49・希望はいつもそこに①
頭上の遥か遠く……大空が、ほんの微かだが確かに翳った。
「見てごらん」
メナの指差す方向を見て、私は息を呑む。そこでは――。
「黒い、月……」
真昼なのに……なぜか光を吸い込む真っ黒で巨大な月が、姿を現している……!
それをじっくりと注視する内に、私はあることに気付いた。
「世界が……砕けて?」
月の周囲……空の表面に、まるで魔物が出てきた時のような亀裂が生じていた。
それは全方位に一押しずつ、徐々に拡大してゆく。まるで、強い荷重で押し潰さるガラスのように。
「世界を一度救った君ならば……その外殻が球状であることくらいは知っているだろ? その殻の内側には実はもう一枚、偽物の空を映す膜のようなものが存在していてね……」
彼女は、その知識を封書室にあった他の書籍から読み取ったのだという。実は大量にカモフラージュされたあれらの中には、数冊だけ、この世界の仕組みを知ることのできる本が含まれていたらしい。
「それらによると……ベセルが動かす黒い月は、外殻には干渉せず内膜の内側を……原初の聖女によって形作られた世界の内容物を疑似的な虚無によって一旦溶かし尽くし、起動者が望む形に再構成するとあった。ああ……これで、あの頃に戻れるんだ」
君たちが世界書を修復し、外殻の破損を治してくれたからこそ、今こうして私は安全に計画を実行できるんだと……メアは微笑む。そうでなければ、彼女も世界にできた亀裂を塞ぐため……あの場に姿を現すリスクを取る必要があったかもしれない、とも……。
そんな彼女に私は掠れ声で訊いた。
「……皆は、本当に元通りになるの?」
質問にメナは乾いた声で答える。
「さあ? 復元すればいいけれど……これ自体が誰も試したことのない緊急手段で、実際私の魔力だってそこまで魔力が持つかどうか。ま、どうでもいいよ……私と兄以外の人たちなんて、うまく戻せなくても」
彼女には、目の前の目標しかもう見えていない。
今ここに生きる人々は……元の世界の崩壊に伴い、ルシエさんが生き残らせるためにこちら側に誘った人たち――ひいてはその子孫。作りものではないのだ。
そんな彼らを、泥人形のように一旦溶かして作り直すなんてことが、やすやすと成功するとは思えない。
現代科学ですら、記憶や魂をメディアに保存できるわけじゃなかった。
そんな中、仕組みが分からないあやふやなものに彼女は手をかけ、ひとりで操ろうとしている。そんなの、どこかで絶対に失敗する。
「やめてメナ……私にはそれがうまくいくとは思えないの。それは本来は、もしこの大地に何かあった時、人々をどこかにまとめて聖女たちが守った上で、その間に世界を作り直させるようなものだったんじゃないかしら……? 再構成に、元々この世界の構築から外れていた人間が含められたら、失敗が起きたっておかしくない。どうか……考え直して」
私は懇願する。だが、メナは頑なに掛けた言葉を跳ね除ける。
「その様子だと、原初の聖女に直接聞いたというわけでもないんだろう? どの道、他に方法がないのなら――そうするしかない。たとえ戻ってきた兄さんが、ただの代替品で、何も覚えていなかったとしても……それでもいい。彼が居てくれないと私はもう、自分の侵した罪に耐えられないんだ」
「あうっ……!」
彼女は私に近づくとその足で、手のひらをガッと踏みつける。
でも、その片方の瞳からは、透明なものが滴って。
メナはそれを親指で弾くと月を仰いだ。
「……世界の再構築には、この様子だと後数日かかるか。よかったね、このただならぬ様子を見て、どこも戦争どころじゃないだろう。さあ、王国に帰り、友人たちと別れまでの時間を惜しむといい。ハハ、私は……成し遂げたんだ。他のものを全部捨ててまで……。フ、クク――」
虚しい笑い声を響かせる背中を見て、私にもなんとなくわかってしまった。
