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【第二巻】 第十一章「灰の中の手」

 楓が死んで、三日が経った。


 裁定戦(アービトレーション)第十四号は統括事務局の判断により「戦死者発生に伴う一時中断」として凍結された。蒼風(そうふう)暁嶺(ぎょうれい)の間の裁定は保留。再開の見通しは立っていない。


 凛は分隊室にいた。


 作戦テーブルの上には情報班からの報告書が数枚、未読のまま積まれている。普段なら朝一番で目を通すそれらに、凛は三日間、手をつけていなかった。


 椅子が一つ余っている。


 楓が座っていた場所だ。窓際から二番目。テーブルの端に近い位置。楓はいつもそこに座り、M700のスコープを磨きながら、情報班の報告を淡々と読み上げていた。「凛先輩、追加報告です」と。抑揚のない声で。


 その椅子には誰も座らなかった。千歳が分隊室に入る時、楓の椅子を避けるように歩く。瑠衣は——楓の席を見ないようにしている。視線を逸らす。あからさまに。


 凛だけが、その椅子を見ていた。


 見ることをやめたら、楓がここにいた証拠が消えてしまう気がした。椅子の座面についたかすかな傷。楓がM700のバイポッドをテーブルに置いた時につけた傷。ストックの角がぶつかった跡。——そういう些細な痕跡だけが、ここに残っている。


 P226は腰にある。弾倉は満タンのまま。三日間、一度も抜いていない。


---


 昼。食堂。


 千歳がオムライスを持ってきた。瑠衣は焼肉定食。凛は——白米と味噌汁だけだった。


「凛、それだけ?」


 千歳が心配そうに言った。凛は箸を持ったまま、味噌汁を一口啜った。


「食欲がない」


「三日間ずっとそう言ってる。体がもたないよ」


「……わかっている」


 瑠衣は何も言わなかった。焼肉を黙々と食べている。——大盛りではなかった。普通盛り。千歳はそれに気づいていたが、触れなかった。


 食堂のテーブルに、四人分の席がある。三人が座っている。一つが空いている。


 楓はいつも鮭定食か、うどん系のどちらかを選んでいた。迷うことはなかった。メニューを見て、三秒で決める。「きつねうどんで」と短く言って、トレーを持って席につく。それだけのことが——もう、起きない。


「……楓ちゃんの、お母さんに連絡って」


 千歳が小さな声で言った。


「氷室総隊長が対応してくれた」凛が答えた。「久瀬家には暁嶺から弔慰金が出る。弟二人の学費支援も継続されると聞いている」


「そう……」


 千歳がスプーンを置いた。オムライスは半分残っている。


「ねえ、凛」


「何だ」


「——楓ちゃんは、ちゃんと弔われたのかな。暁嶺の生徒として。第三分隊の一員として」


 凛は箸を止めた。


「……事務局の規定では、裁定戦(アービトレーション)中の戦死者は当該学園の責任で——」


「規定の話じゃなくて」千歳が遮った。「凛は——楓ちゃんに、ちゃんとさよならを言えた?」


 凛は答えなかった。


 さよなら。そんな言葉を口にする機会は、なかった。楓は何も言わずに倒れた。凛は何も言えなかった。「楓、応答しろ」——それが最後の呼びかけだった。応答はなかった。


 さよならを言うには——最期の言葉が必要だ。沙耶は言葉を残してくれた。だから凛は、あの言葉にすがることができた。「守るために——あるんだよ」と。


 楓は何も残さなかった。残す暇もなかった。だから凛は——何にすがればいいのかわからない。


「……まだ、言えていない」


 凛の声は低かった。


 千歳が頷いた。何かを言いかけて、やめた。代わりに、凛の味噌汁の隣に小皿を置いた。漬物。食堂の端にあるセルフサービスのぬか漬けだ。


「食べて。少しでも」


 凛は漬物を一切れ口に入れた。塩気が舌に広がった。——味はわかる。体は生きている。


 楓は、もう味を感じない。


---


 その夜。


 凛が分隊室で報告書に目を通していた時、端末が鳴った。


 暗号化された個人間通信。発信者ID非表示。——六日前と同じ形式。


 心臓が一拍、跳ねた。


 メッセージを開いた。


『旧配水塔。二十分後。——白薔薇(しろばら)


