【第二巻】 第六章「白薔薇の凋落」
蒼風の宣戦布告から三日が経った。
鳴神区は騒然としていた。情報班の端末には毎日、各学園の動向に関する速報が届く。凛は分隊室の作戦テーブルで、それらを一つずつ読み込んでいた。
最も大きな動きがあったのは、聖樹館だった。
『聖樹館女学院・常磐エリア南端の防衛体制強化に伴い、風紀部隊の再編成を発表。南方面警備隊を新設し、精鋭部隊「白薔薇」から一個小隊を転属。白薔薇隊長・白百合紫苑に対し、学院上層部から「防衛責任」を問う声が上がっているとの内部情報あり』
凛は報告書から顔を上げた。
「白薔薇から南方面への転属──紫苑の部隊を分割したのか」
「白薔薇って、聖樹館で一番強い部隊だよね?」千歳が問いかけた。
「ああ。聖樹館の精鋭で構成される遊撃部隊だ。元々は機動的な運用を想定している。それを境界線の防衛に張りつけるのは──効率が悪い」
「でも、蒼風に境界を突破されたんだから、仕方ないんじゃ」
「仕方ない、で済まされているのは紫苑じゃなく、上層部の判断だ。蒼風が突破したのは南端の第三検問所。あそこを守っていたのは白薔薇ではなく、通常の境界警備隊だった。白薔薇の責任ではない」
「でも責任を問われてるんだ?」
「聖樹館は──そういう学園だ」
凛はP226のスライドを引いた。乾いた金属の音。
聖樹館女学院。厳格な規律と階級制度。圧倒的な物量と重火器。大手軍需企業「常盤重工」がスポンサーについており、装備は鳴神区で最も充実している。だがその組織文化は──権力闘争が常態化していた。
紫苑は白薔薇の隊長だ。二年生でありながら精鋭部隊を率いるその実力は本物だが、学院内には彼女を快く思わない勢力がいる。三年生の幹部層、特に白薔薇の元隊員たちだ。紫苑が二年生で隊長に就任したこと自体が異例であり、嫉妬と不満の種だった。
蒼風の急襲は──紫苑の敵にとって、格好の口実になった。
「凛先輩」
楓が端末を操作しながら、抑揚のない声で言った。
「情報班の追加報告です。聖樹館の内部事情について、複数の情報源から確認が取れたとのこと」
「読め」
楓が画面をスクロールした。
「一、白薔薇の人員は元々三十二名。南方面への転属で十四名が移動。現在紫苑の指揮下にあるのは十八名。二、三年生の幹部会議が白薔薇の指揮権に関する臨時審査を要求。審査は本日実施される模様。三──」
楓が一瞬、口を閉じた。
「三、聖樹館の風紀部隊内部で、紫苑の解任を求める署名が回されているとの情報あり。署名者は主に三年生」
「署名?」千歳が声を上げた。「それって──紫苑さんをクビにするってこと?」
「形式上は再審査の請求だが、実質的にはそうだ」凛が答えた。
瑠衣がロッカーに寄りかかったまま、鼻を鳴らした。
「はっ。デカい学園ってのはそういうもんだ。上がやべえ時に下を切って、自分は安全圏。──蒼風にいた頃、大手の学園ってのは全部そうだと思ってた。暁嶺に来て少しは変わったけどな」
「暁嶺にも似たような構造はある。ただ氷室が押さえているだけだ」
「氷室が卒業したらどうなるかって話だな」
凛は答えなかった。瑠衣の指摘は正しかった。氷室が暁嶺を統率しているのは、氷室個人のカリスマと実力による。氷室が去った後──暁嶺もまた、聖樹館と同じ轍を踏む可能性がある。
──それが、総隊長という椅子の重さだ。
「楓。聖樹館と蒼風の交戦について、続報は」
「聖樹館は第三検問所の防備を強化し、南端の境界線に増員を配置しています。蒼風側は撤退後、目立った動きはありません。ただし──黄昏エリア内部でバリケードの拡張作業が確認されています。蒼風は攻めてきた場所を固めるのではなく、黄昏エリアの内側を要塞化しています」
