴染んでいた。


 向かい側で、ディートリヒが鼻を鳴らす。


「何だ、その細い剣は」

「刀です」


 レイチェルが訂正しても、彼は取り合わなかった。


「剣と同じだろう」

「全く違います」


 きっぱりと言い返され、ディートリヒは手にした剣を持ち上げた。


「そんな細い武器で、俺の剣を受けるつもりか?」


 レイチェルは左手を鞘へ添え、右手を静かに柄の近くへ置いた。灰青色の瞳が、まっすぐディートリヒを見据える。


「いいえ」


 ほんのわずかに腰を落とす。


「受ける必要はありませんから」

「何?」


 問い返したディートリヒとの間へ、審判役の教師が立った。


「双方、準備はよろしいですね」


 ディートリヒが剣を構える。

 対するレイチェルは刀を抜かず、鞘へ左手を添え、右手を柄へ近づけたまま、ただ静かに立っていた。


「始め!」


 開始の声が響くと同時に、ディートリヒが鋭く踏み込んだ。

 学園内でも優秀と評されるだけあって、その動きに迷いはない。瞬く間に距離を詰め、間合いへ入ると同時に剣を振り上げる。


「抜かないのか!」


 レイチェルは、まだ動かない。

 ディートリヒの剣が振り下ろされようとした、その瞬間。


 銀色の軌跡が閃いた。


 誰かが息を呑む。

 かすかに金属が擦れる音が響いたが、ほとんどの者には何が起こったのか分からなかった。


 気づいた時には、レイチェルはすでにディートリヒの横を通り過ぎていた。

 細い刀身は、もう静かに鞘へ戻っていくところだった。


 かちり。


 鍔が鞘口に触れる。

 その音を合図にしたかのように、ディートリヒの胸元から赤い花弁が一斉に舞い上がった。


 風に乗った花弁が中庭へ広がる。

 その向こうで、納刀を終えたレイチェルは、何事もなかったかのように立っていた。


 誰も、すぐには声を出せなかった。

 しばしの静寂のあと、ようやく誰かが呆然と呟く。


「今……何した?」

「刀を、抜いたのか?」


 問いかけられた生徒も、レイチェルの腰にある刀を見つめたまま首を振った。


「見えなかったぞ……」


 ディートリヒ自身も、自分の胸元を呆然と見下ろしていた。

 そこにあるはずの薔薇はもうなく、花弁だけがはらはらと足元へ落ちていく。

 審判役の教師も遅れて我に返り、慌てて片手を上げた。


「勝者――レイチェル・フォン・ベントハイム!」


 その宣言と同時に、観客からどよめきと歓声が沸き起こった。

 レイチェルは静かに一礼すると、呆然としているディートリヒへ向き直る。


「先ほどのお言葉を、撤回していただけますか?」


 問われたディートリヒは、しばらく何も答えられずにいた。

 やがて顔を歪め、気まずそうに視線を逸らす。


「……撤回する。悪かった」

「はい。それで構いません」


 そう告げると、レイチェルは静かに踵を返し、まっすぐカズトのもとへ戻っていく。

 彼は先ほどまでと変わらない、いつもの穏やかな笑みを浮かべて待っていた。


「レイチェル様、お見事でした」

「ありがとう、カズト」


 レイチェルは腰から刀を外し、差し出す。

 カズトは慣れた手つきでそれを受け取ると、ふと彼女の顔を見て笑った。


「珍しく、少し怒っていらっしゃいましたよね」


 その言葉に、レイチェルが顔を上げる。


「分かりましたか?」

「もちろん」


 迷いのない返事に、レイチェルはわずかに首を傾げた。


「皆には分からなかったようですけど、どうしてカズトには分かるのでしょう?」

「レイチェル様のおそばにずっとおりますからね。分かりますよ」


 いつもと変わらない笑顔で、カズトはごく自然にそう答えた。

 レイチェルは数秒だけ彼を見つめる。


「そうですか」


 そう答えたあと、ほんのわずかに口元を緩めた。

 その小さな変化を見た瞬間、今度はカズトの笑みがわずかに止まる。けれど、そのことにはレイチェルは気づかなかった。


 ◇


 その後、両家で話し合いが行われ、レイチェルとディートリヒの婚約は正式に解消された。


 元々、公衆の面前で婚約破棄を宣言したのはディートリヒ自身である。そのうえ正式な決闘にまで発展し、彼は敗北した。

