第4話「夜の森」
最初にそれを言い出したのは、牛飼いの若い衆だった。
「昨日の晩、あの旅の女が、森に入っていくのを見た」
ヨーナは、その話を聞いて、内心で小さく息を呑んだ。自分もまた、同じ夜、同じ光景を見ていたからだった。だが、それを口に出すことは、まだできなかった。
翌日には、話がひとつ、膨らんでいた。
「昨日の晩だけじゃない。毎晩、行っているらしい」
その翌日には、さらに形を変えていた。
「森の中で、誰かと話している声を聞いたやつがいる」
ヨーナは、思わず口を挟んだ。
「誰と話していたの。相手は、誰なの」
噂を語っていた女は、少し困った顔をした。
「そこまでは……。でも、確かに、声がしたって」
声の主も、内容も、誰も確かめていなかった。それでも、噂は止まらなかった。
三日目には、こんな話にまでなっていた。
「病気が流行り出す前から、あの女、夜な夜な森へ行っていたらしいぞ」
これは、明らかにおかしかった。ミラがこの村に来たのは、病が広がってからのことだ。順序が、まるで逆になっている。
だが、誰も、その矛盾を指摘しなかった。
ヨーナは、その場に居合わせた老女に、思わず尋ねた。
「病が出る前から森へ、というのは、誰が見たの」
老女は、少し考えてから答えた。
「誰、と言われると……はっきりとは。でも、そういう話になっている」
「そういう話になっている」――それだけで、事実として扱われていく。
ヨーナは、背筋が冷えるのを感じた。
六十余年前、祖父の帳面に記された裁きの場面が、頭をよぎった。誰も答えられないまま、それでも一人の女が裁かれていった、あの記述。
今、目の前で起きていることは、その縮図だった。
誰も嘘をついているつもりはない。誰かが聞いた話を、誰かに伝え、それがまた別の誰かに伝わるだけだ。伝わるたびに、少しずつ、輪郭がはっきりしていく。最初は「見た気がする」だった話が、今では「事実」として語られている。
ヨーナは、この速さを、どこかで見たことがあるような気がした。
いや――見たことがあるのではない。
これこそが、六十余年前、祖父が黙って見過ごした、あの速さそのものだった。
ヨーナは、自分が今、傍観者でいられる時間は、もう長くないと悟った。
この噂が、次にどんな形になるのか。
それを止められるのは、もしかしたら、今この場にいる自分しかいないのかもしれなかった。
だが、声を上げるということが、どれほど怖いことか、ヨーナは、祖父の帳面の最後の一文を通して、既に知ってしまっていた。
第4話 完




