【第二巻】 第十四章「鋼の迷宮」
作戦当日。二十一時三十分。
鋼町エリア東端。工業用水路の地上出入口。
錆びた鉄板のハッチを開けると、コンクリートの階段が地下へ伸びていた。湿った空気が吹き上がってくる。鉄と泥水の匂い。蛍光灯は当然ついていない。懐中電灯の光だけが、階段の先の闇をわずかに照らした。
凛はP226のスライドを確認し、ホルスターに戻した。MP5Kのスリングを肩に引き寄せ、サプレッサーの取り付けを確かめる。予備マガジン四本。制圧弾。
紫苑がインカムに小型のモジュールを取り付けていた。黒い装置。親指の先ほどの大きさ。
「妨害対抗装置。全員のインカムに装着して」
紫苑が三つの装置を渡した。凛、千歳、瑠衣がそれぞれ受け取り、インカムに取り付ける。
「有効範囲は百メートル。それ以上離れたら通信は途絶する。──黒羽のジャミングは広域型で、鋼町エリア全域をカバーしている。この装置は妨害波の中に小さな穴を開けるだけだから、完全ではない。ノイズが混じることもあるわ」
「了解だ」凛が言った。「装備を確認する。──報告」
「桜庭、準備完了。M4A1、マガジン六本。スタングレネード二個」
「鷹宮、準備完了。ベネリM4、弾薬四十八発。ブリーチングツール」
「白百合紫苑。G36C、マガジン五本。ワルサーP99、マガジン三本。電子戦装備一式」
「御崎、準備完了。MP5K、マガジン四本。P226、マガジン三本。証拠回収用のデータ端末」
凛は四人を見回した。
千歳。M4A1を胸の前に抱えている。いつもの柔らかい表情はなく、引き締まった目。
瑠衣。ベネリM4のストックを肩に当て、もう片方の手でブリーチングツール──ドアを破るための短い鉄棒──を腰のベルトに挟んでいる。
紫苑。G36Cを背負い、右手にデータ端末を持っている。白のスタンドカラージャケット。肩章なし、部隊徽章なし。──だが装備は完全だった。聖樹館の情報部隊から持ち出した妨害対抗装置と電子戦ツール。失脚寸前の人間が最後に持ち出せるだけのものを持ち出してきた。
「ルートの確認をする」凛が言った。「トンネルは約八百メートル。地下は黒羽の監視圏外。地上に出たら、倉庫まで約二百メートル。その二百メートルが勝負だ」
「地上に出た時点でドローンの監視範囲に入るわ」紫苑が補足した。「飛行型ドローンのパトロール間隔は約三分。地上型ドローンは倉庫の周囲五十メートルに二機。──トンネルの出口は建物の陰になっているから、出た直後は死角。だけど十秒以内に移動しないと次の旋回で捕捉される」
「千歳」凛が名前を呼んだ。
「うん」
「お前はトンネルの出口で待機。私たちが戻るまで退路を確保しろ。──万が一、三十分経っても私たちが戻らなかったら」
「戻る」千歳の声が凛の言葉を遮った。静かだが、揺るぎのない声。「凛ちゃんが戻らないなんて選択肢は、あたしの辞書にないよ」
凛は一拍、沈黙した。
「──了解。では、全員。行くぞ」
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トンネルは暗く、狭かった。
コンクリートの壁に囲まれた円形の通路。直径は約一・五メートル。気を抜けばヘルメットが天井の配管に当たりそうになる。足元には泥の混じった水が数センチほど溜まっており、一歩踏み出すごとに、粘り気のある水音が低く反響した。
凛が先頭。紫苑が二番手。瑠衣が三番手。千歳が殿。
懐中電灯は最小光量に絞り、赤色フィルターをかけてある。暗順応を維持するためだ。淡い赤光が濡れたコンクリートの壁を照らし、赤錆びた継ぎ目や、壁面にびっしりと生えた黒カビの模様を不気味に浮かび上がらせた。
ひんやりとした空気が肌にまとわりつく。工場の排液と土の匂いが混ざった、地下特有の淀んだ臭気。
ぴちゃり、ぴちゃり。
