【第二巻】 第五章「宣戦」
それは、昼休みの食堂で起きた。
凛はいつもの席でカレーを食べていた。千歳が向かいでハヤシライスを口に運び、楓が隣でざるそばをすすっている。瑠衣は遅れて来て、カツ丼の大盛りを盆に載せた。──昨日の普通盛りとは違う。楓が小さく頷いたのを、凛は見逃さなかった。
「瑠衣先輩、大盛りですね」
「うるせ。腹が減ってるだけだ」
「それなら大丈夫です」
「何がだよ」
楓は答えなかった。カツ丼にかじりつく瑠衣の横で、千歳が小さく笑った。
食堂のスピーカーから、正午のチャイムが鳴った。
その直後だった。
全校放送のチャイムではない。通信室からの緊急割り込み放送──甲高い電子音が三回、食堂の天井スピーカーから鳴り響いた。食堂中の生徒が顔を上げた。箸やフォークが止まり、数百の視線がスピーカーに集中する。
『──暁嶺学院全生徒、および風紀部隊全隊員に通達。現在、鳴神区学園間統一通信チャンネルを通じて、蒼風高等学校より公式声明が発信されています。暁嶺学院情報班は内容を確認中。風紀部隊各分隊長は直ちに通信端末を確認してください。繰り返します──』
凛は箸を置いた。
端末を取り出す前に、千歳の端末が鳴った。情報班からの一斉通知。千歳が画面を開き──動きが止まった。
「凛。見て」
画面に映っていたのは、映像データだった。
鳴神区学園間統一通信チャンネル。鳴神区統括事務局が管理する公式の通信網で、裁定戦の通告や政府からの布告に使われる回線だ。通常、学園側が使用することは稀で──使用するには統括事務局への申請が必要なはずだった。
だが蒼風は、申請なしにそのチャンネルを使った。
映像が再生された。
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画面に映ったのは、廃墟だった。
旧市街エリアの崩れかけたビルの屋上。灰色の空を背景に、コンクリートの手すりの上に灰青のセーラー服を着た少女が立っていた。
灰青のセーラー服。白スカーフを腰に巻き直し、上からカーキ色のミリタリージャケット。左腕に白い腕章──「蒼風再興」の文字。ミディアムの黒髪を無造作にまとめ、右手にCZ 75、左手にVz.61スコーピオンを下げている。
神代凪沙。
凪沙の背後には、十数名の蒼風の生徒が並んでいた。全員が灰青の制服を着崩し、手にはCZブレン2やボルトアクションの狙撃銃。統一された装備ではないが──全員の目が、同じ方向を見ていた。カメラの向こう側。映像を見ている全員に向けて。
凪沙が口を開いた。
『──鳴神区の全学園に告ぐ。あたしは蒼風高等学校風紀部隊隊長、神代凪沙。蒼風再興軍の総指揮を執る者だ』
凪沙の声は、凛が想像していたよりも穏やかだった。怒りに震えているのでも、虚勢を張っているのでもない。静かで、明瞭で──確信に満ちていた。
『蒼風は鳴神区東部・旧市街エリアを管轄する学園だ。だが実態を知っている人間は少ない。あたしたちの管轄エリアは鳴神区で最も貧しく、最もインフラが荒廃し、最も治安が悪い。政府からの支援金は暁嶺や聖樹館の十分の一以下。スポンサー企業はとっくに撤退した。装備は型落ち、校舎は雨漏りだらけ、生徒は毎年減っている』
凪沙がCZ 75を持ち上げた。カメラに銃口を向けるのではなく、自分の横に掲げるように。
『それでもあたしたちは、旧市街の生徒と住民を守ってきた。壊れた銃で、破れた防弾ベストで、手書きのマニュアルで。あたしたちは見捨てられた場所で、見捨てられた人間を守るために戦ってきた』
凛は映像を見つめていた。瑠衣がカツ丼の箸を握ったまま動かない。
『だが、もう限界だ。旧市街だけでは生徒を養えない。資源が足りない。──だからあたしは、黄昏エリアの管轄権を正式に要求する』
