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【第二巻】 エピローグ「灰色の空の下で」

 三月。


 暁嶺学院(ぎょうれいがくいん)の講堂に、静かなざわめきが満ちていた。卒業式。


 壇上で校長が式辞を読み上げている。来賓席には統括事務局の職員と、鳴神区(なるかみく)の管理委員が数名。──昨年までは形式的なものだった卒業式も、ここ一ヶ月の騒動を経て、どこか厳粛な空気を纏っていた。


 凛は在校生席の端に座り、壇上を見ていた。


 卒業生の列。三年生たちが一列に並び、卒業証書を受け取っていく。


 ──氷室雅(ひむろ みやび)


 名前が呼ばれた。


 氷室が壇上に進み出た。長い黒髪。銀縁の眼鏡。ロングコートではなく、今日は正式な制服。──だが背筋の伸び方は、いつもの氷室のままだった。


 卒業証書を受け取り、一礼。客席に戻る途中で──一瞬、凛のほうを向いた。


 目が合った。


 氷室は何も言わなかった。ただ、わずかに──口角が上がった。あの苦笑。三年間ずっと見てきた、氷室の苦笑。


 凛は背筋を伸ばした。


---


 卒業式の後。


 講堂から在校生が引き上げていく中、凛は廊下で待っていた。


 氷室が出てきた。卒業証書の入った筒を右手に。コートを肩にかけている。──制服の胸に、腕章はない。もう外してある。


「御崎」


「お疲れさまでした」


「──お疲れさま。三年間ね」


 氷室が凛の隣に立った。窓の外には校庭。灰色の空。曇天。──桜はまだだった。三月の鳴神区は寒い。


「クロウテックの件は」


「統括事務局が調査を開始した。黒羽工科学園くろばねこうかがくえんへの処分と、クロウテック社への操業停止命令が検討されている。──あとは事務局の仕事だ」


蒼風(そうふう)は」


「凪沙が風紀部隊(ヴィジランテ)を解散した。生徒の受け入れ先を各校に打診中。暁嶺でも数名を受け入れる方向で、東雲が調整してる」


「紫苑は」


「左腕のリハビリ中。再審査は──三校連名の告発が効いて、棚上げになった。白薔薇(しろばら)の隊長は続投」


 氷室がわずかに頷いた。


「全部、お前がやったことよ」


「私だけじゃない。千歳と瑠衣と、紫苑と凪沙と──」


「そういう言い方をするところが、お前らしい」


 氷室が卒業証書の筒をベンチに置き、コートのポケットに手を入れた。


 取り出したのは──腕章だった。


 総隊長の腕章。折り畳まれた白い布に、暁嶺学院の紋章が刺繍されている。あの日、総隊長室の机の上に置かれていたもの。


「前に言ったわね。『答えが出たら渡す』と」


「……私はまだ、答えが出ていません」


「知ってる」


 氷室が腕章を凛の手に押し付けた。


「答えを探し続けるお前だから──任せるのよ」


 凛の手の中に、腕章の重みが落ちた。布一枚。だが──三年間、氷室が背負ってきたものの重さが、指先に伝わった。


「氷室」


「何」


「──ありがとうございました」


 氷室が眼鏡を外した。あの仕草。レンズを拭くのではなく、ただ外す。素顔の氷室。十八歳の──卒業する三年生。


「感謝は要らない。──お前が全員を連れて帰ってくること。それだけが、私への返礼よ」


 氷室が眼鏡をかけ直した。銀縁のレンズ越しに、冷たく知的な瞳が戻る。


「じゃあね、御崎」


 氷室が歩き出した。廊下を進み、講堂の方に消えていく。ロングコートの裾が揺れた。──三年間、暁嶺の先頭に立ち続けた背中。


 凛はその背中が見えなくなるまで、立っていた。


---


 夕方。分隊室。


 凛は一人で、壁に向かっていた。


 手にはM700。楓のRemington。


 スコープのレンズは新しいものに替えてある。ひび割れたレンズは──凛が自分で外し、新品に交換した。銃身は磨かれ、ボルトは滑らかに動き、ストックの傷は残したまま。楓が使い込んだ痕。消す必要はなかった。