四人の足音だけが、等間隔で狭い空間に吸い込まれていく。
八百メートル。歩幅六十センチで約千三百歩。時間にして十五分の、単調で息苦しい前進。
五分ほど歩いたところで、紫苑が歩速を落とさずにデータ端末を確認した。
「ジャミングの干渉波を検出。──鋼町エリアの境界に入ったわね。通常の通信チャンネルは完全に潰されている」
紫苑の囁き声も、トンネルの中では奇妙に響いた。
凛はインカムのスイッチに指をかけた。
「通信テスト。──千歳、聞こえるか」
すぐには返事がなかった。ざざっ、という低いホワイトノイズが数秒続く。
『──聞こえる。少しノイズがあるけど、声はわかる』
殿を歩く千歳の声。カウンタージャマーが機能している証拠だった。
「よし。瑠衣は」
『問題ねえ。……しかし、カビくせえなここは』
「私語は慎め。音が反響する。──トンネルの終点まであと二百メートル」
凛は足を進めた。ブーツの底から伝わる水の冷たさが、徐々に足先を麻痺させていく。
──楓。
ふと、赤黒い闇の中で、その名前が浮かんだ。
楓がこの作戦にいたら。M700を背負い、音もなくトンネルの中を歩く楓の後ろ姿が──すぐ後ろに見えるはずだった。
だが、今凛の背後にいるのは紫苑だ。赤色灯に照らされた白薔薇のジャケットが、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。
一巻前の敵が、今は味方としてここにいる。楓の代わりではない。楓の代わりは誰にもなれない。──だが、紫苑は紫苑として、自分の意志でここにいる。
凛は首を振り、意識を前方に引き戻した。
──考えるのは後だ。今は、足を動かせ。泥水を踏みしめろ。
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トンネルの終点。上方にマンホール型のハッチ。
凛がハッチの下で立ち止まり、耳を澄ませた。地上の音。──遠くで低い唸り。モーター音。飛行型ドローンのローター。
「紫苑」
「検出中──」紫苑がデータ端末を操作した。画面に波形が表示される。「飛行型ドローン一機。距離約百五十メートル。北東方向に移動中。──あと四十秒でこの位置の上空を通過する。通過後、次の旋回まで約三分」
「四十秒待つ」
四人がハッチの下で身を低くした。トンネルの壁に背をつけ、呼吸を整える。
ローター音が近づいてきた。頭上を通過する。コンクリートを通して振動が伝わった。──そして、遠ざかっていく。
「──通過。今から三分」
凛がハッチを押し上げた。重い鉄板がずれ、夜気が流れ込んでくる。工場の油と錆の匂い。鳴神区の夜の空気より、さらに重い。
ハッチから這い出る。周囲を確認。
工業区画の裏手。左右にプレハブの倉庫や資材置き場が並んでいる。街灯は半分以上が切れていて、暗がりが多い。遠くに鋼町エリアの工場群のシルエット。煙突から薄い煙が上がっている。──操業は止まっているが、配管の蒸気が残っているのだろう。
二百メートル先に、目標の倉庫。二階建ての鉄骨造り。外壁はトタンとコンクリートの混合。正面にシャッターが二つ。裏手に小さな搬入口。
そして──倉庫の手前五十メートルに、地上型ドローンが見えた。
四輪のタイヤに小型のカメラとセンサーを載せた、ラジコンカーのような形状。だが上部に搭載されているのは──
「制圧弾発射装置」紫苑が低い声で言った。「あの地上型は監視だけじゃない。接近する対象を検知すると自動で制圧弾を発射する。有効射程は約三十メートル」
「自動射撃か──面倒だな」瑠衣が唸った。
「二機。一機は倉庫の正面、もう一機は左側面をパトロールしている。──ルートは決まっている。パターンを確認するわ」
紫苑が端末の画面を見つめた。十秒。二十秒。
