【第二巻】 第十五章「灰色の正義」
翌朝。
分隊室に朝日が差し込む前に、凛は目を覚ました。
作戦テーブルの上に広げたままの地図。ペンが転がっている。──昨夜、鋼町エリアから戻ったのは午前一時過ぎだった。紫苑を暁嶺の医務室で応急処置した後、千歳と瑠衣を先に寝かせ、凛は一人で証拠データの整理を行った。
データ端末に入っている情報。製造記録。混載指示書。出荷伝票。クロウテック社の社内承認印が押された書類のスキャンデータ。──どれも決定的だった。
それに加えて、凛のポケットの中に実弾のサンプルが一発。蒼風側から凪沙が確保した四十三発の物証。二つの方向からの証拠が揃っている。
凛はデータ端末を手に取り、画面を確認した。コピーは完全。破損なし。
──これを、統括事務局に提出する。
暁嶺学院、蒼風高等学校、聖樹館女学院の三校連名による共同告発。凛が提案し、紫苑が合意し、凪沙が協力した形。
だが──その前に、やることがある。
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医務室。
紫苑はベッドの上に座っていた。左腕は肩から吊るされ、白い包帯が厚く巻かれている。ジャケットは脱いでおり、白いブラウスの左肩が切り開かれた状態で包帯が露出していた。
顔色は悪くなかった。──紫苑は顔色が悪くても表情に出さない人間だが、目の光は落ちていなかった。右手でデータ端末を操作している。
「起きてたか」
「眠れると思う?」
紫苑が凛を見た。紫色の瞳。冷たいが、昨夜よりわずかに柔らかい。──痛みのせいか、疲労のせいか。あるいは、そのどちらでもないのか。
「腕は」
「動かせない。神経には触れていないから、一週間もすれば使えるようになるわ。──聖樹館に戻ったら、もう少しまともな治療を受ける」
「戻れるのか」
「証拠が公になれば──聖樹館の上層部も私を切れなくなる。三校連名の告発は、私にとっての保険でもあるわ。あなたの判断は正しかった」
凛は医務室の椅子に座った。
「これから統括事務局に証拠を提出する。──だがその前に、黒羽への対応が必要だ」
「黒羽は昨夜の侵入を把握している。──今朝にも、暁嶺に抗議が来るはずよ」
「ああ。だから──先手を打つ」
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午前九時。暁嶺学院風紀部隊本部棟。
凛が作戦テーブルで証拠の最終確認をしていると、通信班から連絡が入った。
『第三分隊長・御崎凛に通達。鳴神区学園間統一通信チャンネルにて、黒羽工科学園風紀部隊から正式な抗議通信が入っています。対応を求めます』
予想通りだった。
凛はインカムに手を当てた。
「繋いでくれ」
ノイズの後、統一通信チャンネルが開いた。──そこに、知らない声が響いた。
『──暁嶺学院風紀部隊・第三分隊長、御崎凛。こちらは黒羽工科学園風紀部隊・副隊長、鉄谷要。昨夜二十二時頃、鋼町エリア内の物流施設に対する不法侵入を確認した。暁嶺学院の関与が疑われる。即座に説明を求める』
鉄谷要。黒羽工科学園の副隊長。──隊長ではなく副隊長が出てきている。それは何を意味するか。
「こちら暁嶺学院第三分隊長・御崎凛。鉄谷副隊長、通信に感謝する」
凛は一拍置いた。
「昨夜、暁嶺学院風紀部隊は鋼町エリアに入った。それは事実だ。──だが、不法侵入ではない。鳴神区学園間統一規約第七条に基づく証拠保全活動として実施した」
『第七条──「学園の安全と秩序に重大な脅威が確認された場合、緊急措置として他管轄区域への立ち入りを認める」。……そう来るか』
「証拠がある」凛が言った。「鋼町エリア内のクロウテック社物流倉庫に、制圧弾に偽装した実弾の在庫と、蒼風高等学校への実弾混入指示書が保管されていた。この実弾混入により、裁定戦中に暁嶺学院第三分隊の久瀬楓が死亡した。──黒羽工科学園の管轄区域内で、学生の生命を脅かす違法行為が行われていたことになる」
通信の向こうが沈黙した。五秒。十秒。
『……クロウテック社の倉庫は、黒羽工科学園の管轄区域内にあるが、黒羽の管理下にはない。我々は倉庫の中身を把握していなかった』
「それが事実なら、黒羽は被害者でもある。管轄区域内で外部企業に違法な武器操作をされていたわけだからな」
沈黙。
『──御崎。我々は昨夜、お前たちを撃った』
「知っている」
