【第二巻】 第三章「灰色の旗」
報告が入ったのは、翌週の水曜日だった。
放課後の巡回任務を終えて分隊室に戻ったところで、千歳の端末が鳴った。情報班からの一斉通知。凛は作戦テーブルの上でP226の分解清掃をしていた手を止め、千歳の方を見た。
「──嘘でしょ」
千歳が画面を見たまま固まっていた。凛は「何だ」と訊くより先に、千歳が端末の画面をテーブルに向けた。
情報班からの速報。件名は簡潔だった。
『蒼風高等学校、黄昏エリアの管轄権を主張。旧月詠管轄区域の東部を実効支配下に置いた模様。詳細は添付資料参照』
凛の指が、P226のスライドを握ったまま止まった。
「蒼風が──黄昏エリアを?」
「添付の偵察写真を見て」
千歳が端末をスワイプした。衛星画像ではなく、情報班の偵察要員が望遠レンズで撮影した地上写真。黄昏エリアの東端、旧月詠女子学園が管轄していた商業区画の入口に──灰青のセーラー服を着た生徒たちが立っていた。
バリケードが築かれている。コンクリートブロックと有刺鉄線。その向こうに、灰青の旗が翻っている。
「蒼風の旗……」
千歳が呟いた。凛は写真を注視した。
バリケードに立つ生徒たちの装備に、目が行った。旧式のボルトアクションライフルや型落ちの拳銃ではない。新しい。アサルトライフル──型番までは写真からは読み取れないが、少なくとも蒼風の予算で調達できるような銃ではなかった。
「……おかしい」
凛が低い声で言った。
「おかしいって?」千歳が首を傾げた。
「蒼風は資金難で没落寸前だった。旧市街エリアの管轄すら維持できず、西半分を事実上放棄している。その蒼風が、黄昏エリアまで手を伸ばすだけの武力を持っている。──装備が違う。この写真に写っている銃は、蒼風の予算では買えない」
「つまり──」
「誰かが蒼風に武器と資金を提供している」
分隊室の空気が、一段冷たくなった。
楓がロッカーの前でM700のスコープを磨いていたが、その手を止めて凛の方を見た。
「先輩。蒼風が黄昏エリアを押さえたということは、暁嶺の管轄区域と接触する可能性が出ます」
「ああ。朝凪エリアの西端と、黄昏エリアの東端。間にはほぼ緩衝地帯がない」
「偵察の増強が必要では」
「──任務が半分に減らされている状態でか」
凛の声に、苦さが滲んだ。楓は黙って頷いた。状況は理解している。必要な行動が取れない苛立ちも。
瑠衣は──いなかった。
「瑠衣は?」
「ウェイトルームだと思う。さっき出て行った」千歳が答えた。
「呼んでこい。これは全員で共有すべき情報だ」
千歳が立ち上がろうとした時、分隊室のドアが開いた。
瑠衣が立っていた。
ミリタリージャケットのポケットに手を突っ込み、廊下の壁にもたれかかっている。その顔が──白かった。いつもの日焼けした褐色の肌が、明らかに血の気を失っている。
「瑠衣?」千歳が声をかけた。
「……聞こえた。廊下で。蒼風が黄昏エリアを」
「ああ。情報班から速報が──」
「率いてるのは誰だ」
瑠衣の声が、低く、硬かった。いつもの豪快な口調ではない。凛は瑠衣の変化を感じ取った。
「報告書にはまだ指揮官の名前は──」
「あたしに聞いてんじゃねえ。情報班に確認しろ。蒼風の風紀部隊を今率いてるのが誰なのか」
凛は千歳と目を合わせた。千歳がすぐに端末を操作し、情報班に問い合わせを送った。
数分の沈黙。
瑠衣は分隊室に入らず、ドアの外に立ったままだった。右手がジャケットのポケットの中で握られているのが、布地越しにわかった。
千歳の端末が鳴った。
「──来た。情報班からの回答」
千歳が画面を読み上げた。
「蒼風高等学校風紀部隊、現指揮官。自称『蒼風再興軍総指揮』──」
千歳が名前を読み上げる前に、瑠衣が言った。
「神代凪沙」
千歳が端末を見直した。画面に表示された名前と、瑠衣が口にした名前が、一致した。
「……知ってるの?」
「知ってる」
瑠衣がようやく分隊室に入った。ドアを閉め、壁にもたれかかる。いつもと同じ姿勢。だが、いつもとは何かが違った。
「凪沙は──あたしの、蒼風時代の親友だ」
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瑠衣は多くを語らなかった。
凪沙の名前を口にした後、瑠衣は「今日はもう上がる」とだけ言って分隊室を出て行った。千歳が追いかけようとしたが、凛が止めた。
「今は放っておけ」