「正面の一機は固定。左側面の一機は三十秒周期で倉庫の角を往復している。──裏手には配備されていない。搬入口からの侵入が最もリスクが低い」
「千歳」凛が振り向いた。「ここだ。このマンホールで待機してくれ」
千歳がハッチの縁に片膝をついた。M4A1を胸に抱え、凛を見上げる。
「三十分以内に戻る」
「──うん。気をつけて」
千歳の声は穏やかだった。だが、M4A1のグリップを握る手には力が入っていた。
凛は頷き、紫苑と瑠衣に合図を送った。三人で暗がりを縫うように、倉庫の裏手に向かって移動を開始した。
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プレハブの影を伝って五十メートル。資材置き場のコンテナの裏に身を潜め、次の移動ポイントを確認。さらに六十メートル。廃棄された配管の束の影を利用して前進。
紫苑が端末をチェックするたびに足が止まる。飛行型ドローンの位置と地上型ドローンのパターンをリアルタイムで追っている。
残り九十メートル。
倉庫の裏手が見えた。搬入口の鉄扉。──その手前に。
「止まって」
紫苑の声。三人が壁際に張りついた。
搬入口の横──物陰から、地上型ドローンが一機、ゆっくりと這い出してきた。
「三機目──」凛が歯を食いしばった。「二機じゃなかったのか」
「事前の偵察データにはなかった。──増設されたか、ローテーションが変更されたか」
三機目のドローンは搬入口の前で停止し、カメラを左右に振っている。赤外線センサーの赤い点がわずかに光った。
距離、約二十五メートル。
「あの距離なら──」瑠衣がベネリのセーフティを外した。
「待って」紫苑が制した。「銃声を出せば飛行型が反応する。──別の方法を使う」
紫苑がジャケットのポケットから小さな装置を取り出した。手のひらに収まるサイズ。黒い箱に短いアンテナが二本。
「指向性ジャマー。ドローンの通信と制御信号を局所的に妨害する。──有効範囲は狭いけれど、あの一機だけなら三十秒ほど機能を停止させられるわ」
「三十秒で搬入口を抜けられるか」
「抜けるしかないわ」
紫苑がジャマーのスイッチを入れた。高周波のかすかな電子音。目に見える変化はない。だが──地上型ドローンのカメラの動きが止まった。赤外線センサーの赤い光が消えた。車輪が停止する。
「今──走って」
三人が物陰から飛び出した。低い姿勢で走る。コンクリートの地面。ブーツの足音を殺しきれない。
十五メートル。十メートル。五メートル。
搬入口の鉄扉。瑠衣がブリーチングツールを扉の隙間に差し込み、体重をかけた。錠前が軋み──折れた。鉄扉が内側に開く。
三人が滑り込む。紫苑が最後に入り、扉を静かに閉めた。
暗闇。油と金属の匂い。倉庫の内部。
背後で、地上型ドローンが再起動する音が微かに聞こえた。カメラのモーター音。──間に合った。
「時間は限られる」紫苑が囁いた。「ドローンの機能停止が記録されれば、黒羽の監視室が確認に来る。──十五分。それが倉庫内で動ける限界よ」
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倉庫の内部は、凛の想像より広かった。
天井の高い鉄骨構造。コンクリートの床。金属製の棚が整然と並び、木箱やコンテナが積み上げられている。奥に階段があり、二階のキャットウォークに繋がっている。
懐中電灯の赤色光で内部を照らす。棚の表面にラベル。ロット番号、品名、出荷日。──武器の管理倉庫だ。
「これは──」瑠衣が木箱の一つを覗き込んだ。蓋が半開きになっている中に、整列した弾薬ケース。「制圧弾の箱だ。だが──」
「見て」紫苑が別の棚を指した。同じ外装の弾薬ケース。だが、ラベルの色が微妙に違う。白地に赤のラインが入ったラベルと、白地に青のラインが入ったラベル。
