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【第二巻】 第九章「旧市街の死線」

 午前六時。黄昏エリア西部。旧市街。


 空は灰色だった。低い雲が鳴神区(なるかみく)の上空を覆い、朝日は見えない。気温十一度。風はほぼ無風。──狙撃には好条件だ。


 凛は旧市街の入口に立ち、廃墟の街並みを見渡した。


 かつてはここも普通の商店街だった。八百屋、魚屋、クリーニング店。看板だけが残り、ショーウインドウは割れ、歩道には雑草が生えている。月詠(つくよみ)が管轄していた頃はまだ人が住んでいたが、月詠の壊滅後に住民は去り、今は無人の廃墟だ。


 コンクリートの壁に亀裂が走り、路地の奥は暗い。電柱が傾き、電線が垂れ下がっている。空き缶やペットボトルが風に転がる音だけが、静寂を破っていた。


「全員、最終装備チェック」


 凛の声に、四人が応答する。


御崎凛(みさき りん)。P226、マガジン四本。MP5K、マガジン三本。制圧弾(サプレスラウンド)計百五十発。無線機、双眼鏡、応急処置キット。以上」


桜庭千歳(さくらば ちとせ)。M4A1、マガジン八本。予備のGlock 17、マガジン二本。制圧弾(サプレスラウンド)計二百七十四発。スモークグレネード二個。以上」


「桐島瑠衣。ベネリM4、シェル三十六発。予備のCZ P-09、マガジン二本。タクティカルシールド。以上」


久瀬楓(くぜ かえで)。Remington M700、制圧弾(サプレスラウンド)二十発。予備のP230、マガジン二本。以上」


 最後に、第一分隊から派遣された佐伯が報告した。


「佐伯遼。MP7A1、マガジン六本。フラッシュバン三個。制圧弾(サプレスラウンド)二百四十発。以上」


 凛は頷いた。全員の装備に問題はない。


「作戦を再確認する。目標は旧市街中央の五階建てビル──旧・黄昏ビジネスホテル。ここを制圧拠点にする。楓が五階から狙撃で戦場を制圧、千歳と佐伯が三階で近接警戒、瑠衣が一階入口を固める。私は五階で楓と共に全体指揮」


「了解」四人の声が重なった。佐伯だけが一拍遅れて「了解です」と付け加えた。


「──行くぞ」


 凛はP226のスライドを引き、薬室に制圧弾(サプレスラウンド)を送り込んだ。乾いた金属音。五人が旧市街の路地に入った。


---


 廃墟の街を進む。


 凛が先頭、瑠衣がシールドを構えて右側面、千歳が左側面、佐伯が後方警戒。楓はM700を背負い、凛のすぐ後ろについている。狙撃手は戦場に着くまで最優先で保護する──それが基本だ。


 路地は狭かった。両側にコンクリートの建物が迫り、上を見上げると灰色の空が細い帯のように見える。壁には落書き。蒼風(そうふう)のものか──白いスプレーで「正義は弱者の手にある」と書かれていた。


「……凪沙の言葉だ」


 瑠衣がぼそりと呟いた。凛は聞こえたが、何も言わなかった。


 二つ目の交差点を右に曲がると、旧商店街の通りに出た。正面に五階建てのビルが見える。外壁が灰色に汚れ、窓ガラスはほとんど割れている。だが構造は堅牢だった。鉄筋コンクリート造。五階建て。──ここが、今日の戦場の中心になる。


「楓、入口を確認しろ」


 楓がM700のスコープでビルの入口付近を確認した。


「入口──クリア。人影なし。一階ロビーの窓から内部が見えます。──荒れていますが、トラップの痕跡は確認できません」


「よし。瑠衣、先行」


 瑠衣がシールドを構えてビルに突入した。凛が続き、千歳、楓、佐伯の順で入る。


 一階はホテルのロビーだった跡地。フロントカウンターが残り、壁紙は剥がれ、天井のシャンデリアが傾いてぶら下がっている。埃の匂い。カビの匂い。──だが、硝煙の匂いはない。まだ誰も撃っていない。


「一階クリア」瑠衣が報告した。


 五人は階段を上がった。二階──空の客室が並ぶ廊下。三階──同じく。四階──窓からの採光で少し明るい。五階。


 五階は屋上に近く、窓が大きかった。角部屋に入ると、旧市街の大半が見渡せた。楓が窓際に移動し、M700を据えた。バイポッドを展開し、ストックを肩に当て、スコープを覗き込む。


