48・負けてはならない戦い
――ぽたり……。
こめかみを汗が伝い、地面へと落ちた。
メナとの戦いが始まったものの……数十秒もの間、私はそこから動けないでいる。
「……ふふ、怖いのかい。シーリ……」
一方相手も、見下すように冷たく微笑んでこちらの出方を待つ。
よくよく考えれば、私は聖女として戦った経験がほとんどない。訓練以外で他の誰かと本格的に争ったのは、アンジェリカ、そしてヴィーナの時のたった二戦。
封印にも時間制限があるのはわかっている。それでも足が固まったように、踏み出せない。
「――はっ!」
そんな中、火蓋を切って落としたのは、不意打ちで隣のルイーゼ様が発した強力な水鉄砲。
いや……そんな表現も生温い、もはや激流。
だがそれを……メナは手持ちのハードカバーから抜いた黒ページで――。
半透明の障壁を生み出すと事もなく弾いてしまう。溢れた水が、後ろの階段室へと勢いよく流れ込んでいった。
「その程度? ルイーゼ……君は聖女としては至極優秀だったろうが、聖魔両方の力を手にした私らの間に割り入るには、いささか力不足だ。数年前にピークは過ぎ去り、少しずつ聖力も弱まってるんだろ? 引っ込んでいた方が苦い思いをしなくてすむよ?」
「一時は妹とまで思っていた子にそう言われるのは、辛いものがあるわね……。けれど、ティリシャ様が命を賭して王国を支えたように……例え衰えようが、強い意志で力を振り絞れば限界は越えられる。シーリが居てくれるなら、私は後先なんて考えなくていいのよ」
捨て石になることもためらわない……彼女のそんな信頼は私には嬉しくも重く。
そこを突くように、メナは薄く笑った。
「その頼みの聖女様は、うんともすんともいわないようだけどね。私はここで時が過ぎるのを待っていても一向に構わないけど……。せっかくだ、全てをやり直す前に少しこの力で遊んでおこうか」
メナが紫の表紙を開けば、頁は波打ちひとりでに空へと舞い出す。なのに中身は無尽蔵か尽きる気配は見せず、黒い翼を生やした蝙蝠となり代わり、弾丸のように襲来する。
「シーリ、後ろへ! ――ぁうっ!」
逡巡した私を庇い、ルイーゼ様は円盤のように回転させた水流でそれを待ち受ける。
ほとんどは周りへと受け流したが、いくつかの羽が突き抜け、彼女の白い腕を容赦なく切り裂いていいった。
「ルイーゼ様!」
「だい……じょうぶ。でもシーリ、やはり私の力では今のメナには敵わないの。お願い、戦って……! もう時間もない」
ルイーゼ様の深青の目がじっとこちらを覗き込む。
「やれるわね?」
「……はい!」
応えなければ……魔女帝の掛けてくれた封印のおかげでメナの目論見を止められている今が勝負なのだ。私は今度こそと、気合を入れてがくがくと震えていた膝を叩いた。
ついでに左右の手のひらずつにそれぞれ聖力、魔力を宿す。
「ルイーゼ様、ここからは、自分の身は自分で守れます」
「うん……。あの子を倒すため力を合わせましょう」
「準備はできたかい? ならば、さらに強くいくよ……!」
余興と割り切ったか楽し気に魔法を放つメナ。今度はデカいやつが来る――。
ばら撒かれたページは次々に集合し、混ざり合って生まれた一頭の巨大な黒いヤギが、禍々しい産声を上げた。
「ヴオォォォォォ――!」
(来た……!)
天井に付くほど長い捻じれ角が突き出され、たわめられた体躯が、宮殿を破壊しかねない勢いでこちらへと迫る――。
「真正面からは止めきれない!」
「……私に任せて!」
ルイーゼ様が奇跡を発動する前に、今度は私がと前に出る。
闇の魔力を籠めた右手の目標は地面……。足場にできた空間に半身を呑み込まれた黒ヤギの突進力は削げ、やつは苛立ちを叫ぶ。
「今です!」
「ええ!」
闇の沼に足を取られた黒ヤギを、ルイーゼ様が放った水の大槍が貫く。そこで私が聖力の剣で突き刺してトドメ。
悍ましい呻き声を上げながら、魔力でできた使い魔はぼろぼろと崩れ去った。
「やるね。さすが当代の筆頭聖女と、この世で唯一、聖魔の資格を兼ねし者」
拍手して余裕ぶるメナに構わず、私たちは間髪入れぬ攻撃に移っていた。
彼女がこちらを侮っている内に、最大の一撃を――。
「通って!」「はい!」
ルイーゼ様の経験が、こちらを自在にサポートしてくれる。
たった一瞬で彼女は目の前に渦潮の筒を生み出し、私はその流れに従い紙の板を足場にメナに迫る。
今度はこっちの番……!