「赤ラベルが制圧弾。青ラベルが──」
「実弾」凛が低い声で言った。「外装は同一。ラベルの色だけが違う。──ここで仕分けて、赤ラベルの中に青ラベルを混入させていたのか」
紫苑が青ラベルの弾薬ケースを一つ取り出した。蓋を開ける。中の弾薬を一発取り出し、赤ラベルの弾薬と並べた。
外観は同じだった。同じ形状、同じ外装。手に持った重量感がわずかに違う──だが、手で持っただけでは区別がつかないレベル。
「これが──楓を殺した弾」
凛の声が低く震えた。
紫苑が凛の顔を見た。紫色の瞳が、暗闇の中で静かに凛を捉えた。何も言わなかった。ただ視線だけが──「今は感情を抑えろ」と伝えていた。
凛は息を吐いた。弾薬をポケットに入れた。物証。
「データ端末を探す。製造記録と出荷記録」
三人は倉庫の奥へ進んだ。棚の間を抜け、二階へ上がるキャットウォークの下に、小さな事務スペースがあった。金属製の机。モニターが二台。コンピュータ端末。
紫苑が椅子に座り、端末を起動した。パスワード画面。紫苑が持参したツールを接続し、十秒でロックを解除する。
「──さすがだな」瑠衣が感心したように言った。
「白薔薇の情報部門を舐めないで」
画面にファイルの一覧が表示された。紫苑の指が素早くフォルダを開いていく。
「製造記録……出荷記録……調達契約書……──あった」
紫苑が画面を指さした。
「鳴神区特別供給プログラム──蒼風高等学校向け」。日付。品目。数量。CZ Bren 2が十五挺、制圧弾五千発、戦術装備一式。そして──別添ファイル。「特別混載指示書」。
凛が画面を覗き込んだ。
「制圧弾五千発のうち、百発から二百発を7.62mm NATO弾(鋼芯FMJ)に差し替え。外装は制圧弾と同一仕様に加工済み。識別はロット番号末尾のアルファベットで区別。──混載率は全体の二〜四パーセントとし、受領者側の目視検査で検出されない水準を維持すること」」
「──計画的だ」凛が言った。声が乾いていた。「最初から、蒼風に実弾を握らせる気だった。蒼風の生徒が知らないまま実弾を撃ち、事故が起きれば──」
「蒼風の責任になる」紫苑が続けた。「クロウテック社は武器を売っただけ。実弾を使ったのは蒼風。──そういう構図を作るために、混入させた」
凛は拳を握った。
楓を殺したのは──弾丸だ。弾丸を撃ったのは蒼風の外部狙撃手だ。だがその弾丸をすり替え、仕組んだのは──この端末の中に記録されている指示を出した人間だ。
「データを全部コピーする。三分かかるわ」
紫苑がデータ端末を接続し、コピーを開始した。画面にプログレスバーが表示される。
凛は事務スペースの外に出て、倉庫内を警戒した。瑠衣がキャットウォークの上に移動し、倉庫全体を見渡す位置についた。
一分。二分。
──インカムにノイズが走った。
『──ッ……こち……千歳……外に──動きが──』
千歳の声。途切れ途切れ。ノイズが激しい。
「千歳、もう一度。聞き取れない」
『──ドローンが……方向に──二機……こっちに──』
凛の背筋が凍った。
「紫苑、あとどれくらいだ」
「一分」
「急いでくれ」
──その時。
倉庫の正面シャッターの向こうから、音が聞こえた。エンジン音ではない。足音。複数の、統制された足音。
ブーツがコンクリートを踏む規則正しいリズム。──軍靴の行進。
「黒羽の警備隊」瑠衣がキャットウォークから低い声で報告した。「正面シャッターの外に──五、六人。展開してる」
凛はMP5Kのセーフティを外した。
「搬入口は」
「まだ動きはない。──だが時間の問題だ」
「紫苑」
「四十秒」
正面シャッターの外で、金属音。シャッターの錠前を開ける音。
「三十秒」
シャッターが軋みながら持ち上がり始めた。下から光が差し込む。懐中電灯の白い光。──黒羽の風紀部隊。