彼女もこの再構築が終わった後で、自分が何もかも満たされた日々に帰れるとは信じていない――きっと。
(でも、もう私何もできない……)
たくさんの人の期待を背負って来たのに……結局はこうして這いつくばっている。諦めず、立ち向かうことを選択したのに、指先ひとつも動かせない。
メナの含み笑いが物悲しく響いている。
終わった……いや、これから始まるのか。メナが統べる、あらゆるものが作りものとして置き換わった、寒い世界が。
「シーリ、待たせてごめん」
そこで、私の背中に優しく手が添えられた。温かい体温が、ほんのりと心臓に届く。
「アルベール様……」
「よかった、無事で。途中で階段に水があふれるわ、崩れるわで大変だったよ。なんとか外壁を伝って上がってたら、途中でルイーゼ様が降ってくるしね。ほら」
彼が親指で後ろを刺すと、そこでは仏頂面のラエル兄さん、彼女を横抱きに抱えていた。
その姿を見てぽろぽろと涙をこぼし、私は彼に謝る。
「ごめんなさい……私の力じゃ、メナを止めることはできなかった。彼女は虚無の在処を起動してしまいました。もうすぐ、この世界はすべて溶かされ、作り直されてしまうんです」
「この空は……そういうことか」
アルベール様は綺麗なおとがいを空に向け、険しい顔で頷く。
メナは、彼らの出現にまったく気を止めず、ずっと低い声で笑い続けている。
だけれど――。
「本当にもう打つ手はないのかな?」
「えっ……?」
アルベール様の言葉に、私は目を見開く。メナの笑いが……止まった。
「君が母上を助けてくれた時……。世界書の時だって、僕らはほとんど絶望しきっていた。でも、あの時君は諦めずに、世界を救ってみせたじゃないか! なら、今回のことだってきっとどうにかできる。時間はまだあるんだろ?」
彼は力強く私の肩を支え、立ち上がらせた。
「負けたって、もう一度立ち上がればいい。メナが今の世界を壊す装置を起動させたなら、今度はそれを止める方法を見つけ出そうよ。僕も、ラエルも、聖王国や魔帝国の皆もきっと最後の時まで足掻き続ける。だからもう少しだけ、一緒に戦ってくれないか、シーリ」
「まだ、邪魔をしようというのか……」
表情を失くしたメナがこちらを向いた。
その身体からは鬼気迫る切迫感が――今度は躊躇わず命を奪うという意思が放たれる。それでも……。
「そうでした……。ここにいる皆だけじゃない。きっと皆が世界の存続を願ってる。それは……こんなことに負けるような、ちっぽけな力じゃない!」
力が戻ってくる。そうだ……私だってまだまだ生きてたい。
元のシーリからもらった二度目の奇跡の人生を……簡単に手放したりしたくない!
「君たちは懲りないよね。いくら叩き潰しても、甘い幻想……希望を抱くことを止めず何度でも起き上がる。もう……うんざりだ。ならば、もはやこの場で消えても文句は言うまい! 役目を終えたこの月映宮ごと、君たちを葬り去る!」
メナは携えていた本をから手を離した。
ひとりでに表紙が消え、紐解かれたように開いた傍から黒いページが次々と宙に舞うと……数千、数万をも越えようという夥しい数で、私たちの頭上を埋め尽くす。
「皆、集まって!」
私の指示に従い、ラエル兄さんとアルベール様が素早くルイーゼ様と魔女帝を抱えて動く。
その間にも、頁は私たちを包囲するように、周囲を旋回しながら距離を狭めてくる。
「聖王国中に開いた魔物の出入り口から吸い取った虚無の力。虚無の在処を目覚めさせるためにかなり使ってしまったが、残りは全部、君たちにくれてやる! さあ、私の心を波立たせぬよう、もうこの世から消え去ってくれ!」
虚無の奔流が、私たちを押し潰そうと迫る。
私は復活した聖力のありったけでバリアを張るが、それでも……。
「く……うっ」
抑え込む圧力の方が強すぎる……!