食堂がざわついた。黄昏エリア──旧月詠女子学園の管轄だった場所だ。月詠が壊滅した後、空白地帯となっている。暁嶺も聖樹館も手を出しかねていた場所。
『黄昏エリアは、今、どの学園にも属していない。政府は「暫定管理下」と称して放置しているだけだ。あのエリアに暮らす住民に、治安は提供されていない。風紀部隊の巡回もない。──あたしたちが守る。蒼風が、あのエリアを引き受ける』
凪沙が一歩前に出た。カメラに近づき、その目が画面を通して見ている者すべてを射抜くように。
『もし異議があるなら──裁定戦で決着をつける。蒼風はいつでも受けて立つ。どの学園が来ても構わない。暁嶺でも聖樹館でも。あたしたちは引かない。弱いからって、黙って踏まれ続ける時代は終わりだ』
凪沙が右手のCZ 75を空に向けた。
パン。
一発の銃声が、映像を通して食堂のスピーカーから響いた。空砲ではない。制圧弾──だが、その音は宣言だった。言葉よりも明確な、開戦の合図。
『蒼風は立ち上がる。──以上だ』
映像が途切れた。
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食堂が静まり返った。
数秒の沈黙の後、一斉にざわめきが広がった。テーブルごとに声が上がり、端末を操作する音が重なる。「蒼風って」「あの没落校が」「黄昏エリアを?」「裁定戦って」──断片的な言葉が飛び交う中、凛は映像を再生し直していた。
凪沙の顔。声。目の色。銃の構え方。
──嘘がない。
凛はそう感じた。凪沙は演説のために言葉を選んでいたが、その根底にある怒りと決意は本物だった。政治的なパフォーマンスや単なる挑発ではない。凪沙は本気で──黄昏エリアを獲りに来ている。
「凛」
千歳が低い声で言った。
「情報班から続報。蒼風の風紀部隊が、聖樹館の管轄エリア──常磐エリアの南端に部隊を展開中。境界線のバリケードを突破した模様」
「──何?」
凛は端末を掴んだ。情報班の速報を開く。
『速報:蒼風高等学校風紀部隊、推定二十名規模の部隊が常磐エリア南端・第三検問所を急襲。聖樹館の境界警備隊と交戦中。時刻は11時58分、宣戦布告映像の配信とほぼ同時刻に作戦開始した模様』
宣戦布告と同時に攻撃を仕掛けた。映像は陽動──ではない。映像で全学園の注意を引きつけている間に、聖樹館の境界を突破した。
「計算されている」
凛が呟いた。宣戦布告が先ではなく、攻撃と同時だった。聖樹館が映像に気を取られている隙を突いた。凪沙は──交渉する気がない。最初から、力で既成事実を作るつもりだ。
「黄昏エリアを要求すると言いながら、攻撃したのは聖樹館?」千歳が眉を寄せた。
「黄昏エリアの東は蒼風がすでに実効支配している。西側は暁嶺の朝凪エリアと接する。だが黄昏エリアの南──常磐エリアとの境界は、聖樹館の管轄だ。蒼風が黄昏エリア全域を確保するには、南の聖樹館側の脅威を先に排除する必要がある」
「つまり、聖樹館への攻撃は──」
「黄昏エリアの完全支配のための布石。聖樹館の南端を押さえれば、黄昏エリアの南側が安全になる。蒼風は北──旧市街側から黄昏エリアに入り、東を固め、今度は南を潰しにかかった」
凛は頭の中で地図を描いた。蒼風の動きは合理的だった。弱小校の無謀な反乱ではない。地政学的に正しい攻め方をしている。
「──誰かが作戦を立てている」
凛が言った。楓が頷いた。
「バリケードの構築と同じです。蒼風の風紀部隊だけでは、この規模の同時作戦は──」
「組めない。少なくとも、二ヶ月前までの蒼風には」
凛は瑠衣を見た。
瑠衣はカツ丼の箸を置いていた。大盛りの丼は半分以上残っている。その目は──食堂の窓の向こう、東の空を見ていた。旧市街エリアがある方角。
「瑠衣」
「……聞こえてる」
「何か、心当たりは」
瑠衣は数秒黙った。それから、カツ丼の残りを一気に口にかき込んだ。大盛りの半分を、三口で平らげた。
