第四戦 婚約破棄ですか? それなら、決闘いたしましょう
今回の主人公は、第二戦にも少し登場していたクララです。
ノルディア王立学園の卒業祝賀会。
十八歳を迎え、晴れて成人となった卒業生たちを祝う大広間には、色とりどりの花が飾られ、華やかな音楽と楽しげな笑い声が満ちていた。
――今年も。
心の中でそう付け加えた教師が、そっと隣に立つ同僚へ視線を送る。
「今年は、何も起こらないといいですね」
「何の話だ」
素知らぬ顔で聞き返され、教師は卒業生たちへ目を向けた。
「ここ三年、毎年この卒業祝賀会で、婚約破棄から決闘に発展していますので」
「縁起でもないことを言うな」
同僚の眉間に、深い皺が寄る。
「去年も、あなたはそう仰っていましたよね」
「……言うな」
教師たちが小声でそんな会話を交わしているとは知らず、卒業生たちは学園生活最後の夜を思い思いに楽しんでいた。
クララ・フォン・リンデンも、その一人だ。
柔らかなクリーム色の髪は、ふわりと丸みを帯びたボブに整えられている。
蜂蜜色の大きな瞳と小柄な体つきも相まって、黙っていれば年齢より少し幼く見える、愛らしい令嬢だった。
もっとも、本人はここ数年、黙って座っている暇などほとんどなかったのだが。
クララは、生まれた時から貴族だったわけではない。
母と二人、平民として暮らしていた彼女が、自分はリンデン男爵の血を引く娘なのだと知らされたのは、母が亡くなったあとのことだった。
十五歳で男爵家へ引き取られてからというもの、毎日が勉強の連続だった。
挨拶の際に頭を下げる角度や舞踏会での振る舞い、家格によって変わる呼び方に、夜会で言葉を交わす相手とその順番。
覚えなければならないことは、いくらでもあった。
婚約とは何を意味するのか。
男性から夜会の同伴を頼まれることが、貴族社会ではどう受け取られるのか。
最後の一つについては、二年前に嫌というほど思い知らされた。
当時十六歳だったクララは、一人の高位貴族の青年から聞かされた話をそのまま信じ、知らないうちに彼の婚約破棄騒動へ巻き込まれてしまったのだ。
あの時、自分が何も知らなかったことを、クララは今でも恥ずかしく思っている。
だからこそ、それからは分からないことがあれば自分から尋ねるようになった。
失敗すれば覚え直し、一つずつ確かめ、少しでも貴族社会に馴染めるよう必死に努力してきた。
それでも時々、思うことはある。
――やっぱり、世界が違うなあ。
今も、まさにそうだった。
「背筋を伸ばせ、クララ」
隣から低い声が飛んできて、クララは慌てて姿勢を正した。
「伸ばしています」
「少し前屈みだった」
ミヒャエルは、確かめるようにクララの立ち姿へ目を走らせた。
「ほんの少しだけです」
「そういうところが平民育ちだと言われるんだ」
クララは口をつぐみ、隣に立つ青年を見上げた。
ミヒャエル・フォン・クリューガー。
伯爵家の次男であり、現在のクララの婚約者である。
整った容姿をしているし、家柄もいい。剣術の成績も悪くなかった。
リンデン男爵が複数の貴族家へクララの釣書を送り、返事があった中から最も条件のいい相手として選んだのが、このミヒャエルだった。クララ本人の希望は、特に聞かれなかった。
けれど、婚約が決まったからには相手を知ろうと思った。二年前と同じ失敗はしたくなかったのだ。
ミヒャエルは何を好み、将来はどのように暮らしたいのか。
卒業後はどんな仕事に就き、結婚後はどこで暮らすつもりなのか。自分には何を求めているのか。
何度も話そうとしたし、婚約者としてうまくやっていけるよう努力もした。
けれど結局、彼について最もよく分かったのは、自分があまり好かれていないということだった。
「……はい。気をつけます」
クララはそれだけ答え、静かに視線を戻した。
その思いは、この夜、最悪の形で裏づけられることになる。
◇
楽団の演奏が一曲終わり、大広間にざわめきが戻った時だった。