「……アルベール、いざとなったら俺達で身を呈してシーリたちを外へ――」
「それしかないかな……」
アルベール様たちが、女性陣を背に庇い、自らの身を楯にして外に連れ出す算段を立てる。
彼らは、体外に聖力や魔力を出す術が得意じゃない。
私たちよりずっと虚無に対する抵抗力は低いのに……そんなことをしたら。
「……う、く? メナの目論見は……やはり、防げなかったか」
「……これは、いったい」
「すみませんが、手伝ってください! メナに虚無の魔力を操り攻撃されています!」
起き出して来た魔女帝やルイーゼ様も即座に防御に手を貸してくれる。
ただ……それでもこの状況を打ち破るには、力が全然足りない。
(そうだ……。さっきみたいに聖魔の力を、同時に使えば……)
闇の魔力は、虚無の魔力に呑み込まれて効果を成さないかもしれない。
でも……さっき聖力と同時に使った時、制御できないほどの凄まじい力となった。
あれを、うまく使えれば――。
「く……っ。どうにか……」
ダメだ……。
こんなにも大きな負荷を欠けられた状態で、防御と攻撃を同時にこなそうとすれば、絶対に失敗する。
じりじりと円周が狭まり、ぎゅっと身を合わせないと立っていることもままならなくなってきた。額に滲む汗が、視界を邪魔する。
「いちかばちか……ラエル、お前は悪魔化して彼女たちをそのでかい図体で包み、この虚無を突破しろ! 今から全力で、僕がここに穴を開ける!」
「……できるのか?」
「やらなきゃいけないだろ……どうなっても!」
そんなことをしたら、アルベール様だけ取り残されてしまう!
それを覚悟で彼は頷き、聖力をシェルウッド製の剣の先端に込め始めた。
彼の身体に満ちる力が、全て、切っ先の一点に集められ、見ていられないほど強く輝く。
自らを、犠牲にする覚悟で――。
「……やめて!」
「いいや……決めたんだ。君のためだけに生きるって――」
無言で首をふる兄さんの腕に掴まれ、私は悲鳴を上げた。この人を、見殺しにしてまで生きるなんて……そんなのっ‼
『あわてないで、シオリ……』
そんな時だった――優しい声が耳を揺さぶったのは。
この場に居るはずもない誰かの……。
「待てアルベール! 虚無の勢いが……弱まった?」
「ああ……いったい何が」
今まで押し縮められるばかりだった空間がぐっと広がり、防御に掛ける負担がうんと軽くなる。
『……おかあさんたちにおねがいしたの。いくまえに、すこしだけちからをかしてあげようって……』
皆が戸惑う中……。声は私の側頭部、頭に付けた髪留めから魔力と共に流れ込んでくる。
『これがほんとうに、わたしにできるさいごのこと。ありがとう……ふたりとあわせてくれて。おかげでわたしは、たいせつなひとをにくみつづけなくてすんだ。このまま、きれいなながれにかえれる……」
(シーリ……? うん、ありがとう……)
少女の……本物のシーリが私の力になるために、わずかな思念を髪留めに留めておいてくれていたのか。
それが人生の中で最高に貴重な時間を作ってくれた……!
今なら……全力の攻撃でこの虚無を抜けられる!
「皆、守りのことは考えないで! 一気に力を合わせて外への穴を作りましょう、見逃さないで!」
「「「「わかった‼」」」」
反発する聖力と魔力を併せ手の内に閉じ込める。その間に、ルイーゼ様と魔女帝が……!
「ヴァシリーサ様、いけますか⁉」
「クラリスの忘れ形見を守るためなら、余も力を尽くそうぞ!」
それぞれ、水と氷の力で虚無の壁の一部を固定し、そこへ――。
「「ラエル!(アルベール!)、やるぞ!」」
騎士ふたりがすかさず、全力の斬撃を叩き込む。異なる力を秘めて交差された刃は、凍結した虚無の壁に罅をいれ――。最後に、私が。
「ひ――らけぇぇぇぇぇっ!」
解放されようと暴れる手の内の中の力を、両手を突き出して思いっきりぶちまける――。
凍結した壁の中でなおその存在を主張するメナの頁が、必死に震えその圧力に耐えようとした、けど……。
やがて――幾枚もの氷板が重なったまま割れたような、純粋で美しい音と共に。
壁は力を喪い弾け飛んだ。
「まさかっ……!」
道が開き――その向こうに仰天したメナの顔が見える。
「「行けっ!」」
ふたりの騎士に押し出される形で、虚無の囲いから這い出た私は一直線。
そのままの勢いでメナへと迫り。
「わあああぁぁぁぁっ!」
今度こそ、渾身の一撃を彼女に――ぶち当てた。