 凛は端末を閉じた。


 P226のホルスターを確認した。三日ぶりにスライドを引いた。乾いた金属音。薬室に弾が送り込まれる感触が、掌を通じて伝わった。


 分隊室には千歳がいた。端末に報告書を打ち込んでいる。


「千歳。少し外に出る」


 千歳が顔を上げた。凛の表情を見て——何かを察した。


「……一人で?」


「ああ。巡回ルートの確認だ」


 嘘だった。千歳はそれをわかっている。だが、追及しなかった。


「——一時間。それ以上戻らなかったら、氷室総隊長に連絡する」


「わかった」


 凛は分隊室を出た。背中に、千歳の視線を感じた。


---


 旧配水塔。朝凪エリア南西。


 前回と同じ場所。錆びたフェンスの向こうに、コンクリートの円筒が灰色の闇に溶けていた。街灯の光が届かない。空は曇天。星もない。


 凛が裏手に回ると、壁に背をつけた人影があった。


 白のスタンドカラージャケット。金のトリミング——はもう見えない。制服は同じだが、装飾がさらに減っていた。肩章が外されている。白薔薇のエンブレムも、以前は襟元にあった聖樹館(せいじゅかん)の部隊徽章も——すべてなくなっている。


 白百合紫苑(しらゆり しおん)


 右頬の絆創膏は外れていたが、その下に薄い傷跡が残っていた。そして——新しい傷が左の鎖骨のあたりにあった。制服の襟から覗く包帯。


「……来てくれたのね」


 紫苑の声は前回と同じだった。冷たく、透明で、感情を排除した声。——だが、どこかに疲労の翳りがあった。前回にはなかったもの。


「紫苑。——その傷は」


「聞かないで。時間がないの」


 紫苑が壁から背を離した。前回はワルサーP99だけを携帯していたが、今回は——腰の後ろにもう一つ、何かを入れたポーチを下げている。データ端末。


「前回会った時、クロウテック社の名前を伝えたわ。——あの後、調べた?」


「こちらでも確認を試みた。だが暁嶺の情報網ではクロウテック社の内部に入り込む手段がない。名前の確認までが限界だった」


「予想通りね。——だから私が持ってきた」


 紫苑がポーチからデータ端末を取り出した。薄い軍用規格の端末。聖樹館の情報部隊が使うタイプだ。


「白薔薇の情報網で三日間かけて集めたものよ。——正確には、白薔薇の残存メンバーのうち、まだ私に協力してくれる七名が命懸けで集めた」


 紫苑の声が、ほんのわずかに硬くなった。「命懸け」という言葉に感情が滲んだ。一瞬だけ。すぐに消えた。


「内容は」


「三つ。順番に説明するわ」


 紫苑が端末の画面を凛に向けた。暗い配水塔の影の中で、青白い画面の光が二人の顔を照らした。


「一つ目。クロウテック社が蒼風に対して行った武器供給の全容。CZブレン2を十五丁、弾薬──制圧弾(サプレスラウンド)の名目で五千発、個人装備品としてタクティカルベストと通信機器を一式。供給ルートは黒羽工科学園くろばねこうかがくえんの鋼町エリアにあるクロウテック社の物流倉庫を経由している。出荷記録の写しが取れた」


 紫苑が画面をスクロールした。出荷日時、品目、ロット番号。——凛の目が数字を追った。CZブレン2のロット番号は、前回紫苑が言っていたものと一致している。


「二つ目。対狙撃探知システム。スコープ反射光検出型──クロウテックの軍事部門が開発した試作品。制式採用前のプロトタイプで、本来なら外部に出回るものじゃない。これが蒼風に──正確には蒼風の戦場に、配備された」