「──視界良好。西の路地から東の広場まで、ほぼ全域が見えます。三百メートル圏内に建物が十二棟。うち三棟が三階建て以上──狙撃ポイントとして警戒が必要です」


「蒼風の姿は」


「……今のところ、見えません。どこかに潜んでいます」


 凛は双眼鏡を構え、楓の報告を照合した。旧市街の廃墟が広がっている。建物と建物の間に路地。路地の奥に影。──だが、人の影は見えない。


 蒼風は、最初から姿を見せるつもりがない。


「千歳、佐伯。三階に降りろ。階段と非常口を押さえてくれ」


「了解」千歳が頷き、佐伯を連れて三階に降りた。


「瑠衣、一階」


「わかった」


 瑠衣がベネリを肩にかけ、階段を降りていった。


 五階に残ったのは凛と楓。凛はインカムを確認した。


「全員、通信チェック」


『千歳、感度良好』

『瑠衣、問題ない』

『佐伯、受信良好です』


「楓は」


「隣にいるので、直接で」


「そうだな」


 凛は窓から旧市街を見た。灰色の空。灰色の建物。灰色の道路。──灰色の戦場。


 午前六時二十八分。裁定戦(アービトレーション)の開始は〇六三〇。あと二分。


 凛は呼吸を整えた。心拍数が上がっているのがわかる。指先が冷たい。P226のグリップに触れた。──温かい。自分の体温が、金属に移っている。


 〇六三〇。


 遠くで、統括事務局の電子音が鳴った。甲高い、無機質な音。旧市街に反響し、廃墟の壁に跳ね返り、やがて消えた。


「──開始」


---


 最初の五分間、何も起こらなかった。


 楓がスコープで旧市街を走査し続けている。凛は双眼鏡で別の方角を見ている。千歳と佐伯が三階から、瑠衣が一階から、それぞれの視界を報告する。


 ──誰も、蒼風を見つけられなかった。


『凛。おかしい。全然出てこない』千歳の声がインカムに入った。


「わかっている。──楓、何か見えるか」


「動くものは……ありません。ただ──」


 楓がスコープから目を離し、凛を見た。


「西の路地。三番目の建物の裏手。──窓が一つだけ、布で塞がれています。他の窓は全部割れたままなのに。あそこだけ」


 凛は双眼鏡を向けた。確かに──一つの窓だけ、灰色の布が内側から張られている。


「観測拠点か」


「可能性があります。あの窓からは──このビルが見えます」


 凛は背筋が冷えるのを感じた。蒼風はこちらの拠点ビルを、最初から見張っている。


「全員に通達。蒼風はこちらの位置を把握している可能性が高い。窓から身を乗り出すな。動くときは壁際を使え」


『了解』

『了解』

『了解です』


 さらに二分。楓がスコープを覗いたまま、低い声で言った。


「──動きました。南西の路地。二名。灰青の制服。──CZブレン2を携行。移動速度は速い。建物の影を縫うように動いています」


「方角は」


「北東。──このビルの方向です」


「距離」


「二百四十メートル。射程内です。──撃ちますか」


 凛は一瞬考えた。


「……待て。二名は少なすぎる。残り三名がどこにいるかわからない。──陽動の可能性がある」


 瑠衣の声がインカムに入った。


『凛、凪沙の手だ。あいつはまず少人数で相手を引きつけて、注意が逸れた隙に本隊で側面を突く。──その二人は囮だ』


「了解。楓、二名を追跡しつつ、他の方角も警戒を続けろ」


「了解です」


 楓のスコープが微かに動いた。二名を視界の端に入れたまま、周辺を走査している。


 三十秒後──。


「北側。一名。──移動が速い。走っています。建物の屋上を──屋上から屋上へ飛び移っている」


 凛は双眼鏡を北に向けた。確かに──灰青の制服の人影が、二階建ての屋上を走り、隣の建物に飛び移った。身軽な動き。小柄な体。腰に二丁の拳銃。


 ──凪沙。


『瑠衣。北側に凪沙がいる。屋上を移動中だ』


 インカムの向こうで、瑠衣の息を呑む音が聞こえた。


『──どこだ。どこにいる』


「北側の二階建て群。屋上を東に移動している。──距離二百メートル。建物の稜線上を走っている」


『楓、撃てるか』瑠衣の声が鋭かった。


「──射線が通りません。建物と建物の間の瞬間しか姿が見えない。現在の移動速度では──命中は困難です」


『くそ──』


「瑠衣、落ち着け」凛が言った。「凪沙は自分から姿を見せている。こちらの注意を北に引きつけるつもりだ」


 そう言った瞬間──南西の二名が動いた。


「楓!」