 今さら婚約を元へ戻す理由など、どちらの家にもなかった。


 話が片づき、卒業祝賀会も終盤へ差しかかった頃、レイチェルは大広間の喧騒を離れ、一人でテラスへ出ていた。

 夜風が心地よい。眼下には王都の灯りが広がり、遠くまできらきらと輝いている。


「冷えませんか?」


 ほどなくして背後から声が聞こえてきたが、レイチェルは振り返らなかった。誰なのかは、確認するまでもない。


「大丈夫です。心地いいです」

「そうですか」


 カズトは、いつものように静かに隣へ並んだ。

 近すぎず、遠すぎないその距離は、五歳の頃から当たり前のように二人の間にあったものだ。

 しばらく並んで王都の夜景を眺めてから、レイチェルが口を開いた。


「カズト」

「はい」


 穏やかな返事を聞きながら、レイチェルは手すりに手を添えた。


「婚約がなくなりました」

「そうですね」


 あらためて言葉にすると、少し不思議な気分だった。レイチェルは王都の灯りを見つめたまま続ける。


「なんだか、少し、自由になった気がします」


 その言葉に、カズトがわずかに目を細めた。


「何か、なさりたいことでも?」

「ええ」


 レイチェルは夜空へ視線を向けた。


 考えてみれば、これまで彼女の未来には、いつも誰かが先に道を引いていた。

 誰と婚約し、どの家へ嫁ぎ、その先でどんな人生を歩いていくのか。


 家族は自分を大切にしてくれているし、決められた婚約についても、貴族の娘ならそういうものなのだと思っていた。だから、特に不満を抱いたことはなかった。


 けれど今日、その道はなくなった。

 せっかく自由になったのだから、今度は自分で行き先を決めてみたい。


「私、一度見てみたい場所があるんです」

「どちらでしょう?」


 カズトが顔を向けると、レイチェルは迷いなく答えた。


「東方です」


 彼の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。


「……東方を?」

「はい」


 レイチェルは頷き、思い描いていたことを言葉にしていく。


「お義姉様から、たくさんお話を聞きました。衣装も、料理も、刀も知っています。でも私は、実際にあの国を見たことがありません」


 そう言ってから、隣に立つ青年へ顔を向けた。

 黒い髪と黒い瞳。

 五歳の頃に出会ってから、ずっと当たり前のようにそばにいた人。


「カズトが生まれ育った国を実際にこの目で見てみたいです」


 カズトの黒い瞳が、わずかに見開かれた。

 レイチェルはほんの少しだけ笑う。


「ついてきてくれますか?」


 けれど、カズトはすぐには答えなかった。

 いつも穏やかに浮かべている笑みがふっと消え、数秒の間、ただ静かにレイチェルを見つめている。

 そんな彼の珍しい反応に、レイチェルは不思議そうに首を傾げた。


「もしかして、嫌ですか?」

「まさか」


 カズトは小さく息を吐くと、再び笑みを浮かべた。

 けれどそれは、いつもの感情を隠すような微笑みより、ほんの少しだけ柔らかかった。


「喜んで、お供させていただきます」

「そうですか」


 その返事に満足したように頷くと、レイチェルはもう次のことを考え始めた。


「では、帰ったらお父様に相談しましょう」

「もう行くことは決定しているのですね」


 カズトが確かめるように顔を覗き込むと、レイチェルは頷いた。


「もちろん。善は急げと言うでしょう?」


 迷いのない返事に、彼が小さく笑う。


「承知いたしました」


 夜風が吹き抜け、レイチェルのラベンダー色の髪を柔らかく揺らした。

 行きたい場所も、歩いていく道も、これからは自分で選べる。そう思いながら、彼女は隣の青年へ顔を向けた。


「カズト」

「はい、レイチェル様」


 いつものように呼べば、いつものように返事が返ってくる。

 その声を聞きながら、レイチェルはほんの少しだけ笑った。


 自由になった彼女が最初に選んだのは、海の向こうへ続く道。

 そして、その旅でも、きっと彼はいつものように隣にいてくれる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。