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【第二巻】 第十三章「正しさの在処」

 瑠衣が蒼風(そうふう)から戻った翌日。昼前に、凛の端末が鳴った。


 発信元は暁嶺学院(ぎょうれいがくいん)の内部通信。総隊長室。


御崎凛(みさき りん)。本日十五時、総隊長室に出頭しなさい。──氷室』


 凛は端末を閉じた。


 出頭。──氷室がこの言い回しを使う時は、公式の場だ。分隊長としての凛に対して、総隊長としての氷室が呼び出している。個人的な相談ではない。


 千歳が作戦テーブルの向かいから、凛の表情を窺った。


「氷室総隊長から?」


「ああ。十五時に総隊長室だ」


「何の件だろう」


「わからない」


 だが──察しはついていた。氷室の卒業は来週だ。総隊長の腕章を誰に渡すかは、いまだに正式決定されていない。藤宮が第一分隊を率いて暫定的に総隊長代行を務める案が上層部で検討されている──という噂は、情報班を通じて凛の耳にも入っていた。


 凛が総隊長に推薦されたのは、二ヶ月前のことだ。だがその後──楓が死んだ。裁定戦(アービトレーション)は中断されたまま。第三分隊は欠員を抱えている。凛は三日間、報告書にも手をつけなかった。


 総隊長に必要なのは、暁嶺全体を見渡す視野と、全分隊を動かす決断力だ。──楓一人の死で三日間止まった人間に、それができるのか。


 凛は自分でもわかっていた。今の自分は、氷室が推薦書に書いた「覚悟がある人間」ではない。


---


 十五時。総隊長室。


 凛はドアをノックし、「御崎凛、出頭しました」と告げた。


「入りなさい」


 氷室の声。低く、静かで、余分なものを削ぎ落とした声。


 総隊長室は変わっていなかった。窓際の執務机。書棚。壁に掛けられた鳴神区(なるかみく)の地図。──だが、机の上にあるものが違った。


 段ボール箱が二つ。中には書類やファイルが詰められている。机の引き出しは半分開いたまま、中身が抜かれていた。


 ──片づけている。


 氷室雅(ひむろ みやび)は窓を背にして立っていた。長い黒髪。銀縁の眼鏡。制服の上にロングコート──だが、その襟元には総隊長の腕章がなかった。机の上に、折り畳まれた腕章が置かれている。


 まるで──もう脱いだ後のような佇まい。


「座って、御崎」


 凛は執務机の前の椅子に座った。氷室は窓枠に腰をもたれ、凛を見下ろした。逆光で表情が読みづらい。


「来週の卒業式のことは、聞いているわね」


「はい」


「来週の卒業式をもって、私は暁嶺学院風紀部隊(ヴィジランテ)総隊長の職を退任します。──これは全隊への通達で既に伝えてあるけれど、後任人事については正式な発表がまだだったわ」


 凛は黙って聞いた。


 氷室が眼鏡を外した。レンズの汚れを拭くのではなく──ただ外して、机の上に置いた。銀縁の眼鏡が段ボール箱の横に並ぶ。氷室の素顔。眼鏡がない方が、年齢相応に見えた。十八歳の──卒業を控えた、三年生の顔。


