【第二巻】 第八章「彼女の答え」
裁定戦の実施日が、正式に通告された。
三日後。舞台は黄昏エリア西部──旧市街の廃墟地帯。暁嶺学院側チームは五名編成。蒼風高等学校も同じく五名。制圧弾による交戦を原則とし、相手チームの全員無力化、もしくは指定エリアの確保をもって勝敗を決する。
統括事務局からの文書を読み上げた後、氷室が会議室の全員を見渡した。
「出場メンバーは──第三分隊を中心に編成する。御崎、お前が作戦指揮を執れ」
凛は頷いた。第三分隊の四名に加え、もう一名。凛は東雲恭介の方を見た。
「東雲先輩。第一分隊から一名、援軍をお借りできますか」
「構わない。誰がいい」
「突撃要員。接近戦に強い人を」
東雲が顎に手を当て、少し考えた。
「第一分隊の佐伯を出そう。近接戦闘なら分隊でも一、二を争う。ただし指揮は御崎、お前に一任する。佐伯にはそう伝えておく」
「ありがとうございます」
氷室が椅子から立ち上がった。
「裁定戦の勝敗は、暁嶺学院の今後を左右する。だが──勝つためにメンバーを消耗させるような作戦は許可しない。全員が帰ってくること。それが最低条件だ」
──全員が帰ってくること。
凛はその言葉を反芻した。当然のことだ。制圧弾の裁定戦で、命を落とすことなどない。──はずだった。
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会議を終え、分隊室に戻った。
千歳が扉を閉めると同時に、凛は壁に掛かったホワイトボードの前に立った。旧市街の地図が貼ってある。楓が偵察で持ち帰った情報と、情報班がまとめた蒼風の兵力配置図。
「作戦概要を説明する」
凛がマーカーを手に取った。千歳と瑠衣が長椅子に座り、楓は窓際に立ってM700のスコープキャップを外していた。
「戦場は旧市街の西側。ここからここまでが戦闘エリア」
凛がマーカーで赤い四角を描いた。
「蒼風はこのエリアの地理を知り尽くしている。建物の構造、路地の抜け道、狙撃に適した高所──すべてが彼女たちの側にある。正面から市街地戦を挑めば、ゲリラ戦に引き込まれて消耗する」
「凪沙の得意な展開だ」瑠衣が低く言った。「あいつは正面衝突を嫌う。相手を走り回らせて、疲れたところを側面から叩く。──蒼風時代、あたしたちはそうやって格上の相手に勝ってきた」
「その通りだ。だから──こちらはゲリラ戦に付き合わない」
凛が地図上の一点を指した。旧市街の中央にある、五階建ての廃ビル。
「ここを制圧拠点にする。五階建てのビルで、周囲の建物より高い。楓がここに入れば、戦闘エリアの大部分を狙撃で制圧できる。蒼風が動くたびに楓が撃つ──相手を移動させないことで、ゲリラ戦を封じる」
「狙撃手を軸にした陣地戦」千歳が呟いた。「蒼風の機動力を殺す作戦か」
「ああ。楓の射程圏が、そのまま暁嶺の支配領域になる。千歳と佐伯が中層階で近接警戒、瑠衣が一階で入口を固める。私は楓と共に五階で全体指揮。蒼風が拠点に接近してきたら、近接組が迎撃する」
「──楓頼みの作戦だな」瑠衣が言った。冗談ではなく、確認の口調だった。
「その通りだ。楓の狙撃精度がこの作戦の生命線になる。──楓」
楓がスコープキャップを閉め、凛を見た。
「問題ありません」
抑揚のない声。だが、その目に迷いはなかった。
「距離三百メートル以内なら、移動目標でも外しません。五階からなら視界も十分です」
「スコープの調整は」
「今日と明日で完了させます」
凛は頷いた。楓がスコープキャップを再び外し、接眼レンズを布で拭き始めた。繊細な指先が、レンズの表面を丁寧になぞる。
この作戦は、楓のM700にすべてが懸かっている。凛はそのことの重さを、自分の肩に感じていた。
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翌日の夕方。
凛は訓練場の射撃レーンにいた。P226の射撃練習を終え、薬莢を拾い集めていた時──隣のレーンから、ボルトアクションの重い操作音が聞こえた。
楓だった。
M700を据え、スコープを覗き込み、遠距離の的を撃っている。──何度も。ボルトを引き、排莢し、次弾を装填し、また撃つ。その動作に一切の無駄がなかった。
凛は薬莢を箱に戻してから、楓のレーンに移動した。楓はもう一発撃ち終えたところだった。ボルトを引き、薬室を開放した状態でM700を台に置く。
「調整は」
「完了しました。百メートルでゼロイン、三百メートルで三センチ以内に収まります」
「十分だ」
楓が頷き、スコープの接眼部を覗き込んだ。的を確認しているのではなく──レンズの曇りを確かめているらしい。微かに息を吹きかけ、布で拭く。
「先輩」
「何だ」