『お前たちが侵入者だと判断した。管轄区域への無断侵入に対する正当な警備行動だった。──だが』
鉄谷の声が、わずかに変わった。硬い声。──怒りではない。苦みだった。
『もし──お前の言うことが事実なら。クロウテック社が黒羽の管轄区域を利用して違法行為をしていたなら。──俺たちは、それを見逃していたことになる』
「見逃していたのではなく、知らされていなかった」凛が言った。「黒羽の風紀部隊がクロウテック社の倉庫の中身を検査する義務は、規約上ない。──だが、ドローンの監視システムと電子戦装備がクロウテック社の技術提供で構築されていたのなら、黒羽は知らないうちにクロウテックの隠れ蓑にされていた可能性がある」
『……』
「鉄谷副隊長。私は黒羽に責任を問いに来たんじゃない。──証拠を統括事務局に提出する。暁嶺と蒼風と聖樹館の三校連名で、クロウテック社の不正を告発する。その際に──黒羽が協力してくれるなら、黒羽を被告発者ではなく協力者として扱える」
長い沈黙。
『──隊長と話す必要がある。三十分後にもう一度繋ぐ』
「了解だ」
通信が切れた。
凛はインカムを外し、息を吐いた。
千歳が作戦テーブルの向かいから凛を見ていた。
「凛ちゃん、今の──すごかったよ」
「何が」
「氷室さんみたいだった」
凛は一瞬、手を止めた。──氷室みたいだった。それは褒め言葉なのか。凛にはわからなかった。
「……氷室から学んだことを使っただけだ」
千歳が小さく笑った。いつもの、柔らかい笑み。
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三十分後。黒羽から返答が来た。
黒羽工科学園風紀部隊隊長・鉄谷要の上官──隊長の名前は出なかった。副隊長の鉄谷が全権委任を受けた形で、以下を通達してきた。
一、黒羽工科学園はクロウテック社の物流倉庫の内容物を把握していなかった。管理責任は認めるが、意図的な関与は否定する。
二、倉庫の査察を即座に実施し、結果を統括事務局に報告する。
三、暁嶺の告発には中立の立場をとるが、黒羽側の管轄区域内の証拠保全には協力する。
実質的な──協力。
凛は通達を受領し、統括事務局への告発書の作成に入った。
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午後。統括事務局への告発書提出。
告発の主体は三校。暁嶺学院風紀部隊第三分隊長・御崎凛。蒼風高等学校風紀部隊隊長・神代凪沙。聖樹館女学院白薔薇情報部隊隊長・白百合紫苑。
添付証拠。クロウテック社の製造記録・混載指示書・出荷伝票。蒼風高等学校が弾薬庫から摘出した実弾四十三発(物証)。暁嶺学院が倉庫から回収した実弾サンプル(物証)。聖樹館情報部隊が追跡したロットナンバーの照合データ。
告発の内容。クロウテック社が蒼風高等学校に供給した制圧弾五千発のうち、百発から二百発を実弾に差し替え、蒼風の生徒が知らないまま実弾を使用させられる状況を作出。さらに裁定戦中、クロウテック社が外部から派遣した狙撃手により暁嶺学院第三分隊員・久瀬楓が射殺された。実弾混入による事故の責任を蒼風に転嫁する構造を意図的に構築するとともに、自社の人員を戦場に介入させ、学生の生命を直接奪う行為に及んだ。
統括事務局は告発を受理した。
──動き出した。
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その日の夕方。凛は分隊室で報告書を書いていた。
インカムが鳴った。──瑠衣からだった。
『凛。凪沙から連絡があった。──蒼風の分隊室に来てほしいって。あたしだけじゃなくて、お前も』
「私も?」
『ああ。──話があるんだと』
凛は一瞬考えた。蒼風のエリアに入るリスク。だが──告発は既に提出されている。今更、蒼風と暁嶺が争う理由はない。
「わかった。行く」
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蒼風高等学校。旧市街エリア。
凛と瑠衣は、二人で蒼風のエリアに入った。
旧市街は相変わらず荒れていた。ひび割れたアスファルト。錆びたシャッター。電柱に巻かれた有刺鉄線。──だが、前回凛が来た時と違っていたのは、バリケードの上に立つ蒼風の生徒たちの目だった。
敵意がなかった。──疲弊した、空っぽの目。
蒼風の生徒の一人が凛たちを案内した。旧商店街の奥の雑居ビル。階段を上がり、屋上。
凪沙がいた。
