第5話「六十余年前」
ヨーナは、その足で、トーマスの診療所を訪ねた。
祖父の帳面のことを、誰かに話したかった。だが、村の誰にでも話せることではなかった。トーマスなら、六十余年前を知る、数少ない一人だった。
診療所の奥、薬草の匂いが染みついた部屋で、トーマスは黙って話を聞いていた。ヨーナが帳面の中身を語り終えると、しばらく、何も言わなかった。
「その帳面……見せてもらえるか」
ヨーナが差し出すと、トーマスは、老いた指で、ゆっくりとページをめくった。祖父の名を見て、彼の表情が、わずかに動いた。
「知っている男だ。裁きの日、広場にいた」
「祖父は、何か言っていましたか。あの日のことを」
「いや」トーマスは、首を振った。「誰も、あの日のことは、あまり口にしなかった。わし自身もだ」
トーマスは、帳面を閉じ、窓の外に目をやった。遠くに、森の稜線が見えた。
「わしは、あの日、七つだった。エレナに、命を救われた子どもの一人だ」
ヨーナは、初めて聞く話だった。
「処刑の日、群衆の中から抜け出して、彼女のところまで走った。『本当に、魔女なの』と聞いた」
「エレナは、何と」
トーマスは、少し間を置いた。
「『そうだったら、よかったのにね』と。それから、『魔女だったら、こんなところにはいないよ』と」
ヨーナは、その言葉の意味を、すぐには掴みきれなかった。だが、何かが、胸の奥に、静かに落ちてくるのを感じた。
「先生は、それからずっと、彼女が魔女ではないと、知っていたんですね」
「知っていた」トーマスは、頷いた。「だが、知っていることと、あの場で声を上げることは、違う。わしは子どもだった。何もできなかった」
「今は」
「今は、老いた医者だ。今度も、あまり変わらないのかもしれん」
トーマスは、自嘲するように、小さく笑った。
「正直に言おう。わしも、ミラのことを、少し疑っている」
ヨーナは、驚いて顔を上げた。
「先生も、ですか」
「ああ」トーマスは、静かに答えた。「あの手つき、あの知識。どこかで見た覚えがある――そう思う自分がいる。だが、それが何を意味するのか、わしにも分からん」
沈黙が、部屋を満たした。
「六十余年前のことを知っている人間が、また疑っている。これは、皮肉ですね」
「皮肉ではない」トーマスは、ヨーナを見た。「これが、人間というものなのだろう。知っているからといって、疑わなくなるわけではない。ただ――」
「ただ?」
「知っていれば、疑ったときに、それをどうするかを、選べる。祖父さんは、黙った。わしは子どもで、選ぶことすらできなかった。だが、お前は」
トーマスは、そこで言葉を切った。
「お前は、まだ選べる」
ヨーナは、その言葉を、しばらく黙って受け止めていた。
窓の外では、夕暮れが、村を薄い橙色に染め始めていた。
噂は、既にヨーナの手を離れて、村の中を独り歩きしている。
それを止める場所があるとすれば、もう、長老会しかなかった。
第5話 完