楓がスコープから目を離し、凛を見上げた。小柄な体。銀色がかった黒髪のショートボブ。大きな瞳は普段、感情をほとんど映さない。──だが今、その目にはわずかな逡巡があった。
「蒼風の……生徒たちのことを、考えていました」
「蒼風の」
「はい。凪沙さんが言ったこと──貧しかったという話を、千歳先輩から聞きました」
凛は黙った。千歳が瑠衣から聞き、瑠衣が凛から聞いた話が──分隊の中で共有されている。当然のことだった。
「先輩。──私は、蒼風の子たちの気持ちが、わかります」
楓の声は平坦だった。いつもの報告口調。だが凛は知っていた。楓のこの口調は、感情を押し殺している時のものだ。
「私も、貧しかったから」
楓がM700のストックに手を置いた。使い込まれたウォールナットの木目に、指先が触れる。
「父が死んでから、母はパートに出ましたが、体が弱くて長く続きませんでした。弟たちの給食費を払えない月がありました。冬に灯油が買えなくて、毛布を三枚重ねて寝たこともあります」
凛は何も言わなかった。楓が続ける。
「蒼風の子たちも──たぶん、同じです。装備が足りない。食事が足りない。誰も助けてくれない。そういう毎日がどれだけ苦しいか──私は、知っています」
楓の指がストックの上で止まった。
「だからこそ──」
楓が凛を見た。
「銃で奪い取るのは、違うと思います」
凛は息を止めた。
「貧しさは──悔しいです。なぜ自分だけがこんな思いをしなければならないのかと、毎日思っていました。暁嶺のスカウトが来た時、母は泣きました。嬉しくて泣いたんじゃない。──でも、私は来ました。銃を握ることを選びました」
楓の声が、わずかに──震えた。旧市街での訓練後、銃を人に向ける罪悪感を語った時と同じ震え方だった。抑えようとしても、指先に漏れる振動。
「私が銃を握ったのは、奪うためじゃない。守るためです。家族を守るため。──それだけが、私がここにいる理由です」
凛は黙って聞いていた。
「凪沙さんの怒りは正しいと思います。蒼風が踏みにじられてきたことも、誰も助けなかったことも、本当のことだと思います。でも──」
楓がM700を持ち上げた。両手で、丁寧に。自分の命よりも大切なもののように。
「銃で権利を奪い取ったら──次は、奪い取られる側になるだけです。終わらない。私の家は貧しかったけど、母は盗みをしなかった。弟たちに、盗みはいけないと教えていました。お金がないことは恥じゃない。でも、人のものを奪うことは──どんな理由があっても、してはいけないと」
楓が目を伏せた。
「……母の言葉が正しいかどうか、わかりません。貧しいのに綺麗事を言っているだけかもしれません。でも──私は、母のその言葉を信じたい。だから、私はこの銃で奪わない。守る側に立ちます」
凛は──しばらく、何も言えなかった。
楓の言葉は、凪沙の正論に対するもう一つの正論だった。凪沙が「弱者が声を上げる手段は銃しかない」と言い、楓は「弱者だからこそ銃で奪ってはいけない」と言った。どちらが正しいのか──凛にはわからなかった。だが、楓がその答えにたどり着くまでに、どれだけの夜を過ごしてきたのかは──想像できた。
「楓」
「はい」
「──ありがとう。お前の答えを、聞けてよかった」
楓の頬がわずかに赤くなった。初めて褒めた時にも見せた、あの反応。褒められることが──この狙撃手にとっては、いまだに特別なことらしい。
「先輩は──どう思いますか」
凛はP226のホルスターに手を当てた。冷たい金属の感触。
「……正直に言えば、答えが出ていない。凪沙の言葉にも、お前の言葉にも、反論できない。──だが」
凛が楓を見た。
「裁定戦では、お前の答えを守る。それが今の私にできることだ」
楓がわずかに目を見開き──そして、小さく頷いた。
「了解です」
それだけ言って、楓はM700のボルトを閉じた。かちり、と硬い金属音が射撃場に響いた。
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出撃前夜。
食堂は、いつもと変わらない喧騒に満ちていた。
第三分隊のいつもの丸テーブル。凛はカレーを、千歳はカツ定食を、瑠衣はチキン南蛮の大盛りを選んだ。楓は──きつねうどん。いつも通りだった。
「瑠衣先輩。大盛りですね」楓がぼそりと言った。
「当然だろ。明日に備えてカロリー摂取だ」
「前も同じこと言って、翌朝胃もたれしてたよね」千歳が笑った。
「うるせえ。あれは前日に千歳が持ってきたクッキーが重かったんだ」
「あたしのせいなの?」
いつもの掛け合い。凛はカレーを口に運びながら、テーブルの上の光景を見ていた。
千歳がカツを切り分けながら笑い、瑠衣が大盛りのチキン南蛮を豪快に頬張り、楓がうどんの汁を静かに啜っている。楓は箸の持ち方がきれいだった。小柄な体で、背筋を伸ばして食べる。──弟たちに見せていた作法なのだろうか、と凛は思った。