「──凪沙は頭がいい。あたしより、ずっと」
「それはわかっている」
「あいつは蒼風にいた頃から、戦略を考えるのが好きだった。手書きのマニュアルだけじゃない。鳴神区の地図を壁に貼って、どの学園がどこを押さえてるか、どこが空白か、どこが弱点か──全部分析してた。あたしが『そんなの考えてどうすんだ』って言ったら、凪沙は笑ってた。『いつか使う時が来る』って」
「──その日が来たということか」
「ああ。凪沙は──ずっと準備してたんだ。あたしがいなくなった後も。一人で」
瑠衣が立ち上がった。盆を持ち、返却口に向かう。その背中に、凛は声をかけなかった。今の瑠衣は暴走しようとしているのではない。耐えている。自分の感情を、自分で制御しようとしている。
凛はそれを信じた。
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十三時。暁嶺学院本館三階、作戦会議室。
緊急招集がかかったのは、凪沙の映像配信から三十分後だった。
長テーブルを囲むように、六つの分隊の隊長が着席している。第一分隊長の東雲恭介が上座に近い位置に座り、凛は第三分隊長として中央の席についた。その横に千歳。楓と瑠衣は壁際に立っている。
正面の大型モニターには、凪沙の宣戦布告映像が一時停止された状態で映っていた。凪沙の顔がアップで止まっている。その目が、会議室にいる全員を見下ろしているように見えた。
総隊長の席には、氷室がいた。
卒業までの残り期間、引き継ぎのために残っている氷室が、この緊急事態に対応していた。
「状況を整理する」
氷室の声は、いつもと変わらない。冷静で、低く、会議室の隅まで届く。
「本日十一時五十八分、蒼風高等学校が学園間統一通信チャンネルを通じて公式声明を発信。黄昏エリアの管轄権を主張し、異議のある学園には裁定戦での決着を要求した。声明の配信とほぼ同時刻に、蒼風風紀部隊の一部が聖樹館の管轄する常磐エリア南端を急襲。聖樹館側は第三検問所を突破され、現在も交戦が継続中」
氷室がモニターの映像を切り替えた。鳴神区の地図が表示される。旧市街エリアが灰青、黄昏エリアが灰色の斜線、常磐エリアが白、朝凪エリアが深紅──暁嶺のカラーで色分けされている。
「蒼風は旧市街エリアに加えて、黄昏エリアの東部を実効支配下に置いている。今回の聖樹館への攻撃で、黄昏エリアの南側──常磐エリアとの境界線──も蒼風の支配下に入る可能性が出てきた」
東雲恭介が手を挙げた。
「氷室総隊長。蒼風が統一通信チャンネルを無許可で使用した件について、統括事務局はどう対応していますか」
「問い合わせ済みだ。統括事務局は『確認中』としか回答していない。──要するに、動く気がない」
会議室に低いざわめきが広がった。凛は黙って聞いていた。
「月詠が壊滅した後、統括事務局は黄昏エリアの再編を先送りにしてきた。蒼風がそこに入り込んだのは、行政の空白を突いた形だ。統括事務局にとっては──蒼風が黄昏エリアを管理してくれるなら、むしろ好都合かもしれない」
「つまり、政府は蒼風を止めない」
「少なくとも、積極的には止めない。裁定戦が申請されれば受理するだろうが、蒼風の宣戦布告そのものを無効にはしない。──これが、現時点での推定だ」
氷室がテーブルの全員を見回した。
「問題は、暁嶺がこの事態にどう対応するかだ」
沈黙。
第二分隊長が口を開いた。
「蒼風が攻撃しているのは聖樹館です。暁嶺は直接の被害を受けていません。当面は静観するのが──」
「静観はできない」
凛が言った。
全員の視線が集まった。氷室も凛を見た。
「蒼風が黄昏エリアの完全支配を確立すれば、朝凪エリアとの境界線は蒼風と暁嶺の直接の接触線になる。緩衝地帯がなくなる。今は聖樹館を叩いているが、次は──」
「暁嶺が標的になる可能性がある、と」東雲が言った。