ミヒャエルが突然クララの前へ進み出ると、何人もの卒業生が行き交う大広間の中央で足を止めた。
「クララ・フォン・リンデン!」
妙によく通る声で名を呼ばれ、周囲の視線が一斉に集まる。
その様子を見た教師の一人が、嫌な予感を覚えたようにそっと目を閉じた。
「まさか……」
隣の教師も、顔を引きつらせながらミヒャエルへ目を向ける。
「まだ何も言っていませんよ」
「分かる。私はもう分かるぞ」
そんな教師たちの予感を裏づけるように、ミヒャエルは堂々と胸を張り、クララへ言い放った。
「俺は、お前との婚約を破棄する!」
大広間にその言葉が響き渡り、教師が頭を抱えた。
「今年もか……」
「決闘担当へ知らせます?」
隣の同僚が周囲を見回しかけると、教師は慌てて制した。
「まだ早い!」
「去年もそう言っていましたよ」
「だから言うな!」
教師たちのやり取りをよそに、クララは大きな蜂蜜色の瞳を瞬かせていた。
もちろん驚いた。けれど、二年前のように頭が真っ白になることはなかった。
一度ゆっくりと息を吸い、気持ちを落ち着けてからミヒャエルを見上げる。
「婚約破棄、ですか?」
「ああ」
ミヒャエルは、当然のことを告げるように顎を上げた。
「考えてみれば当然だ。お前は確かにリンデン男爵の血を引いているらしいが、育ちは平民だろう?」
クララは何も言わず、続きを待った。
「伯爵家の息子である俺が、平民育ちの女を妻にするなんて体裁が悪い。俺なら、もっと家柄のいい令嬢と結婚できる」
「……そうですか」
自分でも意外なほど、心は静かだった。
悲しくないわけではない。婚約が決まってから、クララなりにミヒャエルを知ろうと努力してきたのだから。
けれど、それ以上に安堵している自分がいた。
――この人と結婚しなくてもいいんだ。
そう思った瞬間、肩からふっと力が抜けた。
「承知いたしました」
「……は?」
今度はミヒャエルが目を瞬かせた。聞こえなかったのだろうかと思い、クララはもう一度口を開く。
「ですから、婚約破棄を承知いたしました。両家で必要な手続きはあると思いますので、そちらは後日――」
「随分あっさりしているじゃないか!」
なぜか、婚約を破棄した本人のほうが腹を立てた。
クララが戸惑っていると、ミヒャエルは苛立たしげに言葉を重ねる。
「俺に捨てられたら、お前なんか次の相手を見つけるのも難しいんだぞ」
「そうかもしれませんね」
その可能性はあるだろう。
クララは素直に頷いたが、ミヒャエルの表情はますます険しくなった。
「本当に分かっているのか?」
「はい」
クララの顔をしばらく睨んでいたミヒャエルが、不意に口元を歪めた。
「……まあ、お前は見た目だけは悪くないからな」
嫌な笑みに、クララの眉がわずかに寄る。
「母親も、そうやってリンデン男爵に色目を使って取り入ったんだろう?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……今、何と仰いました?」
「だから、母親も男爵をたらし込んだんだろうと言ったんだ」
ミヒャエルは悪びれもせず、むしろ面白がるように笑っている。
「血は争えないな。お前もその顔で男をたらし込めばいい。正妻は無理でも、愛人くらいにはしてもらえるんじゃないか?」
その瞬間、クララの中で何かが静かに切れた。
母は、決して裕福とは言えない暮らしの中で、たった一人でクララを育ててくれた。
寒い夜には同じ毛布にくるまり、少しだけ甘い焼き菓子を買えた日には、二人で半分ずつ分けて食べた。
苦しいことも、きっとたくさんあったはずだ。
それでも母は、クララの前ではいつも笑っていた。
父親についてはほとんど何も話さなかったが、一度だけ、幼いクララをぎゅっと抱きしめたことがある。
『クララは何も悪くないのよ』
そう言ってくれた声を、今でも覚えている。
その母を、何も知らないこの男が侮辱した。