「確認しています。南西の二名が加速──建物の影に入りました。──見えません」


 凛は地図を見た。南西の二名が建物の影に消えた位置から、このビルまでの最短ルート。路地を二つ抜ければ──百メートル以内に接近できる。


「千歳、佐伯。南西方向から接近する可能性がある。三階の南側窓を警戒しろ」


『了解。──見えないよ、凛。路地の角度的に、三階からだと死角になる』


「楓、南西の路地は見えるか」


「──角度が厳しい。ビルの一階部分が視界を遮っています。路地の奥は──見えません」


 死角。蒼風は、楓の狙撃が届かない場所を知り尽くしている。


『凛! 一階南側に物音!』


 瑠衣の声。低く、緊迫している。


「何が聞こえた」


『──缶が転がる音。近い。ビルの外壁沿い。南側──一階の非常口付近だ』


「佐伯、三階南側から確認できるか」


『非常口の真上の窓から──待ってください──見えました。二名。ビルの外壁に張り付いています。非常口に──手をかけて──』


 凛はインカムのボリュームを上げた。


「瑠衣、非常口から入ってくる。迎撃しろ」


『──任せろ』


 一階から、ベネリM4の轟音が響いた。


 重い、腹に響く発砲音。ポンプアクションの操作音。もう一発。


『一名、制圧弾(サプレスラウンド)で制圧! ──だが、もう一人が非常口の外に退避した』


「追うな。──罠だ」


 凛の声が鋭かった。瑠衣の動きが止まったのが、インカムの静寂でわかった。


「凪沙のやり方だろう、瑠衣。逃げた一人を追わせて、ビルから引き剥がす」


『──わかってる。わかってるけど──』


 瑠衣の声が、揺れていた。怒りではない。──凪沙の戦術を知っているがゆえの、苦い感情だった。


「楓、北側の凪沙は」


「──消えました。屋上から降りたようです。現在の位置は不明」


 凛は歯を噛んだ。凪沙は陽動で注意を引き、その間に南西の二名をビルに接近させた。瑠衣が迎撃に成功したが、一名は逃げた。──そして凪沙自身は姿を消した。


 五分間の戦闘。成果──蒼風一名を行動不能にした。だが凪沙の位置を見失い、残り三名の配置も不明。こちらの拠点がビルであることは完全に把握されている。


「──厄介だな」


 凛は呟いた。凪沙のゲリラ戦術は、瑠衣が警告した通りだった。正面からは来ない。注意を分散させ、死角を突き、少しずつ消耗させる。


---


 膠着状態が続いた。


 蒼風は散発的に姿を見せては消え、楓の狙撃圏外を巧みに移動した。凛は楓の報告を聞きながら、蒼風の動きのパターンを読もうとしていた。


「──先輩。蒼風の移動ルートに規則性があります」


 楓がスコープを覗いたまま言った。


「南西と北東を交互に移動しています。十五分から二十分の周期で。──こちらの注意を常に二方向に分散させるつもりです」


「わかった。──次の移動で射線が通る場所はあるか」


「南西から北東に移動する際、旧商店街の広場を横断するルートがあります。そこだけ──三秒ほど、遮蔽物のない空間を通過する。距離は百八十メートル」


「三秒で移動目標。──当てられるか」


「当てます」


 楓の声に、迷いはなかった。


 凛は頷いた。次の周期を待つ。楓がボルトを引き、新しい弾を薬室に送り込んだ。かちり、と金属音が静かな五階に響く。


 十二分後。


「──動きました。南西から北東へ。予想通りのルートです」


 楓の声が低くなった。スコープに集中している。呼吸が浅くなる。──そして、止まった。


「広場に──入ります。三、二──」


 M700の銃声。乾いた、重い単発の音。


 一秒の静寂。


「──命中。制圧弾(サプレスラウンド)、胴体に一発。行動不能です」


「よし。蒼風、残り三名」


 楓がボルトを引き、排莢した。薬莢が床に転がる。新しい弾を装填。ボルトを閉じる。──流れるような動作。


 蒼風の動きが変わった。楓の狙撃が通ることを認識し、広場を通るルートを使わなくなった。移動が慎重になり、建物の影から影へ、短い距離を走っては止まるようになった。


 楓の狙撃が、戦場の構造を変えた。


『凛。蒼風が委縮してる。動きが鈍くなった』千歳がインカムで報告した。


「楓の狙撃が効いている。──このまま圧力をかけ続ける」


 だが──凛は違和感を覚えていた。蒼風が委縮した。動きが鈍くなった。──それは、凪沙の戦い方ではない。凪沙は追い詰められた時こそ、大胆に動く。瑠衣がそう言っていた。


