【第二巻】 第七章「弱者の正義」
裁定戦の通告が届いたのは、蒼風の宣戦布告から五日後だった。
鳴神区統括事務局からの公式文書。件名は形式的なものだった。
『裁定戦第十四号の実施について。申請者:蒼風高等学校。被申請者:暁嶺学院。係争対象:黄昏エリア西部の管轄権。実施日時は追って通知する。両校は所定の手続きに従い、裁定戦の参加チームを届け出ること』
凛は会議室で、氷室からこの文書を見せられた。
「──暁嶺を指名してきたか」
「蒼風は聖樹館と暁嶺の両方に裁定戦を申請している。聖樹館には黄昏エリア南部。暁嶺には西部。同時に二つの裁定戦を仕掛けてきた」
「二正面作戦。──兵力は足りるのか。蒼風は四十名程度のはずだ」
「そこが問題だ。だが裁定戦のルール上、参加チームは五名一組。四十名いれば二チームは組める。残りは本拠地の防衛に回す」
氷室が椅子の背にもたれた。
「御崎。蒼風が暁嶺を指名した理由は何だと思う」
「黄昏エリアの西端は、朝凪エリアとの境界に接している。蒼風が黄昏エリアを完全に支配するには、暁嶺との境界線を正式に確定させる必要がある。裁定戦で勝てば、公式にその管轄権を得られる」
「そうだ。そして──蒼風が裁定戦に勝った場合、暁嶺は朝凪エリアの西端を蒼風に譲ることになる。あのエリアには暁嶺の訓練施設の一部と、物資輸送ルートが通っている」
「──負けるわけにはいかないということですか」
「負けるわけにはいかない。だが──」
氷室が凛を見た。
「勝つだけでは足りない。この裁定戦は、鳴神区全体が見ている。蒼風が『弱者の正義』を掲げて挑んできている以上、暁嶺が圧倒的な武力で蒼風を叩き潰せば──暁嶺は『強者が弱者を踏みにじった』という構図に嵌められる」
「……そこまで計算しているのか、凪沙は」
「計算しているかどうかはわからない。だが結果としてそうなる。蒼風は勝っても負けても、同情を集められる立場にいる。暁嶺は──正しく勝つしかない」
正しく勝つ。その言葉の重さを、凛は噛み締めた。
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裁定戦の実施日が通告される前に、偵察が必要だった。
凛は第三分隊を率いて、黄昏エリアと朝凪エリアの境界付近を偵察した。目的は二つ。蒼風のバリケードの配置状況の確認と、裁定戦の戦場になりうる地形の下見。
朝凪エリアの西端は、住宅街が途切れて低い丘陵地帯に変わる場所だった。丘を越えると、旧月詠の管轄だった黄昏エリアに入る。月詠が壊滅した後、建物は荒れ、街灯は消え、道路には草が生えている。
凛は丘の上から双眼鏡で黄昏エリアを観察していた。楓はさらに高い位置──丘の上に立つ給水タンクの横から、M700のスコープで遠方を確認している。千歳とM4A1は凛の横で周囲を警戒し、瑠衣はベネリM4を抱えて後方を固めていた。
「バリケードが見える」楓がインカムで報告した。「黄昏エリアの西端、旧商店街の入口。コンクリートブロックと鉄条網。──立哨が二名。CZブレン2を携行」
「距離は」
「三百二十メートル。射程内です」
「撃つな。偵察だ」
「了解」
凛は双眼鏡を下ろした。バリケードの向こうに、灰青の制服が数人見えた。蒼風の生徒たち。銃を持ち、バリケードの補強作業をしている。
──本当に、生徒なのだ。
凛はそう思った。蒼風の風紀部隊員たちは、暁嶺や聖樹館の生徒と変わらない。同じ年齢で、同じように制服を着て、同じように銃を持っている。違うのは──与えられたものの量だけだ。
「凛」
千歳が低い声で言った。凛が振り向く前に、千歳が横を指差した。
「二時方向。人が来る」
凛は双眼鏡を向けた。
バリケードの向こうから、一人の少女がバリケードを越えて──こちら側に歩いてきていた。
灰青のセーラー服。カーキ色のミリタリージャケット。左腕に白い腕章。右手にCZ 75、左手にVz.61スコーピオン。
──凪沙。
「全員、武器を下ろすな。だが──撃つな」
凛はP226を腰のホルスターに収めたまま、丘を下り始めた。
「凛!」千歳が呼んだ。
「私一人で行く。楓、スコープは凪沙に合わせておけ。もし凪沙が銃を構えたら──警告射撃を」
