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【第二巻】 第四章「捨てたもの」

 深夜二時。


 凛は寮の自室で目を覚ました。


 理由はわからなかった。目覚まし時計は鳴っていない。外は静かで、窓の向こうには鳴神区(なるかみく)の夜景がぼんやりと広がっている。街灯の光が曇り空に反射して、空全体がうっすらとオレンジ色に染まっている。


 凛はベッドの脇に置いたP226に手を伸ばした。いつもの癖だ。銃に触れると、神経が落ち着く。


 その時、廊下で物音がした。


 足音。一人分。軽くはない。靴音を消そうとしているが、完全には消せていない。


 凛はP226をホルスターに通し、寮の部屋を出た。深夜の廊下は暗い。非常灯の薄緑色の光だけが、リノリウムの床を照らしている。


 足音は──階段に向かっていた。


 凛は気配を殺して追った。階段を一階分降り、正面玄関ではなく裏口──訓練棟に通じる渡り廊下の方へ。


 渡り廊下の先、訓練棟の裏口で、影が動いた。


 ミリタリージャケットの背中。短く刈り上げた黒髪。左耳のシルバーピアスが、非常灯の光を反射した。


「瑠衣」


 凛が声をかけた。


 瑠衣の背中が、固まった。


「……なんでいるんだよ」


「目が覚めた。足音が聞こえた」


「あたしの足音に気づくって、どういう耳してんだ」


「お前の足音は覚えている。重心が右寄りだから、左右で音が違う」


 瑠衣がゆっくりと振り向いた。暗がりの中でも、その顔が強張っているのがわかった。


 瑠衣の右手には、ベネリM4のショットガンが握られていた。


「──どこに行くつもりだ」


「散歩だ」


「ショットガンを持って散歩するのか」


「鳴神区じゃ普通だろ」


「普通じゃない。──旧市街に行くつもりか」


 瑠衣が黙った。沈黙が答えだった。


「瑠衣。蒼風(そうふう)の管轄エリアに、単独で、深夜に乗り込むのは──」


「偵察だ」


「嘘をつくな」


 凛の声が、一段低くなった。夜の訓練棟に、その声は鋭く響いた。


「お前は凪沙に会いに行こうとしている」


 瑠衣のショットガンを握る手が、わずかに震えた。


「……だったら何だよ」


「やめろ。今のお前では、冷静な判断ができない」


「冷静な判断? 凛、あたしは──」


「感情で動くなと言っている」


「感情じゃねえ!」


 瑠衣の声が、訓練棟に反響した。深夜の静寂を裂く怒声。だがすぐに瑠衣は声を落とし、歯を食いしばった。


「……感情じゃねえんだよ。あたしは──あたしがやらなきゃいけないことがあるんだ」


「やらなきゃいけないこと?」


「凪沙に会って、話して──あいつが何をしようとしてるのか、直接確かめる。あいつの考えは、報告書や偵察写真じゃわからない。あたしだけが知ってる。あいつの本当の気持ちを引き出せるのは、あたしだけだ」


「それは思い上がりだ」


 瑠衣が息を呑んだ。


 凛は一歩、瑠衣に近づいた。


「瑠衣。お前が凪沙のことを理解しているのは確かだ。だが『自分だけが』というのは、過信だ。お前は凪沙を理解しているつもりで、自分の罪悪感に突き動かされているだけだ」


「罪悪感──」


「蒼風を出たことへの。凪沙を一人にしたことへの。──違うか」


 瑠衣は答えなかった。ショットガンを握る手が、力なく下がった。


 凛は瑠衣の前に立った。非常灯の薄緑の光が、二人の顔を淡く照らしている。


月詠(つくよみ)の時、私は命令に背いて単独で動いた。結果は良かったが、その代償を今も払っている。お前が今やろうとしていることは、あの時の私と同じだ」


「……凛は自分のことを棚に上げて──」


「棚に上げていない。同じ過ちを繰り返させたくないから、止めている」


 瑠衣が凛を見た。暗がりの中、二人の目が合った。


 長い沈黙。


 凛はP226に手を触れなかった。武器を構える必要はない。これは戦闘ではない。仲間との対話だ。


「……凛」


「何だ」


「あたしは──凪沙を見捨てた。あいつが一番苦しい時に、逃げた。それだけは、事実だ」


「ああ」


「あたしが暁嶺(ぎょうれい)に来て……凛たちと組んで、自分の居場所を見つけて──それは全部、凪沙を裏切った上に成り立ってる。あたしの今の居場所は、凪沙を一人にした上に建ってるんだ」