灰青のセーラー服にカーキのジャケット。だがジャケットの袖は捲り上げられ、左腕の「蒼風再興」の白い腕章が──外されていた。腰に巻いた白スカーフも解かれている。
CZ 75はホルスターに入ったまま。Vz.61は背中にスリングで吊られているが、マガジンが抜かれていた。──武装解除、ではない。だが、戦う意思を示していない。
凪沙は屋上のフェンスに背をもたれ、凛と瑠衣を見た。
「来たか」
「呼んだのはお前だろう」瑠衣が言った。
凪沙が凛を見た。鳶色の瞳。疲れた目。だが──目の奥の光は、消えていなかった。
「御崎凛。──お前に、直接言わないといけないことがある」
凛は黙って待った。
「クロウテックの件。告発書は出したんだよな」
「ああ。統括事務局が受理した。三校連名だ」
「そうか」
凪沙が視線を落とした。足元のコンクリート。ひび割れの中に雑草が伸びている。
「あたしは──お前たちと裁定戦をやった。蒼風の生徒を戦場に送った。ゲリラ戦で暁嶺を翻弄して、正義だと思ってた」
「……」
「その裁定戦で──お前の部下が死んだ。久瀬楓。瑠衣から聞いた。貧しい家の子で、銃しか取り柄がないと思ってて、でも銃で奪うのは違うと──そう言ってた子だ」
凛はスカートのポケットの中で、拳を握りしめた。
「あの子を殺したのは──実弾だった。クロウテックが仕込んだ実弾。あたしが命じたんじゃない。あたしは知らなかった。──でも」
凪沙が顔を上げた。
「あたしが裁定戦を起こさなければ、あの子は死ななかった。クロウテックの実弾が使われる場を作ったのは──あたしだ」
屋上に風が吹いた。凪沙のカーキのジャケットが揺れた。
「──ごめん」
凪沙の声が、かすれた。
「あたしの正義は──あの子一人の命と引き換えにできるほど、正しかったのか。答えは──否だ。あたしは間違ってた」
凛は──しばらく、黙っていた。
風の音。旧市街のどこかで、鉄のシャッターが風に揺れてガタガタと鳴っている。
「凪沙」
凛が口を開いた。静かな声だった。
「お前の正義は、間違っていなかった」
凪沙が目を見開いた。
「蒼風の生徒たちが踏みにじられてきたのは事実だ。声を上げる手段がなかったのも事実だ。お前がそれを変えようとしたことは──間違いじゃない」
「でも──楓は」
「楓は死んだ。それは事実だ。──だが、楓を殺したのはお前じゃない。クロウテックが仕組んだ構造が殺した。お前はその構造に利用された」
凛は一歩、凪沙に近づいた。
「私も答えを持っていない。正しさが何かなんてわからない。楓の死を誰かのせいにしたい気持ちはある。──お前のせいにできたら、楽だったかもしれない」
「……」
「でも、そうしない。楓の死を、誰かへの恨みに変えるのは──楓が望むことじゃない。あいつは最後まで、守る側にいた。奪う側に行かなかった」
凛はポケットから手を出した。拳は開かれていた。
「だから──お前を責めない。お前の正義も、間違ってはいなかった。ただ、手段が──間違っていた。それだけだ」
凪沙が唇を噛んだ。歯が唇に食い込むのが見えた。目の縁が赤くなっていく。
「……お前、本当に──正論で返すくせに自分は答えを持ってないタイプだって、あたし言ったよな」
「瑠衣から聞いた」
「撤回する。──お前の言葉には、答えがある。お前が気づいてないだけだ」
凛は何も言わなかった。
凪沙が背筋を伸ばした。フェンスから背を離し、まっすぐ立った。──疲れた顔。痩せた体。だが、目の光は揺らいでいなかった。
「あたしは──蒼風の風紀部隊を解散する」
瑠衣が息を呑んだ。
「凪沙──」
「あたしが間違ってた。正義のつもりで、あいつらを戦場に送ってた。貧しくて、他に居場所がなくて、あたしを信じてくれた子たちを──銃を持たせて、戦わせてた」
凪沙の声が震えていた。だが、言葉は止まらなかった。
「クロウテックの処分で、蒼風は裁定戦の無効化と実弾使用の責任追及を免れるだろう。あたし個人の処分は──統括事務局の判断に従う。でも──風紀部隊の解散は、あたしの意思で決める。あいつらをこれ以上、あたしの正義に巻き込まない」
瑠衣が凪沙の前に立った。
「──馬鹿」
瑠衣の声は低く、太く、震えていた。
「一人で背負いすぎなんだよ、昔から」
「瑠衣──」
「蒼風にいた頃もそうだった。予算がない、装備がない、人もいない。全部お前が一人で何とかしようとして、一人で走り回って、一人で潰れかけてた。──あたしは、それを見てて、何もできなくて──逃げた」
