40・合わさる真実①
わ・あ・あ・あ・あ――――。
「シーリ!」
駆け出した。脇目もふらず。
間に挟むテーブルや椅子になどぶち当たるのも気にせず、一直線に――。
喉から迸ったその叫びは……いったい、どちらのものだったのか。
気付けば、私はあの時と同じ黒い聖力を纏い、短い刃をその手に生み出していた。
――肖像が迫る。
壊れそうなくらい強く握り締めた腕を、私はあの時アンジェリカにしたのよりもっと激しく。
――振り下ろす。
「やめろ」
ドッ……と鈍い感触がして……刃は埋まった。
キャンバスを裂くのではなく、ラエルさんの肩口へと。
お母さんの肖像の髪の上に、朱い血の跡が飛んだ。
「『邪魔しないで! この人のせいで、私とお父さんは――!』」
今や内にある存在と、私は、完全にこの身体を共有していた。
なおも刃を振りかざそうとして、血塗れの刃を持つその腕が凍結する。
「やはり、あの子と同じ力を使うのだな……」
「陛下、いいのです」
魔女帝がこちらに指を向けていた。
だが、ラエルさんはそれを視線で制止すると、あくまで穏やかに……。
私の肩を押しとどめたまま何度も語り掛けた。
「落ち着いてくれ……俺たちは敵ではない。複雑な事情があったんだ。それを今から説明させて欲しい。あの時……本当のことを言えなくて、済まなかった」
そして彼は、血塗れの肩もそのままに、私を大きな身体でそっと包み込む。
「シーリ。間違いなく、俺が君の兄だ。君は、ここで生まれた……俺たち、ホルドキア家の一族として」
魔女帝が肖像に近づき、そっとハンカチで拭う。
その瞳も、ラエルさんとどこか同じ悲しみを映していて――。
「『うう……うあぁぁぁぁあ……』」
涙が、溢れ出てくる。やっぱり、この人たちは……私の。
「『ごめんなさい、ごめんなさいっ……!』」
何度も謝罪を繰り返しながら、私は初めて出会えた肉親の温かさに守られ、立っていられなくなった。
ずっと、親も生まれた国も分からなかった私のふるさと。
その空気を胸いっぱいに吸い込みながら……まるで赤子に戻ったかのように身体を丸め、ただただ泣く――。
◇
「本当に、すみませんでした……。こんな怪我をさせて」
「構わない。君が受けた苦しみは、このくらいで贖えるものではないのだろうから」
お屋敷の医務室から医療道具を借り、今、私は彼の肩に包帯を巻いている。
幸いなことにそれほど深くはなく。筋肉の鎧もそうだが、彼の内にある魔力があの刃を押しとどめたのだろう。
「数日もすれば治るだろう。ありがとう……よい手当だった」
「聖女会で勉強したことが役に立ちました」
ぐるぐると肩を回す彼に、私は力なく微笑む。
今は、元の状態に戻っていて、私の中で眠っていた本物のシーリは引っ込んでいる。
だが、胸がちくちくとした感覚で疼くのは、彼女が早く話を聞かせろとせっついているんだろうな。
「……これを、その髪飾りの石と合わせてみてくれ」
半裸だったラエルさんは、シャツを着直した後、胸元に下げていた首飾りを渡してくる。
私は震える手でそれを受け取り……。
そして吊り下げられた半欠けの黒石は、こちらが所持していた髪留めと……ぴったり合った。
「ああ……」
両手でそれを包み込み、ぎゅっと抱き締める。間違いなく、これらはひとつのものだったんだ……。
「母が、父が国を出る時に渡したものだ。まさか、再び完全な形に戻ることがあるとはな」
ラエルさんは、“夜闇の月”を握り込む私の手を上から両の手のひらで包んだ後、心の内を晒す。
「この時を、どこかで恐れていた。だが……今は君に本当のことを伝えられてよかったと思っている。ありがとう、シーリ。ちゃんと真っ直ぐに育ち、俺たちに会いに来てくれて。お前を探しにも行けずにいたこの不甲斐ない兄を、許してくれ……」
「ラエル……兄さん」
本心からこちらを案じていた気持ちが伝わり、私はただ両眼をぎゅっと瞑るしかなかった。油断すると、また涙が零れてしまいそうだ。
しばらく再会の余韻を味わった後、ラエルさんは目頭をぎゅっと摘まみ、うっすらと赤くした目で黙って私たちの様子を見守っていた魔女帝に仰ぐ。
「陛下……あの場所へシーリを連れて行っていただけませんか」
すると表情を凍らせたままでいた魔女帝は、ほうと息を吐き出し、くるりと背を向ける。
「案内しよう、ついてくるがいい……」
◇
魔女帝は、ホルドキア領に佇むこの広いお屋敷を熟知しているようで、迷いなく前を進んでいく。
ラエルさんは黙ってそれに続き、私もその隣をゆっくりと歩いていった。
その間、魔女帝はぽつぽつとこの国で起きたある出来事について……記憶を辿るように場所場所で言葉をこぼしてゆく。
「魔女帝は世襲制ではない」
朝食事をした食堂。
「幾年かの周期ごとに、最も魔法の才があると認められし人物がその座に就くことになる」
絵画や音楽を嗜む娯楽室。
「その選抜を我らは、帝国選家という選ばれし貴族の家柄から行う」
お針子小屋。
「このホルドキア家も、帝国選家のひとつだ。そして、余もこの地で生まれた」
談話室。
「今から四十年近くも前のことになろうか。幼き頃は将来、自分がこのような地位に就くことなど、思いもせずに育ったものだ――」
倉庫、陽あたりのいい東屋が行き過ぎ――。
帝国式の造りであるそれらは、本来私が初めて見たもののはずなのだが……不思議と。
「帝位継承が決まった時、余は姓をドナムーンと改めた。だが元は、ホルドキアのヴァシリーサであったのよ」
敷地内を巡るうちに少しずつ、その風景は見慣れたもののように感じて来て、混乱してくる。
「無論、余がそなたを産み落としたわけではない。とはいえ……お前の母親とは無関係でもないのだ。そのラエルとも血の繋がりがある。甥という形でな」
――そこで、ありもしないはずの感覚が、頭に過ぎった。
かつて私は……この場所を、誰かの腕に抱かれて周ったことが、ある?