 瑠衣の声が、震えていた。いつもの豪快さは欠片もない。凛が初めて見る、瑠衣の素顔だった。


「あたしは──あいつに謝りたいんじゃない。謝っても何も変わらない。あたしは──あいつに、もう一度、並んで立ちたいんだ。あの時みたいに。背中合わせで」


 凛は黙って聞いていた。


 瑠衣の言葉には、嘘がなかった。罪悪感だけではない。そこにはもっと深いものがある。かつて共に戦った相手への、消えない絆。捨てたはずなのに、捨てられなかったもの。


「──瑠衣」


「ん」


「お前の気持ちは、わかった。だが今夜は行くな」


「…………」


「分隊で動く。お前一人じゃない。凪沙と向き合う時が来たら、私たちも一緒にいる。──それが、第三分隊だ」


 瑠衣はショットガンの銃身を見つめた。暗がりの中で、金属の表面が鈍く光っている。


 数秒。十秒。二十秒。


「……お前さ、凛」


「何だ」


「あたしのこと、止めてくれるって言ったよな。暴走しそうになったら、殴ってでもいいって」


「殴らなくても止められると言った」


「うん。──止まったわ。殴られなくても」


 瑠衣がベネリM4を肩にかけ直した。銃口を下に向け、セーフティをかける。


「戻るか」


「ああ」


 二人は並んで渡り廊下を歩いた。深夜の冷気が、制服の生地を通して肌に触れる。窓の外では街灯がぽつぽつと光り、遠くに旧市街エリアの暗がりが見えた。


「凛」


「何だ」


「一つだけ、話しておきたいことがある」


 瑠衣が立ち止まった。渡り廊下の中央、窓ガラスに自分の姿が映る場所で。


「あたしが蒼風にいた頃──凪沙と二人で、旧市街の廃ビルを拠点にしてた。風紀部隊(ヴィジランテ)って言っても、蒼風のは名前だけで。装備は中古のリボルバーとボルトアクションの骨董品。防弾ベストなんか一着もなくて、あたしは段ボールの内側にガムテープを何重にも巻いたやつを胸に当ててた」


 凛は黙って聞いた。


「それでも凪沙は毎日、あたしらを集めて訓練してた。走り込み、射撃の基礎、バリケードの作り方。全部独学。ネットで調べて、実際に試して、失敗して、また調べて。──あいつ、寝る時間削ってマニュアル書いてたんだ。蒼風風紀部隊(ヴィジランテ)の訓練マニュアル。手書きで、三十ページくらいの」


「……そこまでやっていたのか」


「ああ。あいつにとって蒼風は──ただの学校じゃなかった。居場所だったんだ。家庭環境がめちゃくちゃで、学校でも孤立してて。風紀部隊(ヴィジランテ)を作って、仲間ができて──やっと、自分がいていい場所ができたんだ。だからあいつにとって蒼風を守ることは、自分の存在を守ることと同じだった」


 瑠衣はガラスに映る自分の顔を見つめた。


「あたしは──それを知ってて、出て行った。凪沙にとって蒼風が全部だってことを、わかってて」


「瑠衣。お前にも理由があったはずだ」


「理由? ──あったよ。あたしは強くなりたかった。蒼風じゃ、あたしの力が伸びる限界が見えてた。装備も訓練環境も足りない。暁嶺に行けば、もっと強くなれる。──要するに、自分のことしか考えてなかったんだ」


「自分のことを考えるのは、間違いじゃない」


「間違いかどうかの話じゃない。あたしが凪沙を傷つけたのは事実だ。そして──その傷が、今の凪沙を作った」


 瑠衣が窓から離れ、歩き始めた。凛も並んで歩いた。


「蒼風を出る日、最後に凪沙と話した。あいつは──泣かなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、あたしの目を見て言った。『わかった。行きなよ、瑠衣。──あたしは、ここに残る』って」