瑠衣の目が赤くなった。だが涙は流さなかった。歯を食いしばって、凪沙を見つめていた。
「あの時──お前が『行きなよ』って言った時。あたしは──お前に『行くな』って言ってほしかった。止めてほしかった。でもお前は送り出した。──それが、お前の優しさだってわかってた。わかってたから──余計に、逃げた自分が許せなかった」
凪沙が目を逸らした。フェンスの向こうの旧市街。灰色の屋根。灰色の空。
「……あたしも──本当は、行くなって言いたかった」
「知ってる」
「瑠衣がいなくなって──蒼風は、もっとダメになった。お前がいた頃は、まだ──笑えてた。あたしも、みんなも。お前がいなくなって、あたしは──笑い方を忘れた」
「凪沙」
瑠衣が凪沙の手を掴んだ。凪沙の手は細かった。銃のグリップの痕が掌に残っている。テーピングで補修されたCZ 75を握り続けた手。
「もう一人で背負うな。風紀部隊を解散するなら──その後のことも、一緒に考える。蒼風の生徒たちの行き先も、お前の処分のことも」
「……お前に何ができる」
「わからない。でも──逃げない。今度は逃げない」
凪沙が──瑠衣の手を握り返した。
しばらく、二人は何も言わなかった。屋上の風が、解かれた白スカーフの端を揺らしていた。
凛はその光景を──少し離れた場所で、見ていた。
瑠衣と凪沙の物語。捨てた過去と、捨てられた過去。──それが今、ここで繋ぎ直されている。
凛はP226のグリップに触れた。
──正しさの答えは、まだ出ない。
凪沙の正義も間違っていなかった。紫苑の意志も間違っていなかった。楓の信念も間違っていなかった。氷室の問いに対する答えは──まだない。
でも──間違っていない正義が、それでも誰かを傷つける。正しさは正しさのまま通らない。通そうとすれば、誰かが血を流す。
灰色だ。
白でも黒でもない。正しいだけでは済まない。間違っているとも言い切れない。
灰色のまま──歩く。
凛は空を見上げた。
鳴神区の空は──灰色だった。いつも通りの曇天。だが、雲の切れ間からわずかに──本当にわずかに、光が差し込んでいた。
陽光ではない。ただの雲の薄いところ。でも──真っ暗ではなかった。
「──帰るか」
瑠衣が目元を袖で拭いながら振り向いた。凪沙は背を向けたまま、フェンスの向こうを見ていた。
「凪沙」凛が声をかけた。
凪沙が半身だけ振り返った。
「統括事務局の処分が出るまでに──蒼風の生徒たちの受け入れ先を確保する必要がある。私の方でも、暁嶺に打診してみる」
凪沙が目を瞬いた。
「──お前、敵だった奴に何でそんなこと」
「敵じゃない。お前は最初から──蒼風の生徒を守ろうとしていただけだ。方法が違っただけで、守ろうとする気持ちは同じだ」
凪沙が──苦笑した。
疲れた、乾いた笑み。でも──笑みだった。
「お前って奴は──本当に、正論ばっかりだな」
「よく言われる」
「──ありがとう」
凪沙がそれだけ言って、背を向けた。フェンスの向こうの灰色の景色を見つめている。
凛と瑠衣は屋上の階段を降りた。
旧市街を歩きながら、瑠衣が口を開いた。
「凛」
「何だ」
「──ありがとう。凪沙に、ああ言ってくれて」
「私は思ったことを言っただけだ」
「知ってる。お前はいつもそうだ。──だから、ありがとう」
凛は答えなかった。ただ、歩き続けた。
旧市街のバリケードを越え、暁嶺のエリアに戻る。見慣れた校舎の屋根が見えた時──凛は足を止めた。
ポケットの中のデータ端末。証拠。──これで、一つの決着がつく。クロウテックの不正は暴かれ、楓の死の原因が明らかになり、蒼風は責任追及を免れ、紫苑の立場は守られる。
だが──楓は帰ってこない。
どんな証拠を揃えても。どんな正義を貫いても。楓の席は、空のままだ。
凛はP226のグリップを握った。冷たい金属。
──守るために、あるんだよ。
沙耶の言葉。
──銃で奪い取るのは、違うと思います。
楓の言葉。
守れなかった。二人とも、守れなかった。
でも──三度目は。
氷室が言った。「二度失敗した人間は、三度目を防ぐために何をすればいいか、誰よりも知っている」。
凛は校舎の屋根を見上げた。灰色の空の下の、暁嶺学院。
──正しさの答えは、まだ出ない。
でも。
答えを探し続ける覚悟なら──今、ここにある。
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