「でも──」
「瑠衣のことだ。一人で整理がつく。追いかけたら、余計に意地を張る」
千歳は渋々引き下がった。楓は何も言わず、M700の手入れに戻った。
凛は端末を操作し、情報班に追加の情報を要請した。蒼風高等学校の現在の組織構成。武装の詳細。黄昏エリアへの進出経路と時期。──そして、神代凪沙の経歴。
返答が来たのは、二時間後だった。
凛は一人で分隊室に残り、報告書を読んだ。
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『蒼風高等学校 現況報告書(暁嶺学院情報班作成・内部資料)』
蒼風高等学校は鳴神区東部「旧市街エリア」を管轄する小規模校。生徒数約150名、うち風紀部隊員は20名前後。三年前から慢性的な資金難に陥り、スポンサー企業は事実上撤退。装備の更新が滞り、旧市街エリアの西半分を事実上放棄している状態だった。
しかし、ここ二ヶ月で急激な変化が生じている。
確認された変化:
一、風紀部隊の装備が大幅に更新されている。旧式のボルトアクションライフルに代わり、近代的なアサルトライフル(CZブレン2と推定)が配備されている模様。
二、風紀部隊員の数が増加。20名前後から推定35〜40名に。一般生徒からの志願者が急増しているとの情報あり。
三、旧市街エリアの放棄区域を回復。さらに黄昏エリアの東端にバリケードを構築し、実効支配を開始。
武器・資金の調達先は現時点で不明。蒼風の公表予算ではこの規模の武装強化は不可能であり、外部からの支援が強く疑われる。
指揮官:神代凪沙。蒼風高等学校二年生。一年前に風紀部隊隊長に就任。自称「蒼風再興軍総指揮」。没落した蒼風の生徒たちを束ね上げ、「弱者の正義」を掲げて急速に求心力を高めている。カリスマ性が高く、弁が立つとの評。
──なお、神代凪沙は暁嶺学院第三分隊所属・鷹宮瑠衣の蒼風時代の同級生であるとの情報あり。
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凛は報告書を閉じた。
分隊室の蛍光灯が、白い光を落としている。壁に貼られた鳴神区の地図。東部の旧市街エリアに、赤いピンが新たに打たれるべき場所が増えた。
──弱者の正義。
凛はその言葉を、頭の中で反芻した。
蒼風は没落校だ。資金がない、装備がない、人がいない。政府からの支援は打ち切られ、管轄エリアは縮小された。鳴神区の他の学園が黄昏エリアの利権をめぐって水面下で動く中、蒼風は蚊帳の外だった。
その蒼風が、立ち上がった。
凛は──率直に言えば、凪沙の動機を否定できなかった。弱い学園が声を上げ、自分たちの権利を主張すること。それ自体は間違っていない。凛自身、暁嶺学院という「恵まれた側」にいる。装備がある。資金がある。訓練施設がある。蒼風にはそのどれもない。
だが。
装備が違う。蒼風の予算では買えない銃が、蒼風の生徒たちの手にある。
それは「弱者が立ち上がった」のではなく、「誰かが弱者に武器を与えた」ということだ。
月詠の闇取引を思い出す。月詠もまた、外部の力によって武装を強化し、暗殺部隊「影」を運用していた。その裏には政府の関与があった。構造は同じだ。弱い立場の人間に武器を持たせ、駒にする。
──誰が、蒼風に武器を渡した。
凛はP226のスライドを組み直し、トリガーの感触を確かめた。乾いた金属の音が、静かな部屋に響いた。
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翌朝。
穴蔵の三番レーンで凛が射撃訓練をしていると、四番レーンに千歳ではなく楓が立った。
「おはようございます」
「ああ。今日は早いな」
「──先輩に、報告があります」
楓がM700のスコープを調整しながら、抑揚のない声で言った。
「昨日、独自に朝凪エリア西端の高所ポイントから、黄昏エリアの境界付近を観測しました」
「独断で?」
「偵察任務の範囲内です。狙撃位置の確認は日常業務に含まれます」
凛は楓を見た。楓の表情は相変わらず読み取りにくい。だが、その目には──静かな使命感のようなものがあった。
「何が見えた」
「バリケードの構成が、素人のそれではありません。コンクリートブロックの配置に軍事的な合理性があります。射線を切る角度、退路の確保、狙撃に対する遮蔽──誰かが専門的な知識を持って指導しています」