「…………」


「それだけだった。それだけなのに──あの声が、一番堪えた。恨んでくれた方がまだ楽だった。でもあいつは──ただ、受け入れた。一人で全部、引き受けた」


 渡り廊下の端に来た。寮棟の入口が見える。


「凛。お前が総隊長になったら──あたしは、お前の命令に従う。それだけは決めた」


「まだ決まっていない。総隊長の件は」


「あたしの中では決まった。凛の下なら、あたしは暴走しない。──たぶん」


「たぶん、は不安だな」


「うるせえ。あたしにしては上出来だろ」


 瑠衣が笑った。今度は──いつもの、豪快な笑いだった。暗い廊下に、その笑い声が小さく響いた。


「それと、凛」


「何だ」


「ありがとな。止めてくれて」


 凛は答えなかった。答える必要はなかった。瑠衣は凛の沈黙を、凛が瑠衣の沈黙を理解するのと同じように、受け取ったはずだ。


---


 翌朝。


 千歳が分隊室に顔を出したのは、凛が朝の射撃訓練に向かう前だった。


「凛、ちょっと話がある」


 千歳の顔が、いつもより真剣だった。凛は作戦テーブルの前で椅子を引いた。


「昨夜、瑠衣が寮を抜け出そうとしたの、知ってるでしょ」


 凛はわずかに目を細めた。


「……気づいていたのか」


「瑠衣の部屋はあたしの隣だよ。ドアの音くらい聞こえる。追いかけようとしたけど、凛が先に出て行ったから。──壁、薄いんだよね、うちの寮」


「どこまで聞こえた」


「全部は聞こえてない。でも、瑠衣が戻ってきた時の足音が軽かったから、凛が止めてくれたんだなって。──ありがと」


「礼を言われることじゃない」


「そうじゃなくて。──あたしが言いたいのは、瑠衣のことだけじゃない」


 千歳がテーブルに肘をつき、凛の目を真っ直ぐに見た。


「凛さ。瑠衣を止めたのは正しいよ。でも、凛自身はどうなの。蒼風のこと、凪沙のこと、全部一人で抱えようとしてない?」


「一人で抱えてはいない。分隊で動くと言った」


「言葉ではね。でも凛って、いつも情報を集めて、分析して、判断して、それを分隊に伝える時にはもう答えが出来上がってるでしょ。──それ、あたしたちは判断のプロセスに参加してないんだよね」


 凛は少し驚いた。千歳が──こういう指摘をしてくるとは。


「凛。あたしは副隊長だよ。もう少し頼ってよ」


「……千歳に迷惑をかけたくない」


「迷惑じゃないって。それが副隊長の仕事でしょ」


 千歳が笑った。いつもの柔らかい笑顔。だがその奥には、凛が見落としていた強さがあった。


「わかった。──今後は、判断の前に相談する」


「うん。それでいい。──あ、それとさ」


「何だ」


「今日の食堂、カレーフェアだって。三種類から選べるらしいよ。チキン、ビーフ、キーマ」


「……三種類とも食べていいのか」


「一人一皿でしょ、普通。三種類食べたかったら瑠衣に頼みなよ、あの人なら二皿は余裕で──」


---


 穴蔵。六時四十分。


 凛が三番レーンでP226を撃っていると、四番レーンに千歳、五番レーンに楓、そして──六番レーンに瑠衣が立った。


 瑠衣がベネリM4を構え、近距離レーンの標的に向けた。


 ドン。


 散弾が標的の胸部を吹き飛ばした。制圧弾(サプレスラウンド)仕様のスラッグ弾だが、近距離の威力は凄まじい。


「おはよ、瑠衣。今日は早いね」千歳が声をかけた。


「早起きは三文の得ってな」


「瑠衣が早起きするの、珍しいけど」


「たまには真面目にやるさ。──なあ楓」


 楓がM700のボルトを引きながら、小さく頷いた。


「瑠衣先輩。今日は大盛り食べてください」


「ん? なんで」


「昨日、普通盛りでした。瑠衣先輩が普通盛りの時は、元気がない時です」


 瑠衣が目を丸くした。千歳が吹き出した。


「楓、お前……意外と見てるんだな」


「狙撃手ですから。観察は基本です」


 凛はP226のトリガーを引いた。


 パン。標的の胸部。中央。


 四人の銃声が、穴蔵に重なった。P226の乾いた音、M4の連射音、M700の重い一撃、ベネリの轟音。それぞれ違う音色が、一つの空間で交差する。


 不協和音のようで──不思議と、調和していた。


 凛はマガジンを交換しながら、昨夜のことを思い出していた。


 瑠衣は戻ってきた。今朝も、ここにいる。六番レーンで、いつものショットガンを撃っている。


 それだけで、十分だった。


 ──蒼風が動いている。凪沙がいる。瑠衣の過去がある。


 問題は山積みだ。だが今、第三分隊は四人揃っている。それが凛にとっての、唯一の確かなことだった。


---

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