「えぇ――い!」
「くっ……!」
渦潮は防御壁の役目も果たし、外側からの反撃を食い止めてくれた。
私はその間とにかく魔力と聖力を溜め込み、メナの軽く見開いた表情が確認できる至近距離まで近づくと、ぶっぱなす。なにこれ……聖力と魔力がお互いを吸引し、圧縮し合って……。
制御しきれなっ――!
「きゃぁぁぁぁぁっ!」
…………ッキュウ――――――ン‼
次の瞬間、音と視界が飛んだ。
反射的に力で身を守らなかったら、どうなっていたことか。
その凄まじい破壊力は、月映宮の建物ごと私を大きく薙ぎ払う。
「――まずっ!」
すごい風圧になんとか薄目で抵抗していると、アクション映画みたく、壁やら天井やらが小さな瓦礫に別れ、派手に崩壊していくのが見えた。
後方に魔女帝が飛ばされたのを見て私は慌ててその腕をキャッチ。聖力の羽でホバリング。
「……はぁ、はぁ」
土煙がもこもこと立って、歴史ある魔帝国の象徴の上層部が丸裸になった姿に、とんでもないことをしてしまったと青ざめた。
だが、それも束の間――。
「ふふ……ふ。やってくれる」
メナのくぐもった笑い声の後、巻き起こった風で砂煙が晴れる。
ひょっとしたら、さっきの攻撃で虚無の在処ごと吹っ飛んだんじゃないかと思ったけど……彼女は衣服が多少引き裂かれた程度で健在。ただし、本の頁は三分の一くらいが失われている。
「さすがだな、素晴らしい……。それだけの力だ、君が望めば大陸中の国を束ね、永劫語り継がれる千年国家を築くことすら可能かもね。どうだい?」
「……興味ないわ」
私はかろうじてそう答えることしかできない。あれだけの攻撃で追い詰められないなんて……。
城の上部を崩壊から守ったのだろう……。生き残った数枚のページを本に戻すと、メナはベセルをぽんと叩いた。封印の氷はもう後半分もない。
「これが破壊されたら、私の目的が潰えてしまうところだった。少し、遠くへ行ってもらうとするかな」
次の瞬間パッと黒いフラスコのようなそれはどこかに消え。
ルイーゼ様の隣に降り立った私は魔女帝を柱の陰に隠し、再びメナと対峙する。
「ルイーゼ様、もう一度……」
私はそう言おうとして、足元に蹲った彼女の様子に気付いた。
ルイーゼ様の聖力が……尽きかけてる?
「そこまで無理をすると、本当に死にかけないよ。ただでさえ、あの籠により君は力を毎日吸い取られ続けていたんだから」
「はぁ、はぁ……関係、ないわ」
彼女はすでに相当に疲弊している。あんな状態で、次の攻撃が本当に行えるの……?
そう思ったけれど、彼女は立ち上がるなりメナを睨みつける。
「わからないのよ……私がどこかで、ロバートを止めていればよかった? それとも、聖王国を敵に回してでも、彼とあなたを連れ出して、どこかに逃げていればよかったの? 私だって、全部元に戻せるものなら戻したいわよ! でも、それはきっと叶わない……形が真似できても、彼の心は……私とあなたを大切にしてくれたその想いまで、再現できるはずはないもの」
「……うるさいな」
ルイーゼ様の言葉はある種の核心をついたのか、メナの表情が大きく歪む。
だがそれは一瞬で、彼女は大きく手を広げた。
「だとしたら、私はそれすらも拾い集めて見せるよ。何度同じことを繰り返して、この世界から溢れ出るほどの魂を犠牲にしてでも。さあ、そろそろ終わりにしよう……。正直待ちきれないんだ……また兄さんと出会えるのが」
(ううっ……怖いよ。逃げ出したい……っ)
メナの魔力は、先程の衝突で大きく減らせたはずなのに……。
さっきまでよりもずっと気配が大きくなり、押し潰されてしまいそうだ。底知れない濁った聖力が彼女の身体から溢れ出し、床を這いずる蛇のように、こちらに近づいてくる。
だとしても――私たちがここで倒されたら、この世界はメナの都合のいいように、作り直されてしまう。ここに来るまでに出会った皆との出会いもなかったことにされて……それだけは、嫌だ!