「凪沙らしい」瑠衣が言った。「攻撃で陽動して、本命は自分の陣地固め。取った場所を守る。──あいつは昔からそうだ。一回取ったものは絶対に手放さない」
瑠衣の声が、最後の一文でわずかに低くなった。凛はそれに気づいたが、触れなかった。
---
昼休み。
食堂で凛はカレーうどんを食べていた。千歳がオムライス、楓が鮭定食。瑠衣は──焼肉定食の大盛り。
「瑠衣、戻ったね」千歳が安心したように言った。
「何がだよ」
「大盛り。昨日も大盛りだったでしょ」
「うるせえ。食わなきゃ筋肉が落ちるんだよ」
「筋肉のためかぁ……」
楓がぼそりと言った。
「瑠衣先輩の食事量と、訓練パフォーマンスには正の相関があります。大盛りの日は、射撃精度が平均で三パーセント向上します」
「楓、お前そこまで記録してんのか」
「狙撃手ですから」
凛はカレーうどんをすすりながら、三人のやり取りを聞いていた。日常の会話。銃声も作戦もない、ただの昼休み。こういう時間が──戦闘の間にある日常が、凛にとっては最も大切なものだった。
沙耶が生きていた頃も、こうして食堂で他愛ない話をしていた。カレーの辛さを競ったり、楓のスコープ磨きの癖を笑ったり。
──守りたいのは、この時間だ。
凛はうどんを啜り終え、残ったつゆを飲み干した。
---
その日の夕方。
凛が朝凪エリアの西端を巡回していた時、端末が鳴った。
発信元は──暁嶺学院の公式チャンネルではなかった。暗号化された個人間通信。発信者のIDは非表示。
凛は足を止めた。隣を歩いていた千歳が振り向く。
「凛? どうしたの」
「……先に行っていてくれ。巡回ルートの残りを頼む」
「え、でも──」
「すぐ追いつく。楓、千歳を頼む」
楓が小さく頷き、千歳と共に巡回ルートを進んでいった。瑠衣は──今日は別ルートの担当で、合流点はまだ先だった。
凛は端末を開いた。
テキストメッセージ。一行だけ。
『朝凪エリア南西、旧配水塔。十分後。──白薔薇』
凛はメッセージを見つめた。三秒。
罠の可能性。だが──白薔薇という署名。紫苑以外にこの署名を使う人間はいない。そして紫苑は、嘘をつかない人間だった。裁定戦の後に交わした約束を、紫苑は守った。
凛はP226のホルスターを確認し、旧配水塔に向かった。
---
旧配水塔は、朝凪エリアの南西隅にある廃施設だった。
鳴神区が学園自治特区になる前に建てられた円筒形のコンクリート構造物で、今は使われていない。周囲は雑草が伸び、フェンスは錆びて倒れかけている。暁嶺の巡回ルートからはわずかに外れた場所──人目につきにくい。
凛が配水塔の裏手に回ると、そこに人影があった。
白のスタンドカラージャケット。金のトリミング。銀色がかった長い髪をローポニーテールに束ね──冷たい紫色の瞳が、凛を見た。
白百合紫苑。
ただし──いつもの姿とは違っていた。白薔薇の白いショートマントがない。左腕に巻かれているはずの部隊章もない。聖樹館の制服を着ているが、白薔薇の装飾がすべて外されている。
そして──右頬に、絆創膏が貼られていた。
「久しぶりね。御崎凛」
紫苑の声は変わっていなかった。冷たく、透明で、余分な感情を排除した声。
「紫苑。──その顔は」
「大したことじゃないわ。聖樹館の内部事情よ」
紫苑が壁にもたれかかった。G36Cは持っていない。腰にホルスターがあるが、拳銃──ワルサーP99が収められているだけだった。軽装。戦闘を想定していない。
「本題に入る。時間がないの」
「聞く」
紫苑が凛の目を真っ直ぐに見た。
「蒼風の急襲で、聖樹館の第三検問所が突破されたのは知っているでしょう」
「ああ」
「あの後──聖樹館では白薔薇の責任問題が浮上した。境界線の防衛は白薔薇の担当ではなかったけれど、精鋭部隊が機能しなかったという批判が上層部から出た」