「了解。──気をつけてください」
凛は丘の斜面を降り、黄昏エリアとの境界線──道路の中央に立った。
凪沙が歩いてきた。二十メートルの距離で止まった。
対面。
凛は凪沙を見た。映像で見た顔と──同じようで、違った。画面越しではわからなかった細部が見える。凪沙の肌は映像より白かった。睡眠が足りていないのか、目の下に薄い隈がある。カーキジャケットの袖口がほつれている。CZ 75のグリップには、テーピングが巻かれていた。──新品の銃を使っていない。使い込まれた銃を、補修しながら使っている。
凪沙も凛を見ていた。瑠衣が「溶鉱炉」と表現した目。確かに──燃えている。だがその炎は、凛に向けられた敵意ではなかった。もっと大きなものに向けられた怒り。
「暁嶺学院第三分隊長、御崎凛」
凛が名乗った。凪沙がわずかに口角を上げた。
「知ってる。あんたの名前は聞いてる。──月詠を潰した分隊長。命令に背いて単独で動いた英雄サマ」
「英雄ではない。命令違反の処罰を受けている」
「処罰? ──へえ。暁嶺ってのは、正しいことをした人間にも罰を与えるんだ」
「正しかったかどうかは、結果論だ。プロセスには問題があった」
「プロセス、ね」
凪沙がCZ 75を持ち上げた。──凛に向けたのではない。自分の横に掲げるように。宣戦布告の映像と同じポーズ。
「御崎凛。あんたに聞きたいことがある」
「聞く」
「あんたは──暁嶺学院で、何不自由なく戦ってきた。P226。SIG SAUERの高級拳銃。弾は情報班が管理して、訓練場は地下に完備。防弾制服は最新の繊維素材。食堂ではカレーでも定食でも好きに選べる。──そうだろ?」
凛は否定しなかった。事実だからだ。
「蒼風は違う。あたしたちの武器は型落ちか中古。弾薬は自分で調達しないと足りない。訓練場なんかない。校庭の端に空き缶並べて撃ってた。防弾ベストは先輩からの使い古し。食堂──蒼風に食堂はあるけど、メニューは二択。カレーか、うどん。それも量が足りない日がある」
凪沙の声は、怒りに震えてはいなかった。むしろ穏やかだった。事実を述べているだけの声。──だからこそ、重かった。
「あたしたちは鳴神区で一番貧しい学園だ。政府の支援金は暁嶺の十分の一。スポンサーなんかとっくにいない。それでもあたしたちは、旧市街の住民を守ってきた。壊れた銃で、破れたベストで、手書きのマニュアルで」
「それは知っている」
「知ってる? ──知ってて、何もしなかったんだろ。暁嶺も。聖樹館も。鳴神区の全学園が、蒼風のことを知ってて放置した。『あそこは弱いから仕方ない』って。旧市街の治安が悪くても、蒼風の生徒が傷ついても、誰も助けに来なかった」
凛は答えなかった。
──反論できない。
凛にはわかっていた。凪沙の言葉には正論がある。暁嶺は「朝凪エリアの安全」を守ることに注力してきた。蒼風の苦境を知っていても、手を差し伸べたことはない。それは暁嶺だけの問題ではなく、鳴神区の学園自治システムそのものの構造的な問題だ。だが──構造の問題であることは、免罪符にはならない。
「凪沙。お前の怒りは正当だと思う」
凛が言った。凪沙の表情がわずかに動いた。
「だが──方法が違う。武力で管轄権を奪い取るのは、正義ではない」
「じゃあ何が正義だ」
凪沙が一歩、前に出た。距離が十五メートルに縮まった。
「訴える先がない。政府に嘆願書を出した。三回出した。返答はなかった。統括事務局に現状を報告した。『検討する』と言われて終わった。学園間の協議を求めた。暁嶺も聖樹館も、蒼風との協議のテーブルにつかなかった。──あたしたちは全部やった。穏当な方法を、全部」
凪沙のCZ 75を持つ手が、わずかに震えた。怒りではない。──抑え込んだ感情が、指先に漏れている。
「全部やって、全部無視された。──それでもまだ『方法が違う』って言うなら、正しい方法を教えてくれよ。御崎凛。あんたが教えてくれ。弱者が声を上げても無視される世界で、銃以外にどうやって権利を守れる」
凛は──答えられなかった。
P226のグリップに触れた。冷たい金属の感触。