「蒼風の生徒だけでは不可能か」
「不可能とは言いません。しかし、蒼風の風紀部隊は20名程度の小規模組織で、市街地防衛の専門的な訓練を受けた形跡はこれまでありませんでした。この二ヶ月で急にそのスキルを獲得するのは──不自然です」
凛は頷いた。楓の観察は的確だった。狙撃手の目は、戦場の構造を読む力がある。
「もう一つ」
「何だ」
「バリケードの上に立っていた生徒の一人が──左腕に白い腕章を巻いていました。『蒼風再興』と読めました」
「……再興軍か」
「はい。それと──その生徒は、二丁の拳銃を持っていました。右手にCZ 75と思われるオートマチック。左手に──小型のマシンピストル。Vz.61スコーピオンに似たシルエットでした」
凛の指が、P226のグリップを強く握った。
二丁拳銃。CZ 75とVz.61スコーピオン。
──報告書に記載されていた、神代凪沙の使用銃と一致する。
「楓。その生徒の特徴は」
「距離がありましたので、顔の細部までは確認できていません。ただ──灰青のセーラー服を着崩し、上からカーキ色のジャケットを羽織っていました。髪は──」
楓がわずかに間を置いた。
「ミディアムの黒髪を、無造作にまとめていました。──凛先輩。あの人が、瑠衣先輩の言っていた神代凪沙ではないかと」
「おそらくな」
凛はスライドを引き、薬室に弾を送り込んだ。標的に向かって構える。
パン。
標的の頭部。中央。
「楓。この件は当面、分隊内のみで共有する。情報班には私から改めて詳細を上げる」
「了解です」
「それと──瑠衣には、お前が偵察で凪沙を目視したことは、まだ言うな」
楓がわずかに目を細めた。珍しく、その目に感情が浮かんだように見えた。
「……瑠衣先輩のことを、心配しているんですか」
「心配というより、配慮だ。瑠衣は感情的になりやすい。蒼風のことになると特に。今はまだ情報を集める段階だ。瑠衣の感情が先走ると、判断が鈍る」
「了解です」
楓はそれ以上何も言わず、M700のボルトを引いた。長距離レーンの標的に向かって、静かにスコープを覗き込む。
凛はP226の射撃を再開した。
パン。パン。パン。
三発。すべて胸部。散布界は拳の半分以内。
──蒼風の動きが、加速している。黄昏エリアの実効支配。急速な武装強化。カリスマ的指導者。
そして、瑠衣との繋がり。
凛の頭の中で、複数の情報が線で結ばれようとしていた。だがまだ線は途切れている。月詠の時と同じだ。見えているのは点だけで、全体の構図はまだ見えない。
──焦るな。
凛は自分に言い聞かせた。月詠の時は、焦って単独で動いた。命令に背いた。結果は良かったが、過程は最悪だった。その教訓は──身に染みている。
今度は違う方法でやる。命令の範囲内で。行動で証明すると、氷室に約束した。
パン。
標的の頭部。中央。
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放課後。第三訓練棟の屋上。
フェンス越しに見下ろす鳴神区の街は、夕暮れの光に沈みかけていた。凛が壁にもたれて立ち、千歳がフェンスに両腕を預け、楓が少し離れた給水塔の陰で静かに控えている。
瑠衣は──遅れてきた。
屋上の鉄扉が重い音を立てて開く。瑠衣はミリタリージャケットのポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと三人の輪に入ってきた。足取りが、いつもより重い。凛はそれに気づいた。
「瑠衣」
「ん」
「昨日の件。蒼風のこと──もう少し、教えてほしい」
瑠衣の足が止まった。フェンスの数歩手前で、動かない。
「……何を聞きたい」
「神代凪沙について。お前との関係」
瑠衣は顔を上げた。いつもの強気な目。だがその奥に、凛が見たことのない色が混じっていた。不安──ではない。もっと複雑な何か。後悔に近い。
「凪沙は──あたしが蒼風にいた時の、一番の親友だった」
千歳が振り向いた。楓も給水塔の陰から瑠衣を見た。
「一年生の時、同じクラスで、同じ風紀部隊で。蒼風はもう没落が始まってて、まともな装備も訓練もなかった。でも凪沙は──あいつだけは、折れなかった」
瑠衣はポケットから手を出した。指先が、わずかに震えているように見えた。
「『あたしたちならこの学校を変えられる』って、いつも言ってた。二人で蒼風を立て直そうって。あたしも──そう思ってた。少なくとも、最初は」