「可能性ではなく、必然だ。凪沙は『どの学園が来ても構わない』と言った。あれは暁嶺を名指ししていないが、除外もしていない。そして蒼風が黄昏エリアを完全に押さえた後、暁嶺の朝凪エリアに手を伸ばさない理由がない」
氷室が凛を見つめた。数秒。
「御崎。お前の意見は」
「情報を集めるべきです。蒼風の武装強化の資金源、作戦の立案者、聖樹館との交戦の詳細。──今はまだ、動くべき時ではない。だが、備えるべき時です」
氷室がわずかに頷いた。
「同感だ。──各分隊長、現時点での指示を出す。第一に、全分隊は担当区域の警戒レベルを一段階引き上げること。第二に、朝凪エリア西端──黄昏エリアとの境界付近の巡回頻度を倍にすること。第三に──」
氷室が凛を見た。
「第三分隊は、蒼風に関する情報収集を担当すること。御崎、お前のところには蒼風に詳しい人間がいるな」
瑠衣が壁際で身じろぎした。
「……はい」
「使え。ただし、独断での接触は許可しない。情報収集に留めろ。──わかったな、御崎」
「了解」
氷室が立ち上がった。
「月詠の時、暁嶺は後手に回った。同じ轍は踏まない。──各分隊長、直ちに行動を開始しろ。以上」
椅子が引かれ、隊長たちが立ち上がる。
凛は席を立つ前に、モニターに映ったままの凪沙の顔を見た。
一時停止された映像。凪沙の目。
──弱者の正義。
その言葉が、凛の頭の中でまだ響いていた。凪沙が言ったことの中に、嘘はなかった。蒼風は確かに切り捨てられた側だ。装備も資金も人も足りない中で、それでも立ち上がった。──その大義は、正しい。
だが。
方法が違う。宣戦布告と同時に聖樹館を急襲する。交渉ではなく、既成事実を武力で作る。それは「弱者の正義」ではなく──力による現状変更だ。
正しい理由で、間違ったことをする。
月詠の時もそうだった。月詠は「政府の影響下から学園を守る」という大義のもとに、闇取引と暗殺を行っていた。大義は正しく、手段は間違っていた。
そして今──凛自身も、命令に背いて単独で動くという「間違った手段」で、正しい結果を出した。
正しさとは何だ。手段か。結果か。理由か。
──答えは、まだ出ない。
「凛」
千歳の声で、凛は思考を中断した。
「行こう。分隊室で作戦を──」
「ああ」
凛は立ち上がった。モニターの凪沙の目から視線を外し、会議室を出た。
廊下で、瑠衣が壁にもたれかかって待っていた。
「凛」
「何だ」
「──あいつの目、見たか。映像の」
「見た」
「あいつ、昔と──目が変わってた。蒼風にいた頃は、もっと温かい目をしてたんだ。怒ってても、泣いてても、根っこにはいつも温かさがあった。──でも今のあいつの目は」
瑠衣が言葉を切った。
「冷たくはない。燃えてる。──でも、温度が違うんだ。昔の凪沙は焚き火みたいな目をしてた。近くにいると暖かくて、みんなが寄ってきた。今のあいつの目は──溶鉱炉だ。近づいたら、焼かれる」
凛は何も言わなかった。
瑠衣の比喩は──正確だった。映像越しでも、凪沙の目には圧力があった。あれは追い詰められた人間の目ではない。追い詰められた先で、何かを掴んだ人間の目だ。
「瑠衣。お前に頼みたいことがある」
「わかってる。凪沙のことだろ。──あたしが知ってることは、全部話す。蒼風の旧市街エリアの地形、凪沙の戦い方の癖、蒼風時代のメンバー。全部」
「助かる」
「ただし──条件がある」
「何だ」
「凪沙と直接対峙する時が来たら、あたしをその場に入れろ。外すな」
凛は瑠衣を見た。瑠衣の目は──昨夜の深夜とは違っていた。感情に突き動かされた目ではない。覚悟を決めた目だった。
「……わかった」
「約束だぞ」
「ああ。約束する」
瑠衣が頷いた。そして──いつもの豪快な笑いではなく、静かな、だが確かな表情で、分隊室に向かって歩き始めた。
凛はその背中を見ながら、P226のホルスターに触れた。