「御崎。二ヶ月前、私はあなたを総隊長に推薦した」


「はい」


「推薦書には、あなたの実績と判断力、そして覚悟について書いた。命令違反の前科があること。それでもなお、暁嶺を率いる資質があること。──私はそう信じていた」


 凛の胸が軋んだ。「信じていた」。──過去形。


「だが──今のお前には、任せられない」


 氷室の声が変わった。敬語が消え、素の口調になった。凛を「お前」と呼ぶ。──それは氷室が、総隊長としてではなく、一人の先輩として話している証拠だった。


「楓が死んで、お前は三日間止まった」


「……はい」


「報告書を読まなかった。メシも食わなかった。P226のスライドも引かなかった。──千歳から報告が上がっている」


 千歳が──報告していた。凛は驚かなかった。千歳は千歳の役割を果たしたのだ。分隊長が機能不全に陥った場合、上官に報告するのは副隊長の義務だ。


「千歳を責めるつもりはない。あの子は正しい判断をした。──問題はお前だ、御崎凛」


 氷室が窓枠から離れ、凛の前に立った。逆光が消え、氷室の表情が見えた。


 ──怒りではなかった。もっと静かな何か。失望でもない。


 苦さだった。


「お前が楓の死で動けなくなったこと自体は、責めない。あの子はお前の部下だった。守るべき人間だった。それを失った痛みは──私にもわかる」


 氷室が一歩、退いた。窓に目を向けた。鳴神区の灰色の空。曇天はいつも通り。


「だが──総隊長は止まれない。止まったら、暁嶺の全員が止まる。分隊長ならまだ千歳がフォローできる。だが総隊長には──替わりがいないの」


 凛は唇を引き結んだ。反論はなかった。氷室の言葉は──正しい。


「御崎。一つ、聞く」


 氷室が振り向いた。眼鏡のない目が、凛をまっすぐに見た。


「お前にとっての正しさとは何だ」


 凛は──答えられなかった。


 正しさ。


 凪沙は「弱者のための正義」を掲げた。貧しい者が声を上げ、戦い、権利を勝ち取ること。それは正しかった。だが、その正義の過程で楓が死んだ。


 紫苑は「守ると決めた意志」を貫いた。聖樹館(せいじゅかん)の中で孤立しても、生徒を守るという選択を変えなかった。それも正しかった。だが紫苑は傷だらけだ。


 凛自身は──何を正しいと思っているのか。


 沙耶が遺した言葉。「守るために──あるんだよ」。銃は守るためにある。凛はそれを信じて銃を取った。だが、守れなかった。沙耶を。楓を。


 守れなかった人間が掲げる「守る正義」に──意味はあるのか。


「……答えられません」


 凛の声は低かった。


「紫苑の正義も、凪沙の正義も──間違っていませんでした。でも、どちらも犠牲を出した。正しさが正しさのまま通らない。通そうとすれば、誰かが傷つく。──私は、何が正しいのかわからなくなっています」