「最初は?」
「……蒼風は変わらなかった。変われなかった。金がない、装備がない、生徒は減っていく。いくら頑張っても、構造的な問題はあたしらの力じゃどうにもならなかった。──で、あたしは逃げた」
瑠衣の声が、小さくなった。
「暁嶺への転入試験を受けた。黙って。凪沙にも言わないで。──試験に受かって、転入が決まって、やっと凪沙に言った。『暁嶺に行く』って」
「それで?」
「凪沙は──怒った。当然だ。あたしは蒼風を見捨てたんだから。一緒に変えようって約束して、一人だけ逃げたんだから」
瑠衣は目を伏せた。
「あの時の凪沙の顔は、忘れられねえ。怒ってたんじゃなくて──凍りついてた。信じてたものが壊れた、みたいな顔。あたしは何も言えなかった。言い訳すらできなかった」
遠くで下校を知らせるチャイムが鳴った。だが、四人の間には重い沈黙が落ちていた。
千歳が何かを言おうとしたが、凛が目で制した。
「瑠衣」凛が静かな声で言った。「お前が蒼風を出た理由は──」
「弱かったからだ」
瑠衣が即答した。
「あたしは凪沙みたいに強くなかった。折れないでいられなかった。だから──強い場所に行った。それだけだ。大層な理由なんかない。ただ、弱くて、逃げた」
千歳が何かを言おうとしたが、凛が目で制した。今は聞く時だ。
「凪沙が蒼風を率いて立ち上がったのは──あたしのせいだ。あたしが残ってれば、一緒に別の方法を探せたかもしれない。でもあたしがいなくなって、凪沙は一人で全部背負うことになった。その結果が──」
瑠衣は屋上のフェンスの向こうに目を向けた。曇り空。鳴神区の空はいつも灰色がかっている。
「あいつ、あたしがいた頃は、もっと笑ってた」
それだけ言って、瑠衣はフェンスに寄りかかり、東の空──旧市街の方向を見つめた。
凛は沈黙したまま、同じ空を見上げた。夕暮れの風が冷たい。
──弱かったから逃げた。
瑠衣の言葉が、凛の中で反響していた。瑠衣は暁嶺で最も豪快で、最も勇敢な突撃手だ。防弾シールドを構えて最前線に立ち、仲間を守りながらショットガンで敵を制圧する。その瑠衣が、「弱くて逃げた」と言う。
人は──どこで強くなるのだろう。逃げた先で強くなることは、逃げたことを正当化するのだろうか。
凛にはわからなかった。凛自身も、沙耶の死から逃げるように戦ってきた。沙耶の真相を追うことで、「逃げていない」と自分に言い聞かせてきた。だがそれは本当に「逃げていない」のか。
答えは出ない。ただ、冷たい風の感触だけが確かだった。
「凛」瑠衣が言った。
「何だ」
「あたしは──蒼風と凪沙のことに関しては、冷静でいられる自信がない。だから言っておく。もし蒼風との裁定戦になったら──あたしを外してくれ」
千歳が「え」と声を上げた。楓もスコープ越しではなく、生の目で瑠衣を見た。
「外す必要はない」凛が言った。
「凛、あたしの話を──」
「聞いた上で言っている。お前は第三分隊の突撃手だ。お前がいなければ前線が持たない。感情の問題は、戦場に出る前に整理すればいい」
「整理できなかったら?」
「その時は、私が止める」
瑠衣が凛を見つめた。数秒。そして──ふっと、息を吐いた。
「……お前、いつもそうだよな。自分で全部背負おうとする」
「お互い様だ」
「……ハッ」
瑠衣が笑った。いつもの豪快な笑いではなく、小さな、苦い笑い。だが──少しだけ、表情が柔らかくなった。
「わかった。あたしは第三分隊だ。それは変わらない。──でも凛、約束しろ。あたしが暴走しそうになったら、本気で止めろ。殴ってでもいい」
「殴らなくても止められる」
「そうかよ。──ま、あんたの腕なら信じてやる」
凛のインカムが短く鳴った。定時連絡のノイズ。
四人は屋上に背を向け、鉄扉を開けて階段を下りた。
夕闇の迫る廊下を歩く、四つの足音。いつもと同じリズム。だが凛は感じていた──何かが、動き始めている。
月詠が消えて、鳴神区に訪れた平穏。それは偽りの平穏だった。空白地帯が生まれれば、必ず誰かがそれを埋めようとする。力の真空は、新たな力を呼ぶ。
蒼風が動いた。その裏に、誰かがいる。
凛はP226のホルスターに触れた。
──弾は、嘘をつかない。
だが人は嘘をつく。正義の名のもとに。
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