30・大きな賭け
王妃の封印が解かれた世界書は、今や、不規則な明滅を繰り返していた。
螺旋状の背表紙に階段状に並んだ全てのページが、夥しい量の黒ずみで覆われ……それらはじわりじわりと拡大していく。
「誰か……王国側に戒厳令の要請を。世界中に魔物が大量発生する恐れがあると」
「ハイ」
丁度マール様が王宮にいるはずだと伝えると、ルイーゼ様が指示してひとりの聖女が部屋から飛び出していく。
そこで私は、この間の討伐業務研修で起こった体験を皆に共有した。
「――あの時は、空に開いた出入り口をポピアと協力して塞ぐことができました。でも……今から各地に向かいそれを行うのは現実的じゃありません」
魔物の出現を表す、祭壇上の世界書に浮かんだ黒ずみの数を見ると……大聖殿に今いる聖女を総動員しても、到底魔物たちの被害は防ぎきれないものとなるだろう。
「一番確実なのは、国内外の住民に住んでいる地域を放棄させ、数カ所にまとめることだろうな。他国にも早めに伝令を送った方がいい。村落に大きな被害は出るだろうが、今は生き残ることを優先しなければ」
アルベール様が建設的な意見を述べたが、皆、誰もはっきりと同意できない。
王都以外に家族や知り合いがいる人もいるのだ。今まさに、その周囲に魔物が出現しかけているかもしれないのだから。
私もリオンたちのことが心配になる……シスター・ラミニはまあ、なんだかんだで生き残っていそうだけれど。
張り詰めた状況の中、私は汗の滲んだ手をぐっと握る。
……私はこれから、恐ろしい提案をしないといけない。
もはや、この事態をなんとかするには……世界書をどうにかするしかないんだと思う。
でも……それは下手をすると、この聖王国をとんでもない危機へと突き落としてしまいかねない行為で――。
そこで寝台に横たわる王妃様が擦れた声を上げてくれた。
「ルイーゼ、あなたたちに世界書に干渉する許可を与えます。どのみち、この事態をどうにかできないのなら、聖王国に未来はない」
「それしか……ありませんね」
聖女会の中心的存在であるこのふたりの考えも、また私と同じのようで。
その場に居合わせた面々がごくりと唾を飲む中、王妃は意を決したように顔を上げ、皆に語り掛けた。
「これまで……世界に悪影響を及ぼすことを恐れ、聖王国は世界書への干渉を、限られた人間だけに絞ってきました。ですが、決まりを守るために多くの犠牲を払うことは無意味。多少の危険を冒してでも、今は動く時です」
彼女の視線が私へと向く。
「確か……シーリといったわね? あなたが……息子たちに再び互いを認めさせてくれた。本当にありがとう。私にとっては奇跡に等しい出来事だわ」
「い、いえ……」
なぜ今? ――そんな風に恐縮する私を前に、王妃様はひとつの真実を語り始める。
それは、私たちにとって到底受け入れがたいもので……。
「実は、この世界書……いえ、世界そのものがひとりの聖女によって作られたものだと言ったら、あなたたちは信じられる?」
「「「…………」」」
沈黙が一同の口を縫い合わせる中、王妃様の表情はピクリとも笑わない。
世界を作る……そんな神様みたいなことを、まさか人が?