「二十秒──」
「間に合わない。瑠衣、シャッターを止めろ」
瑠衣がキャットウォークから飛び降りた。着地と同時にベネリを構え、シャッターの隙間に向けて一発──轟音。制圧弾が金属のシャッターに当たり、衝撃で上昇が止まった。シャッターの向こうで悲鳴と怒号。
「紫苑!」
「──完了。全データコピー済み」
紫苑がデータ端末を引き抜き、立ち上がった。
「搬入口から離脱する。走って」
三人が倉庫の奥に向かって走った。棚の間を抜ける。足元の木箱を避ける。紫苑が端末をジャケットの内ポケットにしまいながら走る。
背後でシャッターが完全に開いた。光が倉庫内に流れ込む。黒い制服の人影が複数、シャッターの下を潜って侵入してくる。
「止まれ! 倉庫内の侵入者、武器を捨てて投降しろ!」
拡声器の声。凛は振り返らなかった。
搬入口の鉄扉が見えた。あと十メートル。
──背後から、制圧弾の発射音。
パパパパパ──短い連射。棚に弾が当たり、金属の破片が飛び散った。凛は身を低くして走り続けた。
五メートル。
瑠衣が搬入口の扉を蹴り開けた。夜風が流れ込む。
凛が扉に手をかけた──その瞬間。
背後で、重い衝撃音。
凛が振り返ると──紫苑が、凛と扉の間に立っていた。
G36Cを片手に、もう片方の腕で凛の肩を押しのけるように。背中を凛に向け、倉庫の奥──黒羽の部隊に対面して。
白のスタンドカラージャケットの左肩から背中にかけて、制圧弾の着弾痕が三つ。──だが、一つだけ。一つだけ、痕が違った。
制圧弾は衝撃で止まる。だが、そのうちの一発が──紫苑の左上腕を貫通していた。
血。赤い血が、白いジャケットに染みていく。
「──紫苑……!」
「走りなさい」
紫苑の声は変わっていなかった。冷たく、透明。ただ──左腕が下がっていた。G36Cを右手だけで構えている。
「黒羽にも実弾が混入している可能性がある。──長居は危険よ」
紫苑が右手だけでG36Cのトリガーを引いた。短い三点バースト。倉庫の奥の棚に向けて。追撃してきた黒羽の部隊が一瞬、足を止める。
「今のうちに──」
凛は紫苑の右腕を掴んだ。
「走れるか」
「──舐めないで」
三人が搬入口から飛び出した。夜の工業区画。空気が冷たい。紫苑の左腕から血が滴り、コンクリートの地面に点々と跡を残した。
頭上で──ローター音。飛行型ドローンが二機、旋回している。サーチライトの白い光が地面を舐めるように動いた。
「瑠衣──ドローン!」
瑠衣がベネリを空に向けた。至近距離のショットガン。轟音。制圧弾の散弾がドローンの一機に命中し、ローターが砕けて墜落した。小さな機体がコンクリートに叩きつけられ、火花を散らす。
もう一機が旋回し、光を三人に向けた。
「走れ、トンネルまで二百メートル──!」
凛が叫んだ。紫苑の右腕を支えながら走る。紫苑は歯を食いしばり、足を動かし続けた。左腕はだらりと下がったまま。ジャケットの袖が血で重くなっている。
プレハブの影。資材置き場。コンテナ。──来た道を逆に辿る。ドローンのサーチライトが建物の間を追ってくる。
百五十メートル。百メートル。
背後で足音。黒羽の部隊が搬入口から出てきた。だが暗闇と建物の入り組んだ配置が追跡を遅らせている。
五十メートル。マンホールが見えた。
千歳がハッチの横で片膝をつき、M4A1を構えていた。三人の姿を認めて、ハッチを全開にする。
「早く──!」
瑠衣が先にハッチに飛び込んだ。凛が紫苑をハッチの縁まで運ぶ。
「先に降りろ」
「あなたが先──」
「いいから降りろ、紫苑」
紫苑が凛を一瞬見た。紫色の瞳。暗闇の中でもわかる──苛立ちと、何か別のもの。
紫苑が片手で梯子を掴み、ハッチの中に降りた。