「余には妹がいた……名は、クラリス。私などとは違い、笑うと可愛げのある、おおらかな娘であった。そう、そなたと同じ白髪の……」
魔女帝は、ちらとこちらを見てさらに足を進めた。
建物の外へはしばらく石畳が続いており、美しい庭園へと繋がる。
小さな噴水が、ちゃぽちゃぽと涼やかな音で耳を冷やす。
立ち並ぶガーデンアーチを囲むように、色とりどりの花が今も咲き誇る、素敵なお庭だ。
「美しかろう。これらは、クラリスが手塩にかけて育てた花々。あの娘は身体が弱くてな、あまり遠くに出掛けられず土いじりをよく好んだ。多くがそれを見守り、競うように声をかけた。誰彼構わず好かれる心の綺麗な、そんな娘であった……」
魔女帝は、アーチを伝う白い薔薇に手を添え、そっと目を閉じる。さらに何重にもそれらは続いており、私たちはゆっくりと奥へ。
「クラリスは……強い魔法の才を持ってもいた。魔帝国に伝わる魔法は多くが同じ形を持たず、それぞれ異なるものを宿す。妹が授かりしは、この国でもとりわけ希な“闇”を司りし魔法――」
その話に、ごくり……と私は喉を動かす。心当たりはあった。
アンジェリカの、強力な攻撃を打ち消したあの――内なるシーリの声が語り掛けた時広がった、黒いカーテンの正体が、それなのだとしたら。
「妹に負けじと余も研鑽を積み……ホルドキア家の姉妹の名はいつしか帝国に轟いておった。それでも、余は妹に魔法で勝る自信を抱けず、数ある試技でそれは明らかだった」
魔女帝の指がアーチに絡みついた茨の棘に絡み――。
「だが……先代の命により無理を押して帝の候補者の選抜試験に出た際にも……妹は決して本気を出さなかった。それは余への配慮であったか、身体の限界か……今となっては知りとうても知れぬ」
ぽきりと折った。指先に軽く血が滲むが、あわてて駆け寄るラエル兄さんを押しとどめ、血を舌で舐め取る。
「クラリスの患った病は、魔法でも、いかな秘薬でも治しようがなかった。次の帝への候補者が余を含めた五人へと絞られた時、そこにクラリスの名前がないことを複雑に感じたものよ。最もふさわしき者の手から栄誉がこぼれ落ち、やがてそのおこぼれを姉が掴むことになるとは……なんたる運命の悪戯か」
やがてアーチを潜り切った場所に待っていたのは、小さな花が絨毯のように咲き誇る花畑だった。
魔女帝は花を避けるようにしてその中央に近づくと、座り込む。
「あれは辛そうな顔は中々見せてくれなんだな。余を見かけるたびに、駆け寄っては頬を掴み強引に笑わせようとしたものだ。その朗らかさが余には眩しく、時には腹立たしく、嬉しくもあった」
妹に可愛がられては姉の面目も立たぬと、魔女帝は苦笑する。私たちも近くに寄り、腰を下ろした。草花のシートが、身体を優しく支えてくれる。
「あの娘を見初める者はまこと多く、そして……いつしか当たり前のようにある男と愛を育んだ。このラエル、そしてシーリ……お前の父親となった男の名は、フレドといった」
「フレド……父さん」
私はその名を口内で幾度か転がす。
「フレドは……魔法こそ使えぬものの、ホルドキア領随一の剣の使い手。我らが父、先のホルドキア領主に目をかけられ、領騎士団の長を務めるようになると、次第に屋敷に出入りする内にクラリスと恋仲になっていった。フレドのことを話す時のあやつの顔は、他の心まで和ませるような幸せに満ちておった。そして……天は急ぐように、ふたりにラエルをお授けになったのだ」
魔女帝は、花畑をぬくめる陽の光を眩しそうに見上げた。その瞳に映るのは、過去への憧憬か。戻れるものなら……そんな彼女の苦しみが、映し出されているような気がする。
「魔女帝になった余は、大きく安堵した。余人が羨む栄誉を手にし、妹もまた最愛の夫と子を授かり、体調も安定している。当家にひとたび訪れし栄華。このまま何もかもがうまくいけば……いや、余の手で必ず、この幸福を維持するのだと心に堅く誓う日々。しかしどこかで……あの時は常に、それが崩れゆく恐怖を抱えていたようにも思う」
陽だまりが、少し冷えた。大きな雲の陰に入ったのだ。魔女帝の長い睫毛が瞳にそっと被さる。
「そして数年。ラエルが健やかに育ち、人の顔を見分けるようになった頃……再びクラリスは子を産んだ。もちろん余を含む、ホルドキアの者たちはそれを歓迎し、連日屋敷では宴が催されるほど喜んだ。だがその時、妹の顔にはどこか陰りがあった。予感していたのかもしれぬ。この先に起きる悲劇を――」