「今は詳しく語るのはよしましょう。私が言いたいのは、信じようとしなければ、なにもできないということ。だから……あなたたちも、奇跡を……自分の力を、信じて――」
「母上!」
ごほっ、と強い咳をした王妃様の身体がかしぎ、殿下がそれを支えた。これ以上無理をさせると本当に命に係わる。
彼女は右の親指から指輪を外すと、息も絶え絶えの様子でルイーゼ様に預けた。
「これを祭壇に近づければ、世界書に触れられるようになるわ。ごめんなさい、後のことはお願いね……あなたたち」
それきり、王妃様は意識を失ってしまう。
ルイーゼ様は重い責任と共に受け取った指輪を嵌め、神妙な面持ちで世界書の乗る祭壇に翳した。
するとその表面に光の線が素早く走り、目の前の世界書の存在感が増していく。
「別の障壁でも守られていたようね……。さあ、触れてみて」
「え、でも……」
ルイーゼ様は振り返ると私に告げた。
これがどういうものか今いちはっきりと理解できていない私は二の足を踏む。だが……。
「王妃様は、聖女であれば……触れればわかるとおっしゃったわ。もしかしてあなたならばそれ以上のことも……さあ、一緒に」
「はい」
託されたんだ、勇気を出さなきゃ――。
私は息を吸い込んで一歩踏み出すと、目の前のいびつな書物に、指で触れた。
(これは……)
すると、頭の中に流れ込んでくる。
この本がどのようにして作られたのか、その断片的な記憶が――……。
◇
――紙を引っかく音、頁をめくる音、紙を引っかく音……。
そこでは、それらだけが交互に延々と続いていて。
ひとりの少女が黙々と、開かれた一冊の本を前に回想を働かせている。
緑豊かな大地に延々と広がる空、深い海や山々……そしてそこに暮らす多種多様な生命。
自分が見聞きした、ありとあらゆるものの存在を書き連ね――彼女はそれらをある程度を書物にまとめると、次の場所へ旅立つ。
時には馬で、時には空を飛んで……国々を回りながらそんな日々を続け、何日も何日もかけて、彼女は本の中に世界そのものを保存していった。
やがて、数え切れないほどの日数が刻まれ……それが完成した頃。
いつしか少女は老女になり、世界は、大きく壊れかけていた。
度重なる天災は大地を打ち砕き、多くの街が海へと沈んだ。
そこに暮らしていた人々も……生活環境の激変に耐え切れず、生き残れたのはほんのわずか。
少女だった老女の――最初の聖女の長い旅と命は、それを回避するために捧げられたものだったのだ。
そして、聖女は滅びが大地を覆い尽くす前に、奇跡をもってすべて写し取ったその中に人々を呼び込んだ。自らの存在をもそこへ組み入れ、人生を賭けて作り上げた本を補強して――。
「それが……原初の聖女。そういうことだったのね……。でもそれだけじゃ――」
隣に立つルイーゼ様の声が聞こえた。私の意識もいつの間にか現実に戻っていたようだ。
でも……彼女の言う通り、この情報だけでは世界書を修復するには程遠い。同じことをしようにも、世界と人々に対する狂的な想いと、膨大な時間がなければ……。それでも――。
(もっともっと……この本のことを理解しないと! 教えて、もう一度……!)
私は、さらに深くこの本と繋がるため、両の掌をページの上に押し当て必死に祈る。
国宝どころか、世界遺産級の貴重なものなんだろうけど……気にしてられない。
私が紙の聖女としてこの聖都に連れてこられた意味は、きっとここにある――そう信じ、意識を世界書にだけに集中させた。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・・…
……――しばらくして。
『驚いたわね。これほどこの世界の深くに入って来れたのは、あなたが始めてよ』
『あなたは――』
私は真っ白な床、いや……広大な一枚の本のページの上で。
丸いテーブル席にてお茶を飲む、チェーン付き眼鏡をかけた老女と向き合っていた。
彼女は言う。
『この世界も、もう少しで消えちゃうのね。私だけの力じゃなく……多くの似た力を持つ子たちが、その人生を捧げてくれたおかげでずいぶんと保ったのだけれど……。本当に、残念なことだわ』
『それじゃ……この世界を治す方法は、もうないんですか?』