 正直な言葉だった。取り繕う余裕がなかった。


 氷室は──しばらく、黙っていた。


 窓の外で、風が吹いた。校舎の屋上から見える鳴神区の景色。灰色の空。灰色の街並み。──いつもの鳴神区。


「……正直ね」


 氷室がわずかに笑った。苦笑。疲れた笑み。


「私が三年間この椅子に座って学んだことは──正しさの答えは、出ないということよ」


 凛が顔を上げた。


「正しさは一つじゃない。状況によって変わるし、人によって変わる。全員が納得する正しさなんて存在しない。──総隊長を三年やって、それだけは断言できる」


 氷室が机の端に腰を下ろした。段ボール箱の横。卒業する人間の居場所。


「でも──答えが出ないからといって、問うことをやめた人間は、人の上に立つ資格がない」


 凛は息を止めた。


「お前は今、答えられないと言った。それは──まだ問い続けているということだ。答えを持っている人間より、答えを探し続ける人間の方が──私は信用できる」


 氷室が腕章を手に取った。折り畳まれた腕章。総隊長の証。──だが、それを凛に渡すのではなく、机の上に戻した。


「今は、渡さない」


「……」


「答えが出たら──いいえ。答えを探す覚悟が決まったら。その時に、私の代わりに皆を導きなさい」


 氷室が立ち上がった。ロングコートの裾が揺れた。


「──氷室」


「何」


「私は──楓を守れませんでした。沙耶の時も。二度、同じ失敗をした人間に──」


「二度失敗した人間は、三度目を防ぐために何をすればいいか、誰よりも知っている」


 氷室の声は──柔らかかった。命令でも叱責でもない。三年間、暁嶺を率いた人間の、最後の言葉。


「御崎凛。お前は十分に強い。──ただ、強さの使い方を、まだ決めきれていないだけよ」


 氷室が眼鏡を取り上げ、かけ直した。銀縁のレンズの向こうに、冷たく知的な瞳が戻った。──総隊長の顔。


「以上。退出しなさい」


「──了解しました」


 凛は立ち上がり、敬礼した。氷室はそれに頷いた。


 ドアに手をかけた時、背後から声がした。


「御崎」


「はい」


「──この街の空は、いつも曇ってるわね」


 凛は振り返らなかった。


「……はい」


「あなたが総隊長になる頃には、少し晴れるといいわね」


 凛はドアを開け、総隊長室を出た。


 廊下は静かだった。夕方の光が窓から差し込んでいる。灰色ではなく──薄い橙色。雲の切れ間から覗いた、弱い陽光。


 ──正しさの答えは、出ない。


 それでも──問い続けること。


 凛はP226のグリップに触れた。冷たい金属。──沙耶の言葉。楓の沈黙。まだ、すがれるものはない。だが──問い続ける足は、止まっていない。


---


 分隊室に戻ると、千歳と瑠衣がいた。


 千歳は凛の顔を見て、何かを読み取った。だが何も聞かなかった。代わりに、作戦テーブルの上の端末を指さした。


「凛、さっき連絡があったよ。──凪沙から」


 凛の意識が切り替わった。


「凪沙から──直接か」


「うん。瑠衣が教えた連絡先に、テキストで。暗号化はされてないけど、短いメッセージだった」


 瑠衣が端末を凛に渡した。


『弾薬庫を確認した。五千発のうち、四十三発が重量に微差あり。外装は同一。解体して確認──七.六二ミリNATO弾、鋼芯FMJ。制圧弾(サプレスラウンド)ではない。実弾だった。──蒼風のことは、あたしが責任を取る。証拠はそっちに渡す。神代凪沙(かみしろ なぎさ)


 凛はメッセージを二度読んだ。


 四十三発。五千発のうち、四十三発の実弾が混入していた。紫苑の推定は百から二百だったが──蒼風が既に使用した分を差し引けば、整合する。


「確定だ」凛が言った。「クロウテック社は蒼風に供給した制圧弾(サプレスラウンド)に実弾を混入させていた。凪沙が蒼風側から物証を確認した」


 千歳の拳が、膝の上で握りしめられた。


「これで──証拠が一つ揃ったんだね」


「蒼風側の証拠はこれで押さえた。だが──これだけでは足りない。凪沙の証言と蒼風の弾薬だけでは、クロウテック社が否認すれば水掛け論になる。蒼風が独自に実弾を調達したと言い逃れられる可能性がある」


「──じゃあ」


「紫苑の作戦だ。鋼町エリアの物流倉庫。クロウテック社の側から、製造記録と実弾サンプルを押さえる。蒼風側の物証と、クロウテック側の物証。両方揃えば、否認は不可能になる」


 瑠衣が壁に背をつけて腕を組んだ。


「それが──共同作戦ってやつか」


「ああ。紫苑が侵入ルートの叩き台を持ってくる。今夜、旧配水塔で合流する。──瑠衣。凪沙にも伝えてくれ。蒼風側の協力が必要な部分がある」


「わかった」


---


 夜。旧配水塔。


 三度目の訪問だった。錆びたフェンス、コンクリートの円筒、街灯の届かない暗がり。──もう見慣れた場所だ。


 今回は凛だけではなかった。千歳と瑠衣も連れてきている。分隊全員に情報を共有すると決めた以上、作戦の策定も全員で行う。


 紫苑は既にいた。


 壁に背をつけた姿勢。白のスタンドカラージャケット。──肩章なし、部隊徽章なし。前回と同じだが、鎖骨の包帯が新しいものに替わっていた。左腕に薄い手袋。右手にデータ端末。


 そして──ワルサーP99に加え、G36Cを背負っていた。前回にはなかった装備。


「二人連れてきたのね」


 紫苑が千歳と瑠衣を見た。紫色の瞳が、一人ずつ値踏みするように動いた。


「分隊で共有すると言った。──紫苑、こちらは第三分隊の桜庭千歳(さくらば ちとせ)鷹宮瑠衣(たかみや るい)だ」


「知ってるわ。裁定戦(アービトレーション)で戦った相手だもの」


 千歳がわずかに身構えた。瑠衣は──腕を組んだまま、紫苑を真っ直ぐ見返した。


「初めまして、じゃないな。ベネリでお前んとこの仲間を吹っ飛ばしたのは覚えてるぜ、白薔薇(しろばら)