 壁に、銃架を取り付けてあった。千歳と二人で朝のうちに設置したものだ。木製の簡素な銃架。分隊室の壁、作戦テーブルの正面。──全員がテーブルについた時に、必ず目に入る位置。


 凛はM700を銃架に据えた。


 ストックが壁に触れ、銃身が水平に収まる。スコープが天井の蛍光灯の光を反射して、静かに光った。


 ──楓。


 凛はスコープに目を近づけた。レンズの向こうに見えるのは──分隊室の反対側の壁。何もない。ただのコンクリート。


 楓が最期に見ていたはずの景色。旧市街のビルの廊下。窓から差し込む灰色の光。──それは、凛には見えない。楓だけが見ていた景色。楓と一緒に消えた景色。


 凛はスコープから目を離した。


 M700は壁の上で、静かに在った。


「──ここにいろ。楓」


 凛はそれだけ言って、作戦テーブルに戻った。


---


 分隊室のドアがノックされた。


「──はい」


 ドアが開いた。


 入ってきたのは──見知らぬ一年生だった。


 黒髪をツインテールにまとめた少女。制服を規定通りにきっちり着用している。タクティカルベストを着けているが──体に対して明らかに大きい。肩のストラップが余っていて、ベストの裾が腰骨まで下がっている。まだ身体に馴染んでいない装備。


 少女は凛の顔を見て、一瞬──怯えたように目を逸らした。だがすぐに正面を向き直し、背筋を伸ばした。


「あ、あの……第三分隊の──篠原つむぎです。本日付で、配属されました。よ、よろしくお願いします!」


 声が上ずっていた。緊張で頬が赤くなっている。


 凛は──一瞬、楓の姿を重ねそうになった。


 一年前。分隊室に初めて来た楓。無表情で、無口で、M700を大事そうに抱えていた。「久瀬楓(くぜ かえで)です。よろしくお願いします」。抑揚のない声。


 だが──篠原つむぎは楓ではない。声は明るく、表情は豊かで、緊張で指先が震えている。楓とは全く違う。


 凛は首を振った。重ねてはいけない。この子は──この子だ。


 凛は立ち上がり、つむぎの前に立った。


 手を差し出した。


「──ようこそ、第三分隊へ」


 つむぎが凛の手を見て、それから凛の顔を見た。一瞬の間。──そしてつむぎの顔に、不安と決意が入り混じった笑顔が浮かんだ。


「は、はい……! 頑張ります……!」


 つむぎの手が凛の手を握った。小さく、冷たい手。──だが、力が入っていた。


 千歳が作戦テーブルの向かいから、柔らかく笑った。


「いらっしゃい、つむぎちゃん。あたしは桜庭千歳(さくらば ちとせ)。──まずはお茶でも飲む?」


 瑠衣が壁にもたれたまま、つむぎを見た。


鷹宮瑠衣(たかみや るい)だ。よろしくな、新人」


 つむぎがぺこぺこと頭を下げた。初々しい。──楓の時とは違う空気。でも、それでいい。


 凛はテーブルに戻り、腰を下ろした。


 総隊長の腕章はまだ、ポケットの中にあった。つけるのは──明日にしよう。


 壁のM700が、蛍光灯の光を静かに反射している。


 凛はスコープの光を見つめた。


 ──守るために、あるんだよ。


 沙耶の声が聞こえた気がした。


 ──銃で奪い取るのは、違うと思います。


 楓の声も。


 凛は窓の外を見た。灰色の空。曇天。──だが、灰色は灰色なりに、確かにそこにある空だ。


 晴れていなくてもいい。灰色でもいい。


 この空の下で、答えを探し続ける。


 それが──凛にとっての正義だった。


---


              ──了──


---

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