老女は、すべてを受け入れるような静かな目で頷いた。
『ええ。どんなものにも、始まりと終わりがあることだけは避けられないもの。ましてや、こんなおばあちゃんが作った一冊の本が、何百年もとても多くの人々の生活を支え続けたのよ。それだけでもう、奇跡のようなものじゃないかしら?』
『……それは。……そうかもしれませんけど』
老女の表情はあまり悲しそうには見えなかったが、私の思いを汲み取ってはくれたようだ。しばらく柔らかい表情でじっと見つめた後、ひとつだけ助言をくれる。
『それでも、もう少しくらいは滅ぶまでの時間を引き延ばすことはできるかもね。あなたたちの、この世界の存続を望む多くの人たちの、想いがあれば』
『えっ、本当ですか⁉』
『当たり前でしょう。私みたいなひとりのおばあちゃんが作った場所よ。たくさんの人たちが力を合わせれば、どうとでもなるわ』
老女は茶目っ気たっぷりにウインクして言うと、今この世界に起きている問題を教えてくれた。
『世界にひびが入り、あなたたちの言う魔物やらが現れたのは……長い時が経って、この世界に刻まれたいくつもの情報が薄れたから。本に虫食いが出来たそのせいで、この世界を構成する器の部分。これがどんどん薄く、弱くなってしまったのね』
『なるほど……』
チンとお茶の入ったカップを鳴らし、彼女は言う。
世界は、内側となる部分を包む膜があるおかげで安定して存在できる。それが正常に保たれていないと、外側から虚無が流入し、全てを無かったことにしてしまうのだとか。
『だったら、どうすればいいかもうわかるんじゃないかしらね?』
『失われた情報を、私たちで補填する?』
『グッド。御明察よ』
問いかけにそう答えると、老女は指を立ててウインクし、私の思い付きを肯定してくれた。話を続けようとしたが、そこで口を止める。
『……ふふ、ただの入れ物になった私がこれ以上口出しするのも野暮だわね。さあ、そろそろ戻りなさい……手遅れになる前に』
『で、でも……』
もう少しだけ話をしていたい。
そんな風に思ったのは、なんとなく彼女と話せるのが、これで最後のような気がしたから。
だけど、いつまでもここにいられないのも確かなのだ。
せめて――。
『あの……私、シーリって言うんです。せっかく知り合えたんだし、原初の聖女様……あなたのお名前を教えてくれませんか?』
『原初の……? なぁにそれ!』
すると老女は楽しそうにカラカラと笑った。
『私ってば、今はそんなご大層な名前で呼ばれているのね……! おっかしいったら。ちょっぴり不思議な力があった、ただの女の子でしかなかったのに』
それから彼女はにこりと微笑んで教えてくれた。
『私の名は、ルシエというの。それじゃあ頑張って、シーリちゃん……あなたたちが今よりもっと素敵な世界を作り出して、それが出来るだけ長く続くことを祈ってるわ』
彼女の姿が、眩しい朝陽に掻き消されるようにして薄れ始める。
私は約束した。
『必ず。私、戻ったらルシエさんのことをたくさんの人に伝えますから! 今まで、ありがとう!』
『ふふ、こちらこそありがとう。これで、寂しくしないで済むわ――』
最後までルシエさんは、どこか懐かしいような微笑みを浮かべていて――。
…・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「――シーリ! シーリ、大丈夫?」
「――っは! はい、大丈夫です」
どうやら、ルイーゼ様より少しばかり長く世界書に触れることになっていたらしい。
『頑張って――』そう言われたことでなんだか勇気がどんどん湧いてくる気がする。私は先程起こったことをルイーゼ様達に共有した。
「少しの時間、本を作った聖女様……ルシエさんと話せました」
「その名……! 本当のことなのね。彼女はなんと?」
「長くの時が経ち、この本の情報が薄れたことで、本に虫食いが出来てきたのだと……。だからおそらく、失われた情報を私たちで補填してあげればいいんだと思います。なるだけ多くの人たちで」
今は、この本が修復しても長くは持たないことは言わない。ルイーゼ様は大きく頷いた。
「わかった。今すぐにこの大聖堂にいるすべての聖女――いえ、聖女会の全聖女を搔き集めるわ。皆、やり方は任せる。力を貸して」