「瑠衣」


『何だ』


「凪沙が大人しすぎる。──何を考えていると思う」


 インカムの向こうで、瑠衣が沈黙した。数秒。


『……楓の位置を、特定しようとしてる』


 凛の背筋が凍った。


「楓。射撃位置を変えろ。同じ窓から撃つな」


「了解。──ですが、この階で射線が通る窓は三つしかありません。一つはすでに使用。残り二つも──」


「わかっている。だが同じ場所に留まるのは危険だ。蒼風に対狙撃の手段があるなら──」


 その時──。


 遠くから、声が聞こえた。


 拡声器を通した声。旧市街の廃墟に反響する、よく通る声。


「──暁嶺(ぎょうれい)ッ! うちの子二人もやってくれたじゃないか! 特にあの狙撃手──上手いねッ!」


 凪沙の声だった。


 凛はインカムのマイクを握った。


「全員、声に反応するな。位置特定のための挑発だ」


 だが──瑠衣のインカムから、呼吸が荒くなる音が聞こえた。


 凪沙の声が続く。


「なあ、暁嶺! あんたたちは恵まれてるよ! いい銃があって、いい狙撃手がいて! ──うちの子たちは型落ちの銃で、防弾ベストも満足にないのに、それでもここに立ってる! それでも戦ってるんだッ!」


 廃墟に反響する声が、壁と壁の間で揺れた。


『──凪沙……』


 瑠衣の声が漏れた。小さく。だが凛の耳には聞こえた。


「瑠衣。応答するな」


『わかってる。──わかってる、けど──』


 凪沙の声が止まった。拡声器のフィードバック音が消え、旧市街に静寂が戻る。


 ──挑発。だが、嘘ではない。凪沙の言葉は全部、事実だった。蒼風の生徒たちは型落ちの銃で戦っている。防弾ベストも十分ではない。それでもここに立っている。──それが、この戦いの残酷な非対称性だった。


「楓」


「はい」


「お前は──今の声を聞いて、どう思った」


 楓がスコープから目を離し、凛を見た。大きな瞳に、わずかな感情の揺れ。


「──撃ちます。私の仕事は、この位置から味方を守ること。それだけです」


 凛は頷いた。楓の答えは、昨日と同じだった。銃で奪わない。守る側に立つ。──それが、楓の正義だ。


「瑠衣。大丈夫か」


 インカムの向こうで、瑠衣が深呼吸する音が聞こえた。


『──ああ。大丈夫だ。凪沙の声は──あいつの武器だって、自分で言っただろ。引っかかるかよ』


 強がりだった。だが、瑠衣はベネリM4を握り直しているはずだ。凛にはわかった。


---


 戦闘が再開した。


 蒼風の残り三名が動き始めた。──だが、動き方が変わっていた。三方向から同時に。北、東、南。それぞれ一名ずつが、異なるルートでビルに接近してくる。


「楓、三方向だ。どこを撃つ」


「──北の一名。移動速度が最も速い。建物の間を、ほぼ走っています」


「北を。残り二方向は千歳と佐伯で対処する。千歳、東側。佐伯、南側」


『了解!』

『了解です!』


 楓がスコープを北に向けた。呼吸を止める。──引き金に指をかけ──


 M700の銃声。


「──外しました。建物の角に入られました」


「構わない。牽制になる。──次の動きを見ろ」


 三階から千歳のM4A1の連射音。パパパパパ──。東側の路地に向けた制圧射撃。


「千歳、状況」


『東の一名、路地の奥に後退! 追い返した!』


「佐伯」


『南は──まだ動きません。路地の角で止まっています。様子を窺っているようです』


 凛は地図を睨んだ。三方向から同時に接近──だが、全員がビルに突入するつもりではない。凪沙の狙いは何だ。


「楓。凪沙の位置は」


「──特定できません。三名とも凪沙ではない。凪沙はまだ──どこかに潜んでいます」


 三名が陽動。凪沙が本体。──だとしたら、凪沙は今どこにいる。


「瑠衣。凪沙なら、今どう動く」


『──全員の注意が北と東と南に向いてる。つまり──西が手薄だ』


 凛は西の窓に走った。双眼鏡を構える。


 ──いた。


 ビルの西側、裏手の路地。灰青のセーラー服にカーキのジャケット。壁に張り付くように移動している。右手にCZ 75、左手にVz.61スコーピオン。距離──五十メートル。近い。