クララはまっすぐにミヒャエルを見据えた。
「撤回してください」
「何だと?」
聞き返されても、クララは視線を逸らさなかった。
「母についての、今のお言葉を撤回してください」
「なぜ撤回する必要がある? 事実だろう?」
ミヒャエルは、謝るどころか不愉快そうに顔をしかめた。
「違います」
「お前に何が分かる」
クララは唇を引き結び、こみ上げるものを押しとどめてから答えた。
「少なくとも、あなたよりは母を知っています」
ミヒャエルが鼻で笑う。
それを見て、クララはもう何も言わなかった。
しばらく静かに彼を見つめたあと、すっと背筋を伸ばす。
そして、この三年間で身につけた淑女らしい所作で、優雅に一礼した。
「分かりました。それなら、決闘いたしましょう」
「…………は?」
少し離れたところで、教師が深いため息をついた。
「……決闘担当を」
「もう呼んであります」
即座に返ってきた答えに、教師は同僚の顔を見た。
「仕事が早いな……」
◇
決闘は、学園の中庭で行われることになった。
ノルディア王国には、貴族同士の名誉に関する争いを決着させる正式な決闘制度がある。
互いの胸元に一輪の薔薇を留め、先に相手の薔薇を散らした者が勝者となる。
申し込まれた側には武器区分を選ぶ権利があり、今回ミヒャエルが選択したのは近接武器だった。
「俺は剣を使う。お前も好きなものを選べ」
「分かりました」
クララは、用意された武器へ視線を向けた。
剣に槍、斧、棒術用の長棍まで並んでいる。
長い歴史を誇るノルディア王国の決闘制度は、年月を重ねるにつれて妙なほど充実しており、主要な武器であれば大抵の決闘専用品が用意されていた。
しかし、クララの視線はそれらを素通りし、中庭の端で止まった。
そこでは、先ほどまで大勢の人が行き交っていた通路を、一人のメイドがモップで掃除していた。
クララは迷うことなく、彼女のもとへ歩み寄る。
「あの、すみません」
「は、はい?」
突然、決闘騒動の当事者に声をかけられ、メイドが驚いたように振り返った。
クララは彼女が手にしているものを指す。
「それ、少しお借りしてもよろしいですか?」
メイドはきょとんとして、自分の手元へ目を落とした。
「このモップを……ですか?」
「はい」
確かめるように柄を持ち上げ、もう一度クララを見る。
「本当にこれを?」
「はい」
二度確認しても答えは変わらない。戸惑いつつ、メイドはおそるおそるモップを差し出した。
「ど、どうぞ……」
「ありがとうございます」
クララは両手で受け取ると、柄を握り直して重さと長さを確かめた。
その様子を見ていた決闘担当の教師が、念のため声をかける。
「リンデン嬢。一応、棒術用の決闘棍も用意されていますが?」
「あ、ありがとうございます。でも――」
クララは手に馴染ませるように柄を軽く握り込み、そのまま手首を返した。
長い柄が、身体の周囲を滑るようにくるりと一回転する。流れを止めることなく反対方向へ返し、さらにもう一度。
まるで掃除道具ではなく、最初から彼女のために用意された武器であるかのような滑らかさだった。
数度軽く取り回してから、クララは満足そうに頷く。
「こちらのほうが手に馴染みますので」
「…………そうですか」
教師はしばらくモップを見つめていたが、やがて手を差し出した。
受け取った柄に亀裂がないことや金属部分が露出していないことを確認し、決闘用武器と同様の安全措置を施してから、クララへ返す。
「使用を許可します」
「ありがとうございます!」
ここ三年、毎年卒業祝賀会で決闘が起きている。そして、今年もこの有様だ。
もはやモップ程度で動じていては、この仕事は務まらないのかもしれない。
その様子を、少し離れた場所から眺めていた青年がいた。
銀色の髪に金色の瞳を持ち、穏やかで、どこか儚げにも見える整った顔立ちをしている。
イグナーツ・フォン・ゲルンシュタイン。