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分隊室に戻ったのは十三時四十分だった。
凛は作戦テーブルに鳴神区の地図を広げた。千歳がピンと付箋を用意し、楓が情報班から受け取った最新の偵察データを端末に表示する。瑠衣はロッカーからベネリM4を取り出し、分解清掃を始めた。──瑠衣は考える時、銃をいじる癖がある。凛と同じだ。
「まず整理する」凛が地図を指で示した。「蒼風の現在の支配範囲。旧市街エリア全域と、黄昏エリアの東部。面積にして鳴神区の約二割。一ヶ月前は一割にも満たなかった」
「倍になってるってこと?」千歳が付箋を貼りながら言った。
「それ以上だ。そして今、聖樹館の常磐エリア南端を攻撃している。ここが落ちれば──」
凛がペンで地図に線を引いた。旧市街から黄昏エリアを横切り、常磐エリアの南端に至る弧。
「蒼風は黄昏エリアを三方向から囲む形になる。北は旧市街、東は固めてある、南を今回押さえる。残るは西──」
「暁嶺の朝凪エリアとの境界線」楓が言った。
「そうだ。凪沙が全方位を固め終わった時、最後に残る壁が暁嶺になる」
凛は地図から顔を上げた。
「瑠衣。凪沙の戦術的な傾向を教えてほしい」
瑠衣がベネリのボルトを拭きながら答えた。
「あいつは正面からぶつかるのが嫌いだ。蒼風にいた頃から、正面戦力で劣るのはわかってたから。いつも側面か、背面か──相手が見てない方向から叩く。今回のも同じだ。宣戦布告で正面を向かせて、横っ腹を刺した」
「聖樹館を先に攻撃した理由は?」
「聖樹館はデカいが、デカいぶん隙もデカい。管轄範囲が広すぎて、末端の警備が手薄なんだ。蒼風にいた頃、凪沙がよく言ってた。『聖樹館は城壁が立派すぎて、どこに穴があるか自分でわかってない』って」
「的確な分析だな」
「凪沙はそういう奴だ。──あたしなんかよりずっと、戦場を見てる」
瑠衣のその言葉に、自嘲の色はなかった。純粋な評価。かつての親友への、戦士としての敬意。
千歳が端末を確認した。
「続報。聖樹館が第三検問所の奪還に部隊を投入した模様。でも蒼風は──撤退を開始してる」
「撤退?」
「聖樹館が本格的に反撃し始めた途端、蒼風は引いたって。検問所のバリケードを破壊して、すぐに旧市街方面に退いてる」
凛は地図を見た。
「……なるほど。最初から占領が目的じゃない」
「え?」千歳が首を傾げた。
「聖樹館に『蒼風はいつでもお前たちの境界を突破できる』と示すのが目的だ。実際に領土を奪わなくても、聖樹館は南端の防備を固めざるを得ない。そうすれば兵力が分散し、他の方面が手薄になる」
「牽制──」
「そうだ。凪沙は聖樹館を釘付けにしたんだ。黄昏エリアに手を出させないために」
凛はペンを置いた。
蒼風の動きは──完璧に近かった。宣戦布告で全学園の注意を引き、その隙に聖樹館を急襲し、交戦と同時に撤退して牽制を成功させる。これを弱小校の二十数名の部隊でやってのけた。
──凪沙だけの力ではない。
凛は確信していた。凪沙は有能だ。だが、この作戦を実行するには武器と資金が必要だ。CZブレン2の調達。通信チャンネルのハック。同時攻撃を可能にする通信機器と訓練。
誰かが、蒼風を道具にしている。月詠がそうであったように。
「──今日の情報収集はここまでにする。各自、夜間巡回の準備を」
凛が言うと、三人が頷いた。
千歳が付箋を片付け、楓が端末を閉じ、瑠衣がベネリを組み直した。
分隊室の窓の外、東の空が灰色に煙っていた。旧市街エリアの方角。蒼風の旗が翻る場所。
蒼風が動いた。凪沙が名乗りを上げた。聖樹館が攻撃を受けた。
鳴神区の均衡が──崩れ始めている。
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