凪沙の問いに、凛は答えを持っていなかった。穏当な方法がすべて失敗した時、残された手段は何か。武力しかないのか。──だとしたら、凪沙が銃を取ったことを、凛は否定できない。
沈黙が、黄昏エリアの境界線に落ちた。
「……答えられないか」
凪沙が言った。嘲笑ではなかった。むしろ──寂しそうだった。
「あんたなら何か言えるかと思った。月詠を潰した時、あんたは命令に背いた。ルールを破った。正しいことのために。──あたしがやってるのも、同じだ」
「──同じ、か」
「違うか?」
凛は凪沙の目を見た。燃える目。紫苑が言った通りの目。追い詰められて、覚悟を決めた人間の目。
「……同じかもしれない。だが──」
「だが?」
「私は月詠の闇を暴くために命令に背いた。その結果、処罰を受けた。行動の代償を払った。──お前は、自分の行動の代償を払う覚悟があるのか」
凪沙が凛を見つめた。数秒の沈黙。
「代償──」
「お前が武力で管轄権を獲れば、蒼風は『暴力で権利を奪い取った学園』として記録される。蒼風の生徒たちは──正義を掲げたつもりで、力による現状変更の加担者になる。それが、蒼風の未来に何をもたらすか。考えたことはあるか」
凪沙の目が、一瞬──揺れた。
だが、すぐに光が戻った。
「考えてる。全部考えた上で、あたしはここに立ってる。──未来のことなんか、今を生き延びた先にしかない。今、旧市街の生徒たちが飢えてて、装備が足りなくて、誰にも守ってもらえない。その『今』を変えなきゃ、未来なんかない」
凛は──その言葉にも、反論できなかった。
「今」を救うために「未来」を犠牲にするのか。「未来」のために「今」を我慢するのか。どちらが正しいのか。──凛にはわからなかった。
「御崎凛」
凪沙がCZ 75を腰のホルスターに戻した。Vz.61も背中のスリングにかけた。武装解除ではない。──会話は終わった、という合図だった。
「裁定戦で会おう。──あたしは手加減しない。蒼風の全部を賭けて、あんたたちに挑む」
「こちらも同じだ」
「そうか。──それでいい」
凪沙が背を向けた。灰青のセーラー服とカーキのジャケット。左腕の白い腕章。その背中が──小さかった。暁嶺の充実した装備を纏った凛に比べて、凪沙の背中は細く、軽装で、そして──それでも真っ直ぐだった。
「凪沙」
凛が呼んだ。凪沙が足を止めた。振り返らない。
「──瑠衣が、お前と話したがっている」
凪沙の背中が、硬直した。
数秒の沈黙。
「……瑠衣が」
「ああ」
「……あいつが、何を話したいかなんて、わかってる。わかってるけど──」
凪沙の声が、初めて──震えた。
「今は──まだ、あいつの顔を見れない。あいつと話したら──あたしは、揺らぐ。だから」
凪沙が歩き出した。早足で。バリケードの方へ。
「裁定戦が終わった後なら。──もし、あたしが負けたら」
それだけ言い残して、凪沙はバリケードの向こうに消えた。
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丘の上に戻った凛を、三人が待っていた。
瑠衣が──凛の顔を見て、すべてを察したようだった。
「凪沙と話したのか」
「ああ」
「何て言ってた」
凛は一瞬、迷った。凪沙が瑠衣について言った言葉を、そのまま伝えるべきか。
「──裁定戦が終わったら、お前と話すと」
正確ではない。だが──深く頷いた瑠衣には、それで十分なのだろう。
瑠衣がベネリM4のグリップを握り直した。
「……そうか。──じゃあ、裁定戦で勝つしかねえな」
「ああ」
「凛。一つだけ確認」
「何だ」
「凪沙の言ったこと──正論だったか」
凛は黙った。数秒。
「──正論だった」
瑠衣が笑った。苦い、だが確かな笑い。
「だろうな。凪沙はそういう奴だ。──正しいことを、正しい言葉で言える。だからみんなついていく。あたしだって──あの頃は」
瑠衣は言葉を切り、ベネリを肩にかけ直した。
「帰ろう。──作戦を考えなきゃな」
四人は丘を降り、朝凪エリアに戻った。夕暮れの空は、灰色と橙が混じり合って──灰色の正義のように、どちらとも言えない色をしていた。
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