「隣の部屋で聞こえたわ、あのショットガンの音。──今日は敵ではないけれど」


「わかってる。──凛が信用してる奴を、あたしも信用する」


 紫苑がわずかに目を細めた。何かを測っている。そして──小さく頷いた。


「では、本題に入るわ」


 紫苑がデータ端末を操作し、地図を表示した。四人の顔が青白い画面の光に照らされた。


「鋼町エリア。黒羽工科学園くろばねこうかがくえんの管轄区域。──ここに、クロウテック社の物流倉庫がある」


 地図上に、赤い点が示された。鋼町エリアの北東。工業区画の中にある中規模の建物。


「倉庫は黒羽工科学園の風紀部隊(ヴィジランテ)の管轄区域内にある。つまり──黒羽を通過しなければ到達できない」


「黒羽の風紀部隊(ヴィジランテ)の規模は」凛が聞いた。


「確認できている限りで、常時展開している部隊は二個小隊。約二十名。──ただし、黒羽の戦力は人数ではなく装備にある」


 紫苑が画面を切り替えた。ドローンの写真。小型の飛行型と、地上走行型の二種類。


「黒羽工科学園は、クロウテック社の技術支援を受けてドローン監視システムを運用している。鋼町エリア全域に、飛行型ドローンが常時三機から五機パトロールしている。地上型は倉庫周辺に固定配備。加えて──」


「電子戦装備」凛が言った。


「ええ。通信妨害ジャミング能力。黒羽のエリアに入った瞬間、通常の通信チャンネルは使えなくなる。インカムも端末も──妨害対策をしていなければ、全滅する」


 千歳が息を呑んだ。


「通信が使えない──って、お互いの位置もわからなくなるの?」


「そうよ。だから、事前にルートと行動パターンを全員が頭に入れておく必要がある。通信が使えない前提で動く」


「蒼風のゲリラ戦とは、全然違う」瑠衣が言った。


「全く異なる戦闘になるわ。蒼風は地の利を活かした人対人の戦闘。黒羽は──機械対人。ドローンの監視を掻い潜り、電子戦装備を無力化しながら、倉庫に到達する必要がある」


 紫苑が端末を操作し、新しい画面を表示した。侵入ルートの叩き台。


「侵入経路は二つ検討した。一つ目──鋼町エリアの南から正面突破。メリットは距離が短い。デメリットは監視密度が最も高い。却下」


「二つ目は」


「鋼町エリアの東。工業用水路のトンネルを使って、地下から接近する。トンネルは黒羽の監視システムのカバー範囲外。出口は倉庫から約二百メートル。──地上に出てから倉庫までの二百メートルが、勝負になる」


 凛は地図を見つめた。工業用水路。地下トンネル。──暁嶺の朝凪エリアとは全く異なる地形だ。


「チーム構成は」


「最小人数で動くべきよ。大人数は発見されるリスクが上がる。──四人」


「四人──私と千歳と瑠衣、そして紫苑」


「ええ。それぞれの役割は──」


 紫苑が一人ずつ顔を見た。


「私が電子戦対策と情報収集を担当する。白薔薇の情報部隊が使う妨害対抗装置を持ち出してある。全員のインカムに装着すれば、妨害下でも短距離通信が可能になるわ。──ただし、有効範囲は百メートル程度」


「桜庭千歳。あなたは後方支援。トンネルの出口で退路を確保して。私たちが倉庫から戻るまで、出口を守ることが最優先」


 千歳が頷いた。「わかった」


「鷹宮瑠衣。近接戦闘はあなたの領分ね。倉庫内で接敵した場合、排除を頼む」


 瑠衣がベネリM4のストックを叩いた。「任せろ」


「御崎凛。あなたは倉庫内で証拠の特定と回収を行う。製造記録のデータ端末、実弾サンプル、出荷記録の原本──押さえるべきものは三つ。すべて揃えば、クロウテック社は逃げられない」


 凛は頷いた。


「作戦日は」


「明後日の夜。──私が聖樹館で動ける最後の日になるわ」


 紫苑の声が、わずかに硬くなった。最後の日。白薔薇の隊長としての、最後の行動。


「紫苑。──お前は、これが終わったらどうなる」


「聖樹館に戻って、再審査を受ける。結果は見えているけれど」


「解任か」


「おそらくね。──でも、それはいいの。証拠さえ押さえれば、私が白薔薇の隊長でなくなっても、情報は残る。統括事務局に提出すれば──」


「お前一人に責任を被せるつもりはない」凛が言った。「証拠の提出は、暁嶺と蒼風と聖樹館の三校連名で行う。紫苑個人の行動ではなく、三校の共同告発という形にすれば──聖樹館の上層部も、お前を切り捨てにくくなる」