ゲルンシュタイン辺境伯家の嫡男であり、次期辺境伯として、領地の騎士団へ迎える人材を探すために卒業祝賀会へ顔を出していた。
先ほどクララがモップを回した瞬間、その金色の瞳がわずかに細くなった。
「……あれは、王国の棒術ではありませんね」
隣にいた騎士が振り向く。
「分かるのですか?」
「足運びが違います。棒の扱いも」
イグナーツの視線の先で、クララはモップの先端を斜めに下げ、半身になって構えていた。
一見すると力の抜けた、不思議な姿勢だった。
「面白いですね」
「モップがですか?」
騎士が首を傾げると、イグナーツは楽しそうに微笑んだ。
「彼女が、ですよ」
◇
「始め!」
合図と同時に、ミヒャエルが地面を蹴った。
「モップで俺と戦おうとか、ふざけた真似を!」
剣を構えたまま一気に間合いを詰めてくるが、クララは動かない。
剣先が届く寸前まで相手を引きつけてから、身体を捻るように一歩横へ滑った。
「なっ――」
剣が空を切る。
クララの動きは、王国で一般的に知られている棒術とは明らかに異なっていた。
直線的に相手とぶつかるのではなく、円を描くように間合いを外し、正面から攻撃を受け止めない。
相手の力が向かう先へモップの柄を添え、その勢いを利用するように軌道を逸らしていく。
ミヒャエルが振り返りざまに剣を振るうと、クララは柄をくるりと回した。
かんっ、と乾いた音が響き、剣の腹が下から弾かれる。
「っ!」
ミヒャエルは力で押し返そうとしたが、クララはまともに競り合わなかった。
柄を滑らせながら身体を半回転させ、背中側を通したモップを反対の手へ移す。そのまま流れるように次の構えへ移るため、ミヒャエルにはどちらから一撃が飛んでくるのか読めなかった。
「ちょこまかと……!」
苛立った声とともに、剣が横薙ぎに振るわれる。
クララは身を沈めながらモップの柄を地面近くまで落とし、そこへ片足を添えた。
次の瞬間、脚と身体全体を使って支点を変える。
てこのように跳ね上がった柄が、ミヒャエルの剣を下から強く打ち上げた。
「うわっ!」
体勢を崩した隙に、クララが一歩踏み込む。
けれど、すぐには薔薇を狙わなかった。モップを身体の前でくるりと一回転させ、その勢いのまま柄の端でミヒャエルの手首を軽く打つ。
「痛っ!」
指から離れた剣が、からん、と地面へ転がった。
一瞬、中庭が静まり返る。
少し離れた場所では、イグナーツが興味深そうに目を細めていた。
「やはり、棒の両端を完全に使い分けていますね」
「そうなのですか?」
騎士が問い返すと、イグナーツは頷いた。
「ええ。力で相手をねじ伏せるのではなく、動きそのものを崩している。面白いですね」
武器を失ったミヒャエルの前で、クララはモップをもう一度くるりと回した。
「く、来るな!」
後ずさるミヒャエルへ、クララはゆっくりと歩み寄る。
ふわりとしたクリーム色の髪を揺らすその表情は、意外なほど穏やかだった。
「母へのお言葉、まだ撤回していただけませんか?」
「するわけないだろ!」
即座に返ってきた答えに、クララは足を止めた。
「そうですか。残念です」
モップを鋭く振り抜く。
ひゅっ、と風を切る音が響き、長い柄がミヒャエルの身体すれすれを通り抜けた。
その一撃は、彼の身体には触れていない。
それでも、一拍遅れて胸元から赤い花弁が舞い上がった。
「…………え?」
ミヒャエルは呆然と自分の胸元を見下ろした。
身体にも服にも傷一つない。それなのに、そこにあったはずの薔薇だけが綺麗に散っている。
「勝者――クララ・フォン・リンデン!」
審判の宣言が響いた途端、歓声とどよめきが中庭を包んだ。
クララはゆっくりとモップを下ろし、軽く息を整える。
そうして決闘が終わったことを確認すると、少し離れた場所でいまだ呆然としているメイドを振り返った。
「あの、これ、ありがとうございました。少し汚してしまいましたけれど……」