「明日──」
千歳がカツを飲み込み、声のトーンを落とした。
「蒼風のゲリラ戦、厄介だよね。瑠衣、凪沙の戦い方で気をつけることある?」
「凪沙は──罠を使う。物理的な罠じゃなくて、心理的な罠。こっちが『追い詰めた』と思った瞬間が一番危ない。わざと退いて、追わせて、包囲する。蒼風のやつらはその連携がうまい」
「なるほど。深追いするな、ってことね」
「ああ。それと──凪沙は声がデカい。戦場で怒鳴って味方を鼓舞する。あの声に引っ張られるな。あいつの声は、あいつの武器だ」
千歳が頷いた。凛も頷いた。瑠衣の情報は、教本のどこにも載っていない。元・身内だからこそ知っている戦術。
「楓」凛が言った。「明日は五階に入ったら、すぐにスコープで戦場を読め。蒼風がどこに潜んでいるか──最初の三分で把握できれば、こちらの優位が確定する」
「了解です。──先輩」
「何だ」
「明日、私の狙撃で──蒼風の子たちを撃ちます。制圧弾ですが、当たれば痛い。──さっき言ったことと、矛盾するかもしれません」
凛は楓を見た。うどんの湯気の向こうで、楓は箸を止めていた。
「矛盾しない」
凛は言った。
「お前は奪うために撃つんじゃない。守るために撃つ。それはさっきお前が言ったことと──一つも矛盾しない」
楓が──ほんの一瞬、口角を上げた。笑顔と呼ぶには小さすぎる。だが楓にしては、最大級の表情だった。
「──はい」
食堂の喧騒が続いた。カレーの匂いと、揚げ物の匂いと、出汁の匂いが混ざり合っている。凛はカレーを一口食べた。温かくて、少し辛い。いつもの味だ。
──明日、この四人で戦場に行く。そして、全員で帰ってくる。
凛はスプーンを置き、分隊の三人を見渡した。千歳が笑い、瑠衣が食べ、楓がうどんを啜っている。
この光景を──守るために。
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深夜。分隊室。
出撃は明朝〇六〇〇。凛は装備の最終確認をしていた。
P226。マガジン四本。制圧弾六十発。予備のMP5K。マガジン三本。制圧弾九十発。無線機。双眼鏡。応急処置キット。──足りている。足りているはずだ。
凛がホルスターのバックルを締め直した時、分隊室の扉が開いた。
楓だった。
M700のライフルケースを背負い、手にはスコープ用のクリーニングキットを持っている。
「──楓。眠れないのか」
「いいえ。レンズの最終確認を、ここでしようと思いました。自室だと──少し暗いので」
楓は分隊室の作業机に座り、ケースを開いた。M700本体を取り出すのではなく、銃に取り付けられたままのスコープをそっと撫でる。
凛は自分の装備チェックを続けながら、楓の様子を見ていた。
楓がクリーニングクロスを取り出し、レンズの表面を静かに拭く。夕方の射撃場で調整は完了しているが、微細な埃や指紋を拭き取るその動作は、まるで精神を落ちかせるための儀式のようだった。
「楓」
「はい」
「そのM700──長いな。お前と一緒にいるのは」
「入学時に支給されてから、ずっとです。一年と少し」
「手に馴染んでいるか」
「──はい。この子は嘘をつかないので」
楓の声は静かだった。「この子」と呼ぶ声に、微かな温もりがあった。
「弾道は風と重力の関数です。条件を正しく読めば、必ず当たる。──人間関係のように曖昧なところがない。だから私は、この銃が好きです」
凛は小さく笑った。
「楓らしい答えだ」
「……変、ですか」
「いいや。弾道に嘘がないのと同じで──お前の言葉にも嘘がない。それでいい」
楓がクロスをしまい、スコープのダイヤルにそっと指を触れた。すでに固定されている目盛りを、確かめるように一度だけなぞる。
すべてが、完璧だった。
「──確認終了です」
楓がM700をケースに収めた。銀色がかった黒髪の下で、大きな瞳が穏やかだった。
「明日。──よろしくお願いします、凛先輩」
「ああ。──よろしく」
楓がケースを抱えて分隊室を出ていった。扉が閉まる音。静けさが戻る。
凛は机に置いたP226を見つめた。明日の朝、弾薬庫でマガジンを受け取り、戦場へと向かう。
楓の言葉が、まだ頭の中に残っていた。
──銃で奪い取ったら、次は奪い取られる側になるだけです。
──私は、母のその言葉を信じたい。
凪沙の正論。楓の正論。二つの正義が、凛の中でぶつかっている。どちらかを選ぶことが──まだ、できない。
だが明日、凛は銃を持って戦場に立つ。楓の答えを、楓の命を、守るために。
凛はP226をホルスターに戻し、机の上のランプを消した。
暗闇の中で、カレーの残り香がかすかに漂っていた。
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