「蒼風に、ではなく?」


「ええ。ここが重要なの」


 紫苑が凛の目を見た。紫色の瞳に、冷たい光が宿った。


「あの対狙撃システムを操作していたのは蒼風の生徒じゃない。クロウテック社の技術要員よ。そして——あの日、西の路地にいた狙撃手」


 凛の呼吸が止まった。


「あの狙撃手も、蒼風の人間ではない。クロウテック社が派遣した外部の射手」


 凛の右手がP226のグリップに触れた。指先が震えている。——楓を殺した弾。あの弾を撃ったのは蒼風の生徒ではなかった。


「確証は」


「対狙撃システムの操作記録から辿った。システムの操作ログには、接続端末のIDが記録される。そのIDは蒼風の通信機器ではなく──クロウテック社の社内端末のものだった。狙撃手については──聖樹館の情報部隊が、裁定戦(アービトレーション)当日に黄昏エリア周辺で不審な車両を目撃している。ナンバーはクロウテック社の社用車と一致」


 凛の歯が軋んだ。


「——つまり。楓を殺したのは蒼風ではなく、クロウテックの人間だ」


「構図はそうなるわ。ただし——」


 紫苑が一拍、間を置いた。


「三つ目。これが最も深刻」


 紫苑が端末の画面を切り替えた。弾薬の仕様書。製造番号。そして——成分分析のデータ。


「クロウテック社が蒼風に供給した弾薬五千発。名目は制圧弾(サプレスラウンド)——セラミック弾頭、低貫通力、致死性なし。裁定戦(アービトレーション)で使用が認められる規格のもの。ロット番号も制圧弾(サプレスラウンド)の規格と一致している」


「だが」


「混入しているの」


 紫苑の声が、わずかに低くなった。


「五千発のうち、推定で百発から二百発。制圧弾(サプレスラウンド)と同じケースに、同じ外装で——中身だけが実弾に入れ替えられている。7.62ミリNATO弾。鋼芯のフルメタルジャケット。——外見では判別できない。重量もほぼ同じになるよう調整されている。蒼風の生徒が装填しても、気づかない」


 凛の思考が凍りついた。


 制圧弾(サプレスラウンド)に偽装された実弾。


 つまり——蒼風の生徒たちは、自分が何を撃っているか知らない可能性がある。引き金を引いて、制圧弾(サプレスラウンド)だと思っている。だが百発に数発、本物の弾が混じっている。当たれば——殺せる。


 楓の額を撃ち抜いた弾。あれは外部の狙撃手が撃ったものだ。だが、蒼風の一般兵が撃ったCZブレン2の弾の中にも——実弾が混じっていた可能性がある。


「——凪沙は知っているのか。この事実を」


「わからない。でも——」


 紫苑が少しだけ首を傾けた。考えを整理するように。


神代凪沙(かみしろ なぎさ)の性格と行動パターンから推測すると、知らない可能性が高い。彼女は蒼風の生徒を守るために立ち上がった。その生徒たちに、知らないまま実弾を撃たせる——もし発覚すれば蒼風の生徒が殺人の罪に問われる。凪沙がそんなリスクを許容するとは思えないわ」


「……だとすれば」


「クロウテック社は蒼風を利用している。武器を渡して武装蜂起させ、鳴神区(なるかみく)の均衡を崩す。その過程で蒼風の生徒に——知らないまま殺人をさせる。蒼風が暴走した犯罪者集団になれば、学園自治の正当性が揺らぐ。そうなれば——」


「外部の企業が介入する口実ができる」


「ええ。鳴神区の学園自治は、あくまで生徒の自治が機能している前提で認められている。殺人が横行する無法地帯になれば、行政が介入する。その時——」


「クロウテック社が治安維持の名目で——」


「利権を手に入れる。学園自治の解体と、鳴神区の再開発。クロウテック社の親会社は不動産と防衛産業を兼ねている。鳴神区が学園自治特区でなくなれば、土地利用の制限が外れる」


 凛は配水塔のコンクリート壁に背をつけた。頭が重い。情報の量が——感情を押し潰す。


 月詠(つくよみ)の時と同じ構造だ。少女たちが銃を持って戦う裏側で、大人が糸を引いている。月詠は政府の工作だった。今度はクロウテック社。——手口は違う。だが構造は同じだ。