凛が続く。千歳が最後に入り、ハッチを閉めた。重い鉄板の音。鉄板の上に足音が近づいてくるが──地下への追撃は来なかった。ハッチの存在に気づいていないのか、地下の構造を把握していないのか。
暗闇。水の音。四つの荒い呼吸。
「──全員、無事か」凛が言った。
「こっちは問題ない」瑠衣の声。
「あたしも」千歳の声。
紫苑の声がない。
「紫苑」
「……無事、とは言えないわね」
紫苑の声は平静だったが、呼吸が浅い。凛が懐中電灯を向けると──紫苑は壁にもたれ、左腕を右手で押さえていた。白いジャケットの左肩から上腕にかけて、赤黒い染み。血が指の間から滲んでいる。
「弾は貫通している。骨には当たっていないはず。──応急処置をすれば動ける」
千歳がすぐにバックパックから医療キットを取り出した。止血パッド、包帯、消毒液。手慣れた動きで紫苑のジャケットの袖をめくり、傷口を確認する。
「貫通創。入口と出口がある。──紫苑さん、痛み止めは」
「要らない。包帯だけ巻いて」
千歳が手早く処置した。紫苑は眉一つ動かさなかった。ただ──唇がわずかに白くなっていた。
凛は紫苑の前にしゃがんだ。
「なぜ庇った」
紫苑が凛を見た。
「──データ端末を持っているのはあなたでしょう。あなたが倒れたら証拠は手に入らない」
「合理的な判断か」
「当然。──感情で動く兵士は、味方を危険に晒す」
氷室と同じ言葉だった。凛は一瞬、目を閉じた。
──だが。
紫苑が凛を庇ったあの瞬間。合理的な判断だけではなかった。紫苑は凛の肩を「押しのけた」のだ。データ端末を守るためなら、凛を引き倒せばいい。押しのける必要はない。
紫苑は──凛の背中に立ったのだ。敵の弾を自分の体で受ける位置に。
凛はそれを指摘しなかった。指摘すれば、紫苑は否定するだろう。だから──黙って、紫苑のP99を拾い上げ、ホルスターに戻した。
「帰るぞ。証拠は全部揃った」
「ええ」
紫苑が壁から背を離し、立ち上がった。左腕は使えないが、足は動く。
四人はトンネルを引き返した。水を踏む音。暗闇。赤い懐中電灯の光。──行きと同じ風景。だが何かが違った。
四人の足音が──揃っていた。
暁嶺の三人と、聖樹館の一人。学校も立場も違う。半年前は銃を向け合っていた。だが今、同じトンネルの中を、同じ方向に歩いている。
紫苑の血が水に滴り、薄く色をつけて流れていく。白いジャケットの左肩は赤黒く染まったままだった。
凛はポケットの中のデータ端末に触れた。証拠。製造記録。混載指示書。実弾のサンプル。──楓を殺した構造の、物理的な証拠。
これで──クロウテックは逃げられない。
だが。
凛は紫苑の背中を見た。血に染まった白いジャケット。
正しさの代償は、いつも誰かの血で支払われる。凪沙の正義も。紫苑の意志も。凛自身の──まだ名前のつかない、灰色の覚悟も。
トンネルの出口の光が見えた。鋼町エリアの外。ジャミングの圏外。
インカムのノイズが消え、クリアな空気がインカムに戻った。
「──脱出成功」凛が言った。「全員生還。証拠は確保した」
千歳が深く息を吐いた。瑠衣がベネリのセーフティをかけた。
紫苑は──何も言わなかった。ただ、夜空を見上げた。曇天。星はない。灰色の空。
「少し揉めただけよ」
紫苑が左腕を示して言った。血に染まった包帯。──「少し」ではないことは、四人全員がわかっていた。
凛は答えなかった。
──だが。
灰色の空の下で、四つの足音がトンネルの出口から夜の道に踏み出した。
証拠は手の中にある。あとは──これを、どう使うか。
凛はP226のグリップに触れた。冷たい金属。沙耶の言葉が、楓の沈黙が、紫苑の血が──全部、この手の中にある。
灰色の正義を──灰色のまま、貫く。
それが凛にとっての、今の答えだった。
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