「筋が通らない。第三検問所の防衛は通常の警備隊の管轄だ」
「筋が通るかどうかの問題じゃない。聖樹館の上層部は、蒼風に突破された事実に動揺している。誰かの責任にしたい。──そして私は、ちょうどいい標的だった」
紫苑の声に、感情は滲まなかった。事実を述べているだけ。だが凛は──紫苑の目の奥に、微かな怒りを読み取った。
「白薔薇の一個小隊が南方面警備隊に転属された。私の指揮下から外された。残ったのは半数以下。──そして、今朝」
紫苑が一度言葉を切った。
「白薔薇の隊長職について、三年生の幹部会議が再審査を要求した。理由は『現隊長の指揮能力に疑義がある』。要するに──私を白薔薇から追い出したいのよ」
「追い出す?」
「隊長を解任して、三年生の中から後任を出す。そうすれば上層部の面子も立つし、白薔薇の主導権を三年生が取り戻せる。私が邪魔なの。蒼風の件は口実に過ぎない」
凛は紫苑の顔を見た。絆創膏の下の傷。聖樹館の「内部事情」。
「その傷は──」
「再審査に反対した時、少し揉めただけよ。心配には及ばない」
紫苑の声が、ほんのわずかに硬くなった。「少し揉めた」程度ではないことは、凛にもわかった。だが紫苑はそれ以上語る気がない。
「──で、何故私に接触した」
「二つ。一つは状況の共有。聖樹館が内部の権力闘争で混乱していることは、鳴神区全体の安全保障に影響する。あなたにとっても他人事ではないはず」
「もう一つは」
紫苑が壁から背を離し、一歩凛に近づいた。紫色の瞳が、夕暮れの逆光の中で鋭く光った。
「蒼風の武装強化。──あの銃の出処に、心当たりがある」
凛の指がP226のグリップに触れた。
「話してくれ」
「まだ確証はない。だから『心当たり』と言っているの。──蒼風が使っているCZブレン2。聖樹館の情報網で調べたところ、鳴神区内で正規に流通しているものではない。型番から追ったら、ある企業のロット番号に行きついた」
「どの企業だ」
紫苑が一瞬、口を閉じた。迷っているのではない。言葉を選んでいる。
「──黒羽工科学園のスポンサー企業。クロウテック社」
凛の思考が、一瞬止まった。
クロウテック社。黒羽工科学園を支援する軍事技術企業。ドローンや電子戦装備の開発で知られている。鳴神区の学園自治システムにおいて、最も技術力の高いスポンサーの一つ。
「クロウテックが蒼風に武器を横流ししている?」
「まだ断定はできない。ロット番号の一致だけでは証拠にならない。でも──偶然にしては出来すぎている」
紫苑が凛に背を向けた。
「私は今、聖樹館の中で動ける範囲が限られている。白薔薇の隊長を解任されれば、情報へのアクセスも失う。──だから今のうちに、信用できる相手に伝えておきたかった」
「信用できる相手、か」
「あなた以外に誰がいるの」
紫苑の声に、かすかな──本当にかすかな、皮肉の色が混じった。凛はそれを「紫苑なりの信頼の表現」だと理解した。
「情報は受け取った。──紫苑。一つ聞いていいか」
「何」
「お前は──聖樹館の中で、何を守ろうとしている」
紫苑が足を止めた。振り返りはしない。
「同じことを、裁定戦の時にも聞かれた気がするわ」
「あの時は答えなかった」
「そうね。──今も、完全には答えられない。でも一つだけ言えることがある」
紫苑が半身だけ振り向いた。夕暮れの光が、銀色の髪を橙に染めている。
「私は白薔薇の隊長として、聖樹館の生徒を守ってきた。それは上層部の命令でも、三年生の顔色を窺ったからでもない。私が──そう決めたからよ。たとえ隊長の座を奪われても、その意志は変わらない」
凛は何も言わなかった。
紫苑の言葉には、嘘がなかった。凪沙の宣戦布告に嘘がなかったように。紫苑の覚悟にも、嘘がない。