 楓が死んだ。楓は——構造的な不公平の中で、正しくあろうとした。貧しかった。銃しか取り柄がないと思っていた。でも「銃で奪い取るのは違う」と言った。守る側に立つと決めた。


 その楓を殺したのは、蒼風でも凪沙でもなく——企業の利益計算だった。


「——紫苑」


「何」


「お前は——この情報を、何に使うつもりだ」


 紫苑が凛を見た。暗がりの中で、紫の瞳だけが鋭く光った。


「暴くわ。クロウテックの陰謀を。——そのために、物理的な証拠が必要。データだけでは統括事務局を動かせない。出荷記録の写しは状況証拠にはなるけれど、改竄の疑いを否定できない」


「物理的な証拠とは」


「クロウテック社の鋼町エリアの物流倉庫。そこに実弾混入の製造ラインがある。製造装置そのものを——あるいは現物の実弾サンプルと製造記録の原本を押さえれば、言い逃れはできない」


「黒羽工科学園のエリアに潜入するということか」


「ええ」


 凛は息を吐いた。


 黒羽工科学園。鋼町エリアを管轄する工業系の学園。ドローンや電子戦装備を駆使する技術特化型の風紀部隊(ヴィジランテ)を持つ。暁嶺とは直接の利害関係がなく、これまで接点はほとんどなかった。——だが、スポンサーがクロウテック社である以上、敵地そのものだ。


「一人で行くつもりか」


「一人では無理よ。黒羽のセキュリティはドローン監視と電子戦が主体。私一人で突破できる規模じゃない。——だからあなたに話している」


「暁嶺に共同作戦を持ちかけている、と」


「そうよ」


 紫苑の声に、迷いはなかった。


「紫苑。お前は聖樹館で失脚寸前だと言った。白薔薇の隊長を解任されるかもしれないと。——その状態で、黒羽に潜入する作戦に参加する余裕があるのか」


 紫苑が薄く笑った。——笑みと呼べるかどうかも怪しい。口角がほんのわずかに上がっただけだ。


「余裕がないから——今やるの」


「……どういう意味だ」


「白薔薇の隊長を解任されたら、私は聖樹館の情報網にアクセスできなくなる。部隊を動かす権限も失う。今、私が動けるのは——あと数日。それを過ぎたら、この情報は死蔵されるわ。誰にも届かないまま」


 紫苑が凛に一歩近づいた。


御崎凛(みさき りん)。あなたに選択肢を与えているの。——元敵の手を取るか、断るか」


 凛は紫苑を見た。


 白薔薇のマントがない背中。肩章が外された制服。鎖骨の包帯。——聖樹館の中で孤立し、味方を失いつつある紫苑。それでも、証拠を集め、凛のもとに持ってきた。


 楓を殺した構造を——暴くために。


「——なぜだ」


 凛の声は低かった。


「なぜ、そこまでする。お前は聖樹館の人間だ。クロウテックの陰謀を暴いても、お前にとっての利益は——」


「利益?」


 紫苑の声が、一瞬だけ鋭くなった。すぐに元の冷たさに戻ったが——あの一瞬は、感情だった。


「私は——白薔薇の隊長として、聖樹館の生徒を守ると決めた。覚えているでしょう。前にも言ったわ」


「ああ」


「クロウテック社の陰謀が続けば、次に殺されるのは聖樹館の生徒かもしれない。蒼風だけの問題じゃない。制圧弾(サプレスラウンド)に実弾を混ぜるような企業が、この鳴神区で野放しになっている。——それを許容できないの。利益の話ではないわ」


 紫苑が背を向けた。


「それに——」


 一歩、歩き出してから、紫苑は足を止めた。振り返らなかった。


久瀬楓(くぜ かえで)。——あの子は、いい狙撃手だった。裁定戦(アービトレーション)の情報は聖樹館にも入ってきていたわ。一年生であの精度。将来を考えれば、鳴神区でも有数のスナイパーになれた」