「楓! 西、凪沙!」


 楓がM700を旋回させた。だが──西の窓の角度では、ビルの外壁自体が死角を作っている。凪沙はそれを知っている。


「──射線が通りません。ビルの外壁が──」


「千歳! 凪沙が西側から接近中! 距離五十!」


『三階から西は──見えない! 壁が邪魔だ!』


「瑠衣!」


『一階の西側──窓がない! 非常口だけだ。──行く!』


 瑠衣が一階の非常口に走る音が、インカムを通して聞こえた。


 凛は五階の窓から身を乗り出した。P226を構える。西の路地。凪沙の姿が見える。──だが角度が急すぎる。五階から真下に近い位置。命中は難しい。


 凛は引き金を引いた。制圧弾(サプレスラウンド)が路地のコンクリートに当たり、破片が散る。凪沙が一瞬足を止め──上を見上げた。


 目が合った。


 五階の窓と、路地の地面。四十メートルの高低差を挟んで、凛と凪沙の目が交差した。


 凪沙が──笑った。挑発的ではない。むしろ──楽しそうだった。「やるじゃないか」という顔。


 次の瞬間、凪沙は路地の角に飛び込み、姿を消した。


「──見失った。凪沙は西の路地から撤退した」


 凛は窓から体を引いた。息が荒い。


 ──危なかった。あと三十秒遅ければ、凪沙はビルの真下まで接近していた。一階の非常口を突破されれば、近接戦闘になる。凪沙の接近戦は──瑠衣が言う通り、厄介だ。


「全員、状況報告」


『千歳。東の一名は後退済み。三階異常なし』

『佐伯。南の一名も後退しました。追撃の様子はありません』

『瑠衣。非常口は無事。凪沙は来なかった──来る前に凛が追い払った、か』


「ああ。──だが、凪沙はこのビルの死角を完全に把握している。西側は楓の射線が通らない。今回は凛のP226で追い払えたが、次は通用しない」


 凛は壁に背をつけ、息を整えた。


 二十分の戦闘。蒼風二名を行動不能にした。だが凪沙を含む三名はまだ健在で、ビルの死角を使ったルートを確立しつつある。楓の狙撃が有効なのは東・北・南の三方向だけ。西は──穴だ。


「楓」


「はい」


「西側を補うには──お前がポジションを変える必要がある。五階の西側の部屋に移動すれば、西の路地も射線に入る。だが──」


「東と北の監視が手薄になります」


「そうだ。二つの窓を使い分ける以外にない。だが、ポジション移動の間は無防備になる」


 楓が頷いた。


「──やります。十秒あれば移動できます」


「次に蒼風が動いたら、指示を出す。それまでは現在位置を維持」


「了解です」


 凛はインカムのマイクを下ろし、灰色の窓の外を見た。


 蒼風は四十名の生徒を擁する学校だ。だが裁定戦(アービトレーション)に出てきたのは五名。──その五名のうち二名を落とした。残り三名。凪沙を含む三名。


 だが凪沙の戦術は、数の劣勢を前提にしている。少数で多方向から圧力をかけ、相手を翻弄する。旧市街というフィールドが、凪沙の戦い方に完璧に噛み合っている。


 ──この戦い、長引く。


 凛はそう思った。そして長引けば長引くほど、楓は同じ場所に留まり続けることになる。狙撃手が同じ場所に留まることの危険性を──凛は、知っていた。


 だが今は、他に手がなかった。


 灰色の空の下、旧市街の戦場は沈黙していた。蒼風がどこかで息を潜め、次の手を練っている。凪沙の燃える目が、路地の影のどこかから、このビルを見上げている。


 ──次の一手で、この戦いの行方が決まる。


 凛はP226のグリップを握り直した。指先は冷たかったが、金属は温かかった。


---

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