借りたものなのだから返さなければ。そう思って差し出すと、メイドはモップとクララの顔を交互に見た。
「い、いえ……決闘に使われたモップを返されても困るのですが……」
「……えっ?」
そこで初めて、クララは困った顔をした。
◇
だが、それで終わりではなかった。
「クララ!」
鋭い怒声に振り返ると、リンデン男爵が血相を変えてこちらへ歩いてくる。
「お前は何をしている!」
「お父様……」
クララが向き直るなり、男爵は周囲の目も構わず怒鳴りつけた。
「クリューガー伯爵家との縁を自分から潰すなど! どれほど条件のいい縁談だったと思っている!」
「婚約を破棄したのは、ミヒャエル様です」
クララが訂正しても、男爵は聞く耳を持たなかった。
「だから何だ! まだ婚約を取り消さずに済んだかもしれんだろう!」
クララは信じられない思いで父親を見つめた。
「お母様を、あれほど侮辱されてもですか?」
男爵の顔が不快そうに歪む。
「死んだ女のことなど、どうでもいい!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がすっと冷えていった。
不思議と、もう怒りは湧かなかった。ただ、腑に落ちた。
――ああ。やっぱり、そうだったんだ。
「せっかく私が拾ってやったというのに! お前も、あの女に似て私に逆らうのか!」
その一言だけで、十分だった。
母がこの男とどう別れたのか、クララは詳しく知らない。
それでも、父親が今なお母を、自分に逆らった女として見ていることだけは分かった。
そして自分も、娘だから迎えられたのではない。
年頃になり、政略結婚に使えるようになったから引き取られただけだった。
この三年間、クララは必死に貴族らしくなろうとしてきた。
礼儀も作法も社交も、この家で生きていくために、一つずつ覚えてきた。
けれど、もう十分だった。
クララは手にしていたモップを、静かに握り直す。
その仕草に気づいたリンデン男爵が、苛立ったように声を荒らげた。
「何だ、その目は!」
卒業祝賀会のためだろう。男爵の胸元には、華やかなコサージュが飾られていた。
クララは何も答えず、ただ一歩だけ前へ出る。
「な――」
ひゅっ、と鋭く風を切る音がして、男爵が反射的に身体を強張らせた。
けれど、モップの柄は彼の身体には一切触れていない。一拍遅れて、胸元を飾っていた花だけがはらりと崩れ、色鮮やかな花弁となって足元へ散った。
クララはそれを見届けると、静かにモップを下ろした。
そして背筋を伸ばし、この三年間、何度も練習してきた、貴族令嬢として申し分のない優雅な礼を取る。
「三年間、お世話になりました」
ゆっくりと顔を上げた時にはもう、目の前にいる男を父親だとは思っていなかった。
「さようなら、リンデン男爵様」
◇
屋敷には戻らない。
そう決めたものの、男爵家を出た自分が、明日からどう暮らすのかはまだ何一つ決まっていなかった。
住む場所も仕事も、これから考えなければならない。
それでも、不思議と怖くはなかった。
母と二人で暮らしていた頃だって、何でも持っていたわけではない。
それでも、あの頃の人生は確かに自分自身のものだった。
その感覚を、ようやく取り戻した気がする。
クララが中庭の端で、いまだ手にしたままのモップを眺めていると、不意に穏やかな声が聞こえた。
「まだ、そのモップをお持ちだったのですね」
振り返ると、そこには銀色の髪と金色の瞳を持つ青年が立っていた。
「返そうとしたのですが、困ると言われてしまいまして……」
「それはそうでしょうね」
青年は柔らかく微笑んだ。その姿はどこか儚げですらあり、クララは少し戸惑いながら尋ねる。
「あの……どなたでしょう?」
「失礼。イグナーツ・フォン・ゲルンシュタインと申します」
聞き覚えのある家名に、クララは背筋を伸ばした。
「ゲルンシュタイン……辺境伯家の?」
「はい」
次期辺境伯だと気づき、慌てて礼をしようとすると、イグナーツは軽く手を上げてそれを制した。