──正しい意志を持つ人間が、構造によって潰される。
月詠でも見た光景だった。蒼風でも。そして今、聖樹館でも。
「紫苑。クロウテックの件は、こちらでも調べる。情報が入ったら──」
「同じ方法で連絡するわ。この暗号化チャンネルは、私が個人的に構築したもの。聖樹館の通信網には乗っていない」
「わかった」
紫苑が歩き出した。配水塔の影に消えていく白い制服。白薔薇のマントがない背中は、いつもより小さく見えた。
「御崎」
紫苑が振り返らずに言った。
「何だ」
「蒼風の神代凪沙。──あの子の目、見たでしょう。映像で」
「ああ」
「あの目は──追い詰められた人間の目よ。追い詰められて、覚悟を決めた人間の。私にもわかる。──似たような目を、鏡で見たことがあるから」
それだけ言って、紫苑は夕暮れの中に消えた。
---
凛が巡回ルートに戻った時、千歳と楓がすでに合流点で待っていた。瑠衣も別ルートから到着している。
「遅かったな」瑠衣が言った。
「少し確認したいことがあった」
「確認?」
「後で話す。──分隊室に戻ろう」
四人が並んで歩き始めた。夕暮れの朝凪エリア。街灯がぽつぽつと点き始め、空は灰紫色に沈んでいく。
凛は帰り道の間、口を開かなかった。周囲の耳を警戒したのもあるが、紫苑から得た情報を頭の中で整理するためでもあった。
---
分隊室に戻ってから、凛は三人に紫苑からの接触を報告した。
ただし──クロウテック社の件は伏せた。まだ確証がない情報を拡散するのは危険だ。千歳には聖樹館の内部分裂と紫苑の窮地だけを伝え、楓にはそれに加えて蒼風の黄昏エリア要塞化との関連性を示唆した。
「紫苑さんが暁嶺に接触してきたってこと?」千歳が驚いた顔で言った。
「個人的な接触だ。聖樹館の公式な外交ではない。紫苑は今、学院内で孤立している。──同盟というより、情報交換だ」
「裁定戦でぶっ飛ばした相手と情報交換ね」瑠衣が言った。「凛、お前の人脈って変わってるよな」
「人脈というより──利害の一致だ。蒼風の動きが拡大すれば、聖樹館も暁嶺も影響を受ける。紫苑はそれを理解している」
「で、紫苑は何を言ってたんだ? 蒼風について」
凛は一瞬、間を置いた。千歳に約束した「判断の前に相談する」という言葉が頭をよぎった。だが──クロウテックの名前を出すのは、まだ早い。確証を得てからだ。
「蒼風の武装強化が、正規の調達ルートではないことを裏付ける情報を掴んでいると言っていた。詳細はまだ確認中だ」
「あたしたちの推測と一致するな」瑠衣が腕を組んだ。
「ああ。──複数の方向から同じ結論に至っている。蒼風は自力で武装を強化したのではない。誰かに武器を渡されている」
楓がM700のスコープを静かに磨きながら言った。
「渡した側には、目的があるはずです。蒼風を武装させて──何をさせたいのか」
「鳴神区の均衡を崩したい。それが最も可能性の高い動機だ」凛が答えた。「均衡が崩れれば、利権の再分配が起きる。誰かにとっては──混乱が、商機になる」
四人の間に、沈黙が落ちた。
凛の頭の中で、情報が組み上がりつつあった。
蒼風の武装強化。CZブレン2のロット番号。紫苑が掴みかけている真相。
月詠の時は──月詠の裏に政府がいた。蒼風の裏にも、誰かがいる。構造は同じだ。少女たちが戦場に立つ鳴神区の裏側で、大人たちが糸を引いている。
そして紫苑は、聖樹館の中で孤立しつつある。
凪沙は蒼風を率いて立ち上がった。紫苑は白薔薇の中で追い詰められている。瑠衣は過去と向き合っている。
──全員が、何かと戦っている。銃の相手だけではなく。
凛はP226のホルスターに触れた。
弾は嘘をつかない。だが、この鳴神区で本当に恐ろしいのは──弾よりも、人間の思惑だ。
---