「……メナ、あなたを倒す!」
ルイーゼ様が最後の力を振り絞り、後ろから先程と同規模の……いや、それを上回る渦潮が打ち出された。私はそれに乗ってメナに迫る。だけど……。
「芸がないね。同じやり方は悪手だよ!」
メナが今度は、ページから渦とは逆回転の黒い風を生み出した。それは一瞬拮抗したのち、どんどん水の勢いを散らし、押し返して……。
「そんな……きゃぁぁぁぁあっ!」
「ルイーゼ様っ‼」
突撃は途中で止まり、後ろにいたルイーゼ様の悲鳴が聞こえた。
「よそ見をしている余裕はないよ」
私は黒い風から身を守るのが精いっぱいで、メナが間近に迫っているのも気付けず……。
「――うあぁっ!」
さっきやったことと同じようなことをやり返される。多分濁った聖力を思い切り圧縮したものを、直接至近距離にて叩き込まれたのだ。
黒い風から身を守ろうとしていなかったら、意識まで落ちていたかも……。
背中から叩きつけられ、地面から身を起こすのがやっとで――。
「うそ……」
私は身体の痛みを忘れ、周りを見やる。ルイーゼ様の姿がない。まさか……。
「彼女は退場したよ。まあ、この高さから地面に落ちれば無事ではすむまい」
かつて、唯一の肉親を託そうとした人のはずだったのに。
あまりにも冷酷な態度を見過ごせず、私はメナをキッと睨んだ。
「こんなの……ここまでする必要があったの⁉」
「確かに、ルイーゼは私にとっても家族に近い存在だったさ。けれど……彼女は兄を愛していながら、私の試みに従おうとはしなかった。彼女は人としての正しさを選び、兄を救う道を捨てた。兄を想う気持ちが、私よりも弱かったんだ」
「違う……! ルイーゼ様は、残されたあなたを救おうとしたのよ! それこそが、お兄さんが望んだことだからじゃないの!」
「違わないよ」
ダメだ……私なんかじゃ。
ここに、ルイーゼ様がいてくれたら、彼女に想いの丈をぶつけてくれただろう。でも、彼女はもういない……。
本当の家族もいない、恋すらしたことのない、平和な世界で生きて来ただけの未熟な自分じゃ……メナの心を、動かすことはできない。
それどころか、もう勝利のイメージすら湧いてこない。こうしている間も、身体が震えて……。
「何を言おうと、この敗北が全ての証だ。君には、私もルイーゼの気持ちも分からないだろ、だから負けた。君がもしそういう体験をしていたなら……。いや、これは言っても詮なきことだな」
「う、わぁぁぁぁぁっ!」
彼女の嘲笑を認めたくなく……その意地だけで私は立ち上がり、闇の剣で打ちかかる。乱れた心では、聖力はもう扱えなかったから。
でもそれすら……メナのハードカバーに容易く叩き折られて。
「――ぁ」
「終わりだね」
そのままの勢いで本の角が、剣を振り下ろしざまの背中に叩き込まれ、私は地面に沈む。
力が……入らない。夢も希望も砕け散り、もはやからっぽ。
「……虚しいものだ。私は別に君たちを虐めたいわけじゃなかったしね。でも、そんなのは勝者の都合のいい同情に過ぎない。せめて、そこでうずくまって見ているといい。そろそろ封印も解ける頃合いだ」
勝負はついたとばかりに、メナは虚無の在処を亜空間からここへ呼び戻す。桂冠の投入口にできていた氷塊がばきばきと崩れ、剥がれ落ちてゆく。
そうして――メナはそっとそれに手を触れ、愛しそうに呟いた。
「さあ……世界を変えておくれ」
「ダ、ダメ……」
悔し涙が滲み、頬からこぼれ落ち――。
呻く私の腕の先で……球体の中の闇が蠢くと。
――どくん。
大きく、世界が脈打った気がした。