「先ほどの棒術、見事でした」
「ありがとうございます」
クララが改めて頭を下げると、イグナーツは彼女の手元へ目を向けた。
「東方のものですよね?」
思わぬ言葉に、クララの蜂蜜色の瞳が大きくなる。
「分かるんですか?」
「少しだけ。王国のものとは足運びも、棒の扱い方も違いましたから」
クララは感心しながら頷き、モップを持ち直した。
「昔、家の隣に住んでいたおばあちゃんに教えていただいたんです。普通のおばあちゃんだと思っていたんですけど、実は東方で棒術の師範をしていたそうで」
「なるほど」
イグナーツは納得したように頷いた。それから少し考え、クララへ尋ねる。
「クララさん。これからの行き先は、もうお決まりですか?」
「……いえ」
家を出ると決めたばかりで、その先のことなどまだ何も決まっていない。
クララが首を振ると、イグナーツはごく自然な調子で微笑んだ。
「でしたら、ゲルンシュタイン辺境伯騎士団へ来ませんか?」
「…………はい?」
クララは目を瞬かせた。
「騎士団、ですか?」
「はい」
聞き間違いではなかったらしい。クララは自分を指差し、もう一度確かめた。
「私が、ですか?」
「はい。クララさんを勧誘しています」
イグナーツの笑顔は変わらない。クララは戸惑いながら、目の前の青年を見上げた。
「私、騎士ではありませんし、そんな訓練も積んでいませんが」
「これからなればいいでしょう?」
あまりにもさらりと言われ、クララは自分の手元へ視線を落とした。
「それに、正式な武器すら持っていません」
イグナーツも同じものを見る。
そこにあるのは、モップだった。
「十分戦えていましたよ?」
「モップですけど!?」
楽しそうに笑うイグナーツを見ているうちに、クララの脳裏にふと懐かしい言葉が蘇った。
『棒なんて何でもいいんだよ。箒でも、物干し竿でも、手に馴染めばそれでいい』
隣のおばあちゃんは、いつもそう言って笑っていた。
思わずクララも笑いかけたが、そこで気を引き締める。
二年前の自分なら、高位貴族から声をかけられたというだけで、その言葉をそのまま信じていたかもしれない。
けれど、今は違う。
「あの、どうして、私を?」
イグナーツはその問いを面倒がることもなく、まっすぐ答えた。
「あなたの棒術を評価したからです。それに、決闘中も冷静に相手の動きを見ていた。辺境では、力だけでは生き残れませんからね」
クララはその言葉を一つずつ確かめるように聞いてから、次の質問を口にした。
「もし入れば、すぐ騎士になれるんですか?」
「いいえ。まず試験を受けてもらいます」
やはり、声をかけられたからといって、何もかも決まるわけではないらしい。
クララは頷き、もう一つ気になっていたことを尋ねた。
「お給金はどれくらい頂けますか?」
今度はイグナーツが一瞬だけ目を瞬かせた。クララは真顔のまま続ける。
「大事なことですから」
やがてイグナーツは、ふっと笑った。
「ええ。とても大事ですね。詳しい条件もすべてご説明しましょう」
そして、金色の瞳をまっすぐクララへ向ける。
「そのうえで、あなた自身が決めてください」
――あなた自身が。
その言葉が、クララの胸の奥へ静かに落ちた。
二年前は、他人の言葉をそのまま信じた。婚約を決める時には、自分の希望を聞かれなかった。
けれど今、目の前の人は条件をすべて説明したうえで、自分で決めていいと言っている。
しばらく考えてから、クララは小さく頷いた。
「では、まずは、お話を伺ってもよろしいですか?」
「もちろんです」
イグナーツは嬉しそうに微笑んだ。
クララはまだ知らない。
目の前に立つ、この穏やかで儚げな美青年が、通常ならば一本を両手で扱う大剣を、左右に一本ずつ持って戦う人物であることを。
そして、この出会いが、自分の人生を思いがけない方向へ変えていくことも。
それはまだ、少し先のお話である。