 紫苑が──一瞬、目を見開いた。


 すぐに元の冷たい表情に戻ったが、あの一瞬の驚きは──本物だった。


「……政治的な判断ね。悪くない」


「氷室から学んだことだ」


「なるほど。──あの人の弟子だけはあるわね」


 紫苑が端末を閉じた。青白い光が消え、配水塔の暗がりが戻った。


「詳細は明日までにデータで送る。暗号化チャンネルで。──全員、侵入ルートの暗記と装備の点検を。通信が使えない前提での行動手順を頭に入れておいて」


「了解だ」


 紫苑が背を向けた。G36Cのストックが、白い制服の上で揺れた。


「紫苑」


 凛が声をかけた。紫苑が足を止める。


「何」


「さっき凪沙から送られてきたメッセージだ。──『蒼風の弾薬から実弾が四十三発見つかった。証拠はそっちに渡す。好きに使え』。それと──」


 凛は端末の画面を紫苑に向けた。


「『暁嶺の凛って奴に伝えろ。あたしたちの正義を汚した連中に──蒼風は黙らない。必要なら、蒼風も動く』」


 紫苑が半身だけ振り返った。闇の中で、紫色の瞳が画面の光を反射した。


「神代凪沙。──面白い子ね」


「お前と同じ種類の人間だよ」瑠衣が横から口を挟んだ。「追い詰められても折れない。覚悟を決めた目をしてる。──お前が前に言ったろう、鏡で見たことがあるって」


 紫苑は瑠衣を見て、答えなかった。だが──口角がわずかに上がった。笑みと呼べるかどうかも怪しい。けれど、確かにそれは──肯定だった。


「明後日の夜。──全員、生きて帰るわよ」


 紫苑がフェンスの隙間を抜け、闇に消えた。


---


 分隊室に戻ったのは二十三時過ぎだった。


 千歳はすぐにM4A1の分解整備に取りかかった。瑠衣はベネリM4の弾倉を確認し、予備の制圧弾(サプレスラウンド)を数えている。


 凛は作戦テーブルについて、ノートを広げた。紫苑から伝えられた情報を書き起こす。侵入ルート、ドローンの監視パターン、通信妨害の範囲、倉庫の構造。


 書きながら──目がロッカーの横に向いた。


 M700。楓のRemington。壁に立てかけたまま。スコープのレンズは割れている。


 あの銃で──楓は何を見ていたのか。最後にスコープを覗いた時、何が見えていたのか。


 答えはない。楓は何も残さなかった。


 ──だが。


 凛はペンを置いた。


 氷室が言った。「答えが出ないからといって、問うことをやめた人間は、人の上に立つ資格がない」。


 楓は──問い続けた人間だった。貧しかったから、銃を取った。銃しか取り柄がないと思っていた。でも「銃で奪い取るのは違う」と答えた。守る側に立つと決めた。


 楓の答えは──正しかったのか。正しかったとしても、楓は死んだ。正しさは楓を守らなかった。


 それでも──楓は、行動を起こす直前までスコープを覗いていた。問い続けていた。自分の正しさを、行動で示し続けていた。


 凛はM700を見つめた。


 ──正しさの答えは、まだ出ない。


 だが──問い続ける。楓がそうしたように。凪沙がそうしているように。紫苑がそうしているように。


 氷室の問い。「お前にとっての正しさとは何だ」。


 答えは──まだない。


 でも、明後日の夜。鋼町エリアの地下トンネルに潜る時──凛は、答えを探しに行くのだ。楓を殺した構造を暴くこと。それが正しいかどうかはわからない。復讐なのかもしれない。正義なのかもしれない。どちらとも言えないのかもしれない。


 灰色だ。白でも黒でもない。


 ──だが、灰色でも。立ち止まるよりは、歩いた方がいい。


 凛はペンを取り直し、作戦メモの続きを書いた。


 窓の外は夜だった。曇天。星はない。──だが、明後日の夜も同じ空だろう。灰色の空の下で、灰色の正義を貫く。


 それが──凛にできる、今の精一杯だった。


---

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