「「ハイ!」」
王妃様の治療のために部屋に残っていた聖女たちも、自らの意志で各地に散らばる聖女達を連れ戻そうと、外に消えていく。
さあ、私たちの仕事はここからだ。
「どうすればいいかしら? シーリ」
ルイーゼ様の信頼の籠った目に応えようと、私は自信を持って自分の考えを伝えた。
「この世界のことを想像して、心の限り祈ればいいんだと思います。自らに眠る奇跡を呼び起こした、あの時のように」
私たちが持つ、不思議な力――奇跡。その力も、そしてこの本による世界も……強いイメージによって形作られたもの。ならば、きっと治せる。
「わかったわ。やってみましょう。私たちの……いえ、この世界を今まで繋げてくれたひとたちと、この先を生きる皆のために」
「ええ――!」
◇
……それから私たちは、その場に膝まづき無心になって祈り続けた。
だけど不思議と辛くはなかった。目で見なくとも、この部屋が――そして、その外までもがたくさんの人の気配で満ちるのを……皆のこの世界を愛する気持ちが伝わってきたから。
なんだか、ずっと。大きくて温かいものに包まれているような……そんな気持ちでいて。
――――――――――…………シ……………。
―――………リ。
――シーリ。
「「――シーリ、シーリ!」」
名前を呼ぶ声が、する。
私はうっすらと目を開ける。ずいぶん長く瞼を閉じていたせいか……それは中々、周りの光景を移しださない。
明るいことだけが分かって……。
「ふう……起きてくれたか。本当に、心配させてくれるな」
「もう目覚めないかと思ったぞ、バカ者! 三日もずっと動かないで! 水くらい飲め、どうなってしまうかと思ったぞ……!」
「はあ……どうも」
最初に見えたのは、背中を抱き抱え、優しく微笑むアルベール様の姿。
そして、横合いからぶつかるようにデュリス殿下が抱きついてくる。
「あっ……そうだ!」
朧げになっていた記憶を必死に探り、今自分が何をしていたのかをやっと思い出す。
――世界書は⁉ どうなったの!
「シーリ……ありがとう。もう大丈夫」
横合いからすっと白い手が伸ばされた。ルイーゼ様だ……彼女は涙ぐんでいる。
長い時間座っていたせいでふらつく体をなんとか維持すると、私は腰を上げた。
すると……周りから。
「「ありがとう、聖女シーリ!」」
大きな拍手が一斉に響き……目覚めた私を迎えてくれる。
きょとんとしながらも、人垣の奥にあった世界書を見つめた。すると――。
そこからは数え切れないほどにあった夥しい黒ずみが取り除かれ、生まれ直したかのような輝きを取り戻していた。
その事実を頭が認識するまで十秒。そして、言葉が発されるまで五秒。
「よ…………かったぁ」
そんな一言を出すのが精いっぱいだった私は、その場にどすんと倒れ込んだ。
その背中から――。
「やったね! さすがは我が大親友!」
ポピアが太陽のような明るい笑顔で抱きついて来る。
アルベール様が苦笑しながら私を立ち上がらせ、改まった表情で深く頭を下げてくれた。
「王妃様。いや……母上も無事命を取り留めたよ。すごい速さで回復していて、一月もあれば元通り起き上がれるようになる、と――」
そこで彼が言葉を詰まらせ、代わりにデュリス殿下が後を継ぐ。
「ちぇっ……失敗したら一生お前を召使いとして扱き使ってやるところだったんだがな。ちと残念――でっ!」
私は目を丸くする。そんな殿下の照れ隠しのような言葉に、アルベール様の拳が落ちたからだ。
「感謝くらいちゃんと伝えなさい、デュリス」
「な、なんだと⁉ 貴様――オレは、次期国王だぞ!」
「でも、弟だからな。もう遠慮しない」
「ぐ……」
はっきりとそう宣言され鼻白む殿下。その後も口喧嘩は続く。
そんな姿と、皆の笑顔を前に……やっと勝利の実感が湧き上がった私は、両手を突き上げてカラカラの声で叫んだ。
「い――やったぁぁぁぁああ!」
――わっ、と皆もそれに合わせ、喜びの歓声を上げてくれる。
(ルシエさん……あなたの世界の続き、皆と一緒に作っていきます)
窓から見える空は、いつも通り青く澄み、のんびりと白い雲が流れている。
どうやら、この世界はもう少しだけ、私たちを見守ってくれるみたいだ――。