 凛の喉が詰まった。


「あの子が——技量で負けたなら、私は何も言わない。戦場ではそういうこともある。でも、そうじゃなかった。外部の企業が持ち込んだシステムで位置を暴かれ、外部の狙撃手に撃たれた。あの子の技術とは何の関係もない。——そういう死に方を、私は許せない」


 紫苑の声は最後まで冷たかった。だが——冷たさの向こうに、静かな怒りがあった。凛にはそれがわかった。


 同じ怒りを、凛も抱えている。


「……わかった」


 凛は言った。


「作戦の詳細を詰める。——暁嶺としてではなく、第三分隊として動く。分隊のメンバーには私から話す」


「ありがとう」


「——礼はいらない。お前の利益じゃないと言ったろう。私も同じだ」


 紫苑が半身だけ振り返った。夜の闇の中で、銀色がかった髪が風にわずかに揺れた。


「三日後の夜。作戦日程と侵入ルートの叩き台を持ってくるわ。同じ場所で」


「了解した」


「——それと、御崎」


「何だ」


「神代凪沙に、実弾混入の事実を伝えるかどうか。それはあなたの判断に任せるわ。ただ——」


 紫苑が少しだけ間を置いた。


「あの子に伝えるなら、証拠を揃えてからの方がいい。疑惑だけでは——信じてもらえないかもしれない。自分が利用されていたなんて——簡単には受け入れられないから」


「……経験者の言葉か」


 紫苑は答えなかった。代わりに、小さく息を吐いた。白い吐息が夜気に溶けた。


「——では」


 紫苑が歩き出した。フェンスの隙間を抜け、暗がりの中に消えていく。白い制服が闇に沈む。マントのない、肩章のない、装飾を剥ぎ取られた背中。


 だがその背中は——前回よりも、まっすぐだった。


 守るべきものを見つけた人間の背中だ。追い詰められてなお——折れていない。


 凛はしばらくその場に立っていた。夜風が冷たかった。配水塔のコンクリートが暗い影を落としている。遠くで犬が吠えた。——日常の音。銃声のない夜。


---


 分隊室に戻ったのは二十二時を過ぎた頃だった。


 千歳は——まだ起きていた。報告書の入力はとうに終わっているはずだが、端末を膝に置いて、入口のドアを見ていた。凛が入ってきた瞬間、千歳の表情がわずかに緩んだ。安堵。


「おかえり」


「ただいま」


「……巡回ルートの確認、長かったね」


 皮肉ではなかった。千歳なりの「聞かない」という選択。


「千歳。——明日、瑠衣も含めて話がある。分隊全員に共有するべき情報だ」


 千歳が凛の目を見た。


「今まで伏せていた情報?」


「……ああ。クロウテック社。——楓を殺した企業の名前だ」


 千歳の瞳が揺れた。唇を引き結んだ。三秒。——それから、静かに頷いた。


「わかった。明日、聞くよ」


「すまない。もっと早く共有するべきだった」


「凛が判断してタイミングを待ったんでしょ。——私、もう怒らない。凛がそうしたなら理由がある。でも——」


 千歳が人差し指を立てた。


「次からは、悩んでる顔くらい見せてよ。『一人で判断しなきゃ』って顔してるの、全部わかるんだからね」


 凛は——少しだけ、口元が緩んだ。自覚はなかった。だが千歳の言葉が、三日間凍りついていた何かを、ほんの少しだけ溶かした。


「……善処する」


「善処って——もう」


 千歳が苦笑した。


 分隊室の窓から、夜の空が見えた。曇天。星はない。灰色の雲が、鳴神区の上に低く垂れ込めている。


 凛はロッカーの横に立てかけてあるM700に目をやった。楓のRemington。あの日、凛が肩にかけて持ち帰った銃。スコープのレンズは割れたままだ。——まだ、修理していない。修理する気にもなれなかった。


 だが——いつか。この銃を、あるべき場所に置く日が来る。楓が守ろうとしたものを、ここに残すために。


 今は——まだ。


 凛はP226のホルスターを外し、ロッカーに入れた。そしてベッドに腰を下ろした。


 三日間で初めて、眠れる気がした。


 灰の中から——手が差し伸べられた。冷たい手だった。けれど